風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

東北ミニツアー

2014年10月16日 | 雑感
台風が過ぎて急に寒くなってきました。
さすがにタオルケット一枚で寝るのは無理になってきたので、毛布を用意しました。
皆さんも風邪などひかぬようお気を付けください。

この3連休、宮城県に福岡・宮城県人会の仲間と行ってきました。
県北の三陸・雄勝と県南の丸森町を訪れました。
雄勝は弁当に使う商材の確認と、しばらく前から親交を深めつつある友人たちに会いに行きました。
雄勝の皆さん、ありがとうございました。
丸森町は、北九州の当県人会を町長自ら訪れてくれましたので、そのエール交換のつもりで訪れました。
休日にもかかわらず二日間にわたってお世話下さったY島さん、ありがとうございました。

お礼を言うべき人たちがいっぱいいます。
ありがとうございました!

いろいろ収穫はありました。
どこもかしこも震災の深く残酷な影響の真っただ中にあります。
その中でも、あえて笑顔で頑張り続ける人たちがいます。
何とかできるものなら何とかしたいです。
でも、個々人の力はあまりにも微力です。
それでも、一人一人の小さな力を積み上げていくことだけが、今の我々にできることです。

7割の生徒が犠牲になった大川小学校にも立ち寄りました。
それは、夕暮れの空の下で言葉にできない沈黙の歌を歌い続けていました。
思わず立ちすくんでしまいました。

どんな状況であれ、希望の光を灯し続け、一つ一つを成し遂げて行くことだけです。
誰かが何かをしてくれはしません。
自分の心の中に光を宿して、目の前の難題を一つ一つ越えていくしかありません。
つねに、まだまだ、これからこれから、です。
心休まる時なんかもう二度とやってこないんじゃないんだろうかという感じさえします。
でも、それが「生きる」ということの本質でもあるんだろうと思います。
それならそれで、覚悟を決めて、自ら立ち向かうだけなんでしょう。

写真は県人会のみんなで見た雄勝湾に上る朝日です。

2014年07月25日 | 雑感
ここ数回のブログを読み返してみたら、ヒドイですね。
いつも酔っぱらって書いているからですが、なんというか・・・。
そろそろ、この酔っぱらうというのはもういらないんじゃないかと思うんですが、どうなんでしょう。

とーほぐでは、何かあると一升瓶を持ち出して来ては、あれやこれやでした。
その感覚がぼくの中に濃厚に残っています。
親戚連中が集まれば、子供にもビールを飲め飲めと囃し立てる雰囲気が普通でした。
ですから、酒を飲むというのは大人になったら率先して踏むべき段取りだったわけです。

でも、年を取ると、年々酒に飲まれるようになります。
そうはならないといくら思っていても、無慈悲にそうなります(笑)。
そうなればなったで、酒から少し距離を置く段階に入ったのかなと改めて思う次第です。
今頃か!という無数の叱責の声が聞こえます。
そんな声は聞きたくありません(笑)。

また、とーほぐの食べ物というのが、日本酒にどんぴしゃりと合います。
ホヤを食べてごらんなさい。
シソ巻き味噌を食べてごらんなさい。
まったくご飯のおかずではありません。

まぁ、あれです。
それでもこのまま飲み続けるなら、ジャージでも履いて、駅前の立ち飲み屋に行くしか仕方がないでしょう。
飲みたいときに、さらっとすっきり飲む。
なかなか難しいです。

こうして今も飲みながら書いているわけです。
嘘を書いているわけではありませんが、どうでもいいことを訳あり気味に描いている自覚はあります。

さて、どうしましょうか。
禁酒とか何とかというストイックな方向は好きではありません。
何を条件に飲めばいいのでしょうか。
条件を付けること自体がナンセンスなのですが、何かの歯止めは必要です。
なんせ酒に飲まれますから。

で、今、6杯目の焼酎を注いで思いました。
酒を飲むかどうかはどうでもいいことです。
それよりも、東からお天道様が登ってきたら、さて何をするかを考え、行動に移したら、酒を飲む気力体力が残っていません。
それしか答えがありません。
酒など飲みたきゃ飲めばいいのですが、その暇もなく創造的な行為に身を投じること。

答えが出たようです(笑)



