風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

参加

2006年02月09日 | 雑感
後から後からモラルの欠如した不祥事が起き続けます。
巨悪はまだその姿を現していませんが、やがてその醜悪な姿をさらけ出し始めるでしょう。
まだ前哨戦です。
今までのように、人々の目を欺き続けることは出来なくなるでしょう。
人々の行動基準を善悪よりも美醜で捉えた方が分かりやすい時代が来るような予感がしてます。

目の前の出来事や流れに惑わされて盲目になってしまいがちです。
例え盲目になろうとも、見えなかったからと、自らの倫理の欠如を弁明することは出来ません。
盲目であろうとなかろうと、自らの行動には責任を自動的に負います。
それが、因果応報の法則なのだから仕方がありません。

何を考えても、何をしても自由に振舞えるのが人間なのですが、その動機が大切みたいです。
同じ思考の仕方、行為の仕方でも、その動機が違うということが往々にしてあります。
「働く」という行為一つとっても、その動機は人によって様々です。
金のため、生活のため、家族のため、名誉心のため、社会のため、自己実現のため。
何が自分の思考、行動を促す動機なのかを注意深く観察してみると、なかなか一筋縄ではいかないでしょう。
一筋縄ではいかないもつれにもつれた動機の糸を、丁寧に解きほぐして、明確な動機を手に入れたらしめたものです。

会社勤めなどをしていると、そういう内省の時間を持つ余裕はなかなか持てません。
だからといって、ともすれば倫理的なモラルを蹴散らそうとする経済システムの流れに無自覚に
乗っていいというものではないように思います。
無自覚であろうがなかろうが、やはりしたことの責任は発生します。
その責任さえ社会や政治や誰か他の人に転嫁する風潮に覆われていますが。

政治や社会制度というものは、よりベターを目指す改良は可能でしょうが、
個人の責任や幸福感といった内面的満足に干渉するものではないし、また干渉させてはいけないものでしょう。
何か幸福感に包まれた時に、それが政治や社会制度のお陰だとは誰も思わないでしょう。
その逆に、自分の不満足や鬱憤を安易に政治や社会制度に転嫁するのも不合理な話で、出口がなくなります。

自分という主体の整合性を高めることが何よりも肝要なことだと感じています。
何をどうしたいのかを明瞭に、エネルギッシュに確立すれば、あとは行動の質量を高めるだけです。
そういう方向性に行けば、政治や社会制度といったものは、自分が活躍するべき舞台装置としての不備・
不完全さはあるものの、決して腹を立てるべき障害物ではなくなります。

ま、舞台装置はシンプルであればいいというものでもないし、複雑怪奇でも困ります。
やはり戻るところは、見る人が心地よく感じられるかどうかの美醜の問題になりかと思います。
それも個人によって違うのではありますが、淘汰という自然の摂理に任せるしかありません。

ところで、いよいよコンサートが明後日に迫りました。
今日も電話で5名の方からの申し込みがありました。
こういう閉塞した時代に、透明な風が吹き抜けるようなコンサートになるはずです。
みなさま、足を運んで、参加してください。
その昔、アンガージュマン(参加)という言葉が流行ったことがあります。
いまどきゲバ棒を持っても何にもなりませんが、役者も舞台装置も揃った「美しい」コンサートに参加することは、
おおいに意義深いことだと確信しています。

一人一人の心が豊かになることこそが、社会の改革なのだと思います。

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