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風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

出来ること

2009年10月31日 | スピリチュアル
近頃、その筋のネット情報では、地震や恐慌やワクチン騒ぎやらで賑やかです。
大筋ではそれらの情報のとおりに動いていると思います。
金曜日にはアメリカの株が暴落しましたようです。
日本の市場がどう動くのでしょうか。

いろいろ情報はあるのですが、陰謀論と片付ける人が多いので、詳述は避けます。
その情報にしても、所詮誰かの情報の受け売りに過ぎませんから、なおさら慎重になります。
要は、人口の大幅な抑制と、世界的に深刻な混乱を起こすことにより世界統一政府を作ろうと目論む人がいるらしいということです。
もちろんその目論見は美辞麗句で覆われており、その最終的な目的を知らされることはありません。

簡単に言うと、日本の八紘一宇やら大東亜共栄圏の構想は徹底的に潰されましたが、ある勢力が莫大な資金を駆使して
武器を製造輸出して、ウイルスをばら撒き、ワクチンで大儲けして、金融を株価を操作し、企業をのっとり、メディアを子飼いにし、
自主独立の国家や個人を根こそぎ絶やしてしまおうとするとてつもない勢力が世界を動かしているということです。
そういう風に思って眺めていると、なるほどそういう風な一連の動きです。

「ブラッド・ダイヤモンド」、「ザ・シューター」、「ザ・バンカー」、「ワールド・オブ・ワイズ」等など、
そういう勢力が後ろにいるのではと思わざるを得ないような暴虐を描いた映画作品がたくさんあります。
でも、登場人物たちは、誰が何のためにしているのか知ることなく、殺し殺されていきます。
後ろに控えている勢力をそのまま描いた作品は一本もありませんが。
それは無理なのです。

経済大国と呼ばれる日本の国民のお金はどこに消えているのか誰も知りません。
恐慌と呼ばれたアメリカの経済状況がどうして回復基調に向かっているなどと報道されるのかも誰も知りません。
そして決して報道されることもありません。
ワシントンで数百万人規模のデモが行われたそうですが、その理由も背景も日本では報道されません。
ネットがなければ、誰も知りようがないままに、誰かの意のままにものごとは推移するのでしょう。

もうメディアはその役目を終えました。
高給と好待遇に目が眩むのは世の常です。
真実を伝えて基地外扱いされるよりも、高給と好待遇に甘んじるよぷとすることを責めてもしようがありません。
人はそんなものです。

彼らが忌み嫌うのが本当の意味での自主独立の気概を持った国家、並びに個人です。
誰からのコントロールを受けることなく、心豊かに暮らす心境というのを彼らは恐れます。
そういう心境に彼らはなれないからです。

地震が来ても、食べ物が貧窮しても、心豊かに生きると決心したなら、彼らは手出しが出来なくなります。
なにがあっても、心豊かに生きましょう。
過度の恐れや、不安や、憎しみは彼らの付け入るルートですから、誇り高く生きましょう。

どんな状況であろうと、自分が出来ることを精一杯する。
それだけのことです。
誰かに何かをしてもらいたいと思ったときに罠があります。

ものの見方

2009年10月30日 | スピリチュアル
10月も終わります。
光陰矢のごとしなんですが、なんといいますか、こんな感じで流されてしまってはまずいだろうという気がぼくにはあります。
滝にも週に一回ほど入っていますし、坐禅もしますし、週に一度はラジオの番組にも出ますし、仕事もいろいろ大変ですし、
本も週に数冊のペースで読んでいますし、別に不満はないのですが、もう少し高いところから風景を眺めてみたいという気もします。

誰かの視点と比べて、より高いところからという意味ではありません。
もう誰がどんな視点から見ているかなどということは、ぜんぜんどうでもいいことです。
その人がものごとを見たいように見るだけです。
ものの見方しだいで、幸福にも不幸にも感じることができますから、ものの見方というのはとても大事なことです。
でも、こればっかりは他人に教えたり教えられたりするものではない様に思います。

好きだ嫌いだから、喜ぶ、怒る、憎む、尊敬する、感服する、崇拝する、どんな心理的な動きもその人のものの見方に根拠を置きます。
実際の社会生活ではそういう心理的動きこそが行為の動機となり、結果となり、彩どりとなるわけです。

それに対して、禅ではそんな心理的動きなどは一切相手にしないというか、「ものの見方」そのものを手放そうとします。
ものの見方を手放したときに、見えてくるものを掴もうとします。

言ってみれば、知識や見識を高め、人格を磨くということをすれば、視点を高くしていくことは十分に出来ると思いますが、
自在に見たいものを的確にいつでもどこでも見るという空を飛ぶ「鳥の視点」は持てません。
当たり前の話ですが。
でも、余計な分別知がばっさりと抜け落ちたら、丸裸の純粋意識そのままになったら、「鳥の視点」になるような気がします。
何でも見通す千里眼とか、神通力(神足通・天耳通・他心通・宿命通・死生智・漏尽通)とかに近い能力なんだと思います。