故郷へ

2014年07月24日 | 雑感
先週末、急遽宮城県に帰郷しました。
仕事がメインでしたが、短時間ながらも被災地の現状を目の当たりにしました。
問題が山積です。
災害を生き延びて、さて、これからどうやって生活を立てていくのか、
集落やら村や町をどうやって存続させていけるのか。
答えなどなく、その地に留まる人たちが愚痴も言わずに黙々とできることを積み重ねています。

ある浜を訪れました。
集落は消失しています。
古い時代から網元だった旧家の方を仮設住宅に尋ねました。
その方は、流された自宅後に海産物の加工場を建設中でした。
その方は前しか向いていませんでした。
どこそこで商談会があると聞けば、躊躇なく出向いているようでした。
ものすごい勢いで、新たな海産物の加工品を開発していました。
サンプルを頂いて食べてみましたが、ちょっと驚くクオリティです。

一方、行政の施工方針を聞いて愕然としました。
何もかもが机上の空論です。
初めから紐付きの予算ありきで、誰の役にも立たないコンクリート事業が開始されようとしています。
これは全国津々浦々お馴染みの光景です。
そういう硬直したシステムを変えるチャンスだったのがこの大震災だったと思うのですが。

でも、現地の人たちは愚痴を言いません。
やれることをとことんやろうとしているだけです。
全国から受けた支援に対して、心から恩返ししようと思っているばかりです。

ぼくも愚痴は言いますまい。
やれることをとことんやるだけです。

それにしても、切ないです。
かつて集落や村や町があったであろうところが、しんと静まり返った無人の荒れ地になっています。
無人になった故に、生活排水が絶たれ、海が今まで見たこともないような綺麗さです。

これだけは言えます。
現地の人々は生き延びるのに精いっぱいです。
それをいいことに行政はコンクリート行政をなし崩しに始めています。
支援が必要なのはこれからです。
働き者が豊かな海で暮らし、豊かになれないような社会システムはもう必要ありません。
その警鐘としての大災害であったのだろうと思うのです。

被災者支援という限定された話ではありません。
被災地の問題から浮かび上がる今の日本の傲慢なシステムへのNOを突きつける段階だと思うのです。

で、やれることは政治運動ではありません。
個々人の力というものを信じて、個々人がやれることをやれば、システムは変わります。
ぼくは改めてやれることをやろうと思っています。







一点

2014年06月25日 | 雑感
このところ毎日の様に弁当の配達があり、今日も午前と午後の二回に分に分けて弁当を届けました。
普段は無感動のまま、というか何も感じる余裕もないままに配達していましたが、今日は違いました。
午前中は、山を二つ三つ越えたようなかなりの郊外に行きましたが、なんというか見るもの、感じるものすべて、
車窓から吹き込む風、空に浮かぶ雲の形、風になびく樹木、すべてがあるがままに歓喜しているような、そんな感じがしました。

季節の歯車がカタリと一つ進んで、夏の気配が濃厚だったからかもしれません。
でも、なぜか車窓に流れるすべての風景が愛しく思われました。
平々凡々たる田舎道なのですが、すべてはそこにあるという感じです。
だあれにも見もされず、認知もされずとも、そこに充足してある。
うまく表現できません。
都心に近付くにつれ、運転にも気を取られるようになり、そういう何とも言えない至福感は薄れていきましたが。

午後は田舎ではなく割と都会の病院に配達に出かけましたが、その独特の感覚は続いていました。
もちろん運転に気を取られてはいたのですが、それでも高速道から頭上に広がる空はなにかを語りかけていました。
何を語っているのかはわかりません。
少なくとも、不吉なことではありません。
励ましとか、示唆とか、警告でもありません。
ただただ微笑んでる。
そんな感じです。

ただただ微笑む。
あらゆるエネルギーの終局形なのだと思います。
ただ、そこはエネルギーですから、その終局形を自ら打ち破って、混沌の宇宙に飛び込んでいくのがエネルギーというものなのでしょう。
どうやら、安心というのはある一定の状態にあるのではないようです(愛してるだとか、儲かってるだとか、人を意のままに扱うだとか)。
動き回り続けることを宿命としながら、微動だにしないエネルギー源である一点を知ること。
その一点とは何か、ということなんだろうと思います。
一点であるということは、無限と同義です。
そこに我彼の縮尺寸法を持ってくると、たちまちに勝った負けた、得した損したの毎度おなじみの窮屈な世界が現前します。

