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般若経典のエッセンスを語る56――初心の菩薩とよき師

2024年06月20日 | 仏教・宗教

 さて、もう少し先に行って区切りにしたいと思う。

 菩薩・摩訶薩是の如く般若波羅蜜を行ずる時、但だ諸法実相を知る。諸法実相とは無垢無浄なり。是の如く須菩提、菩薩・摩訶薩、般若波羅蜜を行ずる時、当に是知を作すべし、名字は仮の施設なりと。

 つまりさきほど学んだように、「私が」「修行する」とか「私が」「智慧を求める」というのではなく、そうしたことをぜんぶ忘れてしまうという修行の仕方をする。そのときに世界のすべての存在のほんとうの姿がわかってくる。すると、もう完全に一体なので、きれいとかきれいではないなどということを完全に超えてしまう、と。

 特定の価値観に基づいての、きれいとかきれいではないとか、善とか悪とかということを超えてしまうと、世界の姿つまり「諸法」が実にすばらしいものとして見えてくるというのが「諸法実相」という意味である。だから「諸法は空相」なのであるが、世界はすべてが空だとわかると、かえってすべての存在のすばらしさが見えてくる。それを「諸法実相」と表現する。

 だから菩薩・摩訶薩は、すべては空だとわかることによって、かえってすべてがすばらしいということがわかるようになる。そのすべてがすばらしいとわかったことに基づいて、この世をますますすばらしくしようというのが、「仏国土を浄める」ということになって来るわけである。

 繰り返すと、もうこの世はこのままでもすべてすばらしい、諸法実相なのだとわかる。しかし諸法実相というのは固定的なものではないのである。今の姿がありのままでオーケーだという場合、私たちは「ありのまま」ということを固定的に考えるがちだが、ありのままそのものが無常で変化していくものであるから、諸法実相は固定的なものではなくて無常なもの・変化するものである。

 そしてそれをますますすばらしいものにしていく、変化をいい変化にする、しかも宇宙の法則・縁起の理法にかなったかたちに世界の現象をすばらしく変化させていくというのが、菩薩の慈悲の行為・願ということである。

 菩薩・摩訶薩の「摩訶薩・大きな人」とは、どこまで大きいかというと、宇宙と一体化していて宇宙大に大きいから「摩訶薩・大士」という。

 菩薩・摩訶薩般若波羅蜜を行じ、諸法に於て見る所無し。是時、驚かず、畏れず、怖かず、心亦没せず悔いず。

 菩薩・大士が、無分別知つまりバラバラの存在を見ないという修行をすると、バラバラの存在などというものはないのだと覚る。そして、世界をそういうふうに見たからといって、驚いたり、恐れおののいたりしない。

 「ええ? 世界や私は実体ではないのか。実体などどこにもないのか。何かすがる絶対的なものが欲しかったのに、何もないのか」と思ってしまい、恐れたり、おののいたり、心が沈んでうつ状態になったり、「なぜこんな世界に生まれてきたのだ。生まれないほうがよかった」と悔いたり、といったことを菩薩はしないという。

 ところが初心の人は、こういうことを聞いたら、よくわからなくて畏れ、驚き、おののき、心が没したりする。

 そういうことではないのだとちゃんと教えてくれるよき師、ほんものの菩薩・摩訶薩を先生としなければ、空という思想は虚無主義に聞こえかねない。それから如というほうを強調しすぎると、スケールが大きすぎてついていけないと思ったりする。
だからよき師について、「この空というのは虚無でもなんでも全然なくて、それどころか全存在がありのままで、あるいはなるがままに肯定されているということなのだよ」とちゃんと教わる。

 それから「そんなに大きい話、こんなちっぽけな私にはついていけない」というのに対して、「あなたがついていけるかどうかじゃない。あなたの存在そのものが宇宙と一体なので、ついていくもいかないもないのだよ。ついていかなくてもいい。もう生きていれば宇宙と一体なのだから。あなたに必要なのは、宇宙と一体化することではなくて、宇宙と一体化しているのだということに気がつくだけだから」と。そういうことを、いい人について教わる。

 気がつくということは、スケールが大きいか小さいかには関係ない。目を閉じていたら見えないというのは、スケールには関係がない。目を開けたら見えるのである。
例えば大空は広い。しかし、心のスケールが広くても狭くても、目を開ければ誰でもその広い空が見えてしまう。

 それと同じで、「私と宇宙が一体だ」というのは事実だから、「私は、そこまで覚れるほど人間が大きくない」といったことを思う必要はない。もともとあなたの存在そのものが宇宙と一体なのであるから、「もう好きでもいやでも一体なのだ」ということをちゃんと教えてくれる先生につくと、これはスケールの大きすぎる話でもなければ、あまりにも個別性を超えていて虚しくなってしまう話でもないということが教われる。

 今、なかなかそういうよき師には出会いにくいかもしれないが、『摩訶般若波羅蜜経』のある個所に、「まさにこれ(『摩訶般若波羅蜜経』)が存在することが、仏が存在することだ」という言葉がある。『摩訶般若波羅蜜経』は即それがブッダなのだ、私たちが読めば、もう生けるブッダに語っていただいたのと同じことを読み取れるのだ、と。

 そのはずなのだが、残念ながら書き下しであっても漢訳は、慣れていない現代日本人は解説してもらう必要がある。
 幸い、全貌ではないが般若経典の重要なところは完全な現代語訳がある。しかし、現代語訳を読み解説を受けても、そこをちゃんとわかっている人に解説してもらわないと、やはり「何かすごく高尚で深そうだけれど、私にはわからない」ということで終わってしまうので、とてももったいないと筆者は思ってきた。

 私としてはとりあえず・かなりわかったつもりなので、私が般若経典のエッセンスだと思うところを、「私には大きすぎる話でとても」とか「え、私と思っているものは実体じゃないの?」といってへこんだりしないかたちでみなさんにお伝えしたいと思い、「般若経典のエッセンスを読む」という講座を開設し、それを元に原稿化しているというわけである。

 約半分が終わり、次回からは、般若経典は-大乗において最も中心的で有名な「空」とはどういうことなのか、テキストそのものにはどう書いてあるか、それをどう説明・解説できるかということを学んでいく。

 『摩訶般若波羅蜜経』の中には、「空とはこういうことだ」とかなり長く書いてある箇所があるのだが、読んだだけではわからないと思われるので、解説をしながら「空とはこういうことだ」と理解を共有していきたい。

 ただ、理解することは入り口に過ぎない。理解したことから覚るというところまで行くには、理解し納得して、本気で禅定をし、六波羅蜜を行なう必要がある。そうすると、やがてたとえわずかでも覚りが起こる、というプロセスになっていく。そういうことを、以下また続けて学んでいきたいと思う。

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般若経典のエッセンスを語る55――すべてはつながり・合わさってできている

2024年06月01日 | 仏教・宗教

 さて、次を見ていこう。くどいくらい繰り返し「言葉や単語を使ってものを見るから実体と思えるのだが、よく見るとそうではない」ということが語られている。

 須菩提、譬へば我の名を説くが如き、和合の故に有り、是の我の名不生不滅なり、但だ世間の名字を以ての故に説くのみ。

 個別的存在としての「私」という単語がある。「私」という単語があると、その単語で私を実体視するようになる。
 この私の心身は現象としてはある。しかし、赤ん坊は、そういう心身の現象を「私」とは思っていないように見える。
 そういう赤ん坊に対して、母親が繰り返し「~ちゃん、~ちゃん」と固有名詞で呼びかける。呼びかけ・声かけを続けていると、やがて赤ん坊は「~ちゃん」と言われたら反応し始める。つまり「~ちゃんがいる」と思い始めるのである。
 そして次は、代名詞である「私」とか「あなた」とかという言葉を学習していき、するとやがて「~ちゃん」の他に「アタチ」などの言葉を使うようになる。

