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瞑想と願望成就:唯識のことば23

2017年02月22日 | 仏教・宗教

 第八回に夢の話を書きました。

 その時は迷いという悪い夢から覚める話でしたが、今回は積極的にいい夢を見ようという話です。
 
 私たちふつうの人間は、すぐ完全に夢から覚めることはできませんから、どうせ見るならいい夢を見たほうがいいわけです。

 それに、悪い夢よりいい夢を見た後のほうが、すっきり目を覚ますことができます。

 そこで、いい気分で、ほどほどの時間に目を覚ませるように、その前にいい夢を見ておくのも悪くありません。

 唯識では、私たちがいい意味での夢=「さまざまな願い」をもつことを否定していません。

 そういう意味では、「禁欲主義」ではないのです。

 それどころか、「瞑想修行する人は、願いを実現することができる」といっています。


 瞑想修行する人は、さまざまな願いと見方を成立させることができる。

〔瞑想修行する人があるいは自分の自由さを完成するために、あるいは他の人を誘って正しい教えを受けさせたいと欲して願うならば、さまざまな変化の願いはみな成就しうる。もし願が成就するならば、自分の見方も他者の見方も願ったようにみな成就しうる。〕

               (『摂大乗論現代語訳』七一~七二頁)

 種々の願と及び見とを、観行の人は能く成ず。

 〔勧行の人、或は自の自在を成せんが為に、或は他を引いて正教を受けしめんと欲するが故に願ひ、種々の願を成ずることを得。若し願、己に成ずれば、自見他見は所願の如く亦皆成ずることを得。〕

      (国訳一切経『摂大乗論釈』真諦訳、大東出版社、一〇二頁)


 といっても、もちろん人間にとって当然の、あるいは許される「願」と、歪んだ、自他に害のある欲望は違います。

 「観行」で「成ず」るのは「願」であって、「貪(むさぼり)」ではありません。

 でも、自分がほんとうに自由に、爽やかに生きたいという欲求と、まわりの人にもそういういい考え方、いい生き方を伝えたいという願いなら実現するというのです。

 アサンガ菩薩もそういっておられますし、私も全面賛成ですが、生き方の基本として、欲望を抑えようとするより、欲望の奥にある自然な欲求を回復するほうがいい。それから自利利他の高次の欲求を追求する。

 いわば〈生命欲〉の全面的解放を目指したいと思います。

 厳しい時代になってきたからといって、変にちぢこまったりしないで、のびのびと生きたいものです。

 人生は、マナ識的な自分の思いどおりになるわけではありませんが、自分の思いが宇宙と共振したときには、思いは実現するといわれています。

 宇宙が実現してくれるというのです。

 そういう意味で「いい」夢を描くと、夢は実現します。

 やすらかに眠る時のようにリラックスして、宇宙に全心身を任せて、子どもが欲しいもののことを夢に見ながら寝言をいうように、心の奥底からの願いをいえば、宇宙は聴いていて、いちばんいい時にかなえてくれる……ようです。

 ただし、子どもがどんなに欲しがる一見いいものでも、結局は害になるものを親は与えないように、結局はためにならないことは、宇宙はかなえてくれないようです。

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ほんとうのビッグな人生:唯識のことば22

2017年02月21日 | 仏教・宗教

 私たちは、唯識の理論を学んだり、坐禅をしたりし始めてからしばらくすると、なんだか大して得るものがないような気がしてくることがあります。

 「こんなことをやって、どんな効果があるのだろう」と。

 実践的な効果のことを仏教用語で「功徳」といいますが、功徳への疑問が生まれるのです。

 そういう疑問に対して、梁の武帝に対して達磨さんが答えた「無功徳」という答えは、実にさっぱりと徹底していて、いかにも禅という感じで、かつてはとても好きでした。

 そして、「仏教はこうでなくては」とも思ったものです。

 ところが、唯識を学び、特に『摂大乗論』を学ぶと、以下のような波羅蜜の功徳について述べたところがちゃんとあります。


 もろもろの波羅蜜の功徳はどのようなものだと知るべきであろうか。

 もし菩薩が生死輪廻するとしても、大いなる富を思いどおりにできる。

 大いなる人生を送ることができる。

 大いなる親族や家来を得る。

 大いなる生活の糧の事業が成就する。

 病気や悩みがなく、少欲でありうる。

 一切の技術的な智慧を得る。

 思いどおりであり、富を失うことなく、衆生を利益することをなすべきこととするので、菩薩の六波羅蜜を修行する功徳は、究極の清らかな悟りに悟入するまで、常にあって変わることがないからである。

                    (摂大乗論第四章より)

 アサンガ菩薩によれば、六つの波羅蜜の実践によって、いろいろすばらしい功徳が得られるといいます。

 その中には「大いなる富を思いどおりにできる」というのまであるのですから、学びはじめたころ、仏教は禁欲主義・清貧主義であるはずだと思っていた私には驚きでもあり、やや反発も感じました。

 それから、これは初心者に修行させるための方便(の嘘)であって、本心ではないのではないかとも考えました。

 しかし、読みが深まっていくにつれて、そうではないことに気づきました。

 ここでの「大いなる富を思いどおりにできる」の「思い」はマナ識の思いではなく、菩薩の思いであり、自分自身については「少欲」であるにもかかわらず、「富を失うことなく、衆生を利益することをなすべきこととする」布施の思いなのです。