なんにせよ、明日はWCサッカーの最終戦です。
とにかく悔いのない試合をしてもらいたいです。





港にて

2014年05月30日 | 
電車を何度も乗り継いで、夕暮れ時に小さな漁港に辿り着いた。
どこかに行きたいなと思って地図を見ていてたら、なんとなく気になった漁港だ。
太平洋に面した岬の突端にある。
駅前のロータリーには昔ながらのやる気のなさそうな旅館が一軒あるだけで、食堂すらない。
よくある死にかけつつある町だ。

港に向かう。
歩き始めて数分でこじんまりとした港が見えてきた。
三方をコンクリートの堤防で囲まれた湾内に数十隻の小ぶりな漁船が係留されている。
イワシとかアジとが主要な獲物らしい。
小さな漁村を振り返ると、しんと静まり返っている。
街灯が灯るにはまだ早すぎる時間だが、静かすぎる。
日が暮れるとゾンビがわらわらと出てきてもおかしくない。

どこかしらから、ウミネコの鳴き声が聞こえる。
ゆったりとした波が小舟を揺らすきしむ音も聞こえる。
風はゆったりと潮の香りを膨らませている。
空は橙色から、薄紫色に移り変わっている。
誰かがそばにいれば昔見た映画のことでも話したくなっていただろうが、薄紫色の空の下に波の音だけがする。

一人であること、を味わう。
大空を、大海を、大地を、味わう。
両腕を広げてみる。
ウミネコが遠くで鳴く。

死にかけつつあるのは俺だとふと気が付く。
死んでなるものかという気負いも湧かない。
駅前の旅館に泊まる気にはなれない。
羽毛のシュラフでも持ってくればよかったと思う。
駅に戻って、電車で行けるところまで行って、どうにでもなれだ。

ビールを無性に飲みたくなるが、自動販売機さえない。
ウミネコが鳴く。
「死ぬのにうってつけの日」というアメリカン・インディアンの読んだことのない本を、
書店の棚で見つけて、ぼうっと見つめていた日のことを思い出す。





氷山理論

2014年04月29日 | 雑感
20代の頃、フロリダ半島の先端にあるキーウエストに行きました。
目的はヘミングウェイが晩年を過ごした住居を訪れるためでした。
それほど豪華な住居でもなく、コロニアル風の心地よさそうな住居でした。
猫がいっぱい住み着いていました。
ヘミングウェイが買っていた猫の末裔なのだそうです。

ヘミングウェイの有名な文学理論に「氷山理論」というのがあります。
氷山の8割は海の中に沈んで隠れています。
表面に現れた2割を表現することで、隠れた8割までも想像させるのが優れたレトリックだということです。
つまりは、日本のドラマでよく見られるような過剰な感情表現などとは正反対な表現方法です。
本当に感情が抉られたとき、人はいかなる感情表現も、行為も封じられます。
それを一行の言葉でいかに表現するか。

特にヘミングウェイは好んで戦場とか、闘牛とか、革命とかに身を投じ続けた人ですから、
悲しいとか、辛いとか、苦しいとか、そんな陳腐に堕しかねない言葉遣いを極度に嫌いました。
リアルはいかなる言葉も凌駕します。

キーウエストで若い日本人女性のバックパッカーと知り合いました。
一緒にカリブ海の海で泳ぎもしました。
そのあと昼食を一緒に取りました。
チップを置く段になって、彼女は小銭入れから一セント玉を残らずかき集めて、15セントほどテーブルに置きました。
食べた食事は一人6ドルほどだったと思います。

そこであれこれったことをあえて書かないのが「氷山理論」です。
その事実がすべてを表します。

空は青の絵の具を塗ったように晴れていた。
裏通りのカフェにはすでに世界各地からの観光客であふれていた。
それほど待たずに通り沿いのベランダにある席にぼくらは案内された。
南国のオレンジ色がかった陽射しが色白の彼女の顔を照らしていた。
ぼくらは好みのジュースとベーコンエッグとパンケーキのセットを頼んだ。
彼女はトマトジュース、ぼくはグレープフルーツジュース。

「水着持ってますか?」僕は言った。
「うん。なんで?」
「泳ぎに行きましょうよ」
彼女は笑って頷いた。
ぼくはエメラルド色のカリブ海で泳ぐことを想像した。
食事をそそくさと終え、会計を頼んだ。
12ドル86セント。
ぼくは8ドル置き、彼女は6ドル58セントをテーブルに置いた。