 例えば親との縁で生まれてきて、食べ物との縁や水との縁などいろいろなものとの縁のおかげつまり「和合の故に」、私という現象・私が生きているという現象があるのだが、それを「私」という名前で呼ぶと、実体としての私がいるような気がしてくるのである。

 ところが、この「我(が)」という名前そのものは実体的に存在しておらず、ただ仮にこの世間では他のもの(者、物)と区別をするために「私」や「あなた」と呼ぶのだ、と。
 それが区別にとどまっている間はいいのだが、「私」「あなた」と繰り返しているとそれに伴って「私とあなたは分離している」という錯覚が生まれてしまう。
 つまり、言葉というものは、それがければものごとの区別がつかないので必要なのだが、同時に分離意識をももたらすものである。

 とはいっても、世界の中には名詞と動詞が分節していないという不思議な言語が少数あるという。あえてそれを日本語で表現すると、名詞と動詞で「私が/話す」ではなくて、例えば「話している私」「私が話している」ということが一つの言葉・一つのまとまりで表現されるそうである。

 特にアイヌ語がかなりそうらしい。そして、アイヌの人たちは他者や自然との一体感・つながり感の非常に強い民族である。それは彼らの言葉自体が、大和言葉のように「誰が」「何をして」と分節しない傾向があるからだと言えるのではないだろうか。

 しかし大和言葉もかなり曖昧で、例えば「行く?」とか言ったら、主語がなくてもわかる。「行く?」「行く」と言ったら、主語なしに「あなたは行きますか?」「私は行きます」という意味で通じてしまう。英語では必ず主語述語が必要であるが、日本語は時々主語がなくても話が通じてしまう。そういう意味では分離感が西洋語よりは曖昧な言葉であるが、もっと分離感のない言葉が世界の中に少しあるようである。

 先に言ったようにアイヌ語がそうらしく、アイヌの方たちに会う機会があって確かめたら、やはりそうだとのことで、アイヌ語で話しているときと日本語で話しているときとでは、かなり自然や自分についての感覚が違うとのことだった。 

 それは、ともかく、私たち人間はいちおうものごとに区別をつけて社会生活を営むため、つまり世間の実用的な目的のために言葉を使って区別をしたのだと思われる。ところが、こうして区別したことが無意識の中にすべてしっかりと溜まってしまい、そういういわば分離意識のシステムであるすべてを見るというふうになってしまっている。

 それに対して、いろいろな言葉を挙げていきながら、「これは仮に世間的な約束事で、言葉でそう呼んでいるけれども、あくまでも和合・つながりによってすべての事柄が起こっているのであって、それは実体ではない」ということを縷々何頁にもわたって述べているのが、この「三仮品第七」という個所である。

 それから、次は締めのような言葉である。

 譬へば夢、響、影、幻、燄、仏の化する所の如き皆是れ和合の故に有り、但だ名字を以て説くのみ

 例えば夢が実体でないことは明らかである。非常によくわかるのは響きである。響きは関係の中で響き・音となっている。また影は光と何かとの関係できる。幻もそういう実体がないけれども現われている。炎は熱と燃料の関係で現われているわけである。それから仏が現象として現われるのが「化する」ということである。
 これらはいずれも、いろいろなものが組み合わさりつながって、つまり和合して形を現しているだけで、それ自体で存在しているのではない。

 例えば木を考えてみよう。木というものは、先祖からの遺伝子の信号―情報や、それから土中の窒素・リン酸・カリや、大気中のCO2や、太陽のエネルギーや、海から上がり雲になって降る水分や……といったきわめてたくさんのものとのつながりが、いわばここで一つの結び目を作っている。

 もう少しシンプルには、いくつもの線を交錯させた図を考えてみよう。縦の線、横の線、斜めの線が交わると、そこに「結び目」というものがあるように見えてくる。
 しかし、これは結び目が「ある」というより、いくつかの線が一点で交わり・和合しているから、そこに「結び目」があるように見えているのである。そう見えているのはまったくの間違いではないのだが、「結び目そのもの」があるのではなくて、いろいろな縁がそこに「結び目を見せている」ということである。
 私たちは例えば木というものを実体だと思うけれども、それは水やエネルギー、炭素、遺伝子情報といったいろいろなものの結び目として木という現象が起こっているということであり、もちろんそれは私もそうだ、と。

 他のものの話はともかく、「あなたも実体ではない」と言われると、「え、私も実体じではないのか?」と、急に寂しくなったり怖くなったりすることが初心の菩薩にあるということがはっきりと書いてあって、なかなか懇切丁寧だなと思う。

 しかしそのときにちゃんとした指導者についていると、「それはあなたがいないとか、あなたは虚無だとかいうのではなくて、あなたは現象だということだよ。現象だけれども、現象としてはありありと現われていて、その現象は実は空・一如の、現代風に言うと宇宙と一体で宇宙の一部の一時的な現象として現われている。だからあなたは実体ではないし永遠ではないけれど、その元になっている空の世界・宇宙の世界はある種永遠の世界だから、あなたの本質は永遠である」と教えてもらえる。現象としての私は無常であり、その無常な私を無常ではないと思おうとしたらそれは無理が来るけれども、無常を無常と認めても、私のいちばん根本のところはむしろ無常ではないのだ、と。

 そこがわかるには、いちおう個別的存在である私は無常なのだ、現象なのだ、ということも一度わかる必要があるのだ。私が実体でありたいという気持ちを強く持っていて、それに対して「実体ではない」と言われると、がっかりしたり、寂しくなったり、辛くなったり、虚無的になったりするのであるが、ちゃんといい先生について学ぶと、わかり、やがて覚ることができて、そのほうがかえってこだわり・執着がなくなるのだという。

 そうするとかえって、とても気持ちよくすがすがしく生きて死ぬようになる。人生の結論は必ず死ぬのであるから、幸せに暮らしたけれど、最期その幸せな暮らしをぜんぶ捨てて死ななければいけないのでとても辛い気持ちで死ぬよりは、爽やかに生きて爽やかに死ぬほうが、まちがいなく質の高い人生になるはずである。

 そのためにとにかく私たちは一度まず、爽やかに生きるだけではなくて爽やかにも死ねる根拠としての縁起の理法ということ、空ということを覚る必要があるというのである。

 すなわち空は虚無とは実はまったく別のことである。残念ながら日本では仏教の内部でも外部でも、空ということが「無」「無常」という言葉と合わさりながら、何かとても悲しくて、下手をすると虚無的な思想だというふうに誤解されがちだったけれども、そこのところはちゃんと経典に書いてあるので私が強調したいと思っているのは、空とは空でおしまいではなくて、実は如・一如ということなのだ、現代風に言うと「私と宇宙が一体だ」ということである。

 この私の本質は、生まれる前も宇宙だし、生まれて形が現われている今も宇宙だし、死んでからも宇宙だから、「宇宙がほんとうの私だ」と思えてしまえば、この私が生きて死ぬということは。大騒ぎしなくてもいいことであり、非常に軽やかで爽やかなものとして捉えられる。今は生きているのだからちゃんと生きればいいのである。そして、死ぬときが来れば死ねばいい。そういうふうになれる、そのほうがむしろほんとうだし、いいのだ、ということを教えてくれるのが仏教である。