ぼくは別に千里眼や神通力を備えたいとか、それをうらやましいとかはまったく思っていません。
そういうことではなくて、プラスマイナス交えたいろいろな感情を味わいながらも、その感情におぼれることなく、
その自分を含めた人間模様すべてを、ほほえましく見ているような視点。
理屈でそんな視点を持とうと思えば、とんでもない嫌味でしょう。

何かを見ようとするのではなく、見えるものを見る訓練から始まるのかもしれません。
人はたいてい見たいものを見ています。
おいしいものとか、美形の異性とか、欲しいものにはすぐ目が行きますが、路傍のタンポポとか、空に浮かんだ雲とかは、
その気にならなければ目がいきません。
見えるものをそのまま味わうというのは簡単そうでなかなか難しいものです。
路傍のタンポポを30秒以上見つめているのは、人間の分別心にとってとても苦痛です。
分別心というのは、「自分にとって」役に立つか役に立たないかをもっぱら分別するからです。

「自分にとって」役に立つか役に立たないかという分別を捨ててものを見ることが出来れば、すべてはあるがままにあり、
誰かや何かの役に立ち、存在の尊厳の光を放っているわけです。

ま、そこまで行くのはなかなか難しいことですね。
でも意外と簡単そうな気もします。


熊野

2009年09月27日 | スピリチュアル
すっかりご無沙汰してしまいました。
盛りだくさんだった熊野ツアーのことやら、桜井よしこさんの講演会のことやら、いろいろ書きたいこともあるのですが、
いっぱいありすぎて書く気が失せます(笑)

今回のツアーはネネさんが主催でしたが、コンダクターを務めてくれたのが気功で有名な中健次郎先生ご夫妻でした。
熊野在住で、あちらこちらのパワースポットを惜しげもなく紹介してくれます。
とりわけ強烈だったのが、熊野本宮の近くにあります地元の人にも知られてないような井戸でした。
普通、龍脈上に顕れる竜神様などを祀る場合は、祠を建て、結界を結び、
さらには眷属神にその領域を守らせたりするものなのでしょうが、そこは竜神様がなんのお守りもなく直に
地上に現れている様な感じでした。
その井戸の周りで何分か瞑想しましたが、体が自然にぐらぐら揺れてきます。
そこまでダイレクトな神気というのは初めてでした。
さすが熊野は奥が深いです。
場所は書かないほうがいい気がしますので、書きません。

修業場になっていない自然のままの滝にも入りましたし(足場がなかったので禊でしたが)、
何時間入っていても湯疲れが全くない温泉にも入りました。
中先生からはみっちりと初心者向きの気功も教えてもらいました。
深い森と鮮烈な水の熊野でした。

帰ってきたらさっそく深酒の毎日ですが、来月は禅の摂心が始まります。
毎日一回は菅生の滝に入ると導師に約束させられましたので、滝にも定期的に行きます。
冬場の滝は月一回行くと決めたからとすんなり入れるものではありませんから、
身体を慣らしておくために週に一回は入りにいかなければならないでしょう。
ましてや菅生の滝においてをや。

仕事も夏以降は停滞気味です。
当然ですが、精神の充実は実生活が伴ってこそです。
実生活が充実してれば、精神なんかほうっておいても充実するもんです。
精神ばかりが肥大して、実生活が荒んでいるのなら、早晩精神は破綻します。
何事もバランスです。
日々陽射しを浴びて健康に手足を動かし、精神が嬉しさと豊かさのうちにたゆたうという感じが理想でしょうか。
ま、いつも言うばかりでゴメンナサイという感じです。


思い込み

2009年09月04日 | スピリチュアル
昨日は休日、朝は滝行、昼はジム、夜は座禅道場に行きました。
狙ったわけではないのですけれど、結果的に心身再生プロジェクトみたいな一日でした。

一週間前見たときは青々として実がついていなかった稲穂が、ここのところの晴天続きで実を垂れ始めました。
涼しい風に揺れ、かすかに色づき始めてもいました。

まぁ、いろいろありますが、要は簡単なことだと思うのです。
「幸せだと心から思えば幸せだ」ということです。
そう思えれば、どんな状況であれ、幸せです。

幸せだと思えるか思えないかを、自分を取り巻く周囲の条件次第にするから、人はいともたやすく不幸感に囚われます。
お金がないとだめ、素敵な伴侶がいないとだめ、やりがいのある仕事がないとだめ、際限なく自分の生きる条件にだめ出しをします。
そういう条件は大抵は体制の都合や企業の都合や誰かの都合にいいように押し付けられた条件です。

一人ぼっちで孤島に暮らしても、幸せだと思えば幸せです。
今日食べるものもなく水ばかり飲んでも、幸せだと思えば幸せです。
それは極端すぎる話にしても、今時一人ぼっちで孤島で暮らすほうが難しいでしょうし、生活保護もありますから
何も食べるものがないということもまれな話でしょう。

