トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

関金駅跡から山守トンネルへ、倉吉線の跡地を歩く

2016年04月08日 | 日記
昭和60(1985)年に廃止された国鉄倉吉線。その跡地を少しずつたどってきましたが、このところ、ごぶさたしておりました。それでも、山陰本線の倉吉駅から上小鴨駅まで、倉吉線の全長20kmの半分(10.6km)は歩いてきました。(「旧倉吉線の線路跡を歩く」2013年6月4日の日記 「旧倉吉線を、打吹駅から上小鴨駅まで歩く」2013年7月7日の日記) いつかはその続きを歩こうと思っていました。やっと、実現しました。

倉吉線の跡地を歩くツアーのバスで、鳥取県倉吉市役所関金庁舎に着きました。この日は、旧倉吉線の関金(せきがね)駅跡から泰久寺(たいきゅうじ)駅跡を通って山守(やまもり)トンネルの先まで歩くことにしていました。

これは、倉吉市の中心市街地にある旧打吹駅跡につくられた「倉吉線記念館」に展示されていた写真です。

関金庁舎から10分ぐらいで、関金駅跡に着きました。かつては、島式の1面2線のホームがここにありました。機関車に牽引された列車はこの駅が終点で、折り返し運転をしていました。ここより先の泰久寺駅と終点、山守駅には機関車の付け替えができる設備がなかったからです。

これは、かつての関金駅舎の写真です。これも「倉吉線記念館」に展示されていたものです。関金駅の構内の南には、有蓋車用の貨物ホームがあったそうです。

駅前通りがあったところです。満開の桜の下で憩うツアーバスの方々です。

駅前通りで最も駅寄りにあった「駅前自治公民館」の建物です。かつて、関金駅前だったことを伝える、ただ一つの名残です。しかし、現在も、駅前には何件かの民家が建っていて駅前通の雰囲気を伝えてくれています。

駅跡の道路の向かい側にあった体育館風の建物です。「当時、このあたりには盛り土がしてあった」と、ガイドの男性が教えてくださいました。

泰久寺駅跡に向かって出発です。線路跡の県道を進みます。線路の法面も含めて道路にしたのでしょう、広い道路が続いています。左側に上蒜山、中蒜山、下蒜山の蒜山(ひるぜん)三座を見ながら進みます。

その先の「鏡ヶ成(かがみがなる)」の標識の先で舗装道路は終わります。道路は平行して走る国道313号に合流しています。倉吉線には、この先、中国山地を越えて、姫新線の勝山駅まで延伸する計画もあったそうです。

標識の先には、倉吉線時代のレールが残っています。このまま、まっすぐに進みます。さて、倉吉線は、明治45(1912)年に、当時の山陰本線上井(あげい・現、倉吉駅)と倉吉駅(後に打吹駅)間、4.2kmが開業しました。

まっすぐ続くレールの上を、田園風景を見ながら歩いていきます。倉吉線は、昭和16(1941)年に関金駅まで延伸しました。関金駅はこのとき開業したことになります。

その先でレールが途切れました。そして、線路跡の盛り土が掘削されていて段差ができていました。ガイドの方は「予算がついたところから改修したので、こういうことになるのです」とのこと。

段差の先には、枕木で階段がつくってありました。倉吉線は、その後、昭和33(1958)年に事実上の終点だった山守駅まで延伸し、開業しました。

さらに進みます。線路跡に平行して続く舗装道路を歩いていきます。

民家が迫っていますが、レールは続いています。

すでに、泰久寺地区に入っていました。泰久寺駅が近づいている感じがします。

民家の間を抜けて進むと、右側に、泰久寺駅の駅名のもとになった大久寺が見えました。曹洞宗の寺院のようです。

駅の手前に六地蔵がお祀りしてありました。ツアー仲間から「頭が重そう。」「笠地蔵か?」の声が聞こえました。

泰久寺駅跡に着きました。駅前広場が、関金駅に比べてかなり狭いことに驚きました。

「倉吉線記念館」にあった、泰久寺駅の写真です。待合室のような駅舎が写っていました。これなら、この広さで十分です。駅舎の向こうにホームの端が見えています。

泰久駅跡です。レール以外にホームも残っていました。倉吉線の駅で、ホームが残っているのはこの駅だけ、倉吉線で唯一のホームの遺構です。草取りをされる人がおられるのでしょう、きれいに整備されていました。

ホーム上にあった駅標です。しかし、枠は当時の遺構ですが、掲示してある駅標はレプリカだそうです。それでも、当時の雰囲気を伝えてくれています。ありがたいことです。

かつての泰久寺駅の写真です。「倉吉駅記念館」にあったものです。雪の中、列車から降りて、ホームを歩く中学生か高校生らしき姿です。

駅舎があったあたりを撮影しました。ここで、参加者一人ひとりに、ヘルメットと懐中電灯が配られました。

泰久寺駅からさらに進みます。竹藪の中を歩きます。ガイドさんは「竹は1年で大きくなります。いつも手入れをしていないととんでもないことになるのです」とおっしゃっていました。

その先で橋梁跡を渡ります。ヘルメット姿の一団が進んでいきます。

高い盛り土の上を歩きます。「落ちたら怖いね」と言いながら歩くツアーの参加者の姿です。

山守トンネルの入口に着きました。封鎖されていましたが、よく見ると右側に入口が設置されていました。「県の許可を取っています」とのこと。ヘルメットと懐中電灯が渡された意味がわかります。中は真っ暗でした。以前歩いた福知山線の旧線の「視界ゼロのトンネル」を思い出しました。(”視界ゼロ”のトンネルをめざして、旧福知山線を歩く」2014年5月4日の日記)懐中電灯が無ければ、一歩も先に進むことができませんでした。

全長107mの山守トンネルを抜けました。すぐ先で、線路跡は行き止まりになります。通行止めの柵の向こう側のようすです。下には道路が走っています。

製材所の屋根の上に、倉吉線の線路跡が見えます。この先、向こうの線路跡までは橋梁でつながっていたようです。今も残る線路跡からは、緩やかに右にカーブしながら、終点の山守駅に向かっていました。

泰久寺駅に戻ってから線路跡を離れました。国道に降りる途中で見た橋台です。ガイドさんは、「つくられた時のままの橋台です。70年が経過しています」と教えてくださいました。そういえば、関金駅から山守駅まで延伸したのは、昭和33(1958)年のことでした。

関金駅跡から山守トンネルの間の約4kmを、ゆっくりとした速度で2時間ぐらいかけて歩きました。倉吉線の中で、かつての遺構がよく残っている区間でした。もう少し時間があれば、山守トンネルから、終点の山守駅まで歩くことができたのではないかと思いました。少し残念でした。残る区間は、日を改めて歩いてみようと思っています。