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2017年12月31日 | Weblog




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黄金を秘めた土としての人間:唯識のことば5

2017年01月17日 | 仏教・宗教

 毎日のニュースを見聞きしていると、テロ、国家・民族間の対立抗争、飢餓、経済の混迷、凶悪な犯罪、いっこうに改善されない環境の荒廃など、思わず心が暗くなってしまうようなことがほとんどで、時たま、心温まる話、希望を感じさせる話があるだけという状況のようです。

 私たちは、思わず(つまりマナ識の働きで)「どうしてこう(つまり私の希望どおりではない状況)なんだろう」と、ため息とともに深い疑惑の想いに陥りがちです。

 しかし、せっかく学んでいるのですから、唯識の智慧の目を借りて、せめて比知(ひち、推測的な知恵)であっても、「どうしてなのか」「どうすればいいのか」、しっかりと再認識しましょう。


 「存在には三種類ある。一は汚染された面、二は清浄な面、三は汚染されつつも清浄な面である」。……/

 黄金を秘めた土を譬えとしよう。……

 一には地面、二には黄金、三には土である。

 地面に関していえば、土は〔本当の〕存在ではないにもかかわらず現われており、黄金は真実の存在であるにもかかわらず現われていない。

 この土を火で焼いて精錬すると、土は現われなくなり、黄金のすがたが現われてくる。

 この地面に土が現われている時は、虚妄な相によって現われているのであり、黄金の現われる時は、真実の相によって現われるのである。……/

 このように、アーラヤ識はまだ無分別智の火によって精錬されない時は、この識は虚妄な分別性によって現われていて、真実性は現われていないのである。

 もし無分別智の火に精錬された時は、この識は完成された真実性で現われ、虚妄な分別性で現われることはなくなるのである。

                       (『摂大乗論現代語訳』九五頁)



 この世のいろいろな出来事には、汚染された面、清浄な面、汚染されながらも清浄な面の三つの面があるといわれています。

 まさに、私たちの生きている世界の姿そのもので、しかも、現象の量としては汚染された面が圧倒的です。

 ですから、もし私たちの目がいま現われている面だけに向いていれば、絶望したくなるのも当然です。

 しかし、それは譬えれば「黄金を秘めた土」のようなものだと、アサンガは言います(黄金は仏性の比喩です)。

 人間の世界の現状という「地面」を見ると、それはひたすら乾ききった土、あるいはドロドロの泥沼のように見えます。

 それは本当の姿・「真実」ではないのですが、確かに実際に現われているという意味で「現実」です。

 アサンガは、決してそうした現実から目をそらさず、しかもその奥に潜む真実に目を向けます。

 「アーラヤ識はまだ無分別智の火によって精錬されない時は……真実性は現われていないのである。もし無分別智の火に精錬された時は……完成された真実性で現われ」ると。

 仏性はまちがいなく存在しているが、放っておいても現われてはこない、開発する必要がある、ということで、つまり、個人レベルでも人類という大きなレベルでも、未来に希望があるかないかは、アーラヤ識が無分別智の火によって精錬されるかどうかにかかっているといっていいでしょう。

 そして、そういう心の進化は、突然全人類レベルで始まってくれるわけではなく、気づいた個人一人一人の心の精錬からだけ始まるのです。

 つまり、希望は自分の実践から開け始めるということです。


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世の中にはなぜ嫌なことが起こるのか?:唯識のことば4

2017年01月16日 | 仏教・宗教

 「世の中って、どうしてこう嫌なことばかりあるんでしょう」という、疑問と嘆きの混じったことばを聞くことがよくあります。

 私も、かつてしばしばそういう思いを持ちましたから、その気持ちはとてもよくわかりますし、いまでも、毎日のようにひどいニュースが流れるのを見聞きしているとき、意識がぼんやりしていると、ふとそう思ってしまうこともあります。

 しかし唯識を学んで以来、意識がちゃんとしているときには、けっしてそういう疑問は浮かんできません。「これは、〔残念ながら〕当たり前のことが起こっているだけだ」と。

 人間がマナ識――自我を実体視し中心視している無意識の領域――を抱えた存在である以上、煩悩――自分も悩み人も悩ませること――が起こるのは当たり前なのです。


 〈意〉には、二種類ある。……二つめは、汚染された〈意〉で、常に四つの〔根本的な〕煩悩を伴っている(相応)。それは、一、身見(我見)、二、我慢、三、我愛、四、無明(我癡)である。この識は、他の煩悩の識の発生源(依止)である。……/一切の時に我執は生起しており、善、悪、無記、すべての心の中に遍在している。
                     (『摂大乗論現代語訳』四四~五頁)