 最近、筆者は「だから、きわめてクオリティの高い人生の送り方を根本から教えてくれるという意味で、仏教はとてもポジティヴな思想なのです」と強調するようにしている。

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般若経典のエッセンスを語る54――智慧と瞑想と菩薩

2024年05月25日 | 仏教・宗教

 さて、したがって大乗仏教・菩薩・摩訶薩になるには禅定が必須である。そのことをはっきりと語っているのが、相行品第十の次の言葉である。

 是菩薩、是の諸の三昧を見ず、亦是三昧を念ぜず、亦我れ当に是三昧に入るべく、我れ今、是三昧に入り、我已に是三昧に入れりと念ぜず、是菩薩・摩訶薩、都て分別の念無きなり。』

 つまり「私は瞑想をしている」というふうに思わない。瞑想をしているときはもう「瞑想をしている」とか「私」ということを忘れるのがほんとうの三昧なので、「私が/坐禅をしている」と思っている間はほんとうの坐禅ではない。

 また坐禅をするときに、「さあ、今から坐禅するぞ」とか「お、坐禅・禅定が深まってきた」「集中してきたな」と思っている間は、まだ全然ほんとうの三昧ではない。「もう私は完全に禅定状態に入った」と思ったりはせず、「私が」とか、瞑想状態と日常意識状態とを分別するとか、そういうことが一切なくなっているのが本当の三昧・瞑想だと言われている。

 舎利弗須菩提に問はく、『菩薩・摩訶薩此の諸の三昧に住し、已に過去の仏に従ひて記を受けたりや。』

  それにかかわって、智慧第一のシャーリプトラが、解空第一・空をいちばんよくわかっているというスブーティに問う。つまり弟子同士で質疑応答をしているのである。
菩薩・摩訶薩・菩薩大士は、こういう瞑想を徹底的にやることによって、過去の仏さまに「そういうふうに瞑想をしていれば、おまえは将来必ず覚りを開ける」という保証をされているか、と。「住し」は「ずっとやる」ということである。保証のことを「記」といいう。つまり「おまえは必ず将来覚りを開けるぞ」という、その約束というか予告のことを「記」という。

  報へて言はく、『不、舎利弗、何を以ての故に。般若波羅蜜は諸の三昧に異ならず、諸の三昧は、般若波羅蜜に異ならず、菩薩は般若波羅蜜及び三昧に異ならず、般若波羅蜜及び三昧は、菩薩に異ならず、般若波羅蜜は即ち是れ三昧、三昧は即ち是れ般若波羅蜜、菩薩は即ち是れ般若波羅蜜及び三昧、般若波羅蜜及び三昧は、即ち是れ菩薩なればなり。』

 するとスブーティが「そんなことない。保証などいただいていない」と答えている。
常識的には当然、瞑想をして覚りを開のだから、「瞑想をしたら覚れると昔の仏が言われたはずだ」とシャーリプトラが言うと、「そんなことはない」とスブーティが答える。
般若という智慧は瞑想と一体のものだし、そうした一体のものとしてまさに瞑想が般若波羅蜜をもたらすのだし、菩薩とはそもそも般若波羅蜜や瞑想・禅定と必ず一体化している。だから要するに菩薩とは般若波羅蜜・智慧そのものであり禅定そのものなのだ、と。

  須菩提言はく、『若し菩薩是三昧に入らば、是時是念を作さず、我れ是法を以て、是三昧に入れりと。是因縁を以ての故に、舎利弗、是菩薩諸の三昧に於て知らず念ぜざるなり』と。

 スブーティは、「菩薩はこういう瞑想状態に入ったときには、こういうことを思ったりはしない」と言う。どう思わないかというと、「私が/般若波羅蜜多という真理によって/この禅定状態になったのだ」といったことは思わないと言う。

 菩薩というものは、瞑想状態において、主客分離的に認識するとか、そのことに気づくとか、そういうことはない。そのことを伝統的には「無念無想」の状態と言ってきた。そういう無念無想の瞑想状態に入ると、空・一如という体験が起こる。そうしていったん一如という体験が起こり、そういう意識状態から日常意識に戻ってきたときに、他との切っても切れない縁起の関係が自覚され、すると行為は気持ちとしては慈悲ということになる。そういう構造になっている。

  以上で「般若経典のエッセンスが智慧と慈悲にある」という場合の、その智慧と慈悲はどういう関係にあるかということを、いちおう理論的に掴んでいただけたと思う。

  すなわち、言葉で分けると智慧・空・如・慈悲となるが、そもそも智慧によって空・如・一如ということ、特に一如ということを覚り、そこから分離ではなくて区別はちゃんとついているという日常的な意識に戻ってきたら――後にこれを無分別智と区別して「無分別後得智」と呼ぶようになっている――それが慈悲という形になる。したがって完全な空・一如ということを瞑想・禅定・三昧を通じて覚らないかぎり、慈悲は出てこないのである。

 だから私たちが「優しい心、親切な心、それが仏教の慈悲である。日本には仏教のそういう優しい心の伝統があるのだから、みんな優しくし合いましょう」と思っているような通俗仏教は、けっして悪くはないが、大乗仏教の本質からすると、それはやはりヒューマニズムやボランティア精神と同じで、レベルが違うと言わざるをえない。それはそれで日本人の精神性として大切ではあるが、より深めるには、禅定をし、如・空ということを覚る。そうすると、努力をしてやるのではなくて、自然に慈悲が出てくるということになるのだ。

 しかし、とはいっても私も含め私たちは、突然そこにジャンプすることはできないので、まず頭で学んで理解し、それから少し瞑想もする。

  例えばこうしたことを学ぶと、ふと犬を見た時、「あ、あの犬とも結局つながっているのだな」とか、木を見た時、「ああ、あの木と私は酸素と二酸化炭素の交換関係を通じて、もう分かち難くつながっているんだな。つまり木は私の命を支えてくれている。木は私の友達だ」と思えたりするのである。

 そういうことがたまにふと、やがてしばしば思えるようになって、例えば木は私の友達だと思うようになると次第に、「そういえば三日ばかり雨が降ってないな。ちょっと水をあげようか」という気持ちが出てきたりするのである。

 木とか犬はこちらのすることに素直に応えてくれるので付き合いやすいのだが、人間は素直に応えず、何かをしてあげても「ありがとう」も言わないとか、それどころか「余計なことするな」と言ったり、善意を誤解して悪意に取るといったことをするので、なかなかすんなりと付き合えなかったりするものだ。一切衆生の中でも人間相手がもっとも難しいかもしれないと思うことがある(神話的存在としての阿修羅や餓鬼、畜生、地獄の衆生はもっと難しいはずではあるが)。

  他の動物や植物に優しくするのは割にできるが、しかしやはり人間がいちばん近しい関係なのだから、その人間に対し「私の趣味からいうと嫌いだし、私の都合からいうと不都合なあなただけれど、でもほんとうは一体なのだ。つながってるのだ」と、布施までは出来なかったらせめて忍辱で、しかし忍辱にとどまらず布施までいく。そういうことで、布施が最初にあるのではないかと思う。優しい実際の行為はとてもできないから、少なくとも「あまり強く憎むのはやめよう」程度の忍辱をしたりしながら、最終的には、縁起・空ということを体験的に自分のものにしていくのが六波羅蜜のすべてであるわけである。

