言葉
2011年04月30日 | 詩
そのひとはなにかを言いかけては止める癖があった
口を開いてなにかを言おうとしては、ふっと笑ってうつむいてしまうのだった
彼女の胸の中に次々生まれる言葉の光が、生まれたとたんに消えていくかのようだった
生まれ出た言葉の数々がどこに消えていってしまうのか、彼女にも分からなかった
そのひとはますます無口になっていった
人の挨拶には控えめな笑顔で応え、仕事の指示には頷いたり首を振ったりした
そんなに無口でも
周囲の者は彼女が無口であることさえも気がつかなかった
一度だけそのひとを食事に誘った
ぼくはビールを飲んで、彼女は白ワインを頼んだ
彼女の表情からは嬉しいのか気まずいのか、さっぱり分からなかった
それでも頬をピンクに染めて彼女のことを少しだけ語り出した
そのひとは北海道の奥尻島の出身で、両親が津波にさらわれた
そのとき彼女はたまたま友達のささやかな誕生日会でショートケーキを食べていた
その後は神奈川のおじさんの家に引き取られて東京の女子大を出た
好きな曲はカーペンターズ、好きな映画は「冒険者たち」
彼女の話にぼくも頷くばかりだった
ぼくもなにか気の利いたことを返そうとしたのだが
言葉がどこかに吸い込まれていった
どんな言葉も綿埃のように軽かった
今でもそのひとを見かけ、目が合うと彼女はほんの少しだけ微笑んでくれる
ぼくはなにかを言いかけるが、言葉は出ない
彼女の周囲ではすべての言葉が虚空に消えていく
冷たく静まりかえった湖面のように、その虚空は広がっている
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