 すでに学んできた方には復習になりますが、大切なことは何度でも繰り返してしっかり心に染みさせる(多聞熏習・たもんくんじゅう)必要があるので、学びなおしてみましょう。

 他と分離しそれだけでいつまでも存在するようなものは何もない(無我・非実体)というのは、仏教がいおうというまいと、普遍的な事実です。

 ところが、私たちは自分は自分だけでいつまでもいられる実体であるかのように深く思い込んでいます(無明、我癡・がち)、それどころか、他と区別はできても分離できない身体が実体としての自分であるかのように思い(身見・しんけん、我見・がけん)、それを頼り・誇りにし(我慢・がまん)、それをすべての中心にしてとことん愛着・執着(我愛・があい)しています。

 そこからいやおうなしに、怒り、恨み、ごまかし、悩み・悩ませること、嫉み、物惜しみ、だますこと、へつらい、傷つけること、おごり、内的無反省、対他的無反省、のぼせ、落ち込み、真心のなさ、怠り、いいかげんさ、物忘れ、気が散っている状態、正しいことへの無知という二十の煩悩が発生してくるのです。

 人間がマナ識(深層のエゴイズム)に動かされているかぎり、自他にとって嫌なことは必ず発生する。そこに何の不思議もありません。

 学生時代、善意で始まったはずの、例えばフランス革命がテロルにおわり、ロシア革命がスターリニズムに終わり、志で始まったはずの明治維新が昭和の軍国主義に到ってしまう……のはなぜか、深く考え込んでしまったことがあります。

 しかし、唯識を学んでからは、そういう疑問はさっぱりと解消されました。「これは当然のこと、ありえないことではなく、ごくふつうにありうること、仕方ないことなんだ」と。

 もちろん、それで問題が解決したわけでも、あきらめたわけでも、嘆きがなくなったわけでもありません。

 しかし、解決の糸口だけはしっかりとつかめたのです。

 私から始まりすべての人に広がる「アーラヤ識‐マナ識の浄化」です。

 唯識は、「それはできる。しかし三大カルパという膨大な時間がかかる」と言っています。

 しかし、たとえ信じられないほど長い時間がかかるとしても、やるしかないと考えています。

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見方を変えて希望を見る:唯識のことば3

2017年01月14日 | 仏教・宗教

 年の始めにふさわしく、何か希望のある話をしたいと思いながら、『摂大乗論』の言葉をあれこれ選んでいて、ふと、以下の二句について、講義や本では何度も取り上げましたが、この欄ではまだ本格的に取り上げていないことに気づきました。


 この〔心の〕領域(界)は、始めのない過去以来、すべての存在の依りどころであり、これがあるからこそ、生命の〔六つの〕種類(六道)〔の差異〕があり、また涅槃を得るということもある。
 もろもろの存在は、蔵(アーラヤ)によって存在する。それは、一切の種子ともいうべき識〔情報の集積体〕であるがゆえに、〈アーラヤ〉と名づける。私は、このことを、勝れた人(菩薩)のために説く。


 唯識・仏教が私たちに告げてくれるメッセージの中でも、人間の希望の根拠をもっとも端的に語っているのが前の句です。

 「この心の領域」とはアーラヤ識のことで、人間の心のもっとも深い層としてアーラヤ識があることは、確かに今のところ大多数の人間つまり凡夫が輪廻の世界・六道に迷っている依りどころ・理由であると同時に、人間が涅槃・悟りを得る潜在可能性を持っている、覚者・ブッダになれることの依りどころ・根拠でもある、というのです。

 人間の現状を見ると、確かに誰もが深い深い煩悩を抱えているようです。

 しかし、ということは、人間すべてに煩悩の発生源であるマナ識とアーラヤ識がある証拠です。

 そして思いがけないことに、誰もがアーラヤ識を持っていることは、誰もが煩悩を克服できる可能性も確実に与えられているという証拠なのです。

 つまり、唯識的に見ると、人類にはアーラヤ識があり、だから今のところ、いろいろろくでもないことをしているが、まただからこそ、それを超える可能性も確実にある、ということです。

