風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

唯識論

2007年12月28日 | スピリチュアル
いよいよ営業は明日一日を残すのみとなりました。
だからと言ってなにをするわけでもなくボ~っとしているんですが。

ここのところ続いていた忘年会も今夜で最後です。
飲み過ぎないようにしようと思っていても、飲み始めてしまうと水の泡です。

仏教の教学に唯識論というのがあります。
水も漏らさぬ精緻な教えで、読んでいて嫌になるような教えです。

人間は「五感」と「意識」(合わせて六識)と「マナ識」と「アーラヤ識」の八識でものごとを判断して生きています。
五感と意識というのは普段人が感じる、考える、思うということが意識上に現れた認識作用です。
唯識論では、その六識の下層にマナ識という「私」というものにどうしても拘って判断しようとする心の層があると言います。
身体にいいことや、人のためになることをしようと思うのは誰でも簡単に思えるのですが、
いざ実行段階になると、そんなことをしたって「私」のためにならないとか、「私」が疲れるから嫌だとか、
「私」「私」がどんどん出てくる層です。
自我の層といってもいいかもしれません。

更にその下に「アーラヤ識」というのがあります。
熱いものを触ったときに無条件に手を引っ込めたり、危険なそうなところには近づかなかったり、
自分の命の維持というものに拘る心の層です。

現代の心理学で言いますと六識が顕在心理で、あとの二識が深層心理と呼べるかもしれません。

五感(五識)+意識+マナ識+アーラヤ識の八識で判断して生きる人間を八識の凡夫と呼びます。
アーラヤ識が自己の命にこだわり、マナ識が自我に拘り、意識や五感は自分があるという前提で物事を認識し、判断する。
その判断はどうしても利己的になり、生命の実相というものから遠ざかって行きます。

生命の実相とは何かというと、これまた膨大な論証が必要になりますから割愛しますが、
要するに、生命は自己・自我というようなものに囲われているものではなく、縁で生じ縁で滅するだけのものだということです。
更に言うなら、「空」に生じた幻のようなものであり、その「空」をそのまま感得すれば、生命は広大無辺の宇宙と一体となる。
そんな感じです。

こういうことを書き出すとキリがないからやめますが、そういう凡夫の八識を、修行を通じて四つの智慧(四智)に変えていく、
というのが唯識論の眼目です。

八識→四智とは

1.アーラヤ識 命に拘る→宇宙のありのままを映す鏡のような智慧
2.マナ識 自分に拘る→すべての存在は一つであることを深く分かる智慧
3.意識 自分というものに拘らない透明に世界を見通せる智慧
4.五感 ありのままの「今」というものを正確明朗に捉える智慧

ということです。

要するに、禅で目指す境地を、徹底的に分析記述したものが唯識論と言ってもいいかもしれません。
アーラヤ識という一番底の心が曇っていますと、上層の心が次々と曇って行きます。
禅は「非思量」という考えないという行為を徹底的にすることによって、
「宇宙のありのままを映す鏡のような」心を目指します。

もう一つ方法があるかもしれません。

「生かして頂いて有難う御座います」というような言葉をどんどんアーラヤ識に投げ込んでいくことです。
自分の命の持続ということや、自我に拘らない感謝の言葉をどんどん心の底に投げ込んでいくこと。
「自分」や「自我」ということに拘らない感謝の言葉でアーラヤ識が一杯になれば、宇宙のありのままを心が映すのかもしれません。