 たくさんなければ、たくさんの衆生に施すことはできません。

 「大いなる生活の糧の事業が成就す」れば、食うに困る心配は、当然なくなります。

 食うには困らない、自分の欲は適当で大きくない、けれども大いなる富はある。

 だとすれば、思いどおりに使える富を使って、大きな欲・願という意味での思いどおりに衆生に利益を与えることができる。

 その上、病気や悩みがなく、すてきな仲間や協力者がいっぱいいて、あらゆるテクノロジーを駆使できる。

 これが、ほんとうの「ビッグな生活」ではないでしょうか。

 摂大乗論によれば、大乗の菩薩の目指すものは、ささやかで清らかな生活というより、こういう「大いなる人生を送る」ことです。

 例えば良寛さまのよう清貧の生き方もすばらしいと思いますが、こちらのほうがより「大乗」的だと思われます。

 筆者―サングラハも、そういう路線で、いわば「いいことをして豊かになる。豊かになって、もっといいことをする」ような事業を目指したいと思いながら努力を続けていますし、そういう「ビッグな生き方」をする人がたくさん現われてくることで、社会―世界が変わることを期待しています。


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仏・菩薩には大きな欲がある:唯識のことば21

2017年02月17日 | 仏教・宗教

 一切の仏法は欲があること(有欲)を本性とする。

 欲のある衆生を愛し包み、自己と同体とすることを完成させるからである。

 一切の仏法は怒りがあることを本性とし、一切の仏法は愚かさのあることを本性とし、一切の仏法は凡夫のあり方を本性とする。

 一切の仏法は汚染のないことを本性とする。

 完成された真如は、どんな障害も汚染することができないからである。

                  (『摂大乗論現代語訳』第七章より)


 唯識の話をすると、初期に必ずといっていいくらい頻繁に出てくる疑問・反論的質問があります。

 「人間の欲はなくならないんじゃないですか?」「欲がなくなったら人生がおもしろくなくなるんじゃないですか?」というものです。

 それは、仏教は人間の欲望を否定するものだという、やや不正確な一般常識から来る部分と、欲望をなくしておもしろくない人生になるような仏教は受け容れたくないという気持ちから来る部分があるのではないかと思われます。

 筆者も大乗仏教‐唯識をちゃんと学ぶ前はそういう疑問をもっていましたが、ちゃんと学んだら疑問は氷解しました。

 まず、右に引用した言葉のとおり、「一切の仏法は欲があることを本性とする」のです。

 それどころか、凡夫の怒りも愚かさも共有するのが、仏法だといわれています。

 これは常識からは非常に意外な言葉ですが、よくわかってくると、なるほどとうなづかせられました。

 仏は「目覚めた人」ですから、人間なのです。

 人間には自然な欲求は必ずあります。

 例えば食欲がまったくなくなったら、栄養失調で死んでしまいます。

 死んでしまったら、他の人を愛することはできなくなります。

 ほどほどに食べて元気でなければ、人は愛せません。

 したがって、目覚めた人も、他者を愛するためには、適度な食欲が不可欠です。

 それから、たくさんの人を愛したいというのは、大変な欲です。

 ましてすべての生きとし生けるものを救いたいなど、常識からいえば誇大妄想的に大きな欲です。

 しかし、そういう大きな欲をもつのが菩薩つまり仏を目指す人ですし、また仏・目覚めた人ももちろんそうです。

 つまり、仏・菩薩は大変な欲張りなのです。

 そういうわけなので、唯識を学んだら、自然な欲求に加えて大きな欲求をもちましょう。

 もちろん、歪んだ、いきすぎた、そのくせどこかみみっちい欲望はコントロールし、癒していきましょう。

 とはいえ、歪んだ欲望も、自然な欲求も、仏・菩薩の欲求・願も、すべてコスモスの営みですから、究極的には汚染はないといわれています。

 「完成された真如は、どんな障害も汚染することができない」のです。

 しかし、すべてがコスモスの営みであり、だからすべてが肯定されていることに気づいた人は、そこで居直るのではなく、だからこそ、コスモスによりよいことを創発させるべく参加・努力していくのです。

 もちろん、自発的に、おもしろがりながら、です。

 今年も、一刻も休むことなくよりよいものを生み出しつつあるコスモスの進化の働きに楽しみながら能動的に参加していきましょう。

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敵意を抱いている衆生に直面する難しさ:唯識のことば20

2017年02月16日 | 仏教・宗教

 大乗の菩薩があえて引き受けて行なう十種類の難行、前回に第三をご紹介しました。続いて第四の難行です。


 心による学の違いをどのように知るべきであろうか。…十種の実行しがたい正しい行を包括している…

 第三は背を向けないという難行である。衆生が悪をなしても(なすからこそ)、ひたすらに彼に向かうからである。

 第四は直面するという難行である。敵意を抱いている衆生に直面し、そのためにあらゆる利益になることを実行するからである。

                       (摂大乗論第七章)


 これは、多くの方が読んでお感じになるとおり、もう大変な難行です。

 しかしこの言葉は、イエスの「汝の敵を愛せよ」とおなじように、「私にはとてもできることではない」と思いながらも、ある種の感動を受ける言葉です。

 第三の「背を向けない」というのよりももっと積極的な姿勢で、「敵意を抱いている衆生に直面し、そのためにあらゆる利益をなることを実行する」のですから、難行中の難行でしょう。

