風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

想念

2007年05月10日 | スピリチュアル
なにかに書いてあった話を基にした話です。

原初にあるのは「想念」。
「想念(意志)」がエネルギー化したものが「光」。
「光」が波動を限りなく落として固形化したものが「物質」。

「想念」の次元では時間も距離もない。
想うだけで対象に繋がります。
介在する空間も物質もないのですから、時間と距離が存在できません。
瞬間移動とか、テレパシーとかの世界です。
花を想えば瞬時に「花」があり、誰かを想えば瞬時にその誰かが目の前にいます。

「光」の次元で初めて「速度」が生まれる。
「伝導する」というその性質上、距離と速度が生まれる。
「伝導」とは何かから何かに伝わることですから、そこには自ずと距離と速度が生まれる。
そして「光」は全てのエネルギーの元というか、物質界を支えるエネルギーそのもの。

その「光」=エネルギーが型をまとったのが物質。
物質として型をまとったときに、「因果」と「位置」が生まれる。
その型をまとい、どういう物質的変遷を経ていくか、その過程が「因果」であり、
その因果の結果、地上のどこに存在するかが決まることが「位置」。
何らかの方法で物質の固定化を解くと、凝縮していたエネルギーが爆発するのが核爆発。

で、こうして書くと小難しく感じますが、
要は、原初の「想念」が今では曇りに曇り、すっかり見失われた状態ではないかと。
当初の「想念」を忘れていくにつれ、想念の結果に過ぎない「因果」と「位置」に囚われてしまった。
「因果」に囚われるということは、「自分の意志の力」を信じられなくなるということです。
「位置」に囚われるということは、自分の状況を嘆き悲しむ対象とすることです。

原初の「想念」が何であったかというのは、
キリスト教であれば「愛」と応えるであろうし、仏教であれば「慈悲」となるのかもしれません。
ぼくが思うに、もう一つ加えるとすれば「成長の喜び」ではないかと思っています。

「想い」→「光」→「物質」というかくも七面倒くさい過程を経てまで、
なにを人間は、動物は、地球は経験しようとしているのか。
「因果」と「位置」に拘ると、なにも見えてこないような気がします。
感謝があるから成長があるのか、成長するから感謝があるのか。
ぼくはその両者はDNAの二本の腺が絡み、螺旋を描くように同時に上昇するのではないかと思っています。