 唯識は私たちに、人間の悲惨な状況をたじろぐことなく見つめながら、しかもそれで絶望してしまうのではなく、かえってそこから希望の根拠を見出すという、ある種の「思想的な離れ業」とでもいうべき洞察を示しています。

 私たちは、いろいろなご縁のお陰で、もう唯識に触れているのですから、人類の中でも、言葉のもっともいい意味で「勝れた人・エリート」になる候補生です。

 読者のみなさんは、後の句で「私は、このことを、勝れた人(菩薩)のために説く」といわれている説法の対象・聴衆つまり勝れた人・菩薩に、実際、いつの間にかすでに少しなりつつあるのですから。

 凡夫として生まれてアーラヤ識を与えられ、唯識・仏教に出会って菩薩になりつつある人間・私がいる。それは、いわば既成事実、揺るぐことのない事実・現実です。

 そこに、そしてたぶんそういうところにだけ、この厳しい時代に生きている私たちの、そしてあえて大きくいえば人類の希望があるのだと思います。

 そういっている筆者も、世界や日本の様々なネガティヴな現象ばかり見ていると、失望どころかまったく絶望しそうになります。

 しかし年の始めに当たり、私たちは、現象に左右される常識的・凡夫的な見方をやめ、唯識的・菩薩的に世界やものの本質を見ることにしましょう。

 そして希望を忘れることなく、またもし与えられるならば、この一年のいのちを意味深く生きるよう精進しましょう。


唯識の心理学
クリエーター情報なし
青土社


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見方を変えれば見えるものが変わる:唯識のことば2

2017年01月13日 | 仏教・宗教

 「唯識」には、「ただ心だけ」つまり「ものごとがどう見えるかはその人の心のあり方しだい」という意味があります。

 それについて、わかりやすいのが「一水四見」(いっすいしけん)の譬えです。


 餓鬼と畜生と人間と 天人はそれぞれに 一つの対象について見方が異なっているので それぞれの対象を成り立たせるということがある (『摂大乗論』第八章より)


 同じ一つの水が、餓鬼には咽喉が渇いてたまらないのに飲めない、燃え上がっている臭い膿の流れに、魚という生物には住む世界に、人間には飲めるが下手をすると溺れて死んでしまういわゆる水に、天人には歩くことのできる透き通った水晶の床のように見える。

 けれども、見方によってそれぞれ別の対象が見える・成り立っているので、どれかが唯一絶対に正しい見方というわけではない、という譬えです。


 かつて、初対面の岩手県出身の若い人と話をしていて、私が「岩手ってとても雰囲気のあるところですよね」というと、彼は、謙遜というより、本気かなという調子で、「何もないところですけどね」と答えたことがありました。

 「何もないところ」というのはよくある言い方ですが、いうまでもなく、本当に「何もないところ」などこの地上にあるはずはないので、これは、彼にとって「価値があると思えるもの」または「関心のもてるもの」は「何もない」という意味でしょう。

 あるいは、都市的・近代的な価値のものさしで計ると、「価値があると思われている」便利な、にぎやかな、派手な、洒落た……場所はないという意味も含まれていたかもしれません。

 「でも緑は多いでしょう」と私、「ええ、それはそうですが」と彼。
 「自然は豊かですよね」、「そうですね」、
 「私は賢治ファンのせいで、そういう目で見るからかもしれませんが、岩手の自然には独特の深い味わいというか雰囲気というか、そういうのがあるように感じるんです」、
 「そうですか、そういうのは感じたことないですね」。

 「そこらへんの道端の草木まで、何か賢治の童話や詩に描かれているような匂いというか、さわやかな空気というかがあるように感じるんです」、
 「自分の故郷のことをそんなふうにほめてもらえると、うれしいです」、
 「いや、ほんとうにいいところですよ。思い入れ・投影にすぎないかもしれませんが、私はそう感じるんです」。

 たとえ思い入れでも、岩手の自然に「ポラーノの広場」のような空気を感じるほうが得だと私は思っており、相手が自分の子どもくらいの若い人だったので、つい説教オヤジになって、「せっかくなんだから、感じないと損ですよ」とやってしまいました。

 幸い、彼は素直に「そうですよね」と答えてくれましたが。


 見方を変えれば、見えるもの・対象も変わる。

 見えるものが変われば、気持ちも変わる。

 だとしたら、これまでの自分の見方にこだわっていないで、よりいい気持ちになれるようにものの見方を変えてはどうですか、というのが唯識と論理療法とコスモス・セラピーからの共通の提案です。


