トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

兵庫の津、新川運河を歩く

2013年02月22日 | 日記

神戸市兵庫区にあった案内図です。図の黄土色の部分は、江戸時代の西国街道(山陽道)です、図の下のJR神戸線(山陽本線)の兵庫駅から、上(海)に向かっていました。西国街道は左に曲がって当時の神戸村に向かっていましたが、そのまま進むと兵庫の津に向かっていきます。

現在の船溜まりです。日米修好通商条約で神戸の港が開港してからは、兵庫港から神戸港にウエートが移っていきました。大正時代には、全国の34%を占める国内最大の貿易港に成長して行くことになります。

兵庫港周辺の経済活動の活性化をめざして、当時、兵庫の第2区長の神田兵右衛門が中心になり、須磨方面から和田岬を迂回しないで兵庫港に入る兵庫運河の建設が計画されました。和田岬の沖合は強い風と波で海難事故が起きる海の難所でした。

明治8(1875)年、和田岬の東に、船舶の避難地としての機能をもつ半円形をした新川運河が完成しました。運河の南側、現在中央卸売市場があるところは中之島と呼ばれるようになりました。新川運河だけしか掘削できなかったのは、資金不足のためでした。 兵庫運河の構想は、その後、八尾善四郎の兵庫運河会社の手によって受け継がれ、明治32(1899)年に3年の年月を経て実現しました。全長25km、水面積34ヘクタール、日本最大の運河です。和田岬を迂回しないで須磨駒ヶ林(こまがばやし)と兵庫港の間を航行することができるようになりました。当時は船舶5万隻、筏1万枚が利用していたといわれています。関連する兵庫運河、兵庫運河支線、新川運河、苅藻島運河、新湊川運河の5運河を総称して、兵庫運河と呼ばれています。

兵庫の町の中の西国街道を歩いた日(平成25年2月18日の日記)の午後、新川運河に沿って大輪田橋まで歩いてきました。

新川運河にかかる築島橋からみた築島水門。ここで水量の調整をしているようです。

築島橋からみた大阪湾方面。新川運河の出入り口でした。

新川運河沿いに、大輪田の泊の石椋(いわくら)の石材が展示されていました。石椋は、巨石を3~4段積み上げ、松杭で補強してつくった防波堤や突堤の基礎のことです。昭和27年(1952)年、新川運河の浚渫工事のときに、重さ4トンの巨石が20数個と一定間隔で打ち込まれた松杭とともに発見されたものだそうです。

石椋の構造です。石椋の説明にあった図面に書かれていたものです。

これも石椋の説明にあった写真です。写真中の①はモニュメントの設置場所、①から②までの間に斜めに白く見えているところが新川運河で、②は石椋の出土場所です。③の上に白く見えていることろが兵庫運河で、③は②から北西に250mのところにあり、平成15(2003)年、奈良時代後半から平安時代中期の建物の一部が発見されたところです。当時、そこは海中だったところと考えられ、巨石は大輪田の泊(おおわだのとまり)の石椋の石材と推定されています。

大輪田の泊は、律令国家の管理のもとで瀬戸内海航路の港として整備が行われたところです。後に平清盛が整備したことでも知られています。最終的な完成は、工事の再開を許された東大寺の重源によって、建久7(1196)年になされたということです。

新川運河にかかる入江橋に座っている”清盛くん”です。現在、兵庫地区は平清盛に因む場所を歩く”津の道”を売り出しています。

経島山来迎寺(通称築島寺)です。石椋のモニュメントの近くにあり、新川運河に面していました。阪神・淡路大震災で大きな被害を受け、コンクリート造りで再建されました。

来迎寺の境内です。手前の左側に「松王小児入海之碑」があります。
大輪田の泊を整備しようとした清盛は、風や波を避ける目的で、承安3(1173)年、人工島である経ヶ島を築きました。海を埋め立てる難工事で、「人柱を立てて」という意見もあり、一つひとつの石に一切経を書いて埋め立てたといいます。このとき、清盛の侍童の松王(香川の城主、田井民部の長男、当時17歳)が「人柱は罪が重い、わたし一人を身代わりに沈めてほしい」と申し出、千僧読経のうちに松王は海に沈み、経ヶ島造営も完成しました。来迎寺には、人柱となった松王の供養塔が設けられていました。

また、写真の正面奥に、京都嵯峨野の祇王寺(平成24年12月10日の日記)ゆかりの京の白拍子、祇王・祇女と、二人を寵愛した清盛の供養塔も祀られていました。

ここから西に向かって歩くことにしました。新川運河に沿って、キャナルプロムナードが整備されています。

ゆっくりと散歩される人の姿が見られました。

プロムナードから見た大輪田水門です。

キャナルプロムナードの真ん中あたりにあった「兵庫城址」の石碑。「最初の兵庫県庁の跡」と書かれていました。 天正8(1580)年に池田信輝・輝正父子が築城したのが兵庫城です。現在の新川運河をはさんだ両岸の切戸町(きれとちょう)から中之島中央市場に掛けての東西、南北ともに140mの規模で、周囲に3.6mの堀がついていたといいます。 兵庫城は、江戸時代の元和3(1617)年から尼崎藩の陣屋となります。さらに明和6(1769)年からは幕府領となって、大坂町奉行所の与力・同心の勤番所となり明治の時代を迎えます。 慶応4(1868)年5月23日、兵庫県となったとき、ここに最初に兵庫県庁が置かれました。その後、県庁は明治元(1868)年9月18日(9月8日に「明治」に改元された)に今の神戸地方裁判所の地に移り、明治6(1873)年現在地に移ったそうです。 ちなみに、明治7(1874年)、新川運河が完成したときに、兵庫城の大部分は川敷になっているそうです。

大輪田水門とその西の大輪田橋の間は、東の築島水門と同じように船溜まりになっています。

大輪田水門を過ぎて中之島とつながる大輪田橋のたもとに十三重の石塔が建っています。高さは8.5mで、鎌倉時代に建てたものといわれています。もともとあった場所から10mほど北に移動されたとき発掘されましたが、墓ではないことが確認されています。

西国街道の近くにある能福寺です。兵庫大仏で知られています。平清盛はここで剃髪し”浄海”と称して出家しています。

清盛は、養和元(1181)年に京都で死亡した後、遺骨は福原に持ち帰られたといわれています。能福寺の境内に、“平相国廟”もつくられています。しかし、清盛の墓の場所はまだよくわかっていないようです。

中之島に渡る大輪田橋です。 大正13(1924)年竣工されました。この橋は2度大きな災害に遭っています。昭和20(1945)年3月17日の神戸大空襲と平成7(1995)年の阪神・淡路大震災です。神戸大空襲では、水を求めてこの橋に避難した人が煙に巻かれて犠牲になりました。

阪神・淡路大震災では、橋の親柱が崩れ落ちました。ここは一カ所残った親柱です。

崩れ去った親柱は、復興モニュメントとして再構成され保存されています。

大輪田橋の右側に見えた新川運河です。運河はこの先を左にカーブして大阪湾に出て行きます。写真の正面から右(西)に向かう流れが兵庫運河で、苅藻島(かるもじま・兵庫運河で掘削した土砂で浅瀬を埋め立ててつくった人口島)の方に続いています。

古代の大輪田の泊から、兵庫の津として江戸時代まで繁栄した兵庫の港でしたが、明治以降神戸港に繁栄を奪われてしました。復興を目指して建設した新川運河や兵庫運河でしたが、どうだったでしょうか ? 私にとっては、大輪田の泊からの栄光の歴史をたどる旅になりました。