トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

うだつの家並み、三次市の本通りを歩く

2017年08月11日 | 日記

三次市三次町地区の「本通り」に残る商家です。三次町地区には袖壁(そでかべ)も含めた卯建(うだつ)のある商家の家並みが残っています。三次市の中の西城(さいじょう)川、馬洗(ばせん)川、江(ごう)の川に囲まれた三次市三次町地区は、古くから、舟運による物資の集散地として発展してきたところです。

これは、JR三次町地区にあった観光案内です。図の中央の南に張り出したように見えるところが三次町地区です。三次町地区の東側を北から南に流れているのが西城川。地図の東側から南西に向かって流れているのが馬洗川。西城川と合流した馬洗川は、三次町の南西部で南から北に向かって流れる可愛(えの)川に合流し、江の川と名前を変えて、北西に向かって流れていきます。JR三次駅から三次町地区に行くには、西城川に架かる旭橋を渡る、南部の馬洗川に架かる巴(ともえ)橋を渡る、そして、JR三江線の尾関山駅から歩くという3つのルートが考えられました。

この日は、JR三次駅前の観光協会でいただいたマップを手に、緑で引かれたルートに沿って、三次駅から巴橋を渡って三次町地区に入ることにしました。

平成27(2015)年2月28日から利用が開始された、三次市の十日市町地区にあるJR三次駅です。三次駅からまっすぐ駅前通りを進みました。三次駅は、芸備線の駅として、昭和5(1930)年に「十日市駅」として開業しました。その後、昭和29(1954)年に三次市に移行したことにより、その玄関口として、同年12月に「三次駅」と改称されました。それまでの芸備線の「三次駅」は、「西三次駅」と改称されることになりました。

三次日出郵便局を過ぎると、右前に「出会いのひろば」という公園がありました。その手前を左折して進みます。

JR三次駅から20分ぐらいで、巴橋の東詰にやってきました。

巴橋の上から見えた「三次のうかい(鵜飼)」のぼんぼりです。西城川(左側)と馬洗川(右側)の合流点が背景に見えます。合流してからは馬洗川となりますが、そこでうかいは行われています。江戸時代の寛永9(1632)年、当時の広島藩の2代目藩主浅野光晟(みつあきら)の異母兄であった浅野因幡守長治(ながはる)が5万石で三次藩を立藩しました。「広島県の歴史散歩」(広島県の歴史散歩編集委員会編 山川出版社)によれば、馬洗川でのうかいは戦国時代の永禄年間(1558年~1570年)の尼子氏の落武者(おちむしゃ)が始めたといわれます。藩主長治が鵜匠制度を確立し、手厚い保護を与えたことによって」発展することになりました。

巴橋を渡って、三次町地区に入りました。馬洗川の右岸の堤防上にあった国土交通省の「一級河川 江の川」の案内です。下に、うかいの絵が描かれています。

堤防の下の道です。三次町本通の商家は、西城川の自然堤防上に発展した細長い家並みだったそうです。住吉神社の手前に「本通り」の案内がありました。三次町の起源は、室町時代の末期頃だといわれています。寛永9(1632)年に、浅野長治に始まった三次藩は、5代目藩主が急逝し跡継ぎもいなかったため、享保5(1720)年に広島藩に還付されることになりました。それ以降、宿場町、在郷の商業町として発展することになりました。

町に掲示されていた「卯建の似合う町」です。三次町の本通り商店街では、「卯建の似合う町」をスローガンに、街づくりを進めています。本通りは「歴みち石畳通り」と名づけられ、道路上には石畳が整備されています。住吉神社の脇から本通りに入りました。

住吉神社のすぐ先にあった、浄土真宗本願寺派の寺院、照林坊です。鎌倉期に広島県の鞆の浦に建立された寺院で、安芸高田市を経て、関ヶ原の戦いから2年後の慶長7(1602)年にこの地に建立されました。正面にある山門は、寛文5(1665)年につくられ、昭和中期に改修されたもの、また、奥に見える本堂は、嘉永5(1852)に建てられ、昭和33年(1958)年に改修されたものです。こうした建築物によって、平成23(2011)年に登録有形文化財に登録されました。

