ここ数日厚い雲が空を覆っています。
季節の変わり目なのでしょう。
さて、土曜日からいよいよ禅の接心が始まりました。
道場の役員の顔ぶれも一気に若返って、どたばたしながらも心地のよい緊張感が漂っています。
禅の世界は限りなく深くて広いですから、決まった一本道がその世界を貫いているわけではありません。
千差万別、人の心の数ほど道があると言っても過言ではないでしょう。
ただ言えることは、ひたすらな心ほどひたすらな一本道を歩くことになるだろうということです。
あれこれ迷っても、それもまた道ではありますが、ひたすらな一本道を歩くことのほうが、そりゃ爽快でしょう。
坐禅の組み方(坐相)というのは一応決まっておりますが、心のあり方は各人しだいです。
各人しだいで留まると、とても苦しくなってくるでしょう。
「各人しだい」などという色に染まっていては、無念無雑というような絶対の境地には届きません。
「各人しだい」を「各人しだい」で脱色していく。
脱色していく方法としては、数息観と呼ばれる呼吸法で、ただひたすら1から10までの数を数えていきます。
当初はこれでもかと次から次へと雑念が涌いてきます。
どんなに雑念が涌いてこようとも一切取り合わず、呼吸に専念します。
そのうち、ふと気がついたときに、呼吸だけになっている自分を発見します。
自分が呼吸で、呼吸が自分です。
そんな所にいきますと、不思議と足も痛くなく、身体の感覚も、時間の感覚もその存在感が薄くなります。
その境地がさらに深まると「三昧」と呼ばれる境地になるようです。
そういう境地に達すると、飯を食うときは飯を食うだけ、寝るときは寝るだけ、歩くときは歩くだけ、
遊ぶときは遊ぶだけ、というその瞬間の行為と完全に一体となった無駄のない「瞬間」の連続になるようです。
まさしく「今」を生きるという感じでしょうか。
良寛さんが子供とかくれんぼをしていて、子供がとっくに帰ったあともずっと一人で隠れていたとか、
客に振舞おうと酒を買いにいったところ、途中で見た月に見とれてしまって、いつまでも帰ってこなかったとか、
そういう逸話が多いのは、そういう混じりけの一切ない「瞬間」の連続に生きていたからこそなのだと思います。
そこで「各人しだい」というところに戻ります。
各人しだいというのは、要するに各人それぞれが持っている言動や考え方の癖やら傾向やらしだいだということです。
癖やら傾向性に縛られた境地を透脱することが禅の目指す境地の第一段階だろうとぼくは思います。
でも、禅の修業をする当人はすでに癖やら傾向性を引っさげて修業するしかありません。
一切の癖やら傾向性から自由でいることなど、どんな人にもできません。
敢えて言うなら、悟った人でもその言動やら考え方には癖やら傾向性やらをたっぷり含んでいるものです。
何を言いたいのかというと、「各人しだい」を、人は悟ろうが悟るまいが背負っていくわけですが、
「各人しだい」を超えた境地に遊べるのが悟った人であり、「各人しだい」に無自覚にも振り回され続けるのが、
悟っていない人だといえるのかもしれません。
人の癖やら傾向性が問題なのではありません。
そのいいとこもあれば悪いところもあるでしょう。
ようは、自分の考え方や言動の癖からさえも、自由になる境地を目指すことは可能だということです。
自分が悲しいとか苦しいとか思うとき、そのほとんどはそう思う自分の考え方に起因します。
自分の考え方が自由自在になれば、悲しいとか苦しいとかいうことからも自由自在になります。
自由自在でいながらも、悲しいとか苦しいとか、思うこともできます。
無感動になることが自由自在ではありませんから。
なんか持って回ったような言い方しかできなくできなくて、ゴメンナサイ。
季節の変わり目なのでしょう。
さて、土曜日からいよいよ禅の接心が始まりました。
道場の役員の顔ぶれも一気に若返って、どたばたしながらも心地のよい緊張感が漂っています。
禅の世界は限りなく深くて広いですから、決まった一本道がその世界を貫いているわけではありません。
千差万別、人の心の数ほど道があると言っても過言ではないでしょう。
ただ言えることは、ひたすらな心ほどひたすらな一本道を歩くことになるだろうということです。
あれこれ迷っても、それもまた道ではありますが、ひたすらな一本道を歩くことのほうが、そりゃ爽快でしょう。
坐禅の組み方(坐相)というのは一応決まっておりますが、心のあり方は各人しだいです。
各人しだいで留まると、とても苦しくなってくるでしょう。
「各人しだい」などという色に染まっていては、無念無雑というような絶対の境地には届きません。
「各人しだい」を「各人しだい」で脱色していく。
脱色していく方法としては、数息観と呼ばれる呼吸法で、ただひたすら1から10までの数を数えていきます。
当初はこれでもかと次から次へと雑念が涌いてきます。
どんなに雑念が涌いてこようとも一切取り合わず、呼吸に専念します。
そのうち、ふと気がついたときに、呼吸だけになっている自分を発見します。
自分が呼吸で、呼吸が自分です。
そんな所にいきますと、不思議と足も痛くなく、身体の感覚も、時間の感覚もその存在感が薄くなります。
その境地がさらに深まると「三昧」と呼ばれる境地になるようです。
そういう境地に達すると、飯を食うときは飯を食うだけ、寝るときは寝るだけ、歩くときは歩くだけ、
遊ぶときは遊ぶだけ、というその瞬間の行為と完全に一体となった無駄のない「瞬間」の連続になるようです。
まさしく「今」を生きるという感じでしょうか。
良寛さんが子供とかくれんぼをしていて、子供がとっくに帰ったあともずっと一人で隠れていたとか、
客に振舞おうと酒を買いにいったところ、途中で見た月に見とれてしまって、いつまでも帰ってこなかったとか、
そういう逸話が多いのは、そういう混じりけの一切ない「瞬間」の連続に生きていたからこそなのだと思います。
そこで「各人しだい」というところに戻ります。
各人しだいというのは、要するに各人それぞれが持っている言動や考え方の癖やら傾向やらしだいだということです。
癖やら傾向性に縛られた境地を透脱することが禅の目指す境地の第一段階だろうとぼくは思います。
でも、禅の修業をする当人はすでに癖やら傾向性を引っさげて修業するしかありません。
一切の癖やら傾向性から自由でいることなど、どんな人にもできません。
敢えて言うなら、悟った人でもその言動やら考え方には癖やら傾向性やらをたっぷり含んでいるものです。
何を言いたいのかというと、「各人しだい」を、人は悟ろうが悟るまいが背負っていくわけですが、
「各人しだい」を超えた境地に遊べるのが悟った人であり、「各人しだい」に無自覚にも振り回され続けるのが、
悟っていない人だといえるのかもしれません。
人の癖やら傾向性が問題なのではありません。
そのいいとこもあれば悪いところもあるでしょう。
ようは、自分の考え方や言動の癖からさえも、自由になる境地を目指すことは可能だということです。
自分が悲しいとか苦しいとか思うとき、そのほとんどはそう思う自分の考え方に起因します。
自分の考え方が自由自在になれば、悲しいとか苦しいとかいうことからも自由自在になります。
自由自在でいながらも、悲しいとか苦しいとか、思うこともできます。
無感動になることが自由自在ではありませんから。
なんか持って回ったような言い方しかできなくできなくて、ゴメンナサイ。