 しかも第三でいわれる「衆生が悪をなしても」というのは、文脈上、私に直接敵意を抱いて害を加えようとするのではなく、いわばそのあたりで悪いことをしているということです。

 自分に直接害がなくても、いろいろ悪いことをする人間があまりにもたくさんいることを見聞きするだけでも、もう世の中がいやになってしまいがちです。

 ところが、第四で語られる「衆生」は、敵意を抱いているわけですから、直接自分への被害がありそうです。

 それほど大げさなことではありませんが、筆者も教育やある種セラピー的なことに関わっていると、「恩を仇で返す」タイプの方に出会うことがありました。

 その方の「自分で自分を不幸にする」ような考え方や生き方を、ご本人のために変えることを提案せざるをえないのですが、タイミングが悪いと、びっくりするほど攻撃的な態度を示されたことがあります。

 幸いにしてその理由も学び、またかなり慣れてきたので、なんとか対応できるようになりましたが、かなり心理的にきついこともありました。

 それは、たとえ自滅型のものであってご自分のアイデンティティなので、「変えてはいかがですか」という提案が、「変えろ」という命令、「それではダメだ」という非難、「変えさせてやる」という攻撃に感じられるからなのだ…とわかっていても、こちらもまだ境地の浅い駆け出し菩薩なので、つい「じゃ、勝手にしろ」とか思いそうになったりしたものです。

 その程度のことでも大変だったのですから、ましてもっとはっきり敵意を向けてくる人に対応するのはもっと大変な難行だと思います。

 しかし例えば、自分の胃腸が病気で自分に痛みをもたらしても、それは自分の一部なので、復讐するわけにはいきません。

 痛みを感じながら、なんとか治療の努力をするわけです。

 確かに困難ですが、「私に敵意を抱く衆生も〔広く深い意味での〕私の一部なのだ」と思う努力をしながら、当面の自分の実力相応のことをしていくことにしています。

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衆生に背を向けない難しさ:唯識のことば19

2017年02月15日 | 仏教・宗教

 大乗が、小乗よりすぐれているのは、十種類の難行を行なうからだ、と摂大乗論はいいます。

 第一、第二も確かに困難ですが、第三はある意味でさらに困難です。


 心による学の違いをどのように知るべきであろうか。…

 十種の実行しがたい正しい行を包括している。…

 第一は自ら受容するという難行である。自ら悟りを得ようという善なる願を受容するからである。…

 第二は撤退しないという難行である。生生死のさまざまな苦があっても撤退しないからである。…

 第三は背を向けないという難行である。衆生が悪をなしても(なすからこそ)、ひたすらに彼に向かうからである。

                     (摂大乗論第七章)


 第一、第二は自分のことですから、自分が努力すればなんとかできることですが、三は他の人々のことなので、自分では当面どうすることもできないことが多いので、いっそう困難です。

 良心的で純粋な人にありがちなのは、いろいろ悪い出来事を見聞きし、世の中・人々があまりにも醜く、それをどうすることもできないというので、すっかり嫌になってしまうことです。

 筆者もかつて割にそういうタイプでしたから、気持ちはよくわかります。

 しかし、唯識を学ぶにつれて気づいてきたことは、そういう純粋さは「善人という名の凡夫」の心だということです。

 「どうしてあんなことをするのかわからない」、「信じられない」、「なんてひどいんだ」…といったことばで表現されるような気持ちの裏には、善である自分と悪である他者や社会が完全に断絶・分離しているという思い込みが潜んでいるようです。

 驚いて理解できず(せず)、怒り、悲しみ、非難し、そして嫌になって心理的にも物理的にも、それと自分を分離しようとする(印象が強い間はひどく嫌悪し、しかしやがて忘れる。あるいは、巻きこまれないように逃げたり、避けたりする)のは、ふつうの健全な市民(凡夫)としてはとても自然なことです。

 筆者はここで、市民としてのごく健全な心情や行動は、とりあえずあくまでも健全なものだといっておきたいと思います。

 菩薩的な水準から市民を裁いて「ダメだ」というのは、それは適切ではないと思うからです。

 それは幼児に大人のようなことができないからといって、「ダメだ」というのに似ています。

 菩薩的な心の水準は、目指したい・目指せる段階にきた人自身の理想・目標であって、他人や自分を裁く秤ではありません。

 しかし菩薩を目指すのなら、その発達水準に近づこうとする努力は必要です。

 初歩の菩薩でも、まだ完全にではないにしても、自分と他者とは区分できても分離はしていない、できないということを知っているはずです。

 悪をなす衆生も、自分とつながってひとつであり、広く深い意味では自分なのです。だとしたら、背を向けることはできません。

 自分がまずいことをしても、それは自分ですから逃げることはできません。

 まずいと気づいたら、どんなに困難であっても、なんとか、ひたすらそれに直面して改善をしようと努力するほかないのです。

 筆者も、心痛む事件が起こるたびに、善良な市民的に嫌悪や絶望で反応するのではなく、菩薩的に対応しようと思い直します。

 確かに難しいことで、いつもできているわけではありませんが、なるべくそうありたいと思っています。

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撤退しないことの難しさ:唯識のことば18

2017年02月14日 | 仏教・宗教

 大乗と小乗の違いについて述べた個所で、実行しがたい行をあえて実行するのが大乗の菩薩にしかない特徴だといいます。

 前回、第一の「自ら受容するという難行」について述べました。

 自分に覚りを開く潜在力があるということを認めるのは、実は大変なことです。

 認めたとたんに、その潜在力を開発する努力を自分で自分に課さなければならなくなるからです。

 そのことを心のどこかで感じているので、多くの人が「私には覚りなんて、とてもとても」とか、「凡人ですから」とか言うことによって、その努力・苦労から逃げようとしているのかもしれません。

