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風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

各人しだい

2010年02月15日 | スピリチュアル
ここ数日厚い雲が空を覆っています。
季節の変わり目なのでしょう。

さて、土曜日からいよいよ禅の接心が始まりました。
道場の役員の顔ぶれも一気に若返って、どたばたしながらも心地のよい緊張感が漂っています。

禅の世界は限りなく深くて広いですから、決まった一本道がその世界を貫いているわけではありません。
千差万別、人の心の数ほど道があると言っても過言ではないでしょう。
ただ言えることは、ひたすらな心ほどひたすらな一本道を歩くことになるだろうということです。
あれこれ迷っても、それもまた道ではありますが、ひたすらな一本道を歩くことのほうが、そりゃ爽快でしょう。
坐禅の組み方(坐相)というのは一応決まっておりますが、心のあり方は各人しだいです。
各人しだいで留まると、とても苦しくなってくるでしょう。
「各人しだい」などという色に染まっていては、無念無雑というような絶対の境地には届きません。

「各人しだい」を「各人しだい」で脱色していく。
脱色していく方法としては、数息観と呼ばれる呼吸法で、ただひたすら1から10までの数を数えていきます。
当初はこれでもかと次から次へと雑念が涌いてきます。
どんなに雑念が涌いてこようとも一切取り合わず、呼吸に専念します。
そのうち、ふと気がついたときに、呼吸だけになっている自分を発見します。
自分が呼吸で、呼吸が自分です。
そんな所にいきますと、不思議と足も痛くなく、身体の感覚も、時間の感覚もその存在感が薄くなります。

その境地がさらに深まると「三昧」と呼ばれる境地になるようです。
そういう境地に達すると、飯を食うときは飯を食うだけ、寝るときは寝るだけ、歩くときは歩くだけ、
遊ぶときは遊ぶだけ、というその瞬間の行為と完全に一体となった無駄のない「瞬間」の連続になるようです。
まさしく「今」を生きるという感じでしょうか。

良寛さんが子供とかくれんぼをしていて、子供がとっくに帰ったあともずっと一人で隠れていたとか、
客に振舞おうと酒を買いにいったところ、途中で見た月に見とれてしまって、いつまでも帰ってこなかったとか、
そういう逸話が多いのは、そういう混じりけの一切ない「瞬間」の連続に生きていたからこそなのだと思います。

そこで「各人しだい」というところに戻ります。
各人しだいというのは、要するに各人それぞれが持っている言動や考え方の癖やら傾向やらしだいだということです。
癖やら傾向性に縛られた境地を透脱することが禅の目指す境地の第一段階だろうとぼくは思います。
でも、禅の修業をする当人はすでに癖やら傾向性を引っさげて修業するしかありません。
一切の癖やら傾向性から自由でいることなど、どんな人にもできません。
敢えて言うなら、悟った人でもその言動やら考え方には癖やら傾向性やらをたっぷり含んでいるものです。

何を言いたいのかというと、「各人しだい」を、人は悟ろうが悟るまいが背負っていくわけですが、
「各人しだい」を超えた境地に遊べるのが悟った人であり、「各人しだい」に無自覚にも振り回され続けるのが、
悟っていない人だといえるのかもしれません。

人の癖やら傾向性が問題なのではありません。
そのいいとこもあれば悪いところもあるでしょう。
ようは、自分の考え方や言動の癖からさえも、自由になる境地を目指すことは可能だということです。

自分が悲しいとか苦しいとか思うとき、そのほとんどはそう思う自分の考え方に起因します。
自分の考え方が自由自在になれば、悲しいとか苦しいとかいうことからも自由自在になります。
自由自在でいながらも、悲しいとか苦しいとか、思うこともできます。
無感動になることが自由自在ではありませんから。

なんか持って回ったような言い方しかできなくできなくて、ゴメンナサイ。


澤木興道禅師

2010年02月09日 | スピリチュアル
店の裏の猫がから揚げの半分しか食べていません。
しかも、残りが皿の外に散乱していました。
ミルクは減っていません。
少し心配です。

昨日買ったばかりの「澤木興道 生きる力としてのZEN」からです。
もうすべての言葉が言葉にできぬ温もりと光を放っていますが、ほんの一部だけ。

「『澤木さん、欲はない』と言うが、実はあるどころではない、ようやく辛抱しておるだけじゃ。
 欲を深うすると仏法に傷がつくから、辛抱しておるだけの話である。欲が深いから人の欲の深いことがよう分かる。
 分からんでおるのはアホじゃ。だから間抜けたことはせん。しかもその欲の曲線は、角度が激しくある。
 その角度の激しい煩悩を持ちながら、その煩悩を仏道に持ってくる。そうすると煩悩の多いほどええんやね。
 煩悩が鈍うなるとやっぱりええ処も鈍うなる、元気も鈍うなる。どんな辛抱でもするのは、煩悩が多いからである。
 そこの人生と仏道の交錯点がもっとも肝要な処である。」