その先の袖壁がついた薬店には、歴史を感じる看板が掲げられたいました。そこには「池田六神丸 長崎古代名薬 清国蘇州雷氏直製 本舗池田愛命堂 代理店 浅田薬店」と書かれていました。

浅田薬店のすぐ先に、卯建のあるお宅がありました。うだつは、もともとは火事の時に類焼を防ぐ目的でつくられたものでしたが、後には、商人の格式を示すため、競ってつくられるようになったといわれています。この地の商人の財力がしのばれます。

三次市の本通りが紹介されるとき、必ずと言っていいほど出てくるお宅です。袖壁には屋号が書かれています。商いはもうなさっておられないようで、表には「みよし国際平和美術館」と書かれていて、たくさんの美術品が展示されていました。

みよし国際平和美術館の展示が行われていた二つの建物の間に、法音寺の参道が設けられていました。先ほどの照林坊もそうでしたが、境内にかなりのスペースが必要なため、表通りを避けてつくられたのでしょう。

その先の右側にあった、人形作家の辻村寿三郎人形館の建物です。入口には「三次市歴史民俗資料館」とあります。この建物は、鉄筋コンクリート造り洋風の石積みの建物で、もとは、昭和2(1927)年に建造された三次銀行の本店でした。三次銀行は、昭和20(1945)年に芸備銀行と合併し、昭和25(1950)年までその中町支店として使われていました。その後、昭和26(1951)年からは三次郵便局として使用されたそうです。昭和56(1981)年からは歴史民俗資料館として使われていました。国の登録有形文化財に登録されています。

「れとリーと みよし 本通り」ののれんです。「レトロ」な「ストリート」なんですね。本通りの人たちは「歴史的まちなみ協定地区 三次町歴みち協議会」を結成し、卯建の町並みを守る活動と町の活性化に取り組んでおられます。

通りの右側にあったお宅の屋根の上で、改修工事をしておられた職人さんです。こうして、美しい町並みは守られているのですね。

通りの左側にあった「銘菓 泡雪」のお店、「創菓庵 わたなべ精進堂」です。「上品な甘さととろけるような食感が人気の銘菓」として広く知られています。

その先は交差点になります。手間の左側は食品スーパー、手前の右側には商店街の駐車場がありました。右方向に進むと西城川の堤防に行くことができます。

交差点の一角にあった「御蔵小路」の標識。三次藩時代、陣屋とそこにあった藩の米蔵に続く通りです。三次町では、本通りから左右に延びる通りを小路と呼んでいます。

交差点を左折して、御蔵小路だった通りを1ブロック進みます。交差点の向こうの右側の白い建物は、三次ふれあい会館(コミュニティセンター)です。左側は三次商工会議所。その先に三次小学校の4階建ての校舎があります。商工会議所の手間に小公園がつくられていました。

小公園にあったモニュメントです。左側の岩石は、藩主の居宅と藩政を執った陣屋だった「御館(おやかた)」の堀の石垣に使われていたものだそうです。真ん中は御館の絵図。右側は御館の説明板です。それによると、三次ふれあい会館を中心に、南北159m余、東西159m余の敷地内に御館があったそうです。

これが、真ん中の御館の図面です。図の上が北を示しています。下側が南側で商工会議所や小学校の前の通りに面していたようです。図の一番東側にあった「外御米蔵」(図の最も右側にある長方形の建物)は「表御門」の北側の方にありました。

外御米蔵は、先程の交差点の北東にある「白蘭酒造株式会社」の工場の付近にあったようです。

案内板にあった御館の想像図です。絵図が残っていないので、上の図面から復元したそうです。東(右側)に「表御門」がありますので、東に向いていたようです。説明では、書院の南前にある黄色の建物が米蔵でした。図面を見ると、米蔵は敷地内にこの3棟と外御米蔵の合わせて4棟あったようです

