トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

銀山街道の宿場町、上下

2013年03月09日 | 日記

白壁の町並みが続く広島県府中市上下町(旧甲奴郡上下町)に行ってきました。上下は、江戸時代、大森銀山で産出された銀を、京や大坂への積み出し港である備中国笠岡へ送る、銀山街道の宿場町でした。

元禄11(1698)年に福山藩水野家が嗣子の死亡によって断絶してから、上下は天領(幕府領)となり、同13(1700)年には、代官所が置かれました。そして、九州の中津藩(大分県)に2万石を割譲した享保2(1717)年から幕末まで、上下には大森銀山代官所の出張陣屋が置かれ、甲奴郡(12ヶ村)と神石郡(10ヶ村)を管轄していました。幕府がこの地を天領にしたのは、銀を運ぶための街道を確保するためだったともいわれています。

これは、町の要所に立ててあった案内図です。ひな祭りのイベントでにぎやかな上下の町を、銀山街道に沿って、北の入口(案内図の左)から南の出口(案内図の右)まで歩きました。

江戸時代以前、大森銀山で産出された銀は、日本海側の温泉津(ゆのつ)から博多に向かって運び出されていました。江戸時代になってから大森銀山は天領となり、天候の影響を受けやすい日本海ルートを避けて安全な陸路に変更され、中国山地を越えて尾道に送られるようになりました。

上下の町から北の三次方面に向かって、国道432号線を撮った写真です。大森銀山から尾道までは、約130km。 最盛期には年に数回、産出量が低下してからは年1回(秋に)、小原、赤名、三次、吉舎(きさ)などの宿駅を通り尾道に向かっていました。尾道までは3泊4日の行程でした。しかし、文化(1804~1818)年間の記録では、銀400貫、銅3120貫(1貫は3.75kg)の輸送に、馬270頭、人足300人を要したとされており、街道沿いの村には大きな負担になっていました。その後、途中の吉舎で尾道に行く街道から別れ笠岡に向かうルートもできました。上下は、笠岡へ向かう街道の宿場町でした。

上下中学校の付近で国道432号線から別れ、左に進み、上下の町並みに入ります。

やがて街道の右側に、2階建ての洋風建築が見えてきます。旧甲奴郡役所、現在の上下町商工会館です。昭和5(1930)年落成の洋風建築で、平成23(2011)年、文化庁の登録有形文化財に指定されました。

商工会館の木造の階段を昇った二階から見た町並みです。

商工会館の先で、JR上下駅へ向かう道が分岐しています。私は、街道からそれて右折して上下駅に向かいました。

上下駅の駅事務所があったところにそば屋さんが入っていました。この日は、たくさんの方がそばを食べておられました。土産物も売っていました。駅の待合室もトイレもとてもきれいでした。

駅にあったJR福塩線の時刻表です。昼間の列車はほとんどありません。駅舎をそば屋さんが使っておられる理由がよくわかりました。

そば屋さんののれんにあるマークは上下のシンボルマークです。町の方々に掲げてありました。もう一度、銀山街道に戻ります。商工会館近くで、右折して進みます。

すぐ、右側に「真野(しんの)時計店」の建物がありました。白壁がまぶしいぐらいです。2階は、ご主人が収集した幕末の歴史資料の資料館になっています。店の経営の傍ら関心のある人に案内をしておられます。ここから、白壁の町に入ります。

真野時計店の脇の道を右に進み路地に入ると、旧角倉家の外門があります。これは、もと上下代官所の外門を移築したものだそうです。正四角錐の屋根と2階ののぞき窓に特色があります。角倉家は、大名貸しで多額の融資をしていた上下の財閥でした。

真野時計店の向かいにある真野菓子店。黒漆喰になまこ壁、うだつのある建物です。「つちのこ饅頭」を売っています。上下でも、つちのこの目撃談があったようです。

これも、角倉家ゆかりの建物です。かつての土蔵です。昭和25(1950)年にキリスト教会になりました。建て増しされた八角形の展望櫓と十字架が見事で、現在の上下のシンボルです。

板塀に囲まれた水路沿いの小路です。路地もまた大変きれいでした。上下キリスト教会の向かいにありました。

明治時代の自然主義文学の代表作、田山花袋の「蒲団」のヒロインのモデルとして知られる岡田美知代の生家です。美知代は県議や上下町長を歴任した岡田胖十郎の長女で、明治37(1904)年に上京して田山花袋に弟子入りしました。これがきっかけで「蒲団」のヒロインのモデルになったといわれています。現在、生家は上下歴史文化資料館になっています。美知代の生家が解体の危機に陥ったとき上下町が買い取り、平成15(2003)年に資料館としてオープンしました。うだつや白壁が目にしみます。

