トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

鉄砲、与謝野晶子、千利休・・、 堺の歴史を訪ねる

2014年01月21日 | 日記
住吉大社にお詣りした後、住吉大社の門前にある住吉鳥居前駅から阪堺電車のちんちん電車に乗りました。

向かうは堺。天文12(1543)年に種子島に鉄砲(火縄銃)が伝来してからほどなく、日本一の鉄砲の産地になったところです。千利休から与謝野晶子の旧宅も会わせて訪ねるつもりでした。

大和川に架かる鉄橋を渡ります。堺市に入りました。

住吉鳥居前から15分、高須神社駅に着きました。ここから、西に向かい南海本線の七道駅に向かって歩きます。

古い町並みの雰囲気を残す通りを進みます。右の商家は薫主堂、線香を商っておられます。線香も堺の名産として知られていますね。

ゆっくり歩いて10分ほどで、南海本線の高架がありました。七道駅です。お詣りしてきた住吉大社の創建について、次のように語られています。仲哀天皇9(西暦200)年、神功皇后が三韓征伐から七道の浜に帰還したとき、神宮皇后への神託により、摂津国住吉郷の豪族、田裳見宿禰が住吉三神を祀ったことに始まると。 その「七道の浜」は、この南海本線七道駅の周辺であったといわれています。西暦200年頃といえば、卑弥呼が魏の国に遣いを送り金印を授けられた時代のことですよね。

七道駅の西側に駅前広場があります。そのまま駅舎に沿って北に向かいます。

駐輪場の前に、石碑がありました。正面が「放鳥銃定限記」の碑。右が「鉄砲鍛冶射的場跡」の石碑です。種子島に伝来した鉄砲は、戦国時代末期に、製造法が二つのルートで堺に伝わってきました。一つは、堺の貿易商人である橘屋又三郎が伝えたルート、もう一つは、津田監物等長が種子島で製造法を習得し、これを堺出身の刀工であった芝辻清右衛門に伝えたルートでした。当時、堺の貿易商人は薩摩や琉球王国まで貿易に出かけていたので、情報を得るのは容易いことだったのでしょう。

戦国末期から江戸時代にかけて、堺は全国の大名に鉄砲の供給を行い、国内統一を促しました。織田信長は、堺商人の今井宗久などを通して堺を支配していたので大量の鉄砲を保有し活用できたといわれています。武田騎馬隊を破った長篠の戦いは、鉄砲の威力を戦国大名に知らせることになりました。貿易都市であった堺は、火縄銃に欠かせない外国製の火薬原料の調達にも便利だったので、最盛期の堺では、芝辻一門や榎屋一門など30余軒の鉄砲鍛冶が軒を並べていたといわれています。この写真は、堺市役所の21階の展望室に展示してあった、芝辻清右衛門作の鉄砲です。ひときわ長い銃身を持っていました。彼は、豊臣秀吉の根来攻めの後、堺に戻り鉄砲鍛冶「芝辻一門」の祖になったそうです。

「放鳥銃定限記」の碑です。大正3(1914)年に七道駅周辺で、運河の開削工事中に発見されたものだそうです。江戸時代、鉄砲の生産が増加するに伴い、砲術も興隆しました。小濱民部嘉隆はこの道に熟達し、七道浜に鉄砲射的場と兵廠を設け、子弟に砲術を教えたたと記されています。射的場は、この駅のあたり一帯に広がっていたそうです。

説明に引用されていた「三宝村誌」の記述では、「大和川の堤に的を立て、周囲5間、高さ1間ほどの小丘から試し撃ちをしていた」とのことです。この「鉄砲鍛冶射的場跡」の碑は、この小丘の上に立てられていたそうです。

七道駅から、来た道を高須神社駅の方に向かって引き返します。この地図は、堺の観光案内のために掲示されていたものです。地図の右上(西)の南海電鉄の七道駅から右下への道を下(東)に向かいます。ちょうど半分ぐらい帰ったところで、町に立っている標識に従って右折(南行)します。

その先にあった鉄砲屋敷跡。母屋は江戸時代の前期に建てられたそうです。煙出しがついていました。江戸時代の鉄砲鍛冶の生産現場として国内最古の建築物で、堺市指定の有形文化財になっています。元禄2(1689)年の「堺大絵図」には、この場所に井上関右衛門の名が書かれていたそうです。

堺市役所の21階お展望室に展示してあった火縄銃です。中段に「井上関右衛門」と書かれた銃が展示してありました。この屋敷でつくられた鉄砲なのでしょうか?