生きているだけで幸せならば、食べ物があればありがたく嬉しいし、ともに生きる人がいれば喜びの輪が広がります。
それだけのことなんだと思います。

そんなのは空論だと言う人が多いかもしれません。
でも、こうでなきゃだめだ、あれがなきゃだめだ、こうしなければいけないなどと際限のない心のおしゃべりこそ、
仏教なんかでは愚痴といいます。

人の心に訴えかけるものでこの世は満ちています。
たいていは誘惑という形で人の心に侵入してきます。
もっとお金持ちになって、豊かな生活をして、おいしいものを食べ、素敵な人と付き合い、健康で長生きして・・・。
もうキリがありません。
人の心というのは実にいい加減なものです。
いったん心が思い込んだら、思い込んだとおりに人生が進まないと気がすまなくなります。
年をとりたくないといったん心が思えば、整形を繰り返して化け物みたいになったり、
出世が命と思えば、家族を犠牲にしても気がつかない。
自分が好きだと思い込んだら、相手がどんなに悪党でも嫌われたくない一心で言いなりに堕落していく。

そういう心の思い込みをいったん外してみるのが、禅や滝行などの修業なわけです。
修行中は食事もうんと質素なものになりますが、ご飯でもうどんでも漬物でもとてもおいしいご馳走です。
ただ食べられることが本当にありがたいとおもいます。
心から思い込みという思い込みをすっかり掃除してしまって、ぽかんとまっさらになった心でみる風景が悟りと呼ばれる境涯なのだと思います。

まっさらになってみれば、世界はただただひたすらありがたく輝いています。
死のうが生きようが、病気であろうが貧乏であろうが、ひたすらありがたく輝いているわけです。
もうそうなると、不幸になりようがありません。
条件の出しようがありません。

「災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。 死ぬ時節には、死ぬがよく候。 是ハこれ災難をのがるる妙法にて候」

この良寛さんの言葉は、決してシニカルに言っているのではなく、大真面目に言っている言葉です。
災難にあって、天や他人を恨んだり責めたりしても、心がますます荒んでいくだけです。
死ぬときにじたばたする心が苦痛なのであり、死そのものは肉体が死ぬだけです。

死のうが生きようがどうでもよいなら、何もする気が起きなくなるじゃないかという疑問も出るでしょう。
何でわざわざこの世の苦界で七転八倒しなければいけないのかと。

しなければならないことなどありません。
したいからするだけです。

何もしたくないという人がいます。
たいていは自分が思い通りの人生を送れていないと感じるときに出る言葉です。
何もしたくないと思うということを「している」だけです。
いずれにせよ、人は自分の心がしたい(~しなくないということも含めて)ということしかしません。
よきにしろ、あしきにしろ、人の心のありようがその人の行為を選択させます。
その大切な心が見当違いの思い込みで縛られていたら、人生が台無しになってしまうこともあるでしょう。

自分が主体になるということは、自分の心を自由自在に解き放ち、「自分が」コントロールすることです。
だれかの教えやイデオロギーや宣伝に載せられて生きることは、自分の心の自由を手渡してしまうことです。

自分の心がいつも何を思い込み、何を選択しているのか、それを見据えていきましょう。
ぼくなんか自分の心を見るたびにがっくりとうなだれてしまうことが常ですが、なぁに、負けません。

魂と魂の入れ物

2009年08月26日 | スピリチュアル
ここ数日例年になく涼しい風が朝夕に吹いています。
昨日朝起きましたら、空一面にうろこ雲が広がっていました。
今年の夏に入道雲を見たのは2~3度あったかないかだったような気がします。

アカシックレコードに自在にアクセスできるというゲリー・ボーネルという人の本を読んでいて、
なるほどと思うところがありました。

人というのは無垢無雑の魂という喜びのエネルギーが、人類が遺伝子を通じて連綿と繋いできた人体という
入れ物に宿ったものだと。

仏教では、「衆生本来仏なり」とか「悉有仏性」とかいいますが、すべては仏の現れであるという立場です。
それは禅を通じて、一面では全くそのとおりだと納得してはいたのですが、
人が人として転生してくる場合に、その仏そのものが纏ってくる因縁そのほかの属性は、
何に由来し、どこに記憶され、どういう仕組みで無垢無雑であるべきはずの魂を取り囲んで生まれ出てくるのかが、
よく分かりませんでした。

そういう因縁は魂が引き継いでいるのではなく、魂の入れ物たる肉体が因縁やらその他属性を引き継いでいるということでした。

例えば、前世に奴隷で悲惨な人生を送ったとします。
魂はその経験を善悪も快不快もなく、ただ純粋に経験しますが、
肉体のほうは、その痛みや辛さや恨みや怒りや、家族に対する悲痛な思いやらを経験します。
そしてその経験の波動を全細胞に刻みつけ、肉体のエーテル体にも刻み付けます。
そのような感情の蓄積は遺伝子にも刻印され、肉体的な子孫に引き継がれていきます。

