風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

歴史

2007年09月05日 | 雑感
卑弥呼とは当時の中国が付けた当て字ですが、意味に即して漢字を付け直すとすれば「日巫女」が近いようです。
要するに、太陽神(アマテラスオオミカミ)に仕える巫女(ミコ)さんです。
固有名詞というよりも、当時の邪馬台国を治める長が巫女であり、ヒミコという役職をも表す尊称で
呼ばれていたのかもしれません。
邪馬台国というのも当て字ですね。
「卑」とか「邪」とか蔑む字を当て字に含まさせずにはおかない当時の中国のお国柄が表れています。
「邪馬台国」の「邪馬台」を「ヤマト」と読んでいたのではないかという説もあります。
この辺りのことは最近の歴史書を見れば書いてありますから、知っている方もおいでしょう。

で、ヒミコの死後、弟が継いだが騒乱が収まらず、トヨという娘が継いで国が安定したとされています。
トヨもまた巫女であったらしいです。

で、この辺りの北部九州は豊前・豊後合わせて「豊(トヨ)の国」と言ったわけです。
そのトヨの国の中央には宇佐神宮が鎮座しています。
宇佐神宮の祭神は三体ありますが、その真ん中には謎の姫神、「比売(ヒメ)大神」です。
この比売大神がトヨのことではないかという説もあります。

宇佐のすぐ近くには「中津」という市があります。
葦原の「中つ国」の「中津」ではという説もあります。

どうも神話というのはそのまま史実として取るのも、おとぎ話として片付けてしまうのもいけないみたいです。
何度かあちこちで繰り返された史実を、どこか特定の地域の物語として説いてみたり、
神の名を特定の人物になぞらえたりしたりしている可能性もありそうです。

例えば、アマテラスオオミカミという太陽神を古代から信仰していたとして、
人徳優れた巫女が現れたとときに、アマテラスオオミカミの化身だとして崇拝することもありえたようです。
太陽神としてのアマテラスオオミカミと人格神としてのアマテラスオオミカミとの混用ですね。

ヒミコ(ヒミコ)がアマテラスオオミカミを崇拝していて、アマテラスオオミカミの化身とされるほど崇敬を集めていたとすれば、
神話ではアマテラスオオミカミとして記されることになったのかもしれません。
ま、そういうこともありえたのかなと言うことです。

で、記紀神話は大和朝廷の時代に編纂されたものです。
国の実権は、九州にも出雲にももはやないころに記されたものです。
高千穂→出雲と話が流れ、そのあと急に九州から大和への東征の話になります。
もともと混乱がたくさんあった話を無理やり一本の流れに作り替えたかのような話の印象があります。
史実をまったく無視したというわけではなく、大幅な省略と創りかえと脚色があったのではないか。
皇祖をアマテラスオオミカミとするための神話的脚色とか。
スサノオとかオオクニヌシはかなりドラマティックな話を持ちながら、ふっとかき消すように姿を消します。

今のところぼく思っているぼんやりとした仮設を書きます。

縄文以前の時代から日本各地にある程度の文明力を持った部族が隆盛衰退を繰り返していた。
が、それは歴史書に記されることはなかったので、考古学的な裏づけ(ストーンサークルや三内森遺跡など)を辿るしかない。
そんな中、2-3世紀に大陸から稲作文化とともに異民族が移動してきた。
先住民との戦い、異民族同士の戦いなどを繰り返し、日本列島は戦乱の時代に入った。
その中でも幣立神社や白山神社など古来からの神の聖地は各地には残っていた。
縄文時代の終わりに、有力な異民族が大陸から別ルートで九州の高千穂と出雲に入ってきて勢力を定着させた。
高千穂の勢力は力を蓄え、トヨの国にも足場を築き、大陸との交流も深めた。
出雲もスサノオ→オオクニヌシと呼ばれる男王のラインで安定した国づくりを終えていた。

そのころ大和にはアシナガスネヒコと呼ばれる先住民族がいた。
領土的野心に燃える九州の勢力(いわゆる天孫族)は、大和を狙い始めた。
アシナガスネヒコは出雲と手を結んで天孫族から身を守ろうとした。
しかし、天孫族は強く、アシナガスネヒコを撃退し、出雲にも服従を迫った。

そして天孫族は大和朝廷を打ち立てた。
大和朝廷の草創期に深く関与したのは、やはり大陸からの移民である秦氏であった。
宇佐神宮の八幡神も秦氏の信奉する神であるという説がある。
聖徳太子を強力にサポートしたのも秦氏である。
歴史の裏側で、混乱期から建国まで秦氏が深く関与していた。

その秦氏のルーツはユダヤ民族であるという説がある。


書いていて疲れてきましたので今日はこの辺で。
まとまりのない文章失礼しました。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