「人間澤木興道が仏道から引きずられていく。それがために凡夫の澤木の自由がきかぬ。それが信仰というものである。
 透明になるから凡夫澤木がわがままできなくなる」

「『仏祖の法』は誰でも嫌いである。それよりは飲んだくれの法が好きなんだ。私は堕落しとうてかなわんのじゃけれども、
 しかたなしに引きずられて坐禅をしておる。みなが監督しておって、堕落させられないだけの話である。』

もうすべての言葉が、その場その場で生き生きとしています。
活字にしてこうなのですから、その風貌や肉声に接したときには、さぞかし心に響いたことでしょう。
ページをペラペラ捲っただけでも、どの言葉にも引き付けられてしまいます。
おすすめです。

闇のもの

2010年02月07日 | スピリチュアル
店の裏のサッシ窓を開けましたら、から揚げはきれいさっぱりなくなっていました。
牛乳は皿に半分残っていました。
なんにせよ、どんなことをしてでも頑張って生きろと思うばかりです。

昨日、その猫に餌をあげようとサッシ窓に手をかけたら、サッシ窓に体長が1センチほどの銀蝿がへばりついていました。
入ってくるなと念じながらサッシ窓を開けたのですが、案の定、中に入ってきました。
店の一番奥の部屋が、ぼくの事務所みたいなところにしているわけですが、その部屋の壁にとまって時折ブンブン飛び回っています。
この時期の巨大な銀蠅です。
不快な胸騒ぎがしました。

で、今朝になって古い友達から電話がありました。
「あなた、私の家を盗聴してない?」という、あまりにもいきなりな質問でした。
話を聞くと、盗聴やら盗撮やらを受けていると本気で言うのです。
彼女は数年前からある宗教に入り込んでおり、何度か距離を置けとアドヴァイスしてきましたが、
聞く耳を持たなくなってきていたので、こちらから距離を置いていました。
ぼくは盗聴やら盗撮やらをするタイプではない、そういう面倒くさいことは一番嫌がるタイプだと言ったら、すんなり納得しました。

店の部屋に入り込んだ季節はずれの銀蠅のことが頭に浮かびました。
闇のものたちが蠢いているなと感じました。

ぼくが知っている彼女は、稀に見る天心爛漫な人でした。
情が深く、ユーモアがあり、分け隔てが嫌いで、不義を嫌う人でした。
その彼女がある宗教にのめり込んでいくさまを、ぼくはどうすることもできずに見ていました。
宗教というよりは、その組織に、その指導者にのめりこんでいく姿を、と言ったほうが正確かもしれません。

闇のものたちにとって、天真爛漫な心を汚すことほどの勲章はありません。
できる限りのことはしたいのですが、今後は予断できません。

南無千手観音力、です。

千手観音様

2010年02月06日 | スピリチュアル
また店の裏に猫が戻ってきました。
前の猫と同じかどうかは分かりませんが、ここにいるぞとニャーニャー大声で鳴いたので、
鳥のから揚げと牛乳を皿に入れて出しておきました。
残りあと少しのこの冬は何とか乗り切ってもらいたいものです。
春が来て、夏が来て、恋愛の一つでもして、元気に汚い街を走り回って、この世に生まれた甲斐を少しでも感じて欲しいです。

ところで、店に木彫の千手観音像がきました。
スタッフからもお客さんからも予想通りの顰蹙です。
顰蹙すればいいというものでもありません。
千本の手でもって、いかなる迷いや苦悩にさ迷う衆生を救うという誓願を立てた尊い仏様です。
そういう尊い仏様が店に鎮座ましますというのも、ありがたい話ではありませんか。
ただ、坐像ながら縦横ともに一メートルを超える大きな仏像です。
ぎょっとする人はぎょっとしてしまうのも、むべなるかな、です。

滝行の導師にその仏像をさっそく見てもらったところ、前の持ち主の因縁沙汰が少し残っているみたいでしたので、
今は線香を絶やさずに供させてもらっています。
面白いことに、線香を一本供した瞬間から、ガラッと仏像の波動が変わりました。
それまではビリビリとした波動が強烈に出ていたのですが、導師が線香を上げてからはふわっとした穏やかな波動に変わりました。
お顔はあいもかわらず形容しがたい豊かな笑みを浮かべておられます。

千手観音様が来て、手始めにお救いになさるのが、店の裏の猫なのかもしれません。
そうだと嬉しいなぁ。

念のために言っておきますが、仏像が何か神秘的な力でもって誰かや何かを救うとはぼくは思っておりません。
千手観音というある意味での偶像を創りだした人間の理念を信じ、その理念の下に具体的な行為をするのが、
仏像を持つということだと思っています。
ということは、ぼくが千手観音にならなければいけないのです。
話はそう簡単ではありません(笑)
でも、何かのご縁ですから、やれるだけやるだけです。