そういう風にして、その人生の状況で培われた特性を肉体の遺伝子は代々子孫に引き継いでいき、
感情や記憶の特性はエーテル体が保持して次の転生までエーテル体はいわゆる冥界ということに行くみたいです。
魂は純粋無雑な光の母体に帰ります。

で、魂がある経験をしたくて、再び転生をするとします。
その経験をするのにふさわしい遺伝子を引き継いだ肉体およびそれとセットになったエーテル体に宿る。
平安無事な経験を選ぶこともあるだろうし、殺されたり殺したりという経験をしたくなることもあるらしいです。
人の数だけ経験というものがありますが、そういう経験をしようと思った魂が、その経験をするにふさわしい人間に宿るということです。

う~ん、なに言ってるか分かりませんね。
魂からすれば、どんな経験もそれを味わいたいから経験するだけで、感情を持った魂の容器である人間は七転八倒するわけです。
でも、その魂は七転八倒をするという経験したいわけで・・・
さらに言えば、その七転八倒する心のあり方を超えていくという、魂の拡大成長を魂は目指しているわけで・・・

とすると、われわれが前世の記憶とかいうものは、人間のエーテル体の記憶であるということになります。
幽界や冥界というのも、エーテル体の認識する世界であることになります。

書き始めたものの、このスペースで説明するのは無理でした。

興味ある方は直接読んでみてください。

「超入門アカシックレコード」 5次元文庫


良寛さん

2009年07月10日 | スピリチュアル
昨夜は一晩中妙な風が吹き荒れて、今日は一日中ビタビタという感じで雨が降っていました。

さて、ぼくは良寛さんにまつわるエピソードは大概好きです。
酒にまつわるエピソードもたくさんあります。
が、とりわけ一番好きなのは、次のエピソードです。

良寛の甥に馬之助という放蕩息子がいて、良寛の弟の由之は息子の放蕩に困り果てて、兄の良寛に説教を依頼します。
良寛はしぶしぶ故郷の由之の家に出向き、説教するべく馬之助の前に座らせられましたが、良寛は酒を飲んでばかりで
いつまでたっても説教しません。
とうとう三日目の朝「わしはもう帰る」と言って良寛さんは家を出ようとした。
そのとき馬之助の母は馬之助に良寛の草鞋の紐を結んであげるように言いつけた。
馬之助は言われるまま草鞋の紐を結び始める。
それでも良寛は黙ったまま。
と、そのとき馬之助は自分の首に何か落ちてくるのを感じて不意に顔を上げた。
そこには、目にいっぱい涙をためた良寛さんの顔があった。

これで馬之助の放蕩はすっかりやんだということです。
その良寛さんの姿を見てしまった後で、放蕩を続ける神経を持つ人間はなかなかいないでしょう。

良寛さんは、馬之助の苦しさや悲しさやそれを放蕩で紛らわさずをえない苛立ちやらをただじっと見ていました。
煩悩と知りつつも煩悩に引きずり回されるのが凡夫の常です。
人の悲しさはいつでもそこから生まれてきます。
悲しい人間に愚にもつかない説教をくどくど言ったり、とげとげしい小言を言う良寛さんではありませんでした。
馬之助とともにじっと悲しみ続けるだけです。

馬之助の父親の由之や母親はわが息子の表面的な損得やら世間体やらをそりゃ心から心配してたでしょうが、
馬之助の心とじっと一緒にいてあげたのは良寛さんでした。

本当の禅僧の教化というのはこういうものでしょう。
いろいろな本で読みますところ、修業中の禅の師家というのは鬼のように容赦がありません。
大事な一生命たる弟子の一大事を預かる身です。
意味もなく容赦してしまったら、弟子の人生を台無しにしてしまうことになりかねないから、真剣勝負なのです。

そのかわり、修業を離れたときの禅の師家の弟子に対する繊細で行き届いた深切心というのは、
いろいろその類のエピソードを読んできましたが、無条件に涙腺が緩みます。
人が人にとことん真剣に対するというのは、今ではすっかり失われつつある気風です。
今、流行の生き方であろうがなかろうが、良寛さんのような美しい生き方というのは真似できるものならばしたいものです。


格闘

2009年07月04日 | スピリチュアル
禅の老師が近くの道場に来ていらっしゃいますので、今夜から泊りがけで行こうと思っていました。
でも、やめました。
そうすると明日は店を閉めなければいけないし、あまり心境の進展を求めるのも美しくないなと思ったからです。
まずは店の営業をしっかりとする。
その基本を崩し始めたら、本末転倒です。

すべてはなるようになっていく姿を愛でることが出来るようになることこそ肝要なのだと思います。
でも、なるようになるためには、何かをならせようとする人々の普段の尽力があってこそです。
なるようになるために、無数の人々が今日も世界の大地の上で意識的にせよ無意識的にせよ格闘しているわけです。

