台風は関東直撃でしたね。
台風の進路コースを見ていると、お~富士山直撃だ~、などと思っていました。
でも、いつも不思議に思うのは、川の中州に取り残されてヘリコプターで救助される人。
台風が接近しているのに、川の中州でなにをしていたのでしょうか。
それから、ニュースで必ず流される駅や空港で乗り物に乗れなくてうんざりしている人々の姿。
どうしろというのでしょうか。
さて、人はおそらく自分の「役目」というのを知りえたときに、大きな喜びと生きがいを感じることができると思います。
逆に言いますと、自分の「役目」を勘違いすると悲劇が生まれるというか。
身近でよく聞く話では、医者の息子が医学部を目指し、入学前にあるいは入学後に挫折し、すっかり自信を失う。
大学までは順調に進んだが、せっかく就職した大手企業の就職後職場になじめず引きこもる。
こういう例は、医者とか大手企業のエリートサラリーマンとか、肩書きとやりたいことが一致しなかった例ですね。
医者とかエリートサラリーマンになりたかった人がそうなれば、正に意気軒昂と人生の歩みを進んでいけるでしょうが、
そうでなかった場合の精神的苦痛は当人しか分かりません。
進路の自由度は高まったように思えますが、そうでもない気がします。
時代の花形ではない職業、例えば農業、林業、漁業、職人などの業種への社会のまなざしは決して温かいものではありません。
篭って本を読むのは苦手でも、手の器用な人や、土いじりが好きな人や、黙々と何かを生産するのが好きな人は、
なかなかその方面の長所を生かせるような職業選択の自由度が高いとは決して思えません。
そこで、なんとなく時間稼ぎのために大学に行き、漠然と就職をしてしまい、これでいいのだろうかと思いながらも、
生活のため、両親に心配をかけない為、などの理由で社会人生活を送ることになるのがほとんどかもしれません。
どうしてもその社会生活になじめない人は、いわゆるニートとして社会の片隅でひっそりと自分と社会の在り方を見つめています。
「役目」というのは自分のしたいこととイコールかと言えばそうとは限りません。
だいたい自分のしたいことということを野放しにすれば、ほとんどはタダのわがままでしかありません。
世界中を旅行したい、色々な人と関わりたい、自分の個性を伸ばしたい。
どれもが本来は自分の職を通して実現できることです。
職を放棄したところで「したいこと」というのはその人の勝手な願望です。
そこのレベルでは「役目」というのは意識に現われてこないです。
おそらく「役目」というのは、与えられた職を遂行する能力を前段階とし、その段階をクリアした人間に、
社会的な役割としての「役目」というのが意識に上ってくるものだという風に思います。
どんな職業に就いたとしても、その職業上の任務をきちんと遂行できないうちは、愚痴、悩み、不満の渦に翻弄されます。
社会的な役割を担える強さ、責任感、喜びのエネルギーというものに欠けます。
そういう段階では、「目の前に与えられた状況」こそがクリアするべき状況であるということを学ぶ必要があります。
目の前に与えられた情況から逃げ出そうと考えるうちは、状況は悪化し、泥沼化するばかりです。
いかなる状況でも、その状況は自分次第で変えうるということを充分に学び終えると、
今度は単なる職場から社会における自分の役割という視野が開けてきます。
職場での試行錯誤は、社会での何かを役割を担うに当たっての試行錯誤をクリアしていく過程に大いに役立つことを知ります。
ここまで来ますと、家庭も職場も社会も世界も一繋がりであることを自覚します。
あとは、自分がどういうあり方で生きていくか、というのが最も大きな課題になります。
もはや状況は自分が作るもので、状況に左右されませんから、あとは「自分がどう生きるか」を決定するだけになります。
「自分がどういきるか」を決定した後は、あとはその自分の下した決定に沿って誠実に生きるだけです。
この段階で、やりたいこととすべきことがほぼ重なっていくことでしょう。
そしてその生き様の積み重ねが、人に有益であったり、魅力的であったりすると、人から評価されますから、
次第にどうやらこれが自分の「役目」らしいと思ってきます。
つまり、「役目」というのは自分でこうだと思い込むことではなく、人の評価によって定まっていくものなのでしょう。
上記は、ぼくが成功者と呼ばれる人たちの生きかたを学んだところの素描です。
ぼく自身は、職を遂行する能力で躓いていますから、偉そうなことは言えません。
ただ、偉い人というのは、本当にどんな状況でも自ら切り開き、実り豊かなフィールドに変えて行きます。
主婦だって、創意工夫で、家庭を実り豊かなフィールドにできます。
なんていったって、子供は最高の心の配りようがある「製品」ですから。
手を加えすぎてもいけないし、手抜きもいけないし、一流の職人のような研ぎ澄まされた感覚が必要です。
そんな偉い主婦は、自分が主婦であることに誇りと心からの満足を覚えるのでしょう。
そういう人たちに「お役目」が社会から、あるいは天から降りてくるのだと思います。
偉い人と書きましたが、本来はこの世に生を受けた全ての人たちに尊い「お役目」があると、ぼくは思っていますが。
台風の進路コースを見ていると、お~富士山直撃だ~、などと思っていました。