鉄砲屋敷跡からさらに南に進みます。かつての雰囲気を残す町並みが残る通りを歩いて行きます。

やがて、阪堺電鉄の綾ノ町駅(高須神社の次の駅)付近に着きます。阪堺電車の走る大道筋(だいどうすじ)を渡って東側に入ります。

南に向かって大道筋と平行に進むと、山口家住宅の脇に着きます。このお宅は江戸時代初期に建築された町屋で、国の重要文化財に指定されています。江戸時代には庄屋をつとめており、堺町奉行所と町方・村方をつなぐ役割を果たしていました。「堺大絵図」(元禄2=1689年)には、屋号の「越前屋」の名が書かれているそうです。

小さくて見にくいのですが、地図の中央を左右(北・南)に延びているのが大道筋、阪堺電鉄の電車はこの道を走っています。左(南)が浜寺駅前方面です。中央下に山口家住宅があります。そこから左(南)に2ブロック進んで左折(東行)します。

正面に大きな鐘楼が見えました。本願寺堺別院です。その手前を右折します。蓮如が、文明8(1476)年に建立した信證院に始まります。外国との貿易で力をつけ始めていた商人や手工業者に布教するため、その後もたびたびこの地に滞在しました。

本願寺堺別院の表門です。享保13(1728)年、現在地に本堂を落慶しましたが、寛政10(1798)年表門と鐘楼を除いて焼失しました。現在の本堂は、文政8(1825)年の再建されました。堺で最も大きな木造建築です。



表門の前の石標に「堺県廳跡」と彫られていました。明治4(1871)年、廃藩置県で、ここに堺県の県庁が置かれました。和泉、河内、大和を合わせた、現在の大阪府東部・南部から奈良県にまたがる地域を管轄していました。

本願寺堺別院の前を南に進み、次の角を左折(東行)して2ブロック進みます。たくさんの寺院が並ぶ寺町の中を進みます。そして右斜めに進むと妙国寺です。日蓮宗の寺院で、開基は三好豊前守氏康です。堺を支配した織田信長は、この寺に滞在し、千利休から茶のもてなしを受けたといわれています。また、徳川家康は天正10(1582)年の本能寺の変のとき、この寺に宿泊していました。妙国寺の僧や油屋親子の助けで難を逃れたといわれています。しかし、聞く人を驚かせるのは、慶応4(1868)年に起きた堺事件の後、この寺で土佐藩主が切腹した時のことでした。

妙国寺の本堂です。慶応4(1868)年2月25日、フランス軍艦から水兵100人が上陸しました。この時、フランス兵は市内を闊歩し女性を追い回すなど傍若無人の振る舞いを続けました。警備についていた土佐藩士が対応しましたが、お互いに言葉が通じず銃撃の応酬になり、フランス兵に13名の死傷者を出す騒ぎになってしまいました。この事件は国際問題となり、解決のために、フランスに賠償金を支払い、その上、土佐藩士の箕浦猪之吉、西村左兵次ら20名が切腹の処分を受けました。そして、土佐藩士は同年2月23日、妙国寺で両国の立ち会い検視人が見守る中、堂々と割腹し自刃していきました。

これは、妙国寺の西にあった道標です。「右 とさのさむらいはらきりのはか(土佐の侍 腹切りの墓)」と刻まれています。妙国寺の向かいにある宝珠院には、「土佐11烈士」の墓が並んでいて、幼稚園が開かれている時には見学可能だそうです。さて、切腹の時、フランス側の立会検視人はその壮絶さに驚き12人目で中止としたため、切腹を免れた9人は土佐へ流刑になりました。 事件の状況を考えると、土佐藩士には無念の思いも強くあったのではないかと思いました。

境内に「土佐藩十一烈士之英霊」と彫られた慰霊塔が建てられています。


妙国寺を出てから、上の地図の「現在地」、大道筋に向かって歩きます。3ブロック先で右側を見ると、本願寺堺別院の本堂が見えました。

再び、阪堺電鉄が走る大道筋に着きました。足下に大きな道標が見えました。「左 妙国寺 右 住よし 大さか」とありました。大道筋はかつての紀州街道です。妙国寺との分岐を知らせる道標でした。ここから、大道筋を左(南)に向かって進みます。

大道筋の右側に、伝統産業会館がありました。火縄銃をつくってきた鉄砲鍛冶の高度な技術は、平和な江戸時代になると包丁づくりに生かされ、明治になってからは自転車製造にも使われるようになっていきました。ここは、刃物や昆布、線香など堺の名産品の展示をしていました。