 というわけで、とにかく菩薩・摩訶薩になろうと思うのだったら即瞑想をしなければならないし、そして瞑想は即般若波羅蜜・分別をしない無分別の智慧を得ることなのだ、ということである。

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般若経典のエッセンスを語る53――無分別智と慈悲

2024年05月17日 | 仏教・宗教

 しかし分別をやめるといっても、陶酔や恍惚、泥酔や気絶という状態というふつうの意味での分別の無い状態になることでは、目覚めることはできない。しっかりと目覚めた状態でありながら、言葉を使わない、分別をしないという瞑想をせよ、と。それが「云何が般若波羅蜜を行ずべきか」という問いへの答えである。

 そういう瞑想を行なっているときには、「これが般若波羅蜜だ」などという言葉も意識ももうない。「私が般若波羅蜜の実践をしている」と思っているときには、それは思考・名詞が巡っているわけだから、それらを巡らせないということである。

 そういう言葉・思考が巡るのを止める分別知は、サンスクリット語で「ヴィジュニャーナ」という。それに対して、それを超えた無分別を「プラジュニャー」といい、それがパーリ語化したのが「パンニャー」という言葉である。そしてなぜか漢訳では、プラジュニャーではなくパンニャーのほうを音で写して「般若」と訳したのである。つまり般若とは「分別を超えた智慧」という意味であり、この「般若」「無分別智」こそ大乗仏教の智慧なのである。

 先ほどから述べてきたように、体験が空まで深められ、さらに一如というところまで深められたら、「私と私以外のものは実は分離していない。つながっている。一如だ、一体だ」ということになる。そしてその一体性の自覚から、改めて人を「あの人は私と区別はあるけれども分離していない。一体なのだ」と思う。また例えば、いちおう私と猫とはちゃんと区別はできるけれども、「あの猫も私と一体なのだ」と思う。そうした一体性が実感されたとき、生きとし生けるものすべてに対する慈悲が生まれてくる。すなわち、空・一如の実感=無分別智(より詳しくは後述するように無分別智と無分別後得智)から慈悲が生まれてくるということである。

 それに対して、もともと「私と他の人は分離している」という思いを前提に、「今、私は元気でお金を持っていて体力があって等々で、向こうに体が弱った貧しいかわいそうな人がいて、私はいい人だから……」という思いで行われるのがいわゆるボランティア・慈善だと思われる。

 私の見るところ、ボランティアをしている方にはみな、心の底に程度の差あれ「私はいい人」という思いがあるようだ。それがあまり意識的だと偽善的に感じられるが、それにしても「私は悪い人だ」と思いながらボランティアをしている方はいないだろう。あまりに「私いい人」という気持ちでボランティアをするととても嫌味な人になってしまうが、あまり嫌味の感じられない人でも、よく探っていくと、心の底にはやはり「私いい人」という思いがあるように見える。それはやはり「私いい人、私豊かな人。私はいい人だから貧しい人に恵んであげましょう」という分離意識に基づくボランティアである。

 布施あるいは慈悲は、行なうことは似ているし、時にはまったく同じようだが、ボランティアと本質的には似て非なるものである、と筆者は考える。「私とあなたは実は一体だ。一体であるにもかかわらず現象としては私のほうが豊かであなたは貧しい。それは本質的におかしい」と、自然に私の豊かさを他の人と分かち合わざるを得なくて行なうのが慈悲の行為である。

 とはいえ、私たち分別知に囚われている凡夫にはなかなかできないので、練習をするのが布施である。つまり、布施は智慧から慈悲へというトレーニングだと言っていいだろう。

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世の中にはなぜ嫌なことが起こるのか?:唯識のことば4 再掲と現時点の修正とコメント

2024年05月11日 | 仏教・宗教
 *筆者は体調を崩しており、なかなか記事の更新が出来ず、残念に思っています。

 そんな中、以下の文章は、ずいぶん前に掲載したもので、過去記事の中に埋もれてしまっていたのですが、最近読んでくださった読者があったのをきっかけに、私も読み直してみて、多くの未読の読者に今こそ読んでいただきたいと思い、再掲させていただくことにしました。

 「世の中って、どうしてこう嫌なことばかりあるんだろう」という、疑問と嘆きの混じったことばを聞くことがよくあります。

 *例えば戦争、例えば犯罪、例えば貧困や差別、例えば環境の異変……

 私も、かつてしばしばそういう思いを持ちましたから、その気持ちはとてもよくわかりますし、記事を書いた時点でも今でも、毎日のようにひどいニュースが流れるのを見聞きしているとき、意識がぼんやりしていると、ふとそう思ってしまうこともあります。

 しかし唯識を学んで以来、意識がちゃんとしているときには、けっしてそういう疑問は浮かんできません。「これは、〔残念ながら〕当たり前のことが起こっているだけだ」と。

 人間がマナ識――自我(たち)を実体視し中心視している無意識の領域――を抱えた存在である以上、煩悩――自分も悩み人も悩ませること――が起こるのは当たり前なのです。


 〈意〉には、二種類ある。……二つめは、汚染された〈意〉で、常に四つの〔根本的な〕煩悩を伴っている(相応)。それは、一、身見(我見)、二、我慢、三、我愛、四、無明(我癡)である。この識は、他の煩悩の識の発生源(依止)である。……/一切の時に我執は生起しており、善、悪、無記、すべての心の中に遍在している。
                     (『摂大乗論現代語訳』四四~五頁)


 すでに学んできた方には復習になりますが、大切なことは何度でも繰り返してしっかり心に染みさせる(多聞熏習・たもんくんじゅう)必要があるので、学びなおしてみましょう。

 他と分離しそれだけでいつまでも存在するようなものは何もない(無我・非実体)というのは、仏教がいおうというまいと、普遍的な事実です。

 ところが、私たち人類のほとんどは自分は自分だけでいつまでもいられる実体であるかのように深く思い込んでいるようです(無明、我癡・がち)、それどころか、他と区別はできても分離できない身体が実体としての自分であるかのように思い(身見・しんけん、我見・がけん)、それを頼り・誇り・拠りどころ・硬直したアイデンティティにし(我慢・がまん)、それをすべての中心にしてとことん愛着・執着(我愛・があい)しています(個人的、集団的エゴイズム)。

 そこからいやおうなしに、怒り、恨み、ごまかし、悩み・悩ませること、嫉み、物惜しみ、だますこと、へつらい、傷つけること、おごり、内的無反省、対他的無反省、のぼせ、落ち込み、真心のなさ、怠り、いいかげんさ、物忘れ、気が散っている状態、正しいことへの無知という二十の煩悩が発生してくるのです。

 人間がマナ識(深層のエゴイズム)に動かされているかぎり、自他にとって嫌なことは必ず発生する。そこに何の不思議もありません。

 学生時代、善意で始まったはずの、例えばフランス革命がテロルにおわり、ロシア革命がスターリニズムに終わり、志で始まったはずの明治維新が昭和の軍国主義に到ってしまう……のはなぜか、深く考え込んでしまったことがありました。

 しかし、唯識の語ることをしっかり理解できてからは、そういう疑問はさっぱりと解消されました。「これは当然のこと、ありえないことではなく、ごくふつうにありうること、仕方ないこと、必然的に起こることなんだ」と。