 楽なほうがいいと思うわけです。

 しかしいくら逃げて楽をしようとしても、私のいるところ、そこには私のアーラヤ識があります。

 つまり、そのままで煩悩に苦しむ可能性と努力しだいで覚れる可能性の両方を秘めた、心のもっとも深い領域が、自分の中にあるのです。

 ですから、逃げることは自分のもっとも深い心を裏切ることになると言えるかもしれません。

 自分の潜在力はまさに、自分のものであり、そしてまだ潜在しているものです。それを開発しないということは、今の自分よりも高次な自分を未発達のまま埋もれさせ、腐らせ、なくしてしまうことであり、可能性としての自分の自殺行為です。

 そういうことをしておいて、心理的に「くさる」とか「くさくさする」、「つまらない」、「空しい」と言っても、それは誰の責任でもありません。自分でそうしているのです。

 それは、今の自分に楽をさせることは、未来のより高次の自分が生きる歓喜を実感することを妨げているのだ、としっかり理解していないからです。

 あるいは目先、短期の心理的利益のために、長期の精神的・霊性的な利益を、無自覚に放棄しているのだと言ってもいいでしょう。

 私にはアーラヤ識がある、だから覚る潜在力が与えられている、だからたとえ困難でもそれを開発するための行をするほかない、と自らの本質を受け容れるのは、決して易しいことではありません。

 誰でもできるというものでも、しなければならないというものでもないのでしょう。

 秋、無数に落ちた木の実のうち、春芽生え、伸び、やがて時を経て、親木とおなじくらい、あるいはもっと高く聳えていくのは、ごく少数であり、それは自然なことです。

 同じく、人間・凡夫と生まれてアーラヤ識を与えられていても、覚ろうと努力しないまま、覚らないまま一生を終える人が多いのも、ある意味では自然なこととも言えます。

 しかしそれは人間の場合、木の実と違って成り行きまかせという意味の「自然」ではなく、自分の「自由な選択」です。

 ところが、私たちの「自由な」選択は実はしばしばその時だけの気まぐれな選択だったりして、いちおう始めても続かないことがあります。


 心による学の違いをどのように知るべきであろうか。……

 十種の実行しがたい行を包括しているからである。……

 第二は撤退しないという難行である。生死のさまざまな苦があっても撤退しないからである。 
                  (摂大乗論第七章より)


 人生でさまざまな苦しみに出会っても、修行をやめない、撤退しないというのは、確かにそうとうな難行です。

 しかし、それはまず誰のためでもなく、自分の限りなく高い可能性を現実化するための難行で、そういう「自分のための難行」を自覚的に選んでしかも決して撤退しない人を菩薩という、と『摂大乗論』は言っています。

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自己肯定の難しさ:唯識のことば17

2017年02月12日 | 仏教・宗教

 『摂大乗論』第七章では、唯識の心による学びが他に勝っているといえるのはなぜかと問題設定をし、実行困難な正しい行が含まれているからだと答えています。

 唯識の学びは、エリートにしか実行できないと言われてきました。

 『摂大乗論』の最初に「私は、このことを、勝れた人のために説く」「凡夫に対しては、私はそれを説かない」ということばもあるほどで、かつては霊性のエリートとしての菩薩だけのための学で、「凡夫の救い」を説くものではなかったのです。

 では、どういう意味で菩薩はエリートなのでしょうか。それは例えば十種類の難行をあえて実行するからだと言うのですが、とても面白いのは、以下に引用した第一項目です。


 心による学の違いをどのように知るべきであろうか。……

 十種の実行しがたい正しい行を包括しているからである。

 何が十かというと以下のようである。

 第一は自ら受容するという難行である。自ら悟りを得ようという善なる願を受容するからである。…… 

                 (『摂大乗論現代語訳』第七章より)


 これは、他の力で救われようというのではなく、自分で悟ろうという願い・決心をはっきり持つことであり、自分はそれができる人間だという根本的な自己肯定・自己受容をすることです。