来週はいよいよ禅の接心が始まります。
なかなか本格的な感じがします。←なにが(笑)


占い

2010年01月28日 | スピリチュアル
近頃ぼくの周辺では占いが流行っています。
なんでもものすごくよく当り、そのアドヴァイスも的確だそうです。
ぼくの名前を見ただけでも、いつ肝臓をやられて死んでもおかしくはないのだそうです。
自分でもこのままだとそうだろうと思います。
だから観てもらえと言われましたが、断りました。

当る占いがあるというのはぼくは否定しません。
占いで観てもらって、姓名を変えることによって運勢がよくなるというのもありえないことだとは思っていません。

でも、自分で運命を選び、さまざまな障害を越えることによって魂の成長を図るというのが生きるということだと思っていますので、
病気やさまざまな苦難を占いによって回避するというのがどうも腑に落ちません。

このブログでも何度も紹介してきました良寛さんの言葉です。
「 災難に逢う時節には災難に逢うがよく候死ぬ時節には死ぬがよく候」

生老病死から逃げようと思えば思うほど、生老病死はリアリティを持ってその存在感を増していきます。
生老病死とともに生きざるを得ないのが人間です。

例えば、姓名を変えることによって、運勢が向上したとします。
金運が上がっただとか、恋愛が成就したとか、まぁいろいろあるでしょう。
言ってみれば、目の前に立ちはだかっていた課題が、姓名を変えることによって解消する。
それは誰でもほっとしますし、喜ばしいことかもしれません。
でも、目の前に立ちはだかっていた課題を克服するというテーマはどこに行ってしまうのでしょうか。

もし生まれたときに授けられた姓名が、克服しがたい課題を与えられるという運命を背負わせられているのなら、
背負うしかない、というか、背負おうとして生まれてきたのではないかと、ぼくは思うのです。
克服しがたければしがたいほど、克服したときの喜びと魂の成長は格別だと思うのです。

もちろん、課題があまりにも複雑だったり、重すぎると感じることもあるでしょう。
どんなにその課題が重く苦しくとも、自分でそれを負うと選んだとぼくは信じたいです。
その課題に現実に心身ともに押しつぶされそうになったら、占いで観てもらうことによって、あらたな活路を見出すのも悪いことだとは思いません。
ただ、あらたな課題が来るたびに、占いに頼るようにはなっては欲しくはないということです。

金運があろうがなかろうが、心身が健康であろうがなかろうが、生きている限り課題は次々と発生するものです。
正面から課題を克服するという正道を歩むチャンスを自ら失うことは避けたいな、と思うばかりです。




サイン

2010年01月27日 | スピリチュアル
今日は晴天で気持ちがよい天気でしたが、いわし雲がこの季節には珍しく空を覆っていました。
いわし雲というのは秋の空によくかかる雲みたいなのですが。
先日も一筋の雲が一直線ではなく、九の字に曲がって空を横切っていました。
明らかに飛行機雲ではありませんでした。

アメリカの西部で見る雲と、島国日本の九州で見る雲とは、そのスケールも流れ方もぜんぜん違います。
どちらがどうだということではありません。
どちらもその風土に合わせた雲の紋様であり、動き方です。
一番美しかったと個人的に思うのは、北海道をバイクでツーリングしているときに見た富良野の空です。
天空いっぱい鮮やかな茜色の雲が覆っていました。
天も大地も文字通り茜色に染まり、思わずうっとりしてしまいました。

3千メートル級の山に登ると、夕方になるとものすごい勢いで目前に雲が流れますし、朝方には眼下に雲が谷底に眠っているのが見ることができます。
時々刻々と移り行く日差しの加減で、雲はその色を変え、流れの向きを変え、発生量を変えます。
昔の人は雲の形状や流れを読んで、天候の変化を先読みしていたに違いありません。

自然界は常に何かのサインに満ちているわけです。
もちろん人々の動きも流れも何かのサインであるわけです。
そのサインを無視して、誰かの強引な意図とか計算とか策略とかが社会の流れをコントロールしようとすればするほど、
自然界に内包される人間の社会が混乱するのでしょう。

農民は日々植物からのサインを見続け、漁民は日々海からのサインを受け続けます。
都会に住む人間は、テレビや新聞の意図的に操作された情報だけは蓄えますが、自然からのサインからは遮断されています。
なにをどう受け取るか。

自然はサインを発し続けるだけです。
それをどう受け取るか、あるいは無視するかは完全に受け取る側に委ねられます。
テレビや新聞は、これをこういうふうに受け取りなさい、あるいは受け取るべきだと誘導します。
誘導しようとすることこそが、何かを書いたり報道したりする動機だからです。
その動機に曇りや偏りや誤りがある場合が、大変多くなってしまいました。

この世はサインに満ちています。
そのサインを読み取れる能力を大いに広げる必要があるように思います。
誰かの都合のいい誘導には気をつけたほうがいいです。
人は誰かの都合に従わなければならないほど、弱い存在ではありません。
一人ひとりの心の選択の自由を手放してはいけません。