 もちろん、理解できたことで問題が解決したわけでも、あきらめたわけでも、嘆きがなくなったわけでもありません。

 しかし、解決の糸口-方向性だけはしっかりとつかめたと感じています。

 私から始まりすべての人に広がる「アーラヤ識‐マナ識の浄化」です。

 唯識は、「それはできる。しかし三大カルパという膨大な時間がかかる」と言っています。

 しかし、たとえ信じられないほど長い時間がかかるとしても、滅びたくないのなら、やるしかないでしょう。

 *そして、今では、諸セラピーの統合によれば、アーラヤ識‐マナ識の浄化=人間性・仏性の開発には絶望的なほど長い時間はかからないと考えるに至っています。もちろん促成栽培は無理だとしても。

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2024年5月~8月サングラハ講座のお知らせ

2024年04月04日 | 広報
【日曜講座】「唯識心理学を学ぶ」(3回・5月スタート)


「唯識」は煩悩と覚りを明快に示す大乗仏教の深層心理学であり、「唯識心理学」は、現代にも通用する唯識のエッセンスをベースにしてさらに現代の心理学や科学との統合を目指す、サングラハ教育・心理研究所のオリジナルなプログラムです。2014から15年に高松で行われた講義の録画で学んでいきます。


▼講師:研究所主幹▼テキスト:データ送信▼時間:13時半?16時半(目安)▼受講料:一般=1万5百円、会員=9千円、年金生活・非正規雇用・専業主婦=後期7千5百円、学生3千7百円


5月26日、6月23日、7月28日(3回・1か月程度YouTubeにて視聴可)


お申込みとお問い合わせは、研究所のお問い合わせフォームをご利用ください。
こちら↓
2024年5月~8月サングラハ講座のお知らせ | サングラハ教育・心理研究所






【土曜講座】「よくわかる空海入門」第四期(4回・5月スタート)


第3期まで「よくわかる空海入門」を受講されたみなさんには長らくお待たせしました。
「お大師さん」として知られ親しまれてきた真言宗の開祖、弘法大師空海は、日本史上稀有な大思想家であり、日本精神史四つの高峰の一つです。空海が何を語り、それが現代にどういう意味を持つのかに焦点を当てながら、わかりやすくお伝えします。本講座はこの第4期で完結します。


▼講師:研究所主幹・岡野守也▼テキスト:データ送信▼時間:14時?16時(目安)▼受講料:一般=1万4千円、会員=1万2千円、年金生活・非正規雇用・専業主婦=1万円、学生5千円


5月18日、6月8日、7月20日、8月24日(4回・1か月程度YouTubeにて視聴可)


お申込みとお問い合わせは、研究所のお問い合わせフォームをご利用ください。
こちら↓
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【水曜講座】「日本人のアイデンティティはどこにあるのか」(3回・6月スタート)


世界的な自国中心主義の高まり、右傾化が現実の危機になっています。開放的・自他肯定的・融和的でありながらゆるがない「国民的アイデンティティ」をどう確立できるかは、私たち日本人にとって緊急の課題ではないでしょうか。社会レベルにおけるコスモロジー・セラピーを学びます。2019年に東京で行われた講座の録画です。


▼講師:研究所主幹▼テキスト:データ送信▼時間:19時半?21時(目安)▼受講料:受講料:一般=1万5百円、会員=9千円、年金生活・非正規雇用・専業主婦=後期7千5百円、学生3千7百円


6月19日、7月17日、8月21日(3回・1か月程度YouTubeにて視聴可)


お申込みとお問い合わせは、研究所のお問い合わせフォームをご利用ください。
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『サングラハ』第193号が出ました

2024年04月04日 | 広報
 目次

 ■ 巻頭言 …………………………………………………………………………………………………… 2
 ■『正法眼蔵』「梅華」巻 講義(1) ………………………………………岡野守也… 3
 ■「私がここにいるわけ」――高校生に語るコスモロジー(8) …高世仁 …… 14
 ■ 仏弟子たちのことば(24) パンタカ兄弟② …………………………羽矢辰夫… 23
 ■ グローバルな問題を解決するために人々が持つべき内面について
  ――いくつかの提案を四象限コスモロジーで評価する(9) …………増田満 …… 25
 ■ 私のサングラハでの学び(4) ………………………………………………毛利慧 …… 33
 ■ サングラハと私(9) ……………………………………………………………三谷真介… 35
 ■ 講座・研究所案内 …………………………………………………………………………………… 43 


ご購入と詳細はこちらから
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2024年2月~4月【日曜講座】「コスモス・セラピー+α(後期)」、2024年3月~5月【水曜講座】「マルクス・アウレーリウス『自省録』を読む(後期)」のお知らせ

2024年01月25日 | 広報
 2月、3月よりそれぞれスタートする講座の予定をご案内します。

 スタートに間に合わず、途中参加などをご希望でしたら案内の最後にあるお問い合わせ窓口から個別にお問い合わせください。

【日曜講座】 コスモス・セラピー+α(後期)

サングラハ教育・心理研究所2024年2月から4月までの日曜講座のご案内です。
開始するのは、これまで長く関わってくださったみなさんにも、新しく学びを始めたいというみなさんにも役立つ「コスモスセラピー+α」となります。

サングラハでしか学べないコスモス・セラピーをアドラー心理学やフランクルのロゴセラピー、さらに唯識などとあわせて学んでいきます。
受講の仕方については、2014年の東京講座の講義録画をYoutubeで視聴いただく形でご提供します。
講座日には、受講者の同時視聴により一緒に学べるほか、1か月視聴可能なYoutube動画のURLもメールにてお送りするので、お好きな時間に視聴することもできます。

全6回の講義を前期3回(11月、12月、来年1月)、後期3回(2月、3月、4月)の2期に分け、今回は後期となります。

※講座の名称について、現在では「コスモロジー・セラピー」と呼んでいますが、当時のまま「コスモス・セラピー」にしていますので、ご了承ください。

講師:研究所主幹 岡野守也
テキスト:データ送信
開催日:2月18日、3月10日、4月14日
時間:13時半~17時
講座日から1カ月程度Youtubeにて視聴可能
※youtubeにアップした動画はメールにてURLをお知らせします。

一般=1万5百円、会員=9千円、年金生活・非正規雇用・専業主婦=7千5百円
※学生割引参加費=3千円

お申込みとお問い合わせは、研究所のお問い合わせフォームをご利用ください。

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【水曜講座】マルクス・アウレーリウス『自省録』を読む(後期)

サングラハ教育・心理研究所2024年3月から5月までの水曜講座のご案内です。
 古代ローマの哲人皇帝マルクス・アウレーリウスの『自省録』は、岡野主幹の学生時代以来の座右の書です。この中の一節「おお宇宙よ、すべて汝に調和するものは私にも調和する。・・・すべてのものは汝から来り、汝において存在し、汝へ帰って行く」は主幹がすでに建てた墓碑銘に刻まれているそうです。個人も世界もいよいよ厳しい時代に突入した感がある現在、人間が宇宙の中で宇宙の一部として存在するという根底的な自覚を基に覚悟をもって真摯に生き死にするほかないと説くアウレーリウスの哲学を学び、人生哲学を深めていきましょう。

 テキスト:マルクス・アウレーリウス『自省録』(神谷美恵子訳、岩波文庫)
 参考書 :岡野守也『ストイックという思想ーマルクス・アウレーリウス『自省録』を読む』青土社』
全6回の講座を前期、後期3回ずつに分けて募集する後期になります。

後期3回 3月13日、4月10日、5月15日の19時半からにZOOM受講あり
講師:研究所主幹(YouTube録画配信)
前期の受講料:一般=1万5百円、会員=9千円、年金生活・非正規雇用・専業主婦=7千5百円、学生=3千円
ZOOM受講日より1カ月程度You Tubeにて視聴可能