格闘は疲れますが、格闘があってこそのこの世の人生です。
ただ、大切なのは何と格闘するか、なんでしょう。
他人や社会のシステムと闘うというのは、幻想の世界で質のよくない負のエネルギーを産み出すだけでしょう。
幻想の世界で産み出された負のエネルギーというのを侮ってはいけません。
いまだにその種の負のエネルギーが強力に世界を覆っています。

闘うべき相手は唯一自分の心です。
弱さ、ずるさ、傲慢さ、わがまま、冷酷さ、それらは全部自分の心の中にあります。
他人や社会のシステムを変えたところで、それらの負の感情が自分の心から一掃されるわけはありません。

自分の心と闘うというのは、魅力的な行為ではありません。
とても気の進まないいやな行為です。
だから、「楽しむ」「感謝する」という行為が尊ばれます。
闘う必要もなく、「楽しむ」「感謝する」という行為が、蓄積した負の感情を溶かしていきます。

「楽しむ」ということが誤解の元ではあります。
他人を利用した快楽とは無縁の境地です。
自分の命を楽しめるようになったら、格闘のための格闘も苦悩も無縁になります。

ま、なんにせよ、地べたにきちんと足の裏を引っ付けることが最初なんでしょう。


突破

2009年06月28日 | スピリチュアル
ぼくの今のPCの壁紙はストーンヘンジの写真です。
ストーンヘンジには行ったことがあります。
アンティークの買い付けでロンドンに行ったついでにバース(ローマ時代の温泉で有名です)に向かう途中に立ち寄りました。
広々とした草原に突然それはありました。

巨大な石柱がサークルを形成しています。
その石をどのようにこの地まで運んできたのかは謎とされています。
その辺りで採掘される石ではないそうです。
冬至だとか夏至だとかを観測する天文所の役目をしていただとか、祭儀の場所であったとか言われているようです。

ぼくが思うに、古代の人たちが現代に残した「公案」だと思います。
太陽の死と復活を象徴する冬至や夏至にこだわる意味、そのために膨大な労力を費やす意味、
或いは膨大な労力なんか必要としなかったかもしれない可能性。
そういう現代のおいての硬直した知性に対する挑戦状として、エジプトのピラミッドにしろ、マチュピチュの遺跡にしろ、
ストーンサークルにしろ、現代においても存立し続けているのだと思います。

「神々の指紋」や「神の刻印」などのグラハム・ハンコックの著作を読むと、全世界じゅうに遺跡が「沈んで」います。
わが沖縄の海の下にも壮大な石造りの遺跡が眠っているようです。
豊富な写真とともに世界中の眠れる遺跡が紹介されていますから、興味のある方は読んでみるといいかもしれません。

アセンションというのは、そろそろその「公案」を解きましょうということに他ならないような気がします。
その公案を解くためには、まず自分とは何か、生きるとは何かを通過しなければ無理なのでしょう。
禅的にいえば、「本来の面目」を通過しないと、それに続くいかなる公案も通過しないからです。

人はどこから来てどこへ行くのか?
問いはそれだけです。
それだけの問いに答えられない苦しさにこの世は満ちてしまいました。
突破できますでしょうか?
ぼくは突破したいです。

慈風

2009年06月27日 | スピリチュアル
梅雨の感じがしない今日この頃です。
梅雨は梅雨らしく、夏は夏らしく、冬は冬らしいのがぼくは好きです。

禅の話ばかりで恐縮ですが、今ぼくの頭を占める割合が最も大きいのが禅についてなのでご容赦ください。
今しがた道場長より電話がありまして、老師がぼくにつける道号を考えてくだされており、
それに先立って入門・入団の意志があるか否かの確認の電話でした。
もちろん、ありがたくお受けしました。

道場の諸先輩方に聞くと、一昔前までは一年間くらいは参禅(老師の前に出て、公案を提出すること)も許されず、
公案の初門を通過してからさらに何ヶ月か数年かは知りませんが様子見を経て、入門・入団が許されたもののようです。
前にも書きましたとおり、「どこまでも底が深く、周到で、緻密な禅というシステム」です。
入門に至るまでの「待機」という期間もとても大切な修行の時間になるだろうことは予想がつきます。
ただ、ぼくの場合は、場合によっては「待機」というのはあまり効果的ではないような気がしています。
せっかくのちゃぶ台をひっくり返して、どこかに行ってしまうようなところがあります。
その辺りを老師が見抜いてくださったのだと思います。

