トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

水舟が輝く宿場町、木曽路須原宿

2013年08月21日 | 日記
江戸時代、東海道とともに江戸と京都を結んでいた中山道。その最初の宿場である板橋から数えて33番目の贄川宿(にえかわしゅく)からは「木曽路」で知られる街道に入ります。その先にある43番目の宿場である馬籠宿(まごめしゅく)までの「木曽路11宿」の中には、江戸時代の雰囲気を今に伝える雰囲気のある宿場跡が残っています。私は、木曽路のメインの宿場ともいうべき奈良井(2010年6月9日の日記)や馬籠・妻籠(2010年6月19日の日記)は、すでにまとめました。それほど有名ではありませんが、須原宿(すはらしゅく)も木曽路の宿場町の雰囲気を色濃く残す宿場町の一つです。板橋宿から数えて、中山道で40番目の宿場です。夏の一日、かつての面影を求めて、須原宿跡を歩きました。

JR中央本線の須原駅から出発しました。須原駅の前を左右に走る県道265号線を右(江戸側)の方向に進みます。

10分ぐらいで、国道19号線に合流します。この写真は、国道から県道265号線方向(左側)を撮影したものです。

国道脇に宿場の案内が建っています。「左 中山道須原宿」の石標の案内に従って県道265号線を引き返します。須原宿は、江戸側に一つ手前の上松宿から、3里9町(12、67km)ありました。

「木曽のかけはし」という地酒の看板を見ながら、ゆるやかな上り坂を進んで行きます。
須原駅前にあった、大和屋さん。お店の前の看板に書かれているように須原名物「桜の花漬け」のお店として知られています。

駅前にあった、「幸田露伴と須原宿」の碑。明治22(1890)年冬、木曽路を旅して須原宿に泊まった経験をもとに、彼の出世作「風流佛」を著したと書かれていました。このあたりは、須原宿の上町と呼ばれるところです。

その先には須原宿の雰囲気のある町並みが続いていました。しかし、ここまでたどってきた道はかつての中山道ではありません。宿場の入り口にはこの道が中山道と示されていて、須原宿に向かっていく道ですが、本来の中山道ではないのです。

正しい道をたどるため、再度、先ほどやってきた国道19号線との合流点に戻ります。そこから、今度は国道19号線を先に進みます。50mぐらい進んだところに、坂を上る細い道がありました。白いガードレールのところに黒く見える標識に「中山道」と書かれています。国道19号線と別れ、左の坂を上るのが本来の中山道です。道なりに進みます。

幅2mぐらいの細い道を進みます。この道は、途中で右折して進み、最後の石段を登ると、県道265号線に合流します。

須原駅前の県道265号線を左に進むと「高札場跡」の案内板があります。法令を書いた高札が掲げられていたところです。多くの宿場町で、宿場の入り口付近に設置していました。ところで、須原宿は、江戸時代初期には、もっと右手の木曽川沿いにあったそうです。ところが、正徳5(1715)年の起きた木曽川の大洪水で、須原宿はほとんど流されて壊滅しました。復興の時に、現在の宿場跡が残る高地に移すことにしました。糸瀬山から用水路を引いて町並みを整え、現在の須原宿が形成されていったそうです。

その先の「あすなろ」というお店の前にあった、井戸型をした水汲み場です。須原宿では「清水」がいたるところから湧き出していました。3槽になった水汲み場をみて、郡上八幡の宗祇水(2010年5月25日の日記)を思い出しました。

これは、先ほど駅前で見た幸田露伴の石碑の前にあった水汲み場です。丸太をくり抜いてつくっています。この水汲み場は「水舟」と呼ばれています。この後、街道沿いにたくさんの水舟に出会うことになります。
これは、県道の分岐点の写真です。「水舟の里 須原宿」と書かれています。須原宿は「水舟の里」として知られる宿場町なのです。

旧街道はゆるやかに下っていきます。須原宿は、幕末の慶応2(1866)年の大火で、宿場の多くが焼失してしまいました。建物は建て替えられていましたが、それでも、旧街道の面影を残す町並みが続いています。写真の正面の山の中腹(民家の屋根の上あたりの高さ)を、ときどきJR中央本線の列車が通り過ぎて行きます。

その先の須原宿の本町に入って20mぐらいで、左側の民家の前に「須原宿の本陣跡 主 木村平左衛門」と書かれた案内板を見つけました。このお宅を含む場所に、かつて本陣が置かれていました。須原宿には、江戸時代の後期の天保14(1843)年には、家数が104軒あり、そのうち本陣が1軒、脇本陣1軒、旅籠が24軒あったそうです。

本陣跡の向かい(街道の右側)に西尾酒造の建物がありました。須原宿の入り口付近の県道265号線に沿って「中山道須原宿 手作りの酒 木曽のかけはし」の看板がありましたが、江戸時代から続く、地酒「木曽のかけはし」の蔵元です。ここは、江戸時代に須原宿の脇本陣をつとめていた西尾家でした。

邸宅の前に大桑村が設置した「旧脇本陣西尾家の沿革」と石製の「西尾翁紀念碑」がありました。それによると、西尾家は、大永・天文年間(1522~1554)から須原に住みついた須原屈指の旧家で木曽氏の家臣を務めるなどした後、江戸時代には尾張藩の山林取締役等の重責を担っていたそうです。慶長5(1600)年中山道の宿場ができると脇本陣・問屋・庄屋を兼ねた宿役人としてこの地域の発展に貢献したそうです。問屋は、宿場でもっとも大切な馬や人足の継立てを行う役所です。

かつての脇本陣西尾家と旧街道をはさんだ向かい側、本陣跡の案内板のあった民家の並びに、ここも、かつての本陣の敷地内にあたるようですが、「子規の歌碑」と水舟がありました。「寝ぬ夜半を いかにあかさん 山里は 月出るほとの 空たにもなし」。 どこの水舟にも「ひしゃく」が置いてあります。 「どうぞお飲みください」ということなのでしょう!