この先の地図です。これは、妙国寺から大道筋に着いたことろに掲示してあった案内図です。伝統産業会館の先にザビエル公園があるようです。寄って行くことにしました。

緑が見えました。フランシスコ・ザビエルが来日していたとき、この付近に日比屋了慶(珪)の屋敷がありました。天文18(1549)年鹿児島に上陸したザビエルが了慶の屋敷に招かれ、キリスト教の布教をしたと伝えられています。昭和24(1949)年、ザエル来日400年を記念して、布教活動を顕彰した「ザビエル芳躅(ほうちょく)」の碑が建立されました。このことから「ザビエル公園」とも呼ばれるようになったそうです。

公園の中にあった「ザビエル芳躅」の碑です。「天文19年2月 聖ザビエル堺に上陸し日比屋了慶の館に入った 是れ西洋文明傳来の始で近世日本文化は茲に花と匂った」と記されていました。公園の西側には内川が流れていますが、ザビエルがやってきた当時は海でした。了慶の屋敷にあった、瓦葺き3階建ての豪壮な建物は海から見えていたと伝えられています。

ザビエル公園の中には、「堺鉄砲の碑」も建てられていました。

ザビエル公園の最寄り駅である阪堺電鉄花田口駅から、大道筋を渡ってさらに東に向かいます。4本目の通りを右折します。高田ビルの下に「糸割符(いとわっぷ)会所跡」の石碑が立っていました。

徳川家康から、慶長9(1604)年に長崎での生糸の輸入を認められたのは、京、堺、長崎の商人だけでした。その後、寛永8(1631)年江戸と大坂の商人が加わりました。扱える生糸の割合は堺の商人が120丸(1丸は30kg)、京・長崎・江戸が100丸、大阪が50丸でした。堺には多いときで200人以上の商人がいたといわれています。これらの商人の事務所が会所だったそうです。当初はもう少し西にあったようです。

通りに戻りさらに東に向かうと左に大阪府立泉陽高校がありました。右側には堺市立殿馬場中学校があります。殿馬場中学校の手前を右に曲がります。そこに、堺奉行所跡の案内がありました。

室町期の堺は、対明貿易で富を築いた有力な商人である会合衆(えごうしゅう)による自治が行われていました。しかし、鉄砲の産地になった堺は、織田信長の支配を受けるようになっていきました。信長は堺の支配のために、元亀元(1570)年「堺政所(まんどころ)」を設置しその職に松井友閑を任じました。豊臣秀吉は商人を大坂に移住させるなど堺の勢力は力をそがれていきました。その支配は、徳川家康にも引き継がれ、旧豊臣系の勢力を完全に駆逐した大坂夏の陣の後の元和4(1618)年には、堺奉行所と改称し、堺を完全に支配下に置いたのでした。これ以後、堺は糸割符で優遇はされましたが、江戸幕府の直轄地として、幕末まで(元禄9=1696年から元禄15=1702年まで、大坂奉行所の管轄に入った時期を除いて)堺奉行所の支配の下に置かれることになりました。

堺奉行所には奉行の下に与力10騎、同心50人が置かれました。案内に載せられていた堺奉行所の奉行屋敷と同心屋敷の跡の説明です。この説明を見ると泉陽高校と殿馬場中学校のある場所には同心屋敷が建っていたようです。ちなみに、中学校の名に残る「殿馬場」とは奉行の馬場があったところという意味だそうです。

ここから再度大道筋に戻り、さらに南に進みます。西に向かうと南海本線堺駅、東に向かうと南海高野線堺東駅がある大小路に出ます。

大小路に沿ってある堺警察署の前に石碑があります。「堺南北両庄 泉摂両国の界大路」と記されています。国境石です。摂津国と和泉国の国境を示しています。この大小路は、摂津の国と和泉の国の国境だったのです。

大小路を越えて進みます。次のフェニックスロードの手前にあった与謝野晶子の生家跡の碑と歌碑です。彼女は、明治11(1878)年12月7日堺県甲斐町46番地で、菓子商駿河屋を営む鳳宗七(ほうそうしち)の三女として生まれました。本名は、志よう。明治34(1901)年に東京の与謝野鉄幹の下に移るまで、この地ですごしました。「海こひし 潮の遠鳴り かぞへつつ 少女(おとめ)となりし 父母(ちちはは)の家」と歌碑には刻まれていました。