 根源的な自信を持つことと言い換えてもいいでしょう。

 ところが、この自分の極限の可能性を信じるという徹底的な肯定思考が、ふつうの人間には難しいのです。

 これは考えてみるととても奇妙なことです。

 人間にとって自分ほど大切なものはないはずなのに、自分で自分を肯定できないということがしばしば、多くの人に見られます。

 本当に「自分はダメな人間だ」と思っている人や、「自分はダメだ」と思ったり言ったりすることが謙虚だと取り違えている人など。

 自分はダメな人間だと思っている方には、唯識に併せて拙著『生きる自信の心理学』(PHP新書)をお勧めします。

 本当の自信は人間成長に不可欠の土台・出発点であることが納得できるでしょう。

 それを謙虚さだと思っている方には、「自分は悟れないなどと言うのは、あなたに心を与えた宇宙に対して失礼なのではありませんか」と問いかけたい気がします。

 生まれた時から悟りの依りどころである(迷いの依りどころでもあるのですが)アーラヤ識があるのが人間です。

 人間である以上アーラヤ識があり、アーラヤ識がある以上、実は最初から悟りの可能性が与えられている。

 だとすると、本当はすべての人が霊性のエリートで、ただそれに気づくかどうかだけの違いです。

 気づかなければ凡夫、気づけばそのままで勝れた人=菩薩です。

 自分のいのち・心の驚くべき可能性に気づくことは、古代の民衆には確かに困難だったでしょう。

 しかし、今の私たちにはそれほどの難行でしょうか。

 現代程度に恵まれた時代なら、気づくチャンスは十分ある。

 だから、現代の平均的な日本人はすべて霊性のエリート候補生だ、と私は思っているのです。

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持続可能な国づくりを考える会第五回学習会 案内

2017年02月11日 | 持続可能な社会

  長年「世界の警察」であり、自由主義市場経済のグローバリゼーション」の先頭を切ってきたアメリカが大きな方向転換をするかもしれないという歴史の曲がり角に来ています。

 これまで私たちは主に持続可能な「国」づくりについて様々な識者のアイデアと私たちのアイデアを突き合わせながら学んできましたが、そうした状況のなか、今回はさらに大きなスケールの持続可能な「世界」の可能性について、フランスの経済学者・思想家ジャック・アタリの著作を手がかりに、ご一緒に考えていきたいと思います。

 アタリは経済学者・思想家でありつつ、政界・財界でも重責を負って発言・行動を続けており、すでに2006年の『21世紀の歴史』(邦訳2008年、作品社)で世界金融危機を予見して言い当て、またさらにアメリカ帝国の終焉と世界の多極化を予見しています。

 そして、国家を超える〈超帝国〉の出現、さらにグローバルな紛争や地球規模の動乱すなわち〈超紛争〉の可能性も指摘しながら、その先に「人類が自らのアイデンティティが破壊される前に、世界の連帯の必要性を意識」し〈超民主主義〉に到達する可能性をも語っています。

 その驚くべき博識と展望力は、これからの世界を考えるうえで大きな指針になるのではないかと思います。ご一緒に学びましょう。

         (持続可能な国づくりを考える会運営委員長・岡野守也)


 テーマ:J・アタリ『21世紀の歴史』から何を学ぶか

 メンバーの増田満氏が内容を要約・紹介し、運営委員長岡野がコメントした後、参加者のみなさん全員と話し合いの時間を持ちます。本を読んでいなくても参加していただけます。かなり大部の本なので、概要を知った後さらに詳細に学びたくなったら読むという方法もいいと思われます。

 日時:3月17日(金)19時―21時

 会場:新宿区戸塚地域センター 5階会議室2(JR高田馬場徒歩3分)

 参加費:無料

 申込先:「持続可能な国づくりを考える会」事務局申込担当:増田満
      FAX 042-792-3259 E-mail:mit.masuda@nifty.com


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菩薩の32の特徴4:唯識のことば16

2017年02月11日 | 仏教・宗教

 菩薩の特徴の二十六から三十四番目です(原文には「三十二」とあるのに、実際に区切ってみると三十四なのはなぜか、最初の①②が総題で、③から数えるのかもしれませんが、よくわかりません)。


 ㉖「低次の乗(小乗)を喜ぶ心を生ぜず、大乗の教えに実の功徳があると見る」とは、すなわち功徳について正しく思惟することである。

 ㉗「悪しき友を離れ、善き友に親しむ」とは、善き友に師事する功徳を明らかにしている。


 ㉘「常に四種類の浄らかなあり方(四梵住)を治める」とは、完成のカルマを明らかにしている。

 ㉙「無量の心の清浄さを治め、常に五種類の神秘的力(通)の智慧に遊んでいる」とは、すなわち気高い徳を得ることである。

 ㉚「常に智慧によって行動する」とは、すなわち覚りを得るという功徳である。

 ㉛「正しいカルマにとどまる者と正しいカルマにとどまらない者のどちらの衆生に対しても見捨てる心がない」とは、すなわち他者に安らぎを与えるカルマである。

 ㉜「はっきりと方向の定まった言葉を説く」とは、すなわち迷いの心がなく、正しい教えと学の内容を定立することである。

 ㉝「実りあることを尊ぶ」とは、すなわち教えと資財の二つの教化手段である。

 ㉞「まず敬意をもって菩薩の心を行ずる」とは、すなわち汚れのない心のことである。

 こうした特長をもつ者を菩薩と名づける。

 このような句によって、前に説いた初句を知るべきである。
 

 こうした特徴は、最後の句にあるようにすべて「一切の衆生を利益し、安楽ならせたいという意志」という最初の句の内容説明だといわれています。

 つまり菩薩の特徴は、別のことばでいえば「慈悲」に集中しているのです。

 読んでいてそこにいつも、筆者は深い感動をおぼえます。

 四梵住(しぼんじゅう)とは四無量心(しむりょうしん)ともいわれ、慈・いつくしみ、悲・あわれみ、喜・ひとを幸福にする喜び、捨・平等な心を意味しています。

 五神通(ごじんずう)とは、ひとの見えないものを見る天眼通、聞こえないものを聞く天耳通、他人の心を知る他心通、過去世のことを知る宿命通、どこへでも自由に行くとのできる神足通という五つの超自然的な能力です。

 釈尊は超能力を禁止したとされますが、大乗では、どんな能力であれ、マナ識的に使えば歪み、平等性智・慈悲の手段=方便として使えば生きるという理由から、あえて使うのです。