お申込みとお問い合わせは、研究所のお問い合わせフォームをご利用ください。

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『サングラハ』第192号 目次

2023年12月04日 | 広報
 『サングラハ』第192号が出ています。目次は以下のとおりです。お問い合わせは研究所のサングラハ192号のページよりお願いします。



■ 巻頭言……………………………………………… 2
■『正法眼蔵』「有時」巻講義(4) ……………………岡野守也… 3
■「私がここにいるわけ」――高校生に語るコスモロジー(6) …高世仁…… 17
■ 仏弟子たちのことば(22) アングリマーラ② ………………………羽矢辰夫… 24
■グローバルな問題を解決するために人々が持つべき内面について
――いくつかの提案を四象限コスモロジーで評価する(7) …………増田満…… 26
■ 私のサングラハでの学び(2) ……………………………毛利慧…… 34
■ サングラハと私(7) ………………………………………三谷真介… 36
■ 講座・研究所案内…………………………………………………… 43

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般若経典のエッセンスを語る52――言葉と分別知

2023年11月22日 | 広報

 何を以ての故に。名字は是れ因縁和合の作法なり、但だ分別憶想仮りに名を以て説く、是故に菩薩・摩訶薩、般若波羅蜜を行ずる時、一切の名字を見ず見ざるが故に著せず。』

 なぜそういう般若波羅蜜をやるのか。名前というものは、そもそも音節でできていて、それぞれの音節が、例えば「わ・た・し」とつながって言葉としての単語になるわけである。そしてその「わ・た・し」という言葉によって、「わ・た・し」という存在が他の人と分離して存在していると思う、分別・憶想をしている。そういうふうに、分別してものを考えるのは名前がついているからなのだ、と。あるいは逆に言うと、名前をつけるから分別・憶想が働くといってもいいだろう。

 以下は、すべてのつながりの話をするのにコスモス・セラピーの講義で使っているエピソードで、すでにご存知の読者も少なくないかもしれない。

 ホワイトボードに木のイラストを描き、「ここに木があると思って下さい」と言う。「木があると思って下さい」と言い―聞いているプロセスに注意を向けてみるよう。
「木があると思って下さい」と言われたら、「木」という言葉・単語が心を巡るのではないだろうか。そして「木」という言葉を使って、その形を見る。すると「そこに木がある」という思いが起こる。

 その時、この「木がある」という思いはどうなっているかというと、木が木それだけで存在しているという思いではないだろうか。「木」という言葉を使ったとたん、「木は根を張るための大地がないと存在し得ない」といった縁起のことは意識にはまったくなくなっている。「木」と聞くとすぐに「あ、それは大地があるからこそだ」と思える読者がおられたら、縁起の理法がそうとう頭に入っているということになる。

 なぜ大地が必要かというと、もちろん根を張るためだが、根を張るのは大地の中の水分を吸わないと生きていられないからである。だから水分との関係でも木が存在している。木は木だけで存在しているのではなくて、大地との関係、水との関係で存在している。水が大地に元々あったかというと、通常はそうではなく、雨が降って染みるわけである。しかし、木を見たときすぐに「雨が降るから木があるのだ」とは思わない。

 それから雨はもとは雲である。しかしふつうは「雲があるから木が立っている」というふうには思わないだろう。さらに。この雲は元は海の水が蒸発して上空で雲になったもので、気流に乗ってやってきて、冷えて雨になる。つまり、海があるから木があるのだ。木を見た瞬間に「海があるから木があるのだ」と思えたら、それは大変な学びの進歩である。

 今後、いわばものの見方の練習として、木を見たら「ああ、海があるから木があるのだ。雲があって雨があって大地があるから木があるのだ」と思い巡らすと、それは縁起の理法を少なくとも理論的によく理解したことになるし、そして木を見ている現場でそう思うようにすると、次第に実感的に「ああそうか。つながっている。縁起の理法だな」と思えるようになるだろう。

 さらに言えば、実は水が水蒸気になるためには太陽が必要で、太陽があるから雲ができて雨が降るのだが、それだけではなく、そもそも光合成をするために光が必要で、太陽がないと光合成ができない。つまり、お日さまがあるから木が存在できるということなのだ。
そして太陽エネルギーはエネルギーであって、光合成をするときには何を合成するかというと、空気中のCO2を取り込み、Cを取って、余ったO2を出すということをやっているわけである。空気は広がると空(そら)と言い、空は全体になると大空という。つまり大地・大空・海、こういうものがあるから木が存在できる。CO2というのはもともと地球にいっぱいあったのであるが、植物がO2を出していくと、CO2がだんだん減ってきて、今ではちゃんと動物がいる地球になっている。動物がCO2を出しているので、もし動物たちがいなかったら、CO2の供給が不足してしまうだろう。

 こうしてすべてのものがつながって存在している。木は木だけで存在することができない。木は木でないもののおかげで存在できる。これを私について言うと、「私は私でないものによって私であることができる」ということになる。

 ところが、私たちはどうしても、木というと木がそれだけで存在できるように思い、私というと私が私だけで存在できると思ってしまうのである。

 さて、もう少し言い足しておこう。例えば樹齢三百年の木は、三百年前はこんな大木ではなかったのである。三百年前は種、それから芽を出し、だんだん大きくなってこうなったのである。この種はどこからきたのだろう。それは親木である。その親木はさらにその親木があるから親木であるわけで……ということをずっとたどると、今から三十八から四十億年前の単細胞微生物に行き着くようである。

 ゴータマ・ブッダは現代の人ではないからこうした科学的な知識は持っていなかった。その点で二千五百年後の現代人が有利で、私たちはこういうことを知っているので、ブッダが直感的に縁起の理法というかたちで覚られたことを、こうして科学的な知見に基づいて、「やはり縁起の理法はまちがいない」と納得することができるのである。
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2023年12月から始まる講座予定:【水曜講座】「マルクス・アウレーリウス『自省録』を読む(前期)」、【土曜講座】「ゼロから始める仏教入門」のお知らせ

2023年11月16日 | 広報
 12月より始まる講座の予定をご案内します。
 スタートに間に合わず、途中参加などをご希望でしたら案内の最後にあるお問い合わせ窓口から個別にお問い合わせください。

【水曜講座】「マルクス・アウレーリウス『自省録』を読む(前期)」

 サングラハ教育・心理研究所2023年12月から2024年2月までの水曜講座のご案内です。 

 古代ローマの哲人皇帝マルクス・アウレーリウスの『自省録』は、学生時代以来の座右の書です。

「おお宇宙よ、すべて汝に調和するものは私にも調和する。・・・すべてのものは汝から来り、汝において存在し、汝へ帰って行く」

 個人も世界もいよいよ厳しい時代に突入した感がある現在、人間が宇宙の中で宇宙の一部として存在するという根底的な自覚を基に覚悟をもって真摯に生き死にするほかないと説くアウレーリウスの哲学を学び、人生哲学を深めていきましょう。

 テキスト:マルクス・アウレーリウス『自省録』(神谷美恵子訳、岩波文庫)
 参考書:岡野守也『ストイックという思想ーマルクス・アウレーリウス『自省録』を読む』青土社』

 全6回の講座を前期、後期3回ずつに分けて募集します。

前期3回 12月20日、来年1月24日、2月21日の19時半からにZOOM受講あり
講師:研究所主幹(YouTube録画配信)
前期の受講料:一般=1万5百円、会員=9千円、年金生活・非正規雇用・専業主婦=7千5百円、学生=3千円
ZOOM受講日より1カ月程度You Tubeにて視聴可能