前に禅の風光を「空っ風」のようだと評しましたが、今ではちょっと考えを改めています。
外側から見れば確かに颯爽とした真冬の雪に覆われた大地の上を渡る風のような風光なのですが、
自分の内部に入ってみると、愚図愚図した人の迷妄の毒ガスを吹き払う「慈悲の風」でした。
外部から見れば坐禅をする姿は凛々しいかもしれませんが、当人は足の痛さと汲めども尽きない雑念と格闘しているわけです。
道場内はしんとしてますが、当人たちの心中では感情が波たち、音を立て、臭いを発し、ぐるぐるとのたうっています。
その厄介な騒ぎ立てる心の波をすーっと静めるのが禅の「慈悲の風」であるように今回は思いました。

なんにしてもぼくは「禅」の道を歩く決意を固めました。
大道を闊歩してやります(笑)

ちなみにご参考まで。
この道場は、初心の者が一週間の接心に参加する費用は期間を通じた総額が500円です。
食事は一食につき300円です。
宿泊する場合の宿泊費は無料です。
江戸城無血開城を成し遂げた最大の功労者の山岡鉄舟先生らが、維新後の日本の人材育成を図るために創られた居士のための道場です。

う~ん、シブイ(笑)


浮雲

2009年06月19日 | スピリチュアル
今日も空には浮雲が流れているだけで、雨の降りそうな気配はありません。
そろそろ降ったほうがいい感じです。

一昨日は老師が外出で参禅はありませんでした。
昨日の参禅で、また公案が通りました。
「本来の面目」の面目躍如の感があります。
でも、公安が通ったとか通らなかっただとかはもう言いませんね。
話を聞くほうはちっとも面白くもなんともない話ですからね。

言うまでもなく、公案が通るかどうかは二義的な問題です。
第一義は境涯の進展です。
境涯が進展しなければ公案も通らないのですが、境涯が進展しなくてもいいのです。
進展しようが進展しまいが坐禅を組んで、参禅する。
それがすべての根底にある崩しようのない前提に据え置くべき境涯です。
また、境涯が進まず、公案も通らず、混迷を深めれば深めるほど、そこを打ち破ったときの喜びもひとしおのようです。

禅にはどうでなければいけないとか、こうあるべきだとかいうのは基本的にありません。
己が、己の閉じた心をこじ開けて、己のままを曝け出すだけです。

とにもかくにも、今回の接心は今夜が最後です。
心地のよい緊張を心に感じながら、今から行ってきます。

空っ風

2009年06月17日 | スピリチュアル
今日も晴れました
気象庁が梅雨入り宣言をして数日後からずっと晴れているような気がします(笑)

昨夜も新しくいただいた公案が一発で通りました。
文字を追って考えたら永遠に解けそうもないのですが、「本来の面目」から見ますとすっと答えが浮かびます。
答えが浮かんだ瞬間に、それしかありようのない答えだというのがわかります。
すごい経験です。
すごい経験ですが、決して慣れたり、油断したり、慢心したりしないようにする必要があります。

「本来の面目」を掴むということは「小悟」という小さな気づきの段階らしいですが、
この先「大悟」に向かって一歩一歩登っていくわけです。
果てしのない道のりが遥か地平線の先に消えています。
もちろん、今でも悟りたいとか、境涯を高めたいとかいう思いは別段ありません。
淡々と登っていくだけです。
坂が急ならあえぎあえぎ登るだろうし、平坦ならばすいすい登るのでしょう。
雨が降っても、日照りでも、嵐でも、雪でも、淡々と登るだけです。
ぼくは天気のいい日の風景が好きなわけでもありません。
嵐に揺れる木立も好きですし、崩れかけた廃屋から垂れるツララも好きですし、
横殴りの雪に荒れ狂う日本海も好きです。
どんな風景にも妙味はあります。

ぼくは以前から禅の世界には憧れてはいました。
ただ、いろいろな本を読んだり話を聞いたりすればするほど、ぼくには参入するには敷居が高すぎると感じていました。
なにしろ身体が異常に硬いものですから、足を組むのがものすごく難儀でした。
今でも痛いですが。
それから誘惑に弱く、煩悩に流されやすいタチですから、純一無雑の境涯を目指すかのような禅の世界は
縁遠く感じていました。

ただスパリスパリと物事を縦横無尽に切り取っていく切れ味のよさと、ベタベタした執着ががない空っ風のような気風が、
とても好ましく感じていました。

う~ん、いろいろな意味で感慨無量です。

初門

2009年06月16日 | スピリチュアル
新しいPCを通販で買いました。
注文してから海外で生産して輸入するという形です。
初めて通販で買ったのですが、安いだけあって説明書がなんにも付いていません。
なんとかネットにも接続でき、いまはそのPCでこれを書いています。
携帯も新しくしたのですが、もうすっかりIT情報弱者ですね。
さっぱりわからない機能ばかりです。
いまどきのスパイには絶対になれないでしょう。
ぼくってスパイの適正があるなと勝手に大いに自負していたのですが、その道は閉ざされました(笑)