この建物は、西尾邸から少し進んだところにありました。須原宿の仲町に入りました。島崎藤村の小説「ある女の生涯」の舞台になった清水医院はこのあたりにありました。現在は、清水医院の建物は愛知県犬山市の明治村に移設されているようです。清水医院には、島崎藤村の姉、園(その)も実際に入院したことがあるのだそうです。

清水医院の向かいにあった秋葉常夜灯。火伏せの神、秋葉大権現の常夜灯です。「當町中」と刻まれています。地元に住んでいた人たちが建立したものです。

そこを左に入っていくと、鹿嶋神宮仮宮があります。鹿嶋神宮は、須原宿の人々の鎮守の神様です。

ここから道は、右カーブになりますが、旧宿場町の雰囲気を残す仲町の町並みが続きます。旧街道の両端にある用水には清らかな水が豊かに流れています。

右側にかつての小学校の校門が建っています。石製で、左に「昭和二年建之」、右に「長野縣西筑摩郡大桑村立須原小学校」と書かれています。

校門から右に進んでいくと、今では小学校はなくメルヘンチックな大桑保育園の赤い屋根が見えました。再び、旧街道に戻り先に進みます。

校門の反対側(左側)にあった水舟です。この水舟は、丸太をくり抜いてつくったことがよくわかる形をしています。須原町の茶屋町に入りました。

この水舟にはコップがおいてありました。「須原宿は中山道に面して数多くの井戸があり、生活の場として親しまれました。この水舟もその面影を残す」と案内板には書かれていました。

須原宿の茶屋町に入りました。旧街道の面影を残す一画です。街道沿いにあった祠。コミュニティバスの”くわちゃんバス”の停留所にもなっています。

かつての旅籠”柏屋”です。 須原でもっとも有名な建物です。障子がサッシに替わった以外は、すべてかつての旅籠時代のまま残っているそうです。

街道からよく見えるところに、2階の屋根の庇の下につるされている「講宿」の看板。「三都講 講元大坂河内屋庄左衛門」とあります。このあたりは御嶽山信仰にかかわる講宿の看板が多いのだそうです。旅人の目印になったのでしょう。
柏屋のある一画を振り返って見ました。右側(実際には進行方向の左側)に並ぶ旅籠風の建物には「講宿」の看板がかけられていました。「中日新聞」の看板がある新聞販売店の建物には、「一新講」と「宮九講 不動院義覚行者」がかかっていました。

この先、旧街道は右側の民家の手前で右折して進んでいました。このあたりは宿場町の外れになります。まっすぐに行く道は、現在では県道265号で通り抜けができますが、江戸時代には、この先にある名刹定勝寺への参詣道で、行き止まりになっていました。「お寺小路」と呼ばれていたそうです。私は、先に定勝寺を訪ねることにしていましたので、右折しないでまっすぐ進みました。

10分ほど進むと、通りの左側にあった定勝寺の石段の下に着きました。

定勝寺は、脇本陣西尾家の説明にあった木曽氏11代親豊が開祖の寺院です。二度の洪水で流失した後、慶長3(1598)年、現在地に再建されました。緑に覆われた参道の石段を上ります。

国の重要文化財に指定されている山門から境内に入ります。左側に本堂があり、その先に庫裏があります。山門からそのまま進むと庭園にぶつかります。

これが本堂です。国指定の重要文化財です。桃山風の豪壮な建築様式をとどめています。

庫裏です。この建物も桃山様式で建てられています。国の重要文化財に指定されています。

鶴亀蓬莱庭園です。すっきりとした美しい庭園です。こんな小さな村に3件の国指定重要文化財を持つ寺院があるのです! すごい宿場町なのですね。

定勝寺に隣接した水舟の庭園です。

県道265号線を引き返します。旧中山道の枡形(ますがた)に戻ってきました。「枡形 鍵屋の辻」の案内板がありました。この枡形は「京に向けてつくられており、幕府に反乱を起こす敵を防ぐために、道路を直角に、しかも急坂にして攻めにくくしています。」とありました。

右折します。中央に小さい川が流れています。左の道が旧中山道です。最近までここに古い町並みが残っていたそうですが、すでに更地になっていました。

川沿いに急坂を下ります。旧中山道は、途中の理髪店があるところで、左折していました。

左折した後、そのまま狭い道を下ります。道なりに進んでいきます。

右側にあった駐在所を過ぎると、旧街道はゆるやかな左カーブになり、その先の民家の前で、県道265号線に合流します。合流して左に向かうと定勝寺に行きますが、旧街道は、合流点から右方向に進んで行っていました。

県道265号線を進みます。5分ぐらいで、「中山道野尻宿」の石標がありました。中山道41番目の宿場、野尻宿へ向かう旅人は、この先、左に向かって進んで行っていました。

清らかな湧き水が豊かに流れる旧中山道須原宿。ひしゃくやコップが置かれた水汲み場である水舟が、旅人の訪れを待ってくれていました。また、街道沿いの町並みは、かつての中山道の時代に誘ってくれました。木曽路11宿の一つとして、須原宿も輝いていました。