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見方と気持ち:唯識のことば1

2017年01月12日 | 仏教・宗教

 去年は、おかげさまで過去の著作のうち2点、『唯識と論理療法――仏教と心理療法・その統合と実践』『仏教とアドラー心理学――自我から覚りへ』(どちらも佼成出版社)が重版になりました。

 それにちなんで、かなり前に『サングラハ』に連載した「唯識のことば」がいわば休眠状態になっていてもったいない気がしていましたので、少しだけ書き直して、このブログで徐々にみなさんにシェアすることにしました。

 以下、第1回目です。


 どんなことを落ち込み(惛沈)というのか。外的対象(境)に関して心を耐えられなくさせることが本性であり、爽やかさ(軽安)と気づき(ヴィパッサナ)を妨げるのが働きである。ある説では、落ち込みは愚かさ(癡)から派生するものと分類される。(『成唯識論〔じょうゆいしきろん〕巻六より)


 唯識の古典『成唯識論』を読みはじめて四十年あまりになり、何十回となく読んでいると思うのですが、それでも、改めて読むとこんなことも書いてあったのかと思うことがしばしばです。

 亡くなった作家の埴谷雄高さんが「古典は成長する」ということをいっておられましたが、確かにそうだと思います。自分が成長すると、古典から読み取れる内容も成長するのです。

 かつて論理療法を学びはじめたとき、例えばA・エリス『どんなことがあっても自分をみじめにしないためには』(川島書店)を読みながら、二十世紀の心理療法の洞察の基本がすでに千年以上前の唯識の中にはあったんだな、と感心したものです。

 私たちふつうの人間は、なぜ落ち込むのか(うつになるのか)というと、それは、自分の(心の)外で起こっている出来事(外的対象・境〔きょう〕、心の外という意味で自分の体も含まれます)がよくないからだとか、他の人のせいだと思います。

 よくないことやよくない人と出会うと、「こんなひどいこと・人、耐えられない」と思い、心のエネルギーがあれば腹を立てたり(忿・ふん)、そのエネルギーもないと落ち込んだりする(惛沈・こんじん)わけです。

 これはふつうの私たちにとっては、ごく日常的なことで、「自然なこと」あるいは「人間らしいこと」あるいは「仕方のないこと」と考えられています。

 けれども、唯識も論理療法もほんとうはそうではないといっています。

 落ち込みは、愚かさ(癡・ち)―思い込みにまでなった非論理的・非合理的な考え方から生まれるのだというのです。

 論理療法の基本・ABC理論では、ある出来事(Activating event)が必ず同じ結果 (Consequence) を生み出すわけではなく、それをどう捉えるか、その人の信念になっている取り方・ものの見方(Belief system)によって、まるでといっていいくらい違うといいます。

 よくないこと(A)→怒りや落ち込み(C)、ではなく、よくないこと→「こんなことが私に起こるなんて耐えられない」というふうな取り方・思い込み(B)→怒り、落ち込み、絶望など(C)、というつながりになっているというわけです。

 ところが、Bの「耐えられない」というのは非合理的な思い込みであって、ほとんどのよくない出来事は「確かにつらいけれど、絶対に耐えられないほどではない」とものの見方を合理的に変えることで、激しく不愉快な怒りや重苦しくつらい落ち込みが、比較的軽いいら立ちや失望感へと変えられる……というのです。

 「見方を変えれば、気持ちが変わる」というわけです。

 実際に論理療法の技法を使ってやってみると、(努力は必要ですが)確かに軽減されます(拙著『唯識と論理療法』佼成出版社、『いやな気分の整理学――論理療法のすすめ』NHK生活人新書、参照)。

 それに加えて、さらに「すべては(よくないことも)実体ではなく、永遠に変わらないものではない」という智慧のことばを思い出し、超合理的ともいうべき無分別智にアクセスするための禅定をすると、心に気づきと爽やかさが戻ってきます。