こういうふうに書くとこれも誘導です。
ですから、自分の心と直に対面する必要が出てきます。
自分の心とはなにかと問えば問うほど、心は行方をくらまします。

心の自由といいながら、心の正体をつかめない。
なかなか厄介です。
その厄介さを身にしみて分かったときに、おそらく「禅」の世界が開けます。
なんだか誘導ここに極まれリ見たいなオチでした(笑)

登る喜び

2010年01月13日 | スピリチュアル
今日は朝早めに起きたら外は一面の銀世界。
九州に来て初めての本格的な雪景色のような気がします。
本格的といっても5センチくらいの積雪でしかないのですが。
明日の朝が寒波のピークとなるそうです。
今朝もベランダの水溜りが凍っていましたから、明日予定していた滝行は中止します。
水が冷たいのは仕方がないのですが、道の凍結で山の中まで車で入れないだろうと思うんです。
でも、明日滝に入っていないと、日曜日の菅生での滝、厳しいだろうなぁ・・・
まぁ、そういう流れなのだから、流れに任せるしかありません。

先日も紹介した「宇宙となかよし」の著者でもあるQちゃんが坐禅会に出て、そのレポートをブログで書いてあるので読んでみてください。
Qちゃんは何事によらずなんでも真正面から物事を捉え、捉えたものをそのまま正直に書きますから、禅のレポートなんかはホント適役です。

>一つだけ問題点をあげるとすれば、それは「楽しくない」こと(爆)。

ここは笑いました。
ぼくの行っている道場では、昔はもっと厳しかったらしく、接心中は一切の私語が禁じられていたそうですし、
「他人に気に入ってもらおうと思うな」という標語があったほど、媚びへつらいが嫌われていたそうです。
ですから、新到者(初心者)なんかは大変です。
なにをどうすればいいのか皆目見当がつかないまま、誰からも言葉を掛けられず、見よう見まねで道場で坐るというところから始まったらしいです。
参禅(老師と相見すること)が許されるのも、今みたいに門を叩いたその日からなんていうものではなく、半年なり一年なりその修業振りを見て、
見込みありと判断されて初めて許されるものだったらしいです。

確かに一般的な意味ではまったく楽しくないです。
特に最初のうちはすることなすことすべてが苦痛といってもいいかもしれません。
でも、その雰囲気に慣れ、坐禅に集中できるようになりますと、誰かと世間話しようとも思わなくなります。
余計な配慮をするのもされるのも邪魔になるようになります。

ただ、接心が終わり、親睦会が開かれると様相は一変します。
ただの酔っ払いどもの集団になります(笑)
そこがまたいいところです。

道場で同じ釜の飯を食い、一緒に修業する仲間ではありますが、その道のりも、歩む速度も、たどる境涯も、みな人それぞれなのが禅です。
人みなそれぞれというところが禅の広さ、深さ、公平無私なところです。
もちろん言葉にすれば、同じ道程を目指し、同じ境涯を目指すのですが、あくまでも今ここに生きている人間が歩くのですから、
速度も道のりも見る風景も違ってくるわけです。
あくまでも生きている人間が主体であるということから決して外れないのが、禅の道です。

Qちゃんのブログは読者数が多いですから、あのブログがきっかけで禅に入門する人が増えるかもしれません。
ぼくは縁がある人には片っ端から禅道場に通うことを勧めています。
誰でも彼でも声を掛けているわけではありませんが、今のところ声を掛けて行かないと言い張ったのは一人だけです。

本物の世界に触れるチャンスというのはそうそうあるものではありません。
近所に歴史ある本格的な道場があり、格安で食と寝床を提供してもらい、命がけで真剣勝負をしてくださる老師や諸先輩方がいる。
もう行かないのがもったいないとしか思えません。

ただ、老師のスケジュールをみると、驚くほど過密です。
あのご高齢を考え合わせますと、これ以上むやみやたらと初心者を増やすのは身体に毒ではないかとどうしても要らぬ心配をしてしまいます。
全国の道場で待ちわびる何十人もの修業者一人ひとりと毎朝、毎晩、真剣勝負に命を掛けておられます。
右も左も分からないきょろきょろと落ち着かない初心者ども(笑)がやたら増えるのも困りものかもしれません。
それでも、行きたいと思う人はどんどん遠慮せず門を叩けばいいのです。
老師は自分の身体よりもなによりも、禅の道を歩む人が一人でも多くなることを祈願していることは間違いありません。

まぁ、ぼくも新参者なんで、あんまり偉そうな口はききますまい。
ただ、本気で登り甲斐がある、本当の山に出会ったという揺るぎのない感触がぼくの中にあります。
もう頂上に辿り着けるかどうかなどはどうでもいいことです。
登ることの出来る喜びがあるだけです。


