風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

作り物

2010年02月16日 | スピリチュアル
人の心は自我が発達するにしたがって「作り物」めいていきます。
学校や周囲から言われ続けることに従ったり、反発したり、本心の発露よりも心の防衛に主眼が移っていきます。
自我あるもの同士がせめぎあう社会に生きる以上、心をむき出しにすればたちまちのうちに心は傷だらけになってしまうでしょう。

社会人ともなれば、「~しなければいけない」「~してはいけない」「~すべきだ」というような自らの行動規制に、
自らの心ががんじがらめになってしまいます。
一方、そういう心の不自由さに我慢ができなくて、すべての行動規制を敢えて破壊する衝動に身を任せることもあります。
いわゆるドロップアウトするとか、アウトロー化するとか、社会規範から自らはみ出ていくわけです。
社会規範から逃げ出せば心が自由になるかというと、決してそんなことはありません。
心の自由と言うからには、社会規範に賛成か反対かなどというところに、自由の本質があるわけではありません。

規範に従おうが、従うまいが、一切の関係ないところに心が独立して在る状態を、心の自由と言うのでしょう。

赤ちゃんが生まれます。
心の在るがままに、泣き、ぐずり、笑います。
確かに心は自由です。
でもその自由は、身辺を細々お世話してくれる人がいて、初めて可能な自由です。
成人が赤ちゃんのレベルでの自由を取り戻すのは無理な話です。
成人が、泣き、ぐずって他者に要求し、それで満足して笑っていたら、そりゃもうゲテモノの世界です。

大人になるとは、我を持った人間同士が、不愉快にもならず、迷惑も掛けず、社会の福祉向上のために少しでも役に立つ心構えを持ち、
社会と、自然と、融和して生きていくことができることです。
そのためには、自分自身の心を含めて、人の心というのは成長するにつれてどんどん作り物めいていくことを知ることはとても大切です。
狭量なイデオロギーや偏った宗教に心を奪い取られないためでもあります。
人はどんなことでも思おうとすれば思え、考えようとすれば考えられます。
だからこそ、他者を支配するとか戦争とかいう狂気がいまだに地上から消えることはないのです。
さらに、自分の「思い」や「考え方」などというのも、たまたまのその自分の立ち位置から出てくる泡のようなものだと知っておくと、
自分の「思い」や「考え方」に固執する苦しさから抜け出せます。

それでは何のためにもともと赤子のような無垢だった心が作り物めいていくという経験をするのか。
無垢なものが無垢なままだったら、この世に生まれるという経験の意味がないからなのかもしれません。
無垢なものが、傷つき、壊れ、汚されることによって、その無垢の輝きの尊さを知るため。

テレビをはじめ、この世はなにからなにまで「作り物」だらけです。
作り物の関係、作り物の言葉、作り物の笑顔、作り物の優しさ、作り物の真実。
それをそうと知りながら、ふて腐れもせず、怒りもせず、自分の作り物の心の奥底に輝いている無垢さを再発見する。
それが大人になった人間の、作り物だらけになった世の中でなすべき最終課題だと思うのです。

自分のなかに無垢を見出せない人は、他人の中に無垢を見出すはずもありません。
自分の中に無垢を見出した人は、他人の仲にもそれがしっかり輝いているのを見出すことができます。
そこから初めて、作り物ではない関係、言葉、笑顔、優しさ、真実が出てくるんだと思います。