お申込みとお問い合わせは、研究所のお問い合わせフォームをご利用ください。

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【土曜講座】「ゼロから始める仏教入門」

 サングラハ教育・心理研究所2023年12月から2024年4月までの日曜講座のご案内です。 

 当研究所は現代心理学と仏教と現代科学を統合することをめざしてきました。

 今期の土曜講座はその中の仏教が、私たち日本人にとってもつ意味を、原点てあるブッダからインド大乗ー中国仏教ー日本仏教までの長大な流れの要点をたどりつつ学んでいきます。

 現代の日本人は生きる意味を見失いニヒリズムに陥りつつあるように見えます。

 日本人の精神性の中核を形成してきた仏教を「ゼロから」学びなおすことは、日本人としての自分のアイデンティティを深いところから再確立し、自信をもって未来に向かうことにもつながるでしょう。

全5回 12月16日、来年1月27日、2月17日、3月16日、4月20日の14時からZOOM受講あり
講師:研究所主幹(YouTube録画配信)
全5回の受講料:一般=1万7千5百円、会員=1万5千円、年金生活・非正規雇用・専業主婦=1万2千5百円、学生=5千円

ZOOM受講日より1カ月程度You Tubeにて視聴可能

お申込みとお問い合わせは、研究所のお問い合わせフォームをご利用ください。

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講座全体のお問い合わせ・複数同時受講・途中参加について

研究所の総合お問い合わせフォームをご利用ください

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般若経典のエッセンスを語る51――大乗における瞑想の深まり3

2023年11月03日 | 仏教・宗教

 ここで重要なのは次の説明である。

 何を以ての故に。舎利弗、但だ名字有るが故に菩提たりと謂ふ。但だ名字有るが故に菩薩たりと謂ふ、但だ名字有るが故に空たりと謂ふ。所以は何ん、

 「どうしてかというと、シャーリプトラよ、覚りという名前や文字、すなわち言葉があるので、言葉で覚りという言葉を言っているだけなのだ。ただ言葉があって、それで菩薩というふうに言う。空というのも同じで、空という言葉があるだけなのだ。なぜそう言えるかというと」

 諸法の実性は生無く滅無く垢無く浄無きが故に

 さまざまに区別できる存在の本性は、実はすべてが縁起の理法でつながっているということである。つながりがぜんぶつながっているとしたら結局は一体である。結局は一体のものには個別的な発生や消滅というのはない。
 分離していると「これは清らかだが、あれは汚れている」という差別的な判断が生じるが、一体だともう汚れているとか清らかということがない。つまり諸法の実性は一体なので、発生も消滅も、清浄とか汚染ということもない。

 だから空を実践するということは、実はすべてのものの一体性を自覚するということでもあって、そのことを徹底的にやって、「個別のものは名前を付けているからあるように見え、それが実体であるように見えてくるだけなので、分離した実体などというものは実際にはない」ということを瞑想する。それが般若波羅蜜を行ずるということである。

 菩薩・摩訶薩是の如く行じて、亦生を見ず亦滅を見ず亦垢を見ず亦浄を見ず。

 要するに分離的な思考を一切やめていくということである。しかし、私たちの心は普段すべて分離的な思考で動いているから、「(私は)分離的思考をやめよう」と分離的思考をしてしまう。私がいて分離的思考があって、その私が分離的思考をコントロールしてやめる、と。それはもうそれ自体が分離的思考なのである。

 では、それをどうしたらいいのか。瞑想家たちはいろいろな工夫をしている。
  
 その一つは、心の中でいったんなるべくシンプルな言葉を使う。例えば「ひとー、つー」と。「ひとー、つー」と呼吸をすることを合わせてやっていると、だんだん他のことを考えなくなる。集中すると他のことが考えられなくなるわけである。

 それから例えば、もっと進むと「む(無)ー」という一言だけにする。「むー」と吐いて「むー」と吸う、「むー」と吐いて「むー」と吸う、と集中してしまうと、もう「むー」しかなくなる。

 言葉というのは「あ」「い」「う」「え」「お」というふうに分節しているから言葉になるので、一定時間「むー」と言っていると「無」という言葉の意味は頭の中でなくなって、ただの音になる。「む」と例えば「ま」がどう違うかということももう意識になくなる。だから「むー」と言うことを通じて思考を無くし、分離思考を無くする。

 もっといくとそれもやめて、ただ呼吸が出入りしているのを静かに見つめているだけになる。呼吸を見つめるというのもまだ「見つめる」ということがあるので、それさえもやめると、もうただ存在しているだけという意識のあり方になる。しかし、眠っていないし、陶酔していないし、ボーッとしているのでもなく、しっかり目覚めていなければ覚りにならない。つまり、しっかり目覚めていながら何も考えていないという状態になっていくこと、それが般若波羅蜜を行ずるということだ、とひとまず言葉で理解しておけばいいだろう。

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般若経典のエッセンスを語る50――大乗における瞑想の深まり2

2023年10月31日 | 仏教・宗教

 この瞑想が深まっていくことを、指導の言葉として語ったのが、以下の個所で、鳩摩羅什訳『摩訶般若波羅蜜経』「捧鉢品第二」の後半部である。訳しながら解説していこう。

 舎利弗仏に白して言さく、『菩薩・摩訶薩云何が般若波羅蜜を行ずべきか。』

 シャーリプトラがブッダに「菩薩大士はどのように般若の智慧を修行したらよろしいでしょうか」と質問をした、と。これはまさに根本的な質問である。すると、答えは以下のようだったという。

 仏舎利弗に告たまはく、『菩薩・摩訶薩般若波羅蜜を行ずる時、菩薩を見ず、菩薩の字を見ず、般若波羅蜜を見ず、亦我れ般若波羅蜜を行ずるを見ず、

 般若の実践をするときには、そもそも私・菩薩ということを考えない。また、そもそも菩薩という言葉を使わない。それから「私と分離した智慧というものがどこかにあって、それを私が求めるのだ」というのは、それ自体分離思考だから、そういう「私の外に般若波羅蜜がある」という見方をやめる。さらに、「私が般若波羅蜜の修行をしている」と思うと、それはもう「私の修行という動き」と「その対象としての般若波羅蜜」という分離思考になるから、「私が般若波羅蜜を修行する」という考え方をしない。といっても、それは般若波羅蜜を修行しないということではないのだ、と。

 こういう言い方はきわめてパラドキシカルでわかりにくいのだが、そもそも「般若波羅蜜」とは言葉にならないことを仮に言葉にしているので、言葉にとらわれて「私が/智慧を/得ようとする」と思ったら、もうそれは般若・智慧ではなく分別知・分離思考である。
 だから、ここでシンプルには「そもそも分離思考をやめることが般若波羅蜜を行じるということなのだ」と言おうとしていると理解すればいいわけである。

 何を以ての故に、菩薩も菩薩の字も性空なり、空中には色も無く受想行識も無し、

 それはなぜかというと、菩薩というのは実体として存在しているわけではなく、それからもちろん菩薩という言葉も実体ではない、と。

 この「空中」というのは「私たちが禅定を深くし、空体験をしているときには」という意味に理解しておけばいい。

 この言葉は実は『般若心経』とかなり重なっていて、『般若心経』の講義の際にここの内容をほとんど説明している。

 私たちが空の瞑想をしていると、そこには私の外側にある物質的な現象・色や、それを感受すること・受、イメージすること・想、それに対して注意や意志を向けること・行、それから思考作用をすること・識のいずれもがない、と。色受想行識というのはいわゆる五蘊で、色は物質的現象、あとの四つはいわば心理的現象である。