妙味

2009年12月28日 | スピリチュアル
今年も残すところ後数日になりました。
今年を振り返ると、何かをしたような、何もしていないような、どうとでも取れるいつもの曖昧な年末を迎えています。
曖昧な中にもほのかな満足感があれば及第点ではないかと思っています。

特別なイベントにも、些細な瞬間にも、祝福が宿り、喜びが宿っているはずです。
曇るのは常に自分の心ですから、心さえ青空のように晴れ渡っていたら、どんな瞬間でもすがすがしい喜びに溢れているのでしょう。

心は放っておくとわけなく曇ります。
それでも放っておくと、曇りが凝って泥のようになっていきます。
それでも放っておくと、重たい石のような黒々とした塊になって、心に根付きます。
人の心はなかなか厄介です。

心がなければ喜びを感じられませんが、喜びを曇らせ、疑いを起こさせ、絶望するのも心です。
青空のように晴れ渡った心で生きていければ、この世が天国です。
世の中が曇るのではありません。
人の心が曇るのです。

そういう心の曇りを取ることがいわゆる禅の道です。
調身調息といって、身を整え、息を整えて、心の曇りを吹き払います。
何かのためとか、悟りを開くためとかいうのも、心の曇りの元ですから一緒に吹き払います。
「あるがまま」の妙味を味わいます。

大切なのは「妙味」です。
悲しいも、苦しいも、辛いも、恐れも、生きるうえでの妙味です。
風の林を抜ける音も、雲の流れ行くさまも、夕暮れの大気の移り変わる色合いも、人の千変万化する表情も、四季折々の花のたたずまいも、
すべては大生命の妙味です。

どんなことにも、人にも、瞬間にも、大生命の妙味があります。
その妙味を味わい尽くせば、この世に生きた甲斐があります。
それだけのことなのでしょう。
自分の心を晴らすのは自分しかいないということが肝要です。
誰かや何かに頼ると、その時だけ心が晴れたような気がするだけです。
気分のよくなる映画を何本見たところで、自分の人生は自分の人生のままであり続けます。

自分の人生から妙なる味わいを感じられるようになれば、四の五のが気にならなくなります。
味わい尽くしましょう。


日月神示

2009年12月23日 | スピリチュアル
今、日月神示(ひふみ神示)全文を読んでいます。
中矢さんの解説本を10数冊は読んでいたのですが、改めて神示自体の全文を読んでいるとまた別な印象もあります。
たった一つの存在からのメッセージではなく、いくつかの存在からのメッセージの複合体のような本なような気がします。
神示自体にもハッキリそう書いてあります。

「天の日津久の神と申しても一柱ではないのざぞ、臣民のお役所のようなものと心得よ、一柱でもあるのざぞ。」 天つ巻 第二十六帖

これは神の世界では厳密に言えば一人の神様ではなく、複数の神様からの神示なのだと明示しながらも、
メッセージの方向性としては統一性を保っているものだということを示しているのだと思います。
その辺りの話はややこしいので置いといて、おやと驚いたのが以下の箇所です。

「これまでの改造は膏薬張りざから、すぐ元に帰るのぞ。今度は今までにない、文にも口にも伝えてない改造ざから、
 臣民界のみでなく神界もひっくるめて改造するのざから、この方らでないと、そこらにござる守護神さまには分からんのぞ、
 九分九厘までは出来るなれど、ここといふところで、オジャンになるであろうがな、富や金を返したばかりでは、
 今度は役に立たんぞ、戦ばかりではないぞ、天災ばかりでないぞ、上も潰れるぞ、下も潰れるぞ、つぶす役は誰でも出来るが、
 つくりかためのいよいよのことは、神神様にも分かりては居らんのざぞ、星の国、星の臣民今はえらい気張り様で、
 世界構うように申しているが、星ではダメだぞ、神の御力でないと何も出来はせんぞ。」 天つ巻 第二帖

これだけの文章でも、いろいろ解説したくなるようなところが満載なのですけれども、特にぼくが注目したいのは次の箇所です。

「星の国、星の臣民今はえらい気張り様で、世界構うように申しているが、星ではダメだぞ、神の御力でないと何も出来はせんぞ。」

というのは、プレアデスとかハトホルとかオリオンとかバシャールとか銀河連合(だっけ?)とかの、いわゆる違う星星の存在からの
メッセージと称する本が書店の精神世界のコーナーには溢れています。
それらの本にはなるほどなぁと思うようなところもたくさんあるのですが、どうも最終的な決め手に欠けているような気がぼくはしていました。
なにが欠けているのかということを突き詰めますと、またしても(異星人なり異次元存在なりの)外部からのガイダンスを信頼し、
自分を解放しなさいという所に行き着くからです。
別に悪くない考えのように見えますが、今の時代の人間のテーマは、「外部から」のガイダンスを勇気を持って断ち切り、
一人ひとりの内部に「元々」持っていた光を一人ひとりが見出すことだと思っているぼくには、どうも納得しがたい何かがあったのです。