唯識と論理療法―仏教と心理療法・その統合と実践
岡野 守也
佼成出版社



仏教とアドラー心理学―自我から覚りへ
岡野 守也
佼成出版社



いやな気分の整理学―論理療法のすすめ (生活人新書)
岡野 守也
日本放送出版協会


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マルクス・アウレーリウスの往生術

2017年01月11日 | コスモロジー

 今年は年初から新しい講座の資料を準備する作業に追われています。

 これまでも取り上げてきた、フランクル、キューブラーロス、唯識、道元、空海に加え、新約聖書の『ヨハネ黙示録』、日本浄土仏教の原点ともいうべき源信の『往生要集』などの言葉を、いわば「往生術」つまり、ただ死ぬのではなく、「よりよく生きてから、さわやかに逝く」ためのヒントという角度から読み直す試みで、自分自身にとってもとても新鮮な読み直しが進行中で、みなさんにご紹介するのが楽しみになってきています。

 チラシに掲載するのがもれましたが、まさに動乱の時代を生き抜いてさわやかに逝ったローマ皇帝にしてストア哲学者であったマルクス・アウレーリウスの言葉も往生術のヒントとして取り上げます。

 かつてブログ記事でもご紹介しましたが1)2)3)、今回は下記の拙著で試みた私訳を使いますので、関心のある方は比較していただけるとおもしろいかもしれません。

 また今回は、要点だけですが、いつかまた下記の著書をテキストにして詳しくお話できればと思っています。


ストイックという思想
クリエーター情報なし
青土社

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2017年の年初に当たって

2017年01月07日 | 持続可能な社会

 もう寒の入りで、お年賀の時期は終わったのですが、今年初めての記事なので、やはり明けましておめでとうございます、と申し上げておきたいと思います。

 今年はどんな年になるのでしょうか。多くの論者が世界はこれから「流動化の時代」になると予想していますが、確かにそうでしょう。

 その大きなきっかけの一つは、昨年のアメリカ大統領選での大方の予想を裏切った大番狂わせです。

それは、予備選での社会民主主義者であることを明言したサンダースの健闘とも対応した、現状への大きな不満から来た、何であれ「変化」を求める声の現われだと解釈できそうです。

 確かに間違いなくそれぞれの国も世界全体も大きな変化が必要な時代だと考えられますが、言うまでもなく変化すればいいわけではありません。

 今必要なのは、国と世界の新しくよりよい秩序に向けた変化、すなわちエコロジカルに持続可能な互恵的福祉社会・世界に向けた変化である、と私たちは考えています。

 世界も日本も、当面、それとは違った方向に向かっているようですが、宇宙は、時には紆余曲折、逆行するように見えて、長い期間で見れば、結局成るべきように成っていく・意志を貫徹するものです。

 当面しばらくどうなるかよりも、結局どう成るべきか―どうするべきかのほうに、私たちの関心の焦点はあります。

 私たちは、これまでしっかり宇宙進化の方向について学んできたのですから、今年も、当面の状況に振り回されて、役に立たない過剰な不安に陥ったり、逆に安易で短期的な期待をすることのないよう用心しながら、しっかりとした方向性を見据えて有効性のある心配(心配りと対処)をしていきましょう。
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高松日曜講座のお知らせ

2016年12月29日 | 広報







 高松日曜講座のお知らせができました。よろしければ、これを使って広報・拡散にご協力ください。

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高松水曜講座のお知らせ

2016年12月29日 | 広報







 来年1月からの高松水曜講座のチラシができました。よろしければ、これを使って広報・拡散にご協力ください。
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『サングラハ』第150号が出ました!

2016年12月10日 | 広報

 サングラハ教育・心理研究所の会報『サングラハ』の第150号が出ました。

 読者のみなさん、昨日発送が終わりましたので、まもなくお手元に届くと思います。お待ちください。

 創刊からいつの間にか25年=四半世紀が経ちました。「無常迅速」を実感してもいますが、志は「無住処涅槃」1)2)にありますので、そういう極限的に長い目でみれば、ほんのちょっとした「通過点」に過ぎないので、あまり騒ぎ立てず、いつもどおりに発行しました。

 お陰さまで、本号もきわめて充実した内容になりました。

 筆者の原稿「唯識心理学――仏教・唯識とコスモス・セラピーの融合」は、特別意識したわけではありませんが、創刊以来、いやそれ以前からの筆者の仕事の総まとめ的な文章になっています。
 筆者の仕事に持続的に関心を持ってくださっている方々には、ぜひ読んでいただきたいと思っています。