 この受想行識が色に対している、というのがまさに分離思考の基本的なパターンである。私が/何かを/感受する、と。例えば、「私が/湯飲みを/見る」。そうすると自分の中に残っている湯飲みという記憶のイメージと照らし合わせて、「ああ、あれは湯飲みだ」と認識する。そして喉が渇いていたら「取って飲みたい」とった意思が働く。さらにそういうことに関するいろいろな考えが巡る。これが受想行識であるが、それ自体が分離的な思考なので、それを超える空の体験の中では、そういう分離はない。
 しかし区別されたかたちでの物質もあるし、心もあるから、次のようにも語られる。

 色を離れて亦空無く、受想行識を離れて亦空無し。色は即ち是れ空、空は即ち是れ色、受想行識は即ち是れ空、空は即ち是れ識なり。

 空ということがどこかにあるのではなくて、色受想行識のいわば本性が空ということである。だから物質的な現象は即それは空、つまり実体ではないし、しかしながら実体でないということが物質的な現象を生み出しているし、それから心の働き・受想行識を同じく生み出している、と。
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般若経典のエッセンスを語る49――大乗における瞑想の深まり1

2023年10月30日 | 仏教・宗教
 *筆者の体調のため、なかなか連載を続けることができてきませんでしたが、ずっと待っていてくださる読者もいるようなので、推敲不十分ですがとりあえず読んでいただける程度の文でも、断続的に少しずつ掲載することにしました。
 なお、元の講義はDVDまたはyoutube で視聴していただけます。サングラハ教育・心理研究所のHPの案内をご覧ください。


 『摩訶般若波羅蜜経』「広乗品第十九」に以下のような個所がある。

 復次に須菩提、菩薩・摩訶薩の摩訶衍(まかえん)とは、所謂三三昧(さんざんまい)なり。何等をか三となす、有覚有観(うかくうかん)三昧、無覚有観(むかくうかん)三昧、無覚無観(むかくむかん)三昧なり。云何が有覚有観三昧と名くるや。諸欲を離れ悪不善法を離れ、有覚有観、離生喜楽、初禅に入る。是を有覚有観三昧と名く。云何が無覚有観三昧と名くるや。初禅、二禅の中間、是を無覚有観三昧と名く。云何が無覚無観三昧と名くるや。二禅より乃至非有想非無想定、是を無覚無観三昧と名く。須菩提、是を菩薩・摩訶薩の摩訶衍と名く、不可得を以ての故に。

 三昧とは禅定である。「菩薩・摩訶薩の摩訶衍」、つまり大乗仏教の根幹にあるのは三種類の三昧、すなわち瞑想・禅定だ、と。

 三種類の最初は「有覚有観三昧」という。これは、自他の分離的な意識が「覚」、「観」は思考で、いわば瞑想的ではあるけれどもやはり思考ということである。だから、いちおう自我意識が残っており、それから理論的に考えるということも残っている、それでもある種禅定状態にある。

 それから「無覚有観三昧」は、自他の分離を離れながら、しかし例えば縁起や無常などをある種瞑想的に洞察する。

 そしてそういうことをすべて離れてしまって、自他分離の意識も、それから瞑想的ではあっても思考をするということもやめてしまうのが「無覚無観三昧」である。

 これが、それ以前から言うと、禅定の最初の段階・「初禅」という。とにかくまず四段階ある。それから、その四段階の上にさらに何段階も瞑想の深まりがあることになっている。すなわち、大乗以前の仏教もこういう瞑想を行なっていたのである。

 ところが最後のほうに、「二禅より乃至非有想非無想定、是を無覚無観三昧と名く」とある。「思うでもなく思わないでもない」という、言葉で表現しにくい深い瞑想の状態のことをあえて言葉にしたので、言葉で勉強しただけではわからない。

 私たちがやっと「ひとー、つー」と呼吸に集中できると、なかなか爽やかな気持ちが生まれてくるのだが、それは「離生喜楽、初禅に入る」ということである。そうした、俗世間の生活から離れてさわやかな喜びが心に生まれてくるという段階を、禅定の最初の段階・初禅という。

 しかし、二禅になると次第に爽やかかどうかなども関わりがないという境地になっていくことになっている。

 私は、古典的な瞑想の深まりの段階論に「初禅・二禅・三禅・四禅」、その上に「非想非非想」等々とあるのを、かつては「こんなに細かい分類をしてなんの意味があるのか」という感じに受け取っていたが、自分自身で禅定を続けていくうちに、「やはりこれにはちゃんとした禅定の深まりの根拠、体験的根拠があるのだ」と感じるようになり、そして、まだこの先があるのだろうと思うようなっている。

 ともかく、こうして瞑想がきわめて深いところまで達した時に大乗の瞑想の境地が出てきたのではないかと推測される。

 それを示しているのが、「菩薩・摩訶薩の摩訶衍とは」、つまり菩薩大士の大乗とはどういうものかというと、いちばん根本は三三昧だ、と。ところがこの三は違っていて、「空・無相・無作(くう・むそう・むさ)三昧」という。これはそれ以前の仏教には見当たらない瞑想の名前である。

 「空三昧」、これは「空三昧とは諸法の自相空なるに名く」と書いてある。私たちが個々のいろいろな実体的なものがあると思っている、それが「諸法」である。ところがそのいろいろなもの・すべてのもののほんとうの姿・自相について、例えば時間経過をずっと見ていくと、それは「無常」であるということが見えてくる。それから、その時間経過の中でよく考えてみると、他との関係でできたのだ・「縁起」ということが見えてくる。

 よく上げる例だが、ここに「湯飲み」がある。この湯飲みについて、私たちは「ここに湯飲みそのものとしてある」と思ってしまうが、よく考えると、製造者が土を持ってきて型に入れて焼いて……というふうにして出来上がり、使われ、そして用がなくなり行き所がなくなったら捨てられ、ゴミとして割られて処分されたりして、もう「湯飲み」ではなくなってしまう。

 そういうふうに、関係の中で出来、関係の中で壊れていく、つまり無常であるということを考えると、それ自体で存在でき、それ自体の変わらない本性を持っていて、そしていつまでも存在できるという、実体としての本性を持っていない。その実体ではない・「非実体」ということが空なのであるが、空三昧とはその空ということをとことん洞察をしていくという瞑想である。

 空を洞察するという場合、まだ「洞察する」「考える」ということが残っているが、さらに、「これは空なのだから、私たちが見ている姿というのは、実体的な姿ではないのだ」ということ、すなわち「無相」ということについて、次のように語られている。

 諸法の相を壊(え)し、憶せず、念ぜざるに名く、

 「この見えている形、これは本質的な実体の形ではないのだ」と言って否定してしまうだけでなく、形としてそのことを憶えておいたり、それに今気づいているということをもやめてしまって、すべての形を離れていくという瞑想をする。これが「無相三昧」である。

 それから、空ということを洞察し、そしてその洞察も離れて形を見るということをすべてやめてしまうという瞑想に深まると、今度はいろいろなものに対して「あれが欲しい」とか「これが欲しい」と何かを求める・願望するということがなくなる。ものを特定の相・すがたで見るから欲しくなるわけで、相が消えてしまうとそれに対する願望がまったくなくなってしまう。それが「無作」である。「無願」と訳されることもある。

 そのように大乗では、空・無相・無作というところに瞑想が深まっていくとされている。
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