で、岡本天明が日月神示を書いていた終戦前後の頃には、もちろんプレアデス星人からのメッセージなどは知られてはいませんし、
そういうメッセージを受信する人もいませんでした。
岡本天明自身も、このメッセージの意味するところを理解することは不可能だったに違いありません。
いろいろな人が言っていますが、やはりこの神示は今の時代にこそ向けられて書かれたものだという傍証にはなるでしょうか。

日月神示を知らない人にとっては何のことか皆目分かりませんね。
大本教の開祖の出口ナオに降りたウシトラノコンジンという神様と同系統の神様が、終戦前後に岡本天明という人間を通して、
この世に下ろした神示ということです。

神示だけあって、言葉の表面をなぞっただけではその深意がなかなか分かりません。
神事でも繰り返し言ってますが、「取り違い(都合のいい勘違い)」と「鼻高か(分かったという高慢さ)」を厳しく戒めています。

日月神示に関しては、まだまだ語りたいこともあるのですが、今日はこの辺で。


アーユルベーダ

2009年12月22日 | スピリチュアル
寒さは昨日までの数日に比べて穏やかになったようですが、今日は冬至だそうです。
明日からまた一日一日と日が長くなるわけです。
時代もものごとも後ろに流れ去って行きますが、日々新しい息吹も生まれています。
その場その場の幸不幸に振り回されることなく、自らが新たな息吹の源となれれば幸いです。

ストーン・ヘンジやインカなどの古代の遺跡では冬至に重要な祭りが行われていたようです。
太陽が再生する日として尊ばれたのでしょう。
言うまでもなく、太陽はすべての生命エネルギーの源です。
人間も植物のように太陽エネルギーを直接摂り込めるようになれば、争いごとは絶えるでしょう。

先日、アールユベーダの先生という方と話をする機会がありました。
人は食物を摂らずに生きることはできるかという質問をしてみました。
ある程度の修練は必要だろうが、出来るだろうというお話でした。
その方はいわゆる「ヒマラヤの聖者」と呼ばれるような人たちとも生活を共にしたことがあるそうで、
興味深いお話がたくさんありました。

世の中にはまだまだ面白い話があるものですが、でもそれはただの話です。
面白がって聞くだけで、自分の腹が膨れるわけでも、賢くなるわけでもありません。
そういう話を聞いて、さて、自分がなにをしたいのか、どこに行きたいのかを選択する上でのヒントになれば、
その話を聞いた甲斐があるというものでしょう。

どうやらアーユルベーダの世界というのは、肉体・精神・神界から自然の摂理までを包含する膨大な世界のようです。
書物か何かでそれを学ぼうというのは無謀の試みで終わるような気がします。
一番の近道は「瞑想」ではないかと思っていますが、その瞑想の仕方に関しても、どうやらそれは秘伝口伝のようです。

で、改めてぼくは「禅」に参じている自分の境遇をありがたいと思うわけです。
「禅」はインドの瞑想のエッセンスであるような感じがするからです。
ここだけは抑えておけという最小限の核のようなものだという、そんな感じがします。
ろくろくなにも知らないぼくがこんなことを言うのもなんなのですが、そのアールユベーダの先生も入り口は「禅」だったそうです。

日曜日には今年最後の菅生の滝に行ってきました。
もはや寒いという段階ではないです。
二日酔いでもあり、お不動様のご真言を三回上げただけで、そうそうと滝を出ました。
写真は滝仲間のKちゃんが撮ってくれたものです。

臘八接心

2009年12月07日 | スピリチュアル
徹夜の坐禅会は8柱坐(1柱坐が50分ほど。長い線香が一本燃え尽きる時間)坐りましたから、最後辺りはさすがに足が悲鳴を上げました。
間間に休憩が入りましたから、何とか最後まで坐ることができました。
年寄りたちは足の痛さよりも寒さが堪えているようでした。

坐禅そのものは、いくら坐ったからといってなんになるものでもありません。
なんになるかんになるという一切の計らいを捨てて、そのままありのままになりきるだけのことです。
凡夫が凡夫になりきるだけです。
こう口で言おうとすると、たちまち嫌味になります。
だから坐るしかないというところにまた戻るわけです。

丁度今のこの時期は、禅寺では臘八接心(ろうはちせっしん)とよばれる厳しい修業が行われる期間です。
お釈迦様が12月8日にお悟りを開 かれたのを記念して、12月1日から8日まで、ぶっ通しで坐り続けます。
聞くところによりますと、この期間は布団で寝るのも許されないとか。

想像するだけでも壮絶です。
心身とも疲労困憊でふらふらになりながらもひたすら坐り続けるわけです。
僧堂という俗世と隔絶した世界で、修業仲間とともに無言のうちに励ましあって行ずるからこそ可能なのかもしれません。