 また、羽矢辰夫氏の「新・ゴータマ・ブッダのことば」はまさに仏教の創始者が何を教えたのか、原典にさかのぼりしっかりと把握しなおす試みで、力作の連載になっていきそうです。

 また、他の三氏の原稿は、それぞれ持続可能な社会に向けて何が必要か、西洋近代のどこに問題があったのか、かなり高度な持続可能な社会だった江戸期の日本はなぜそうだったのか、きわめて興味深い論考になっています。

 ぜひ、ご覧ください。

 購読は、smgrh@smgrh.gr.jp 宛にメールでお問合せ、お申込みください。


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2017年1〜3月 高松講座のお知らせ

2016年12月04日 | 広報

 高松水曜講座「〈頼れる自分〉に変わるための心理学」
    
 自分に自信が持てない、ストレスに弱い、悩みが多い……のはなぜか、どうしたら自信が持てるか、ストレスに強く、悩みに負けない心を得られるか、現代の臨床心理学と仏教の心理学・唯識を統合した「唯識心理学」が、そうした問いにしっかり答えてくれます。

 頼りない自分を頼れる自分に変える自己変革の方法を学びます。
 
 1月18日 2月1日、15日 3月1日、15日 計5回

 ・講師:研究所主幹・岡野守也

 ・テキスト:随時配布します。

 ・時間:19時半―21時10分

 ・会場:サンポートホール67会議室(JR高松駅徒歩3分)

 ・参加費(一回あたり):一般=2千5百円、年金生活・非正規雇用・専業主婦の方=2千円、学生=1千円(当日支払可)

 ・定員:20名


 高松日曜講座「よりよく生き、さわやかに逝くためのヒント:入門編」

 よりよく生きてからさわやかに大往生するための「往生術」のヒントを、フランクル、キューブラー・ロス、唯識、道元、空海、聖書等々の思想・言葉から学ぶ試み。

 心理学、現代科学、仏教のエッセンスを統合した当研究所のオリジナル・プログラム:コスモス・セラピーを軸に学びます。

 生きることの意味がわかり、死はただ物質に解体して終わりではないことが納得できて、死への恐怖がやわらぐでしょう。

 1月29日 2月5日 3月 12日 4月2日 計4回

 ・講師:研究所主幹・岡野守也

 ・テキスト:随時配布します。

 ・時間:13時半―16時半

 ・会場:1月29日 サンポートホール高松64会議室(JR高松駅徒歩3分)2月5日 同53会議室 3月12日 同67会議室 4月2日 同53会議室

 ・参加費(一回あたり):一般=2千5百円、年金生活・非正規雇用・専業主婦の方=2千円、学生=1千円(当日支払可)

 ・定員:25名

 ○受講申込方法(各講座共通):氏名、住所、性別、連絡用の電話番号、メールアドレスを明記して、研究所あてFAX087‐899‐8178、またはメールokano@smgrh.gr.jpへ。
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2017年1〜3月 東京講座のお知らせ

2016年12月04日 | 広報

 東京土曜講座 「よりよく生き、さわやかに逝くためのヒント:初級編」

 意味ある人生をよりよく生きてからさわやかに大往生するための「往生術」のヒントを、フランクル、キューブラー・ロス、唯識、道元、空海、聖書、マルクス・アウレーリウス等々の思想・言葉から学ぶ、まったく新しい試み。

 心理学、現代科学、仏教のエッセンスを統合した当研究所のオリジナル・プログラム:コスモス・セラピーを軸に学びます。

 1月21日 2月18日 3月18日 計3回

・講師:研究所主幹・岡野守也

・テキスト:随時配布します。

・時間:13時―17時 

・講座会場:フォーラムミカサ・エコ(JR神田駅西口4分、千代田区内神田一―一八―一二 内神田東誠ビル8F)

・参加費(一回あたり):一般=7千円、会員=6千円、年金生活・非正規雇用・専業主婦の方=4千円、学生=2千円(当日支払可)

・定員:25名


 東京日曜講座「『正法眼蔵』を味わう:「家常」巻」

 研究所主幹著『道元のコスモロジー』(大法輪閣)以後も継続的に行なってきた『正法眼蔵』講読の一環。

 今期は、未講読の「家常」巻を取り上げます。お茶を飲み、ご飯を食べるという日常のことが、実はそれこそ仏法の実践であることを語った巻。まさに、「味わう」という感じの学びになるでしょう。ご期待ください。