岡田家の隣の商家にある、「大成権尚旭堂」と右から書かれた看板に目がいきます。昭和初期の銅板浮き文字仕上げの看板です。今も現役です。

江戸末期の建物が残る重森本店。薬局の斜め前、右側に建っていました。

旧街道左側に、「指物濱一」と書かれた大きなのれんがかかる旧田辺邸。上下が天領だったとき、幕府の公金を扱う掛屋(かけや)をつとめていました。田辺家は、掛屋、両替商の「大元締」でした。天領時代、幕府は上下に掛屋を33軒つくったといわれています。掛屋が貸し出した「上下銀」は、備中国から周防国まで広がり、取り立てはかなり厳しかったといわれています。

旧田辺邸は奥行きが長い邸宅でした。蔵から店頭まで商品を運ぶためのトロッコのレールが屋内に残っていました。

家具店の指物濱一(さしものはまいち)が買い取り、展示場として、奥は喫茶店として使われています。

イベント広場である「十里辻広場」。尾道からも三次からも東城からも、10里のところにあることにちなむ命名です。

黒漆喰のなまこ壁の重厚な民家。2軒がうだつを重ねているような吉田本店の建物。呉服店を営んでいました。特徴である格子窓(こうしまど)は、光と風を取り込むのに適しています。

十里辻広場の並びにある明治時代初期の警察署の建物です。見張り櫓が残っています。現在は岡田屋。「天領そば」で知られています。

銀山街道はその先の四つ角を直進します。再び寄り道をして、左に曲がって進みます。すぐ、翁橋を渡ります。 

上下は「分水嶺の町」。この上下川は江の川水系で、山陰に向かい北に流れていきます。

翁橋を渡って進みます。左に末広酒造記念館。美術工芸品のお店。奥の酒蔵が資料館になっています。展示物の酒造の道具や土人形などを、奥様が案内してくださるそうです。

右に福万旅館。その向かいの土田旅館。このあたりも、白壁となまこ壁の民家が続きます。

道の突き当たりにあるのが「翁座」です。木造2階建て。大正12(1923)年、棟梁、前藤惣三郎(まえとうそうざぶろう)によって建てられました。「映画実演」の大きな看板が目を引きます。

上下町商工会館に展示されていたかつての写真です。こちらは右から「映画実演」と書かれています。

昭和2(1927)年の開館という芝居小屋で、当時は桝(ます)で仕切られた「枡席」だったようです。

江戸末期の歌舞伎劇場の構成だそうです。昭和21(1946)年、田中家の所有となり、映画常設館として使われました。昭和35(1960)年映画の不振で閉館します。そして、昭和48(1973)年、現在の所有者によって改修されます。平成6(1994)年、桟敷や舞台の中央にある「回り舞台」、花道(「奈落」もあります)が再現されました。平成9(1997)年に、翁座主催の「翁座まつり」で平幹二郎(上下高校卒業)の公演が行われ、芝居、落語、コンサート等に使用されるようになりました。2階は創設当時のままだそうです。

翁橋を渡り、旧警察署近くの交差点に戻ります。左に曲がって、再び銀山街道を進みます。この日は雛祭りのイベントで真影流の実演が行われていました。立てたござを真剣で一気に切り裂いていました。

写真の左が旧郷宿跡。公事(訴訟)のために訪れる人が宿泊していた宿です。戦後の道路の拡幅で大部分が切り取られたといわれています。大きなうだつが印象的でした。

拡幅された道路を渡ります。その先で旧街道は、右に大きくカーブします。旧街道の雰囲気を残した町並みが続きます。

左向きの緩いカーブが始まると、その先(写真では手前側)で国道432号線に再度合流し南の府中方面(平成24年7月21日の日記)に向かって、銀山街道は進んでいきます。

国道の脇にあった「分水嶺」の案内です。先ほど渡った上下川は江の川に合流し日本海に注いでいます。このあたりから南に流れていく矢多田川は、芦田川に合流し瀬戸内海に向かって流れて行きます。町内に分水嶺があるのは全国で上下だけだそうです。

案内板のそばを国道から西に入っていきます。石垣が残っています。天領時代に代官所があったところです。その後、上下町役場となり、平成の大合併以後は府中市上下支所が置かれていました。今は石垣に、往事の面影をしのぶだけになっています。

大森銀山で産出した銀を運搬する銀山街道の宿場町として栄えた上下の町は、現在もかつての姿をしのばせる町並みが残る素敵な町でした。JR福塩線の運行本数が減って交通は不便になってしまいましたが、町並みを最大のウリにして、町の活性化を図ろうとする住民の熱意を感じる町でした。