まぁ、そういう修業を完遂し終えたときの心境はどんなものなのでしょうか。
どこまでも晴れ晴れ晴れ晴れ晴れ晴れしているんでしょうか。


夜坐

2009年12月05日 | スピリチュアル
時折薄日は射すものの、終日寒々しい空でした。

今夜は夜通し道場で坐る坐禅会があります。
昔の修行僧みたいでなんかかっこいいです。
途中休憩でうどんもふるわまれるそうです。
楽しみです。

以前は耐えられなかった足の痛みも、近頃ようやく一柱(4~50分)くらいはなんとか大丈夫になってきました。
それでも夜通しとなるとさすがにきついでしょうが、これを体験しておけば今後坐るときにはさらに大丈夫になるでしょう。

毎週木曜日の晩に禅の例会が道場であるのですが、毎回古参の団員の方が持ち回りで法話を担当します。
どの方のお話しも味があって興味深いです。
禅の会ですから、だらだらとしたところがなく、飄逸なユーモアも必ずあります。
70になっても、80になっても、気持ちはみな青年です。
ぼくの今後の年のとり方にも大いに参考になります。

忘年会では句会も催されます。
みんなで優秀な句を選評するのだそうです。
道場ではお茶の会も催行されています。
なかなか盛りだくさんな道場です。

禅を追求し、俳句をひねり、茶の湯に親しむ。
今のご時勢でずいぶんと贅沢で優雅なことです。

寒々しい空もまた風流です。
りんと冷え切った道場で坐るのもまたありがたくも風雅なことです。

うどんが楽しみです。

迷い

2009年11月07日 | スピリチュアル
今日は雲ひとつない空が広がりました。
気温も高めで、こういう日を小春日和というのでしょうか。

そういえば、井上陽水に「小春おばさん」という歌がありました。
「小春ぅ~、おばさん~、会いに行くよぉ~、明日ぁ~、必ずぅ~、会いに行くよぉ~」という歌詞でした。
なんで小春おばさんに会いに行くのに絶叫調で歌うんだろうと思ったものです。
たぶん陽水が絶叫したかった。
それに尽きるんだと思います。

何かをしたいと思うのにたいていは意味などありません。
意味がないと不安になるという自意識過剰気味な現代人ですから、意味を後付するだけです。
誰かに説明できない行為をするというのは勇気がいるようになりました。
電車で席を譲るにも、目が合った人に微笑みかけるのも、そうしようとする自分の行為の説明が出来なければ、
具体的な行動に移すのに躊躇してしまいます。
躊躇する自分を説き伏せるほど強力な意味づけなど出来そうもありません。
だから目を伏せて、何ごともなかったのように状況をやり過ごします。

意味があるから行動すると思うと、意味など相対的なものでどうにでもこじつけられるものですから、行動に迷いが生まれます。
したほうがいいといえばいいだろうし、しなくてもいいといわれればしなくてもいいだろうし、という感じになります。
こうなると、しようと思ったその瞬間は常にはるか後方に過ぎ去っています。
で、結局、頭であれやこれやとこねくり回す徒労感ばかりが残り、意味ある行動には踏み出せないままに終わります。

そうではないです。
行動を起こしてこそ、はじめて意味が生まれます。
席を譲るかどうかを迷うのは、個人の内部で「迷う」というなにも生み出さない消え行く心理的現象が明滅するだけです。
譲るかどうかという迷いをスパリと切り捨てて、現に席を譲れば、譲った自分の心理的変化が生まれ、
譲られた人間の表情や言葉やしぐさから更なるフィードバックを貰い、それを見ていた周囲の人間にも何かを感じさせます。
実際に何かが動いていくのを意味というなら、行動を伴わない個人の心理の動きは、自己満足は可能であれ、無意味です。

したいと思ったらしたいようにすればいいのです。
もちろん、その行動が周囲から思わぬ不興を買い、心理的ダメージを食らうこともあるでしょう。
そのときはそのときです。
それだって、行動に移してみなければ決して学べなかった貴重な教訓です。
そういう教訓を積み重ねてこそ、するべきこと、すべきでないことが見えてくるのだと思います。

失敗というのは、失敗しないための教訓を得る貴重な体験です。
失敗を恐れて行動に移すことを恐れる人は、目前の行為に失敗しないかもしれませんが、
人生という奥深いゲームには失敗するかもしれません。
失敗がいけないのではありません。
人生に対して、恐れを抱くことが萎縮の始まりであり、自信の喪失になるのであり、喜びが失われていく元となっていきます。

何も最初から一か八かの博打を打つ必要はありません。
これは自分のためにも人のためにも良いと思ったことから、思った瞬間に行動に移す癖をつけるといいと思います。
気持ちよく挨拶するとか、目に付いたごみを拾うとか、意味もなくにこっと笑うとか。

自分がしたいと思ったことが人のためにもなり、自分のためにもなるという感じになれば、いらぬことでくよくよ迷うことはなくなります。
すればするほど自分も人も心豊かになるだけなのですから。