 講義の前に短い坐禅の時間があります。

 1月22日 2月19日 3月19日 計3回

・講師:研究所主幹・岡野守也

・テキスト:随時配布します。

・時間:13時―17時 

・講座会場:東京マインドルフルネスセンター(東京メトロ赤坂見附駅前徒歩1分、港区赤坂三―九―一八 BIC赤坂ビル8F)

・参加費(一回あたり):一般=7千円、会員=6千円、年金生活・非正規雇用・専業主婦の方=4千円、学生=2千円(当日支払可)

・定員:25名 

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持続可能な国づくりを考える会第四回学習会案内

2016年12月03日 | 持続可能な社会

 ブログの更新を怠っていましたが、また少しずつ更新しようと思っています。

 更新第一号は、「持続可能な国づくりを考える会」の学習会のお知らせです。


 持続可能性の条件を再確認・共有するために

 アメリカ大統領選は大方の予想を裏切った大番狂わせでした。予備選でのサンダースの健闘とも対応した、現状への大きな不満から来た、何であれ「変化」を求める声の現われでしょう。

 確かに間違いなくそれぞれの国も世界全体も大きな変化が必要な時代だと考えられますが、言うまでもなく変化すればいいわけではなく、いい・適切な・つまり持続可能な、国、世界の新しい秩序に向けた変化が必要です。

 大河の水源がごくささやかな湧き水であるように、私たちの活動は今はささやかであっても、そうした持続可能な国づくりに向かう社会潮流の水源としての湧き水になりうると信じたいと思います。

 さて、今回はこれまで学んできた、資本主義が必然的に格差社会を生み出すことを明らかにしたピケティの著作、スウェーデン・福祉国家の基礎となったミュルダールの業績、持続可能な社会に向けた広井氏、正村氏の提案とも対照しながら、私たちの『理念とビジョン』で語られている持続可能性の必
須の条件である「つながりへの深い気づき」の意味を再確認する学習会にしたいと思います。(岡野守也)

 テーマ:つながりへの深い気づきとは

 日時:12月16日(金)19時〜21時

 場所:新宿区戸塚地域センター地下1階集会室2(JR高田馬場徒歩3分)

 参加費:無料

 申込先:「持続可能な国づくりを考える会」事務局申込担当:増田満

 FAX 042-792-3259 E-mail:mit.masuda@nifty.com

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持続可能な国づくりを考える会第三回学習会案内

2016年08月02日 | 持続可能な社会
 筆者が運営委員長を務めている「持続可能な国づくりを考える会」の第三回学習会を以下のとおり行ないます。

 9月16日(金)午後7時〜9時
 会場:東京ボランティア・市民活動センターA会議室(セントラルプラザ10階)
    JR線・東京メトロ各線 飯田橋駅より徒歩1分

 テキスト:正村公宏『日本をどう変えるのか――ナショナル・ゴールの転換』(NHKブックス)

日本をどう変えるのか―ナショナル・ゴールの転換 (NHKブックス)
正村 公宏
日本放送出版協会



 筆者は、これまで正村氏の本を何冊も読んできました(『戦後史』『現代史』『日本近現代史』『マルクス主義と現代社会』『経済学のすすめ』など)。

 そのたびに「早く(70年代初め)から、こんなに的確な――混合経済による福祉国家からさらに持続可能な社会へという――日本の向かうべき方向性の指示をしている論客がいたのに、耳を傾ける政治家・政党はほとんど現われなかったんだなあ(いまだに現われていない!)」と、自分も70年代に発見できなかったことは棚上げにして、とても惜しい・残念だと思っています。

 今回取り上げる本は、15,6年も前の本ですが、内容の大筋は少しも古くなっていないので、「今からでも遅くない。学んで、その方向に向かう必然性を理解して、その理解を多くの人に伝えて共有し、そういう潮流を生み出したいものだ」と願っています。

 大河も水源はほんのわずかの湧き水であるように、時代を変える潮流も小さな集まりから始まるものです。この会が、そういう集まりになるといいと思っています。


*余談ですが、ここでスメタナの交響詩「モルダウ」を思い出しました。




 どうぞ、問題意識のある友人、知人とお誘いあわせしてお出かけください。


 参加費:無料

 申込み先:「持続可能な国づくりを考える会」事務局申込担当:増田満

 Fax.042-792-3259、E-mail : mit.masuda@nifty.com

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