風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

ある瞬間

2011年06月07日 | スピリチュアル
どうやら本当に梅雨入りしたみたいです。
あっという間に初夏が通り過ぎていった感じです。

ここ数日、異様に身体がだるいです。
知り合いもそう言ってました。
そんな中でも昨日はあえてスポーツジムに行きました。
一ヶ月以上ぶりのジムでしたから、少々きつかったですがいつもどおりのメニューをこなしました。
そのせいか、今日は別の意味で身体がだるいです。

さて、先日ふと感じた瞬間があります。
考えとか感情といったものではありません。

そのときは、支払いのことやら、震災のことやら、あれやこれやで進展きわまるという感じでした。
神経も頭もすり減っていくような、そんな感じでした。
朝起きて、朝日が溢れるベランダに出て、山並みの緑をぼんやり眺めていました。
ふと時間が途切れ、違う流れにぼくという存在が入り込んだような気がしました。
とても寛いだ、甘美な感じの時空間です。
すべてが赦され、喜び合う、そんな感じの流れでした。
その流れがぼくの全存在を満たしたかと思うと、すうっと消えていきました。
後にはいつも通りの日常が再び流れ始めていました。
街のくぐもった朝の騒音、鳥の声、プランターのハーブを揺らす風。

ほんの一瞬ぼくを満たしたその流れの感触は確かにぼくの中に消えずに残りました。
それを思い出すと、一瞬にしてこの現実のあれやこれやらが、その存在意義を失い、虚空に消えます。
思わず笑みがこぼれてしまいます。

こうやって言葉に置き換えると、とても表現し切れていないのを感じます。
悟りというのとは違います。
元々自分の中に流れていた流れを垣間見たような、そんな感じです。
おそらくは人の中には三次元的な現実の思考的心理的な流れと、超次元的な分析を超絶した何かの恩寵の二つの流れが
併行して流れているのではないかと思います。
自分の都合を優先しようとするという利己的な流れと、すべてがそのまま尊いという無私無欲の流れ。
どちらも生命という流れの支流ではあるのでしょう。

どっちの流れが本物だということではありません。
自分のことで頭がいっぱいになることもあるでしょう。
被災地の人のことで頭がいっぱいになることもあるでしょう。
その二つをどう融合した道を作れるかというのが、生きるということの課題なのでしょう。