これは、脇に立つ案内にあった生家の位置です。大道筋の幅いっぱいが生家の敷地だったようです。

次の東西の通りはフェニックス通りです。渡ってすぐの朝日生命ビルの前を右折します。

1ブロック進むと、右側に案内板がありました。左折します。その先左側に千利休の屋敷の跡がありました。ビルの谷間という雰囲気でした。千利休は、大永2(1522)年堺の魚問屋「ととや」を営む納屋衆(なやしゅう)田中(千)与兵衛の長男として生まれました。本名は与四郎。当時、堺は、流行の茶の湯がで盛んで、始め、北向道陳(きたむきどうちん)に師事し、19歳で道陳の師、武野紹鷗(たけのじょうおう)に師事し「わび茶」を大成しました。茶名は千宗易(せんそうえき)といい、信長、秀吉に茶頭(さどう)として仕えました。天正15(1587)年、北野大茶会を司り秀吉に次ぐ席を設けるなど天下一の茶人として認められ、天正13(1585)年、正親町(おおぎまち)天皇から「利休居士号」を賜りました。ちなみに、納屋衆とは、中世から近世にかけて、浜辺に建てた倉庫を貸し付けていた問屋のことで、後に会合衆と呼ばれた人たちでした。

屋敷跡です。天正19(1591)年2月、秀吉の怒りを買い京都を追放され堺で謹慎していましたが、2月26日に京都に呼び返され、2日後の28日に切腹しました。利休の自刃の理由として、寄進した大徳寺山門の自らの木像を置いたからとか、茶道具売買での不正のためとかいわれていますが、当時秀吉の側近にいた利休や豊臣秀長らと石田三成や前田玄以、増田長盛ら奉行との対立の結果という説が有力です。
屋敷跡には、江戸後期から明治にかけて、醸造業を営む加賀田太郎兵衛が居住していました。奥の屋根のついているところには、「椿の井戸」が残っています。利休が産湯を使った井戸として広く知られています。


フェニックスロードに戻り、大小路に向かって引き返します。フェニックスロードに大きな石灯籠が1対建っています。「左海 たばこ 包丁鍛冶」と刻まれています。「左海」は「さかい」です。住吉大社の祭礼のとき御輿をお迎えする御旅所である「宿院頓宮」から、この付近は宿院(しゅくいん)と呼ばれています。宿院頓宮は、明治になってから堺の大鳥神社の御旅所ともなりました。

途中に「堺打刃物司 登録商標 一竿子忠綱」の永田刃物店がありました。堺の伝統産業の刃物(包丁)の作業場兼商店です。

大小路で右折します。南海電鉄の堺駅と堺東駅を結ぶ堺市のメインルートを堺東駅方面に向かって歩きます。この道は、古代、丹比道(たじひ)道と呼ばれた竹内街道です。堺から竹内峠を越えて飛鳥の都に至る古代のメインルートで、古代の官道ともいわれていました。この道を進むと東海道にもつながるため、その後も多くの人々に利用されて来ました。堺市役所に向かうことにしました。

大小路を東に歩きます。大小路を走る南海バスの車体には、南蛮人の姿が描かれていました。

大小路の歩道にあった舟形の花壇です。

その先にあったベトナム社会主義共和国総領事館です。

その先の線香店。かすかに線香のいい香りが漂っていました。刃物に線香、堺の伝統産業の店が点在しています。

その先で、高速道路の下をくぐります。中世の自治都市、堺は周辺を壕で囲まれた環濠都市でした。豊臣秀吉の時代に環濠が埋め立てられました。堺の繁栄を恐れた秀吉が環濠を埋める命令を下したからでした。大坂夏の陣の後、一回り大きい環濠が掘り起こされましたが、大和川の付け替えにより、河口部に土砂が堆積したため新しい環濠が掘られたといわれています。それが、現在の内川です。そして、阪神高速道路の建設のとき再度埋め立てられました。ここは、かつての壕、土居川のあったところです。現在は公園に整備されています。

中央の高層建築は阪神高速の手前から見た堺市役所です。その21階は展望室になっています。展望室から見た堺市です。中央に林が広がっています。日本で一番大きい古墳である仁徳天皇陵(大仙陵古墳)です。

21階に展示されていた仁徳天皇陵の写真です。こういう姿になることがあるのでしょうか?一度見てみたいものです。この21階には火縄銃や茶室の展示もされていました。周囲がすべてガラス張りで360度の眺望が楽しめます。

市役所にあった「百舌鳥・古市古墳群を世界文化遺産」に登録することを訴えた懸垂幕です。堺には多くの古墳が点在しています。

そして、堺東駅に着きました。ここから南海電鉄高野線で新今宮駅に向かうことにしていました。

歴史を訪ねて、ゆっくりと堺の町を歩きました。教科書で学んだ堺を確認するとともにそれ以上の歴史も学ぶことができました。観光パンフレットも完備していて、歩くのも楽でした。次は、環濠に沿って歩いてみようと思いました。