 しかも大乗の慈悲は「自利利他」であって、単なる自己犠牲ではありません。

 だからこそ、自分の学びのために場合によって「悪しき友を離れ、善き友に親しむ」という一見差別的なつきあい方をしてもいいし、もう一方では行為・カルマの良し悪しにかかわらず「どちらの衆生に対しても見捨てる心がない」という無差別平等のつきあい方も目指すのです。

 以上学んできたような菩薩の諸特徴を身につけたいという高い自己成長の目標を持つことの、あえていえば「メリット」は、人生で時に苦しいこともあるにしても、その苦しみをどう受け止めればいいのか、どこに向かえばいいのか、ゆるぎない方向性が確立できることだと思われます。

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菩薩の32の特徴3:唯識ことば15

2017年02月10日 | 仏教・宗教

 菩薩の特徴の十五番目から二十五番目までです。


 ⑮「一切の日常行動において常に菩提心をもっている」とは、すなわち断絶なく思惟するというカルマである。

 ⑯「報いを求めることなく布施を行なうこと」。

 ⑰「一切の怖れやどこに輪廻するかにこだわらず、戒めを守ること」。

 ⑱「一切の衆生に対して忍耐づよくあってとどこおることがないこと」。

 ⑲「一切の善なる事柄を吸収するために精進を行なうこと」。

 ⑳「三昧を修行して無色定を超越すること」。

 ㉑「方便をそなえた智慧と四つの衆生を抱く方法(四摂法)に応じた方便〔を得ること〕」とは、すなわち勝れた段階へと進むカルマである。

 ㉒「戒律を守る者と戒律を破る者のどちらに対しても、善き友として無二である」とは、すなわち方便を完成するカルマである。

 ㉓「善知識に師事し、尊敬の心をもって教えを聞く」とは、すなわち正しい法を聴くことである。

 ㉔「尊敬の心をもち楽しんで静かな所にとどまる」とは、すなわち静かな所にとどまることである。

 ㉕「世間の珍しいことを喜ぶ心を生じない」とは、すなわち誤った感覚の刺激を遠ざけることである。


 ほんものの菩薩の行動・カルマは、ある時たまたま感動してその気になったのでする、あきたからやめるといったものではありません。

 毎日の生活すべてが覚りを求める修行です。

 禅では「作務(さむ)」といわれますが、お掃除をすること、料理を作ること、お皿を洗うこと、その他、日常のふつうはささいな、つまらないことと思われているようなことも、すべてなすべき務めをなすこととして、心を込めてすることです。

 「断絶なく思惟する」というのは、一日中むずかしいことを考えているということではないと思います。

 そして菩薩の行動指針の中核は、いうまでもなく六波羅蜜であり、その目標は、衆生すなわち自他をともに抱きとり、救いとる方便・巧みな方法を備えた智慧を得ることです。

 「四摂法(ししょうぼう)」とは、布施、愛語・やさしいことば、利行・ためになることをすること、同事・協力一致することの四つで、六波羅蜜と重なっていますが、「愛語」が特徴です。

 人間はことばの動物であり、ことばには人を殺しもし生かしもする驚くべき力があるのです。毎日、ひとに対してどんなことばを使うか、心したいと思います。

 そして菩薩は、方便を備えて、善人だけでなく悪人にも無二の親友となるといわれています。

 これは、とても困難な行で、マナ識を抱えたままでは不可能です。平等性智によってのみ実行できることです。

 そこで、平等性智を含めた智慧を得るために、よい師について、尊敬の思いを持ちながら真理のことばを学び、気晴らしの刺激や楽しみをあえて離れ、静かな場所で瞑想しつづけるのが、菩薩のカルマ・生き方です。

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菩薩の32の特徴2:唯識のことば14

2017年02月08日 | 仏教・宗教

 菩薩には三十二の特徴があるといわれているうちの、九番目から十四番目までです。

 これも前回同様、単なる凡夫が絶対に実現するべき理想として追求する項目と考えたら、大変なことです。


 ⑨「ふさわしく語り、微笑みながら言う」とは、場所にふさわしく語るというカルマである。……

 ⑩「さまざまな衆生に対して慈悲が異なることがない」とは、すなわち、苦しんでいる者、楽しんでいる者、そのどちらでもない者に平等なカルマである。

 ⑪「する事柄についてくじける心がない」とは、劣等感のないカルマである。

 ⑫「倦み疲れてしまうことのない心」とは、すなわち撤退することのないカルマである。

 ⑬「道理を聞いて飽きることがない」とは、救いの手段を集めるというカルマである。

 ⑭「自らなした罪はその過ちを表明し、他者のなした罪は〔その人自身に対する〕不信の念なしに指摘する」とは、すなわち〔過ちは過ちとして認めて〕否定することによって対治されるというカルマである。