迷うことをもって、「考えている」というふうに自認するする人は気をつけたほうがいいです。
迷いは迷いです。
どこにも行けません。
考えるべきことは他にもたくさんあるのですから。

ヒマラヤの聖者

2009年11月02日 | スピリチュアル
急に寒くなりました。
昨日は汗ばむほどだったのですが、こういうときは体調に気をつけましょう。
なんだか温暖化なんだか寒冷化なんだかわけが分かりません。

ヒマラヤの聖者は自在に体温をコントロールできるそうです。
あるマントラを称え、ある種の観法を行うことで、氷に閉ざされても体温をぐんぐん上げ、周りの氷が溶け出すそうです。
真冬の滝に入った経験からすれば、ありえないことでもないような気がします。
うまく集中できたときは、スゥーッと寒さが消えます。
うまく集中できないときは悲惨ですが(笑)

ヒマラヤの聖者というのはものすごい人たちで、現代人がその存在を信じるのは難しいです。
寿命は数百歳、テレパシー、テレポートは当たり前、キリストのように食べ物だって必要に応じて虚空から取り出します。
ミロクの世に住む人たちがそういう感じみたいなのですが、今の人類はかなり思い切って意識の波動を高めないと、
なかなかすんなりとミロクの世に移行できそうもありません。

もともと解脱というのは生死の輪廻から抜け出すことですから、生死の輪廻から抜け出したら不死不生になるわけです。
ヒマラヤの聖者という人たちがそういう意味で解脱した人たちであるなら、因果因縁の世界から自由になることを意味しますから、
時間や空間を超越した存在のあり方を示すのもありえるのかもしれません。

チベットはそういう意味で昔から数多くの精神的求道者が引きつけられていた場所です。
不思議なことに、大戦末期にヒトラーが盛んにチベットに部下を送って、何かを探そうとしていたことです。
雪と氷に覆われた山々の奥になにを探そうとしていたのでしょうか。
現在チベットは中国の支配下に置かれています。
革命後間もない時期に、大慌てでチベットを支配下に置こうとしたように見えます。

人類の秘められた大きな可能性がチベットの奥地に眠っているのかもしれません。


選択

2009年11月01日 | スピリチュアル
今朝は土砂降りの雨の中を家族でお宮参りに行ってきました。
ここのところ休んでいないので、娘と出かけるのも久しぶりです。
だいぶ言葉も覚えて、時々びっくりするようなしゃれたことを言います(笑)。

近々、七五三にも行かなければなりません。
心に残る思い出をいっぱい積み上げて欲しいものです。
娘に関してはこちらも無条件に愛せますが、娘も無条件に親を信頼し、愛してくれています。
無条件というのが実にありがたく尊いものです。
そういう娘も思春期になればあれこれ条件を出し始めるわけですが、ま、それも更なる成長のためのステップです。
楽しいときには楽しみ、苦しいときには苦しみ悩む。
誰もが通った道だから、せめて胸を張って歩んで欲しいものです。

人は自分がしたいこと、出来ることをすればいいんだと思います。
受験にしても、就職にしても、無意味な競争を煽る風潮に巻き込まれて、どうしても競争に明け暮れてしまいがちです。
誰かよりも賢い、誰かよりも美しい、誰かよりも器用だ、際限のない世界に飲み込まれます。
そういう競争世界も無意味ではありません。
忍耐や勤勉や持続力といったあらゆる能力のベースとなるものがそこで鍛えられます。
でも、そこでそういう能力が十分に鍛えられたら、競争世界から離脱しなければならないとぼくは思います。

他人と比べて優劣を競う世界というのは、出口がありません。
どんな世界にも上には上がいますし、下には下がいます。
どこにも胸を張って生きる場所がなくなります。

「天上天下唯我独尊」というのはなにもお釈迦様が威張りくさって言った言葉ではなく、みな一人ひとりが、
お釈迦様と全く同じくかけがえのない尊い存在なのだよと宣言した言葉です。
競争世界においては、勝者は無闇に放逸に権勢を誇り、敗者は自信と生きている意味を見失います。

どんな人も、どんな状況にいようとも、自分が生きている尊厳と自由を手放さないで欲しいです。
誰もが自由です。
心身ともに成長する鍛錬は必要ですが、競争する必要は本来ありません。
誰かに勝つために鍛錬するのではなく、自分の行き方を輝かせるために鍛錬するのです。

自分を弱い存在だと思ったら、競争世界の犠牲者になってしまっています。
勝ち負けの世界では弱者というのが発生しますが、そこを離脱すれば、自由自在の世界が広がっています。

競争世界に巻き込まれて心身ともに疲弊してしまうか、自在の世界に足を踏み入れて大地の気を胸いっぱいに吸い込むか、
あなたの選択しだいです。
誰かが導くのでは決してありません。
あなたが選択する以外に、自由の道はありません。

偉そうに言って、ごめんなさい。