さて、土曜日から禅道場に行っていましたが、昨夜最初の公案(「本来の面目」)を通過しました。
初門を突破したということらしいです。
もちろん、うれしいです。
うれしいことはうれしいですが、うわついた感じは持ちようがありません。
全身全霊で答えるわけですから、浮つきようがないです。
真剣勝負で導いてくれた老師をはじめすべてのご縁に感謝するしかありません。

参禅(老師と一対一で対峙すること)の内容は一切話せません。
また、話そうにも話せるようなことでもありません。
なりきるとは、なりきるだけです。
言語や思慮を超えるしかありません。

なんというか、どこまでも底が深く、周到で、緻密な禅というシステムに感動するばかりです。
今から新たな気持ちで道場へ行ってきます




2009年06月11日 | スピリチュアル
今日は数日ぶりに晴れ、気持ちのよい風が吹いていました。
ふと釣りに行くのにはうってつけの日だなと思いました。
何年(おそらく十年以上)も釣りになど行っていないのですが、こんな日に潮騒をボ~ッと聞いているのもいいなと思いました。

娘はなんにでも手を出しますから、釣りはまだダメでしょう。
エサ箱をひっくり返し、釣り針に手を刺し、岸壁から海へ転げ落ちるでしょう。
娘からすればどこへ行きたいだろうかとか、なにをしたいだろうかと、娘の視線でものを考えることがよくあります。

ぼくからすれば娘は娘ですが、娘からすればぼくは父親です。
当たり前のことですが、人は息子や娘であり、親でもあったり、誰かの知人であり、友人であり、得意先であり、
同僚であり、知らぬ誰かであり、恋人でもあったりします。
さらには、加害者であったり、被害者であったり、善人であったり、嘘つきであったり、時には搾取し、時には搾取されます。
一人の存在は、社会に存在するということだけで選びようもなく多重の意味を帯びてしまいます。
多様な人々の間で、多重な意味を帯びながら生きていくわけですから、人生を複雑に考えれば限りなく複雑なものになります。

多種多様多重の外部環境に合わせようと思ったら、そりゃノイローゼになります。
「人々」ということも含めて外部環境なんていうものは極めて恣意的・流動的なもので、合わせようがありません。
ノイローゼにならないためには、外部環境に影響されない自分の行動の指針というものをしっかりと持っていなければなりません。
その指針とは何かというと、それこそ人それぞれの話になってしまいますから、イメージ的にはこうです。

外部から要求あるいは期待された「役」を演じるのではなく、自分の演じたい「役」を演じるということ。

長い間外部からの要求やら期待やらに応えるべく「役」を演じ続けますと、自分本来が演じたい「役」というのを見失うことがよくあります。
本来演じたい「役」というのが見つからないと、「本来の自分」というのも見うしなったままになります。
「役」というのは、「本来の自分」がこの世で自己表現していく「姿」だからです。

学校や職場や仲間内でも、人間関係というのは、無責任な要求やら期待やらで満ちているものです。
そんな無責任な要求や期待にいちいち反抗するのはダメです。下策です。
そういう大きな流れに敵うはずもなく、かえって自分がボロボロになります。

多種多様な価値観が渦巻く世界においては、「自分が」を中心にした言動というのは大抵は失敗します。
反抗というのは、自分の正しさと他人の間違いを対比させ、自分の主張を押し通すことです。
正しさと間違いを対比させた対立はひたすら消耗するだけです。
正しさと間違いは見方の違いでしかないですから、「自分の見方が正しい」合戦になるだけです。
そういう不毛な対立はますます人を孤立させていきます。

ではなにができるか。
先ずは、外部からの要求やら期待があるのなら、それに応えようと思えば応えられるだけの能力・体力・忍耐力を身につけること。
外部からの要求・期待に応えてこそ、自分のしたい「役」という自分自身の道が初めて開けてくるのだとぼくは思います。
基礎的な能力・体力・忍耐力などを身につけていないうちに、やりたい「役」をやれるほどこの世は甘くないのでしょう。

人が進む道には色々な障害がありますが、「対立」という手段はおそらく最悪な手段です。
そうせざるをえなかった経験は誰にでもあるでしょうが、対立している間はどこにもいけない状況が続いたはずです。
障害があったときには、対立ではなく、それを「越えること」が人の能力の活かしかただと思います。

いちいち障害と対峙してたら身が持ちません。
自分の周囲の貧乏、悪意、嫉妬、意地悪、無責任、失恋、そんなものにいちいち目を向けていたら、そら生きているのが嫌になります。
そういう課題は、教科書では学べない生きたレッスンだと思うことです。
生きたレッスンですから、上手くクリアすることができないと、心が痛みます。
落第したからといって、先生の拳骨やら、親の叱責ではすみません。
リアルにクリアしないことには、自分の心が痛みます。
だからこそ、本気でクリアすると決めた方がいいです。
無駄な抵抗を続けるうちに、放っておかれた痛みは膿んでいきます。

越えること。
相手を越えるのではありません。
自分を越えるのです。
自分の枠を越えるのです。
考え方を越えるのです。
それ以外に、越えるものなど一つもありません。