でも、いつも不思議に思うのは、川の中州に取り残されてヘリコプターで救助される人。
台風が接近しているのに、川の中州でなにをしていたのでしょうか。
それから、ニュースで必ず流される駅や空港で乗り物に乗れなくてうんざりしている人々の姿。
どうしろというのでしょうか。
さて、人はおそらく自分の「役目」というのを知りえたときに、大きな喜びと生きがいを感じることができると思います。
逆に言いますと、自分の「役目」を勘違いすると悲劇が生まれるというか。
身近でよく聞く話では、医者の息子が医学部を目指し、入学前にあるいは入学後に挫折し、すっかり自信を失う。
大学までは順調に進んだが、せっかく就職した大手企業の就職後職場になじめず引きこもる。
こういう例は、医者とか大手企業のエリートサラリーマンとか、肩書きとやりたいことが一致しなかった例ですね。
医者とかエリートサラリーマンになりたかった人がそうなれば、正に意気軒昂と人生の歩みを進んでいけるでしょうが、
そうでなかった場合の精神的苦痛は当人しか分かりません。
進路の自由度は高まったように思えますが、そうでもない気がします。
時代の花形ではない職業、例えば農業、林業、漁業、職人などの業種への社会のまなざしは決して温かいものではありません。
篭って本を読むのは苦手でも、手の器用な人や、土いじりが好きな人や、黙々と何かを生産するのが好きな人は、
なかなかその方面の長所を生かせるような職業選択の自由度が高いとは決して思えません。
そこで、なんとなく時間稼ぎのために大学に行き、漠然と就職をしてしまい、これでいいのだろうかと思いながらも、
生活のため、両親に心配をかけない為、などの理由で社会人生活を送ることになるのがほとんどかもしれません。
どうしてもその社会生活になじめない人は、いわゆるニートとして社会の片隅でひっそりと自分と社会の在り方を見つめています。
「役目」というのは自分のしたいこととイコールかと言えばそうとは限りません。
だいたい自分のしたいことということを野放しにすれば、ほとんどはタダのわがままでしかありません。
世界中を旅行したい、色々な人と関わりたい、自分の個性を伸ばしたい。
どれもが本来は自分の職を通して実現できることです。
職を放棄したところで「したいこと」というのはその人の勝手な願望です。
そこのレベルでは「役目」というのは意識に現われてこないです。
おそらく「役目」というのは、与えられた職を遂行する能力を前段階とし、その段階をクリアした人間に、
社会的な役割としての「役目」というのが意識に上ってくるものだという風に思います。
どんな職業に就いたとしても、その職業上の任務をきちんと遂行できないうちは、愚痴、悩み、不満の渦に翻弄されます。
社会的な役割を担える強さ、責任感、喜びのエネルギーというものに欠けます。
そういう段階では、「目の前に与えられた状況」こそがクリアするべき状況であるということを学ぶ必要があります。
目の前に与えられた情況から逃げ出そうと考えるうちは、状況は悪化し、泥沼化するばかりです。
いかなる状況でも、その状況は自分次第で変えうるということを充分に学び終えると、
今度は単なる職場から社会における自分の役割という視野が開けてきます。
職場での試行錯誤は、社会での何かを役割を担うに当たっての試行錯誤をクリアしていく過程に大いに役立つことを知ります。
ここまで来ますと、家庭も職場も社会も世界も一繋がりであることを自覚します。
あとは、自分がどういうあり方で生きていくか、というのが最も大きな課題になります。
もはや状況は自分が作るもので、状況に左右されませんから、あとは「自分がどう生きるか」を決定するだけになります。
「自分がどういきるか」を決定した後は、あとはその自分の下した決定に沿って誠実に生きるだけです。
この段階で、やりたいこととすべきことがほぼ重なっていくことでしょう。
そしてその生き様の積み重ねが、人に有益であったり、魅力的であったりすると、人から評価されますから、
次第にどうやらこれが自分の「役目」らしいと思ってきます。
つまり、「役目」というのは自分でこうだと思い込むことではなく、人の評価によって定まっていくものなのでしょう。
上記は、ぼくが成功者と呼ばれる人たちの生きかたを学んだところの素描です。
ぼく自身は、職を遂行する能力で躓いていますから、偉そうなことは言えません。
ただ、偉い人というのは、本当にどんな状況でも自ら切り開き、実り豊かなフィールドに変えて行きます。
主婦だって、創意工夫で、家庭を実り豊かなフィールドにできます。
なんていったって、子供は最高の心の配りようがある「製品」ですから。
手を加えすぎてもいけないし、手抜きもいけないし、一流の職人のような研ぎ澄まされた感覚が必要です。
そんな偉い主婦は、自分が主婦であることに誇りと心からの満足を覚えるのでしょう。
そういう人たちに「お役目」が社会から、あるいは天から降りてくるのだと思います。
偉い人と書きましたが、本来はこの世に生を受けた全ての人たちに尊い「お役目」があると、ぼくは思っていますが。
ずっと役目を果たし続けてきたのに体力等の理由から役目が果たせず悶々としています。
役目を果たしていた時はどんなに辛くても張り合いがありました。
自分の役目を果たすというのは幸せなことなんですね。
そう思います。
ももさんの体調がはやく回復しますように。