風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

大切

2009年01月12日 | 雑感
時折雪がちらつくここ数日の空模様です。
こんな日でもお客さんが来てくれます。
言うまでもなく、お客さんというのは個々の人間です。
個々の人間が来ていただくというのは、ある意味もの凄い贅沢なことです。

そこには、問わずもがなで、人それぞれに深い人間模様が繰り広げられています。
ぼくは何でもかんでも切り捨てるのが得意ですから、切り捨てることができずに悶々とし続ける愛のエネルギーを持つ人から、
何かを学ばなければならないのでしょう。

今の時代、物自体に興味を持つという人は少なくなりました。
その物がなにを表し、なにを志向するのかということには、辛うじて人の好奇心はついてきます。
物にも歴史があり、想いがあり、希望があります。
嘘臭いでしょうが、本当です。

もの、物、モノ、者。
すべては神の「場」です。

神の居場所を失ったような大量生産の時代が長いこと続きました。
子供でも分かる理屈で、その限界が来ました。
それだけの話です。

すべてのものを大切にするとき、自分の生命をも大切にしようと思えます。
それだけの話です。

誰もがすべてを大切にするとき、どのような不協和音がこの世に生まれようがありましょうか。
この世には大切なものしかありません。

すべては 大切 です。
大切だと思うことをしている限り、人は迷いようがありません。
何かを大切に思える人の意識が尊いのであって、自分の都合しか考えられない意識が尊いのではありません。
自分が神聖なる意志の道具だと思うことが、「道具」という言葉のイメージによって屈辱だと思うことは可能です。
でも、無限の可能性の中で、自分がこの今、なにのための道具になっているのかを考えてみたらいいです。

人は道具を如何に効果的に使いこなすかです。
人の道具としては、物質的な道具のみならず、思考、観念、芸術、すべてが道具になりえます。

最終的には、人は神の道具となれるかどうかです。
ありとあやゆる局面で、なにを思い、なにをするかです。

立派である必要があるのではありません。
魂の納得が必要なのだと思います。
神の息吹が魂なのだとしたら、魂はなにを求めるでしょうか。
神が判断するのではありません。
神の分け御魂としての、己の魂が判断するのです。

魂が求めるものは、喜びです。
自他が一体となった喜びです。

自他が一体になるなんていうことは、今日的に言えばもちろん戯言です。
その戯言と心中する気があるかないかということです。

信仰というのはそういうものでしょう。