自由というのは、無条件に自由になるのではなくて、「自由でいるという選択」をし続けることです。
自分が不自由な観念やら思い込みやらに縛られているなら、真っ先にそこから自由になるしかありません。
心が自由であれば、「対立」という心のポジションは不可能になります。

ようは、心身とも「活かしきる」ということです。
「自分について」悩むエネルギーがあるなら、「自分を」活かすエネルギーに転化することです。
「自分について」などというのはどうでもいいことです。
甘えと欺瞞と無責任にベトベトになった概念らしき不健康な意識のエネルギーです。
「自分を」どうするかが人ができるすべての選択です。
自分が自分をどうにかし続ける。
そうなった時に、自分のしたい「役」というものがその形を明らかに現してくるのでしょう。


2009年06月09日 | スピリチュアル
夜中に目が覚め、眠れなくなったのでそのまま滝に行きました。
空はどんより曇っていて、早朝ゆえに都市高速はガラガラでした。

滝に何百回入っているのかは数えていないので分かりませんが、一日たりも同じ感触というのがありません。
毎回行くたびにまったくまっさらな新しい体験があります。
今日は水も大分温かくなっていて、体が冷たいだの痛いだのなんだのあれやこれやから離れて集中できました。

しばらく「行」にも入っていないし、行きたい時にだけいくというスタイルでしたから、
まだ日の出も迎えていない行場はさすがに緊張感があります。
あちらこちらで試すかのように大きな物音がしますし、鈴の音が聞こえたりもします。
でも、一切取り合いません。
試されて当然なのが行場でもあります。

で、滝にエイッと入って、禊の祓いを唱え、般若心経を唱え、観音経を唱え、各種真言を唱え、最後に
「生かしていただいて 有難うございます」を心ゆくまで唱えます。
今の滝は至福とも思える体験ができます。
滝場は何体ものお不動様が一切の妥協なく境界を守ってくださいます。
ひたすら感謝の頭を垂れて、滝場をあとにします。

滝に行ってから一日をスタートするのと、そうでないときとでは何かしら日常を流れる時間の感触が違います。
滝行の具体的な効能を言っているのではありません。
時の流れに対する感触の違いです。
なんというか、崩れようがなくなる、そんな感じがします。
滝に行かなければ崩れるのかとか、そういうことは別次元の話です。
シンプルに崩れようがなくなる。
そういう感じがします。
なぜか。
水と一体になることでぼくの何かが満ちたり、自他を含めた世界を信頼し、よりよき境地というものを信じられるからだと思います。

山登りにせよ、スキューバダイビングにせよ、スカイダイビングにせよ、放浪旅行にせよ、あるいは日常生活にせよ、探求の過程というのは、
歩を進めつくせば、究極的には同じような境地に辿り着くのだろうと予感しています。
どんな探求の道でも、その道に入り始めは苦痛や痛みや恐れがあるものです。
その壁を越えると、道は道としてどこまでも先に続いているのでしょう。

う~ん、われながらナイスな人生です(笑)



心を添わす

2009年06月08日 | スピリチュアル
晴れるとさすがに暑いです。
役所関係をあれやこれや自転車で回りましたところ、汗まみれになりました。
さっそく帰って店の冷蔵庫にあったビールを飲み干したのは言うまでもありません。

唐突ですが、これからの時代は特に誰からも弱みを握られないように生きる必要があるかもしれません。
変に欲を出したり、色気を出したり、人を利用したり、傲慢になったりしないということです。
男は出世と色欲に弱いでしょうし、女は自分の子供とやはり色欲に弱いでしょう。
この世は誘惑だらけです。
誘惑に負ける道を歩いていて誘惑に勝てる勝算はありません。
誘惑に負けない道を歩くしかありません。

誘惑に負けない道とは何か。
仏教でいう八正道などは王道でしょう。
そこまではとてもと思うなら、自分を中心にする発想を捨て、目の前の他者のことを中心にして言動を組み立てる訓練が必要なのでしょう。
相手に合わせるという意味ではありません。
相手がなにを望んでいるかをくみとることです。
往々にして、人というのは自分がなにを望んでいるかさえ分からないものです。
目の前の相手が口先で言うことではなく本当はなにを望んでいるのかをくんであげること。
要は、相手に心を添わすことです。

そうしたところで、時にはせっかく心を添わせ、相手の望みに添おうと思っても、
相手からはそんなことは望んではいないだとか、勘違いするなだとか、いろいろ罵られるかもしれません。
感謝されようが、罵られようが、呆れられようが、結果はどうであれ心を相手に添い続けること。
それが難なくできるようになれば、誘惑が付け入る隙はなくなるでしょう。

心を添わせつつも、冷たく突き放すという局面もあるかもしれません。
なにをしてあげるかが大切なのではありません。
心を添わせ続けることが尊いことだとこのごろ思います。