これは、三次ふれあい会館の東側につくられていた「三次藩館跡」の石碑です。

広い御館の敷地であったところには、他にも、当時の歴史を伝えてくれるものが残っています。一つは、小学校の向かいにあった社倉です。社倉とは飢饉に備えて麦を蓄えていた倉庫のことです。広島藩では、安永8(1779)年藩内全体に命じられました。説明板書かれていたものによれば、「三次藩では、安永年間(1772~1780年)から天明年間(1781~1788年)の初期に設けられ、明治初期まで続いたと伝えられていますが、天明6(1786)年には、救麦(すくいむぎ)永代麦(えいたいむぎ)として約113石(20.4キロリットル)の麦を貯蔵していた」ということです。なお、写真の建物は創建当時のものといわれています。

もう一つは、三次ふれあい会館の西側にあった、頼杏坪(らいきょうへい)の役宅(やくたく)である運甓居(うんぺききょ)です。樹木のために撮影が難しかったので、建物の裏側からの撮影になりました。杏坪は、郡代官や郡回りとして、備北4郡(三次郡、恵蘇郡、三上郡、奴可郡)の民政に尽くし、文政11(1828)年から2年間、三次町奉行をつとめ、郡民から厚い信望を得た人でした。茅葺きに葺き直されたばかりのような運甓居でした。運甓居は、中国の東晋時代、荊州の役人だった陶侃(とうかん)が、毎朝夕100枚の敷瓦を運んで他日の労に備えたという故事に因んで名づけられたといわれています。

御蔵小路を引き返して、食品スーパーのある交差点に戻って来ました。再度、本通りを北に向かって進みます。改修されているためか、白漆喰がまぶしいぐらいの明るい通りになっていました。

交差点から、4、5軒目、左側にあった白蘭酒造株式会社です。今度は正面からの写真です。広い敷地に煙突も残っていました。

右側にあった畠中(はたなか)小路です。写真の左下に、郵便ポストの頭が入ってしまいましたが、かつての小路はこのくらいの広さだったのかと思えるような通りです。雰囲気のある通りになっていました。

左側にあった中野歯科医院の看板があるお宅です。今は医院はなさっていないようでした。袖壁の美しいお宅でした。

石畳が敷かれた万光(まんこう)小路。名前の通り、光あふれる洗練された通りです。奥に寺院のような屋根をもったお宅が見えました。

三次人形が並んだお店です。三次人形も、三次藩の初代藩主、浅野長治の支援で発展したものだといわれています。

ゑびす神社の前で行き止まりになりました。街道筋によく見られる枡形になっています。いただいたマップには「ゑびす神社」と書かれていますが、つり下げられていた提灯には「胡子」と書かれていました。商業町に多い商売繁盛の神様です。

右折すると、西城川に架かる旭橋を渡ることになります。

ゑびす神社の右側にあった浄土真宗本願寺派の梵行山専法寺。広島カープの梵(そよぎ)英心選手のご実家の寺院です。

「2006 セントラルリーグ新人王  2010 セントラルリーグ盗塁王 GG賞  2014 チームリーダー  2015 選手会長」と梵選手の華々しい活躍の跡が紹介されていました。

「歴まち石畳通り」はここで左折し、その先の「荒瀬外科」の看板のあるところで右折して進んで行きます。三次町本通りはここで終わりになりました。

西城川と馬洗川、江の川とその源流の可愛(えの)川の舟運によって、様々な物資の集散地として栄えた三次町本通りには、繁栄を物語る卯建のある商家が並んでいました。そして、今はそんな町並みを活かした町づくりを進めています。まぶしいぐらい美しい漆喰の町並みが印象に残りました。

次回は、枡形から先、栄町の通りを歩いてみようと思っています。