風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

仏教

2007年12月03日 | スピリチュアル
ぼくの経験から言いますと、仏教というのは寺に数週間篭ったところで、何一つ分かりません。
ひたすら坐るなり、作務をしたりするのですが、その意味も感触もつかめないまま、長い数週間が過ぎます。
坐ると一言で言いますが、足は4の地固めを決められているのと全く同じ状態になりますし、
頭の中は妄想がグルグル渦を巻きっぱなしです。

それでホウホウの呈で寺を出て、世俗にそそくさと帰還するわけです。
寺を出るときにお世話になった和尚さんには合掌してお礼を言ったりはするのですが、心はホッとしているばかりです。
何かを体験した喜びの笑顔ではなく、ひたすらホッとした笑顔を浮かべたりします。

寺では「提唱」といって、毎日説法もあります。
分かったような分らないような気分で聞きます。
ということは、何も分かってはいないということなのですが。

こんな不埒な心の状態であることは和尚さんはもとよりお見通しであったことはずいぶん後になって気が付きます。
泥のような煩悩で目が塞がれている内は、何も見えず、何も経験しません。
泥のような煩悩まみれであることさえ気が付かない馬鹿者は、放って置くしかありません。
目にこびりついた泥を拭い去りたいと当人が心から思わない限り、坐るのも作務をするのも本気になるはずがないのです。

坐ることを苦痛と感じる当体は誰か?
作務に集中できない心とは何か?
そんな疑問が自分の中にむくむくと起こってくるまでは、泥を分厚く引っ付けたままのコチコチの分からず屋は放っておくしかないのです。

仏教は子供から老哲学者まで、全ての縁あるものが完全に理解できるようにという慈悲心から、それはそれはたくさんのお経があります。
全てに通底することは、「自分」というものを知れ。
「自分」という幻から、去れ。
悉皆成仏(すべては本来仏)である理を知れ。
ということだと思います。

で、今の深層心理学などよりも遥かに深い唯識論をはじめ、その人間の目にくっ付く泥の成分を一つ漏らさず説明に説明を重ねます。
なぜくっ付くかの理由も微に入り、細に入り説明します。
そして、仏教はここで終わりません。
泥など初めからないものをあると思って自らメクラになっているのが凡夫だ、という風になっていきます。
泥も幻、メクラも幻、あるもないも幻。
ここからは、色即是空、空即是色の話しになって行きます。

とにもかくにも、初心の者はまず己の眼にこびりついている泥の自覚から始まらなければなりません。
見えているつもりが迷いの迷路にはまり込んでいく理由だからです。
今見えている(分っている)と思うことをとにかく捨てさせます。
計算、打算、計らいを捨てさせます。

そういう「捨てる」という行為は日常の中にはなかなかないので、それを「修行」と呼ぶといってもいいのかもしれません。
「捨てる」という行為の向こうに何があるのか。
それは体験した者でしか窺い知れません。
そこのところが教外別伝、不立文字と言われるゆえんの一つでもあります。
しかも、その「捨てる」という段階はまだまだ仏道の入り口にしか過ぎず、広大無辺の世界がその向こうに広がっています。

いやはや、大変な世界です。