昨夜は禅道場に泊まり、暗いうちから坐って、店に出るため道場を出ますと、雪が舞い落ちていました。
なかなか風情がありました。
ひたすら寒くて、暗くて、足の痛い、ちっとも楽しくなさそうな禅の修業ですが、心に何を宿すかは全くの自由です。
修業が進んで、境地が深まれば、大宇宙全体と一つにもなれるみたいです。
そんな時がくれば、そんな時、というだけの話なのですが。
そんな時も、こんな時も、あんな時も、いずれ劣らぬ晴れ舞台、です。
道場には80前後の老先輩居士が何人かおられます。
みな、枯淡の中にも無邪気さと強靭さを併せ持ったいい顔をしておられます。
同じ年頃の集団だけで禅の修業をすれば、下手に競争意識やらなんやら余計なものがたくさんくっついてきそうですが、
そういう老先輩の静かななまなざしが道場に注がれているというのは、とてもいいことのように思われます。
何でもいいといいながら、何でもよくないのが禅です。
その頃合やら、調和のバランスを体得していくのが禅といってもいいかもしれません。
禅の世界に限らず、どの世界でも、やはり一番尊い資質は「素直さ」なんだと思います。
素直になれない部分をぶち切っていけば、素直なコアが残るだけです。
人間の核心、コアは素直に決まっています。
ひねくれたコアなどというコアはありえません。
ひねくれた時点で、それはもうコアではないからです。
細胞の世界にしても、想念の世界にしても、この世のものは「増殖」するものです。
がん細胞も増殖しますし、流行の思想も増殖します。
自分を失ったまま、何かの考え方やら思想やらの増殖に身を任せると、時に大変なことになります。
こんなはずではなかったという考え方やら思想やらがこれまでもたくさんありました。
そんな増殖作用から身を引いて、自分自身のコアを正面から見つけ、対峙してみること。
それが禅のような気がします。
なかなか風情がありました。
ひたすら寒くて、暗くて、足の痛い、ちっとも楽しくなさそうな禅の修業ですが、心に何を宿すかは全くの自由です。
修業が進んで、境地が深まれば、大宇宙全体と一つにもなれるみたいです。
そんな時がくれば、そんな時、というだけの話なのですが。
そんな時も、こんな時も、あんな時も、いずれ劣らぬ晴れ舞台、です。
道場には80前後の老先輩居士が何人かおられます。
みな、枯淡の中にも無邪気さと強靭さを併せ持ったいい顔をしておられます。
同じ年頃の集団だけで禅の修業をすれば、下手に競争意識やらなんやら余計なものがたくさんくっついてきそうですが、
そういう老先輩の静かななまなざしが道場に注がれているというのは、とてもいいことのように思われます。
何でもいいといいながら、何でもよくないのが禅です。
その頃合やら、調和のバランスを体得していくのが禅といってもいいかもしれません。
禅の世界に限らず、どの世界でも、やはり一番尊い資質は「素直さ」なんだと思います。
素直になれない部分をぶち切っていけば、素直なコアが残るだけです。
人間の核心、コアは素直に決まっています。
ひねくれたコアなどというコアはありえません。
ひねくれた時点で、それはもうコアではないからです。
細胞の世界にしても、想念の世界にしても、この世のものは「増殖」するものです。
がん細胞も増殖しますし、流行の思想も増殖します。
自分を失ったまま、何かの考え方やら思想やらの増殖に身を任せると、時に大変なことになります。
こんなはずではなかったという考え方やら思想やらがこれまでもたくさんありました。
そんな増殖作用から身を引いて、自分自身のコアを正面から見つけ、対峙してみること。
それが禅のような気がします。