風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

正念

2011年06月03日 | 雑感
昨日は東京の友人が遊びに来たので、一緒に畑に行きました。
車中なんやかんや話をしたのですが、楽しかったです。
昔の友人に会うと、そのまんま昔に戻るのでなんか愉快です。

億という単位のお金を動かしている人なのですが、そういうことは関係ありません。
一緒に食事をして、冗談を言い合っていればいいわけです。
この人はお金を扱うことにはたけていますが、女性に対する扱いがはっきり言って上手ではありません。
真面目というか、不器用というか、なんか女性に対する期待値が大きすぎるような気がします。
適当にあしらうということができません。
あしらうというと聞こえが悪いですが、男だってかなり適当に女性にあしらわれています。
お互いに上手にあしらい合えば良いだけのようにぼくなんかは思います。

まぁ、そういうのはほんと人それぞれです。
どれが正解ということはありません。
歩きたい道を歩いて、見たい風景を見ているだけなのでしょう。
他人がとやかく言うたぐいのことではありませんが、昔の友人だから、ぼくはずけずけと思ったことをいいます。
彼も楽しそうに自虐していました(笑)

その上、彼はうちの商品を何点かまとめ買いしてくれました。
宝石ですから欲しくはなかったのでしょうが、ぼくを助けてくれようとしてくれたんだと思います。
こうやって、いつも誰かに助けられてぼくは生きてきました。
翻って、ぼくは誰かに手をさしのべているのだろうかといつも自問しますが、答えは出ません。
気まぐれで手を差し伸べることがあっても、気が変わってその手を引っ込めるというようなことを繰り返しているような気もします。
なんにせよ、信念というものを持っていないような気がします。
下手な信念なら持たない方がいいでしょうが、大きな意味での生きる信念は持たないと、なかなか人生の難関を突破できません。

禅の世界では「正念相続」ということがやかましく言われます。
つべこべ考える以前の本来の自分が、どっしりとこの世に相対し続けることです。
ぼくはあまりつべこべ考える方ではないのですが、考えないことが軽々浮薄になりがちです。
軽々と、しかもきっちり目前の「今」に対していく。
なかなかできそうでできません。
ややもすればたちまち「今」はこの眼前からすり抜けていきます。
ああだこうだと過去やら未来やらの幻影にと囚われます。

来週から禅の接心が始まります。
仙台に行って帰って、どうにか決算をやり終えて、正直心身が疲れています。
疲れた疲れたと言っていると、さらに疲弊感が深まります。
ここで心機一転できるかどうかが、人の地力というものでしょう。
さらには飲み続けというのもあります。
ちょっと滝に打たれたくなりました。