 こうした項目をあるべき理想とすると、誠実であればあるほど、追求すればするほど、自己分裂が起こり、苦しくなって、「罪悪深重の凡夫」といった自覚に到るでしょう。

 それは霊性のプロセスの一タイプとして、ありうることですが、私は少し違ったふうに考えています。

 菩薩とはいってもまだ凡夫性が大幅に残っている菩薩を、「凡夫の菩薩」――これは実に的確な表現ですね――といいます

 そういう凡夫の菩薩にとってこうした項目は、〈理想〉というより、スポーツの〈努力目標・到達目標〉のようなものと捉えたほうがいいのではないでしょうか。

 もちろんダメなところはダメなところですが、それは「救われ難い」と受け取られるのではなく、「否定することによって対治されるというカルマ」と捉えるべきなのです。

 ダメな今の自分は自己修練によって克服され、ダメではない自分に成長できるのです。

 それには、「する事柄についてくじける心がない」、「劣等感のないカルマ」と「倦み疲れてしまうことのない心」、「すなわち撤退することのないカルマ」が必要ですが。

 なぜそんなことができるかといえば、それはアーラヤ識があるからです。

 『摂大乗論』のいうとおり、「この領域(界)は、始めのない過去以来、すべての存在の依りどころであり、これがあるからこそ、生命の種類(六道、迷いの世界)があり、また涅槃(覚りの世界)を得るということもある」のです。

 ぜひ確認しておきたいことは、唯識では、アーラヤ識があるということは、迷いの根拠であると同時に覚りの可能性の根拠でもあるということです。

 アーラヤ識が与えられているからこそ、いつか必ず覚れるという「道理を聞いて飽きることがない」、「救いの手段を集めるというカルマ」を持続することで、私たちは劣等感を克服し、自信を持って、撤退することなく、修行しつづけることができるのです。

 凡夫のマナ識的な努力には「燃え尽き症候群」がつきものです。

 そうならないよう、アーラヤ識のポジティヴな可能性の面に心の眼を向けて、人生のだるさや疲労感に勝ちましょう。

 そして、微笑とやわらかな言葉と平等な慈しみの心を少しでも取り戻せるといいですね。

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菩薩の32の特徴1:唯識のことば13

2017年02月07日 | 仏教・宗教

 唯識は、大乗の菩薩のための学です。

 「菩薩だけのために説き、凡夫に対しては説かない」とはっきり言われています。

 では、凡夫=平均的な人間と菩薩=覚りを求めている人間は、どこがちがうのでしょう。

 『摂大乗論』では、菩薩には三十二の特徴があるといわれています。

 一度では学びきれませんから、今回は最初の八項目をあげました。


「もし菩薩が三十二の特徴を持っているならば、菩薩と呼ぶことができる」。

  ①「一切の衆生を利益し、安楽ならせたいという意志を持っている」とは、一切智者の智慧に導き入れる意志、すなわち伝えていくことを行ずるというカルマである。

  ②「私は今、どのような境地でこのような智慧に対応するべきだろうか」。すなわち転倒のないカルマによってである。

  ③「高慢な心を捨てる」とは、すなわち他者に頼まれることを待たず、自ら実行するカルマである。

  ④「堅固な善意」とは、すなわち壊しえないカルマである。」

  ⑤「かりそめに憐れむのではない意志」とは、すなわち求めるところのないカルマである。

  ⑥「恩がえしを欲しがらない」。」

  ⑦「親しい者と親しくない者とに平等な意志」とは、すなわち恩のあるのと恩のないのとの衆生に対して愛着と憎悪の心を起こさないことである。

  ⑧「永遠に善き友となるという意志が無余涅槃に到る」とは、すなわち誠実にかたわらにあって行為し、次の生にまで到ることである。

                  (摂大乗論現代語訳一〇三~四頁)


 読んで味わうだけでも十分なことばですが、誤解しがちなポイントについて、少しだけ解説をしておきます。

 これらの特徴は、常識的に見ると、「たしかに立派だが、並の人間にはとてもできそうもない高すぎる理想」と思えるという点です。

 しかしまさにそこがポイントですが、菩薩とは、「自分だけで存在している自分などというものはない。自分は他者や他の物や宇宙全体とつながっていて、そのお陰で生きている。ただつながっているというより、むしろ一つなのだ」と、聞いて、考えて、納得したからこそ、修行を始めた人です。

 ですから、菩薩は、一切の衆生とは自分も含めたすべての生きとし生けるものだと、たとえ理屈だけでも知っているはずです(といっても、初心のうちはしょっちゅう忘れますが)。

 だとすると、「一切の衆生を利益し、安楽ならせたい」というのは、自分の幸福は脇において、自分と分離した他人のためにひたすら自己犠牲をするということではなく、もともと一体である自分と他者を一緒に幸福にしたいということです。

 本当の私は他者とつながっており、究極的には一つですから、私だけの幸福というのは、深い意味ではありえないし、無理な努力をして私を犠牲にして他者だけを幸福にしなければならないという話ではないのです。

 つまり「自利利他」であり、それは本当の自己のやむにやまれない、自発的な願いです。

 ここがわかれば、他も高邁だが無理な理想ではなく、深くて自然な願いだとわかると思うのですが、いかがでしょう。

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禅定と安らぎ:唯識のことば12

2017年02月06日 | 仏教・宗教

 唯識学は禅定の体験をもとに理論化されたものです。

 ですから、実際に自分でも体験しないと実感できませんし、実感できていないと十分日常生活の役に立つというわけにはいきません。

 しかし、せっかく人間は煩悩だらけの状態から爽やかな状態へと変化できるという唯識のメッセージに出会ったのですから、それを体験・実感していただけるといいと思うのです。

 そこで、実際の方法は『唯識で自分を変える』(すずき出版)などで自習か、講座に参加していただいて、自分のものにしていただきたいのですが、ここでは、『摂大乗論』の句を参考に、禅定をするとどういう心の状態になるのか、少しイメージできるように描いてみたいと思います。


