トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

京阪電鉄京津線をたどる(1)御陵駅をめざして

2014年12月12日 | 日記

コバルトブルーの車体に黄色のラインがさわやかな京阪電鉄京津線(以下「京津線(けいしんせん)」と書きます)の800形車両です。先頭と最後尾がクロスシート、中の2両は横シートの4両編成で運行しています。京津線は、大正元(1912)年、京津三条駅と浜大津駅間、11.2kmが開業しました。軌間1435ミリ。平成9(1997)年には、京津三条駅から御陵(みささぎ)駅までが廃止され、京都市営地下鉄東西線となりました。現在は、京都市営地下鉄東西線にも乗り入れています。

この日は、京津三条駅跡から浜大津駅まで、京津線の線路に沿って歩くことにしていました。写真は、現在の京阪三条駅です。三条通から少し奥まったところに建てられています。かつての京津三条駅は京阪線の駅と一体の駅だったそうです。写真の左に進み、タクシードライバーにお聞きすると「かつての京津三条駅の入り口は、高山彦九郎の像のあたりだった」とのことでした。

これは、三条通りに面して跪く高山彦九郎の像です。このあたりに入り口があったのでしょう。

この写真は、タクシー乗り場の前にある駐車場です。このあたりに京津線のホームがあったそうです。京津線はここから三条通りに向かって進んでいました。

ドライバーのお話では、「ホームの近くには、昔は墓地があったんだよ」とのことでした。池田屋事件の「殉難志士墓所跡」の碑が建っていました。

三条通です。京津三条駅跡から90度近い右カーブで三条通に入り、旧東海道を走っていました。

東大路通の交差点です。右側に京都中央信用金庫、左側に滋賀銀行のそれぞれ東山支店が向かい合っています。この交差点の手前に、東山三条駅がありました。2面2線の路面電車風のホームがあったようです。昭和30(1955)年には、一日当たりの乗降客が5,877人ほどだったそうです。

その先、白川橋で白川の清流を渡ります。人が立っておられるところに「是よりひだり ぎおん きょうみち」と刻まれた白川橋道標が建っていました。

三条神宮道交差点です。ここから左に折れると平安神宮の大鳥居が、目の前に見えます。

その先の蹴上(けあげ)駅跡をめざして三条通をさらに東に向かいます。かつての東海道の姿をしのばせる商家の家並みが残っています。

その先の右側にあった、ウエスティンミヤコホテル。この先で大きな右カーブになりますが、その手前に、かつて蹴上駅がありました。左側には、日本で最初に建設された蹴上発電所。正面の堤には桜並木、桜の季節にはさぞかしと思わせる光景です。

ミヤコホテルの前あたりに、かつて蹴上駅があったようです。近くの中高校生がたくさん利用していたようで、昭和30(1955)年の、一日平均の乗降客は5,795人でした。

正面の堤はインクラインの跡です。明治時代になって開削された琵琶湖疎水を通って南禅寺の船溜(ふなだまり)に着いた船を、船ごと台車に乗せて乗降させたインクライン(傾斜鉄道)の展示がされています。

ミヤコホテルを過ぎ、大きく右にカーブして、次の九条山駅跡をめざして、日ノ岡峠に向かって坂道を進みます。

道路の右側にある歩道部分がかつての専用軌道の跡でした。

峠を越えて下り坂になります。近くでバスを待っておられた方にお聞きしますと「九条山のバス停があるあたりが駅跡ですよ」とのこと、とすると、このあたりに九条山駅跡があったはずです。

京津線の線路跡に小さな公園がありました。江戸時代には、物資の運搬のための馬車や牛車などは使用禁止になっていましたが、例外として、江戸、駿府、仙台の市街地と東海道の大津・京都間は、使用が認められていました。江戸時代の文化2(1805)年、大津と京都間には年間1万5千の牛車が通っていたといわれています。この写真は、市営地下鉄の開通のときに、三条通にあった車石を展示した公園です。

これが車石です。大津・京都間には、逢坂峠と日ノ岡峠の二つの峠があり、雨が降るとぬかるんで牛車の通行は困難でした。そのため、大津・京都間の東海道は、車輪の轍(わだち)のところだけ、花崗岩で舗装して動きやすくしていました。敷き詰められていた花崗岩が「車石」と呼ばれていました。中央のへこんだ部分は、轍の跡だそうです(加工されていたのかもしれません)。車石は明治9(1876)年、東海道の道路改修の時まで使用されていたそうです。鉄道線路の起源は、ギリシャ・ローマ時代に道路の石畳にできた馬車の轍が起源とされていますが、江戸時代の東海道にも線路を連想させる道があったのですね。

日ノ岡駅跡です。畳屋さんのお店の前の道路の中央にありました。日ノ岡駅は専用軌道が終わって再び併用軌道になったところにあったといわれています。ここは右折する車が多かったので、待合室が道路の脇に設置されており、電車が来ると移動して乗車していたそうです。

その先の左右に京都市営地下鉄の御陵(みささぎ)駅がありました。かつての京津線の御陵駅より、200mほど手前(蹴上方面)につくられているそうです。

やがて、右側に公園が見えました。入り口に「陵ヶ岡みどりの径」の碑がありました。

ここは、京津線の御陵駅跡でした。

駅跡の一画に御陵駅の駅名にかかわる碑が建っていました。「天智天皇山科御陵」の碑です。

陵ヶ岡みどりの径は京津線の線路跡です。紅葉の名残が残っていました。路面を見ると、線路の枕木がところどころに埋め込んでありました。犬の散歩をされている方、幼子と遊んでいる方などくつろぎの空間になっていました。

道路への合流地点です。冠木門が設けられていました。

道路の斜め向かいが、天智天皇山科御陵の参道入り口です。名残の紅葉を見ることができました。

天智天皇といえば大津宮と漏刻(水時計)。その大津宮跡に鎮座している近江神宮の境内には、初めて漏刻(水時計)を設置した天智天皇を記念して、時計館宝物館が建てられています。御陵の近くには、日時計が設置してありました。

陵ヶ岡みどりの径の先の光景です。

ここまで、京津線の線路跡を歩いてきました。京津線は、京津三条駅・御陵駅間は廃止され、京都市営地下鉄東西線になっています。御陵駅から浜大津駅間は今も京津線です。京津線は写真の中央にあるセブンイレブンの先で地下から地上に出ることになります。そして、JR東海道線の下をくぐって京阪山科駅に向かっていきます。

ここから、地下鉄御陵駅に引き返し、京津線を浜大津駅に向けて進むことにしました。