風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

天地創造Ⅱ

2006年07月24日 | スピリチュアル
九州は大雨です。
龍神様の話、真実味を帯びてしまいました。

ところで、今日の写真を見てください。
先日の高千穂巡礼の折、高千穂方面の日の出を、同行した友人が携帯カメラで撮ったものです。
「縦に」くっきりと太い光が画面を貫いています。
中央に赤い火の玉みたいなものもあります。
驚くことに、別の人がやはり携帯カメラで同じ時、同じ光景を撮ったのですが、
その画像にはくっきリと同じような光が、「真横に」画面を貫いています。
それにしても、強力な光ですよね。

今日は前回の話の続きを書こうと思っていたのですが、一日置いたらなんだか気が進まなくなってしまいました(笑)
とにかくあれです。
神のエネルギーが「愛と調和」なら、悪というかルシファーの生み出すエネルギーは「疑いと分離」です。
「疑い」を推し進めて行きますと、他者を疑うことから、自分の存在さえも信じられなくなっていきます。
全存在の存在意義さへ分からなくなっていきます。
そうして光の不在の中で孤立します。
現代人は多かれ少なかれ、そういう「存在する」ということに対する疑惑に囚われてしまう時期を潜ります。
「我思う、ゆえに我あり」ということで、己の存在を「思念」に求めます。
そういう形で思念を太らせることが今の哲学であり、精神活動であり、学問体系なんですね。

でも、「思念」こそ悪の入り込む余地です。
なぜなら、悪の温床は「不信」であり、不信は人間の「思念」が作り出すものだからです。

ですから、禅では人間の思念という思念を徹底的に頭の中から掃き出すことを、その修行の根本におきます。
思念をすっかり吐き出すと、ぽかんと空が広がり、世界との一体感が如実に悟られると言われています。

なかなか厄介です。
考えるという行為を放棄して生きるには、今の世の中は危険すぎます。
あらゆる罠、策略、迷路が張り巡らされています。
しかし、一度考える方向を間違えますと、疑念、不信、絶望がたやすく生み出されます。

悟ることも、不毛な思念から逃れることも出来ないで、人々は世の中に放り出されています。

「愛と調和」
これほど口に出すことも、理解することも簡単極まりないことから、かけ離れたところに人々は来てしまいました。

急速に変わりつつあるなという気はしていますが、速度を上げなければいけません。
そんな感じがしています。
焦ることではなく、見るべきものをきちんと見、感じるべきものをきちんと感じる。
それに尽きるような気がしてます。