 菩薩が禅定に入り
 心はただ影像のみであると洞察し
 外界という相を離れ去り
 まちがいなくただ自らの想念を見るのみであると洞察する
 菩薩は内面に止まり
 見られるものが存在しないことに悟入し
 次に見ることも空であることを洞察して
 後にその双方が妨げを超えたもの(無碍)であることを悟る

               (『摂大乗論現代語訳』第三章より)


 禅定を始めてある程度の時間が経ち、心が静かになり外の刺激が意識から遮断されると、内面に浮かぶ想念・イメージに注意が集中されていきます。

 それは、よく洞察すると、たしかに「外界に関する」想念なのですが、しかし「想念」であり、つまり心の内面で起こっているだけです。

 つまり「外界そのもの」ではありません。

 まちがいなくただ自分が自分の心のなかに描いた想念を見ているだけなのです。

 不思議というか面白いというか、心のなかの想念をただの想念としてじっと観察していると、しだいに静まり、消えていきます(禅定に習熟していないと、すぐに、いつでも必ずというわけにはいきませんが)。

 内面に集中し続けていると、見ていた対象は想念であって、実体ではないことに気づきます。

 つまり、本当には存在しないのです。

 対象を見ているつもりが実は想念を見ているだけで、それは実在ではないと深く気づくと、それを見る私という想念も消えていきます。

 見られる対象・客体と見る私・主体の分離=妨げがなくなって、しかしはっきりと目覚めた心だけが残ります。

 世界と私が一体である、さらには世界も私もない、という目覚めだけがありありと現出するのです。

 こうした「無分別智」を体験すると、実に爽やかで安らかな気持ちになれます。

 例えば苦しめるものと苦しめられるものの分離・対立もなければ、悩ますものと悩ませるもの分離・葛藤もないのですから、当然といえば当然でしょう。

 もちろん徹底した無分別智は高い境地に達した菩薩しか得られませんが、スタートしたばかりの菩薩でも禅定をある程度修得すると、すればしただけの安らぎは必ず得られるようになります。

 そういう意味で、ストレスだらけの人生を乗り切るには、禅定はお勧めの方法です。

 関係者のみなさん、今年も実践していただけるよう、ご精進をお祈りしています。



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波羅蜜はなぜ6つなのか:唯識のことば11

2017年02月04日 | 仏教・宗教

 唯識は、悩みだらけのふつうの人間・凡夫のままでいることにとことんうんざりして、なんとかして究極の爽やかさ・無住処涅槃を得たいと求めはじめた人・菩薩のための道案内の理論です。

 ですから、理論そのものが最終目的ではありません。

 理論がわかったら――あるいはまだよくわからなくても――「では、どうすればいいのか」を具体的に示して、それを実行してもらうことが次の目標です。

 「では、どうすればいいのか」という問いへの答えは明快で、「六項目を実践して下さい」と。

 そしてアサンガは、例によって用意周到に、「どうして六つだけなのか」というありそうな質問にも、予め答えます。


 なぜ波羅蜜はただ六つだけであるのか。それは、六種の迷い・障害の対治を確立することが目的だからである。…

 修行しようという心を起こさない原因を対治するために、布施と持戒の二つの波羅蜜を設定する。修行しようという心を起こさない原因とは、財産や家に執着することである。

 もしすでに修行しようという心が起こっているならば、退行する心の原因を対治するために、忍辱と精進の二つの波羅蜜を設定する。

 退行する心の原因とは、すなわち生死輪廻する衆生が逆らい迫害するという苦しみと、長い間、善なる法を支持する修行を加えることによる疲労である。

 もしすでに修行しようという心とまた退行することのない心が起こっているならば、それが壊れ失われる心の原因を対治するために、禅定と智慧の二つの波羅蜜を設定する。

                    (『摂大乗論現代語訳』一二六~七頁)


 まず、ふつうの人が過剰に執着しがちな豊かな財産や幸せな家庭とその獲得・維持がすべてだと思い込んだ硬直した生き方に対しては、手放すこと・布施と別の生き方・持戒を示します。

 爽やかに生きたいのなら、〔願っても〕執着しない心と別の生き方が必要なのです。

 それを納得して、せっかく修行を始めても、次にぶつかるのは「退行する心」の問題です。

 私は修行という立派なことをしているのに、人が理解してくれない、ほめてくれない、どころか、バカにする、足を引っぱる、迫害する……と、「どうして私がこんなことをしなきゃいけないんだ」という気になりがちです。

 しかも、修行は楽でもなければ、短くもない。やってもやっても終わらない。「ああ、疲れた。もういやだ。もうダメだ」という気分になりがちです。

 でも、そこがポイントだ、とアサンガはいいます。

 その時こそ、忍辱と精進が修行できる。人に評価されず、誤解され、迫害される時こそ、忍辱のチャンスだ。疲れ切って、燃え尽き、くじけそうな時こそ、精進のチャンスだというのです。

 ものは見方でいろいろに見える=唯識です。見方を変えれば、危機(ピンチ)が好機(チャンス)に見えてきます。

 リストラされた時、倒産しそうな時、家庭がもめている時、なにもかもうまくいかないように思える時は、見方を変えれば自己成長のチャンスですが、なかなかそうは思えません。

 そういう時こそ、禅定と智慧を実践しましょう。実践した分だけは確実に心が楽になり、爽やかになります。

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