カリブ海は豊かさが渦を巻いているような海だった。
風は優しく、空は底が抜けていた。
水着になった彼女は思いのほかまぶしかった。
「泳ぐ?」ぼくは聞いた。
「やめとく」と彼女は言った。
波は高かった。
波頭が完璧な青い空を背景に豪快に崩れた。
「帰ろう」とぼくは言った。本当に帰りたくなっていた。
驚いた表情をして見上げる彼女を後にぼくはシャワールームに向けて歩き始めた。

なんか冗長ですがこんな感じで(笑)。















新緑の頃を迎えて

2014年04月16日 | 雑感
桜もあっという間に散り、緑が萌えはじめました。
朝晩はまだ肌寒いですが、昼は陽射しが強いです。
今日は畑に行ってゴールデンウィーク前後に始まる苗つけラッシュに備えて草刈りです。
汗もかきますが、風が心地よい今の季節です。
ここで草刈りを怠りますと、畑が荒れ放題になって手のつけようがなくなるパターンになります。
何を植えようかなどと考えての作業は全然苦になりません。

近くのジムに行くようになってから徐々に体力もついてきたように感じます。
ただひたすら日々を消化していたかのようなここ数年ですが、ここらで前向きな行動もとれればいいなと思っています。
空いた時間に公園のベンチなんかに座ってボーっと空なんかを眺めてますとどこかに行きたくなります。
昔は行きたいと思ったらどこへでも躊躇なく行ってたものですから、その習性がうずきます。
それでもここ数年の我慢するということも習性化されていますので、どこかへ行きたい未練はすぐに断ち切れます。
いいのだか悪いのだかわかりません。

まぁ、なんにせよ状況は最悪期を通り抜けた感じは強くあります。
最悪という形容は正しくありませんね。
最悪を、どん底を潜り抜けてこその開ける新境地です。

明日も、明後日も弁当の注文が数十個単位であります。
一日に100個近い注文を受けたこともあります。
あれこれ横道への誘惑に惑わされず、愚直に丁寧に、今のペースを続けていくことができたなら、
自然と視界も展望も開けてくるでしょう。

間もなく燃え盛る新緑が楽しみです。



本当にしたいこと

2014年03月21日 | 雑感
親や先生やら先輩やらにやってはいけないと言われたことはやり尽くした。
やり尽くした後に残ったものは、したいことは何もしていなかったということ。
やってはいけないことに夢中になるあまり、本当にしたいといことに注意を向けてこなかったからだ。

本当にしたいこと。

干し草の匂いをかぐこと。
昼下がりの縁側で寝そべること。
右手に娘の手を引いて、左手に息子の手を引いて、日当たりのよい丘に登ること。
白樺の林の中で誰にも気が付かれずにロシアの古い本を読むこと。
江戸時代の職人が作った鳥かごの中で文鳥を三匹飼うこと。
風の匂いを、誰にも邪魔されずに思い切り吸い込むこと。

道端にあった人に軽く会釈すること。
仙台味噌で作ったなめこ汁を飲むこと。
飛び切りのモーゼルワインを飲みながら、丁寧に作ったオニオングラタンスープを食べること。
泣いてる子供にとっておきの手品を見せて笑わせること。
嘘をつく人に嘘をつくなとすまして言うこと。
悲しむ人に悲しいねと言ってあげること。

ごみを拾うこと。
心のごみを拾うこと。
空を見ること。
焚火をすること。
風を感じること。
土を触ること。

人を見ること。
人を感じること。
人を判断しないこと。
人を許し許されること。
すべてがすべてであることを知ること。

戯れを愛すること。
このひと時を愛すること。
死すべきこの命に感謝すること。







放念

2014年03月08日 | 雑感
ブログの更新にまた長い間が空いてしまいました。
いつの間にか日差しはすっかり春です。
風はまだまだ冷たいですが、陽のあたりのよい窓辺に座ってぼんやり空を眺めたりしますと、
なんというか、いろいろな心のわだかまりが溶けていきます。

わだかまりなんぞ金輪際持ちたくはないのですが、未熟なせいで、どうでもいいわだかまりが
黒い雪のように心のうちに積もっていきます。
積もったわだかまりは泥水が凍るように黒い氷床となって心の表層を覆います。
表層を黒で覆われた心は、なすすべもなく暗闇の中で青ざめます。

と、無駄な修辞を連ねますが、実のところかなり心はのほほんとしております。
春風に吹かれております。

どうやら長いトンネルを抜け出しつつあるような気がします。
ここ数年間はほんとうに長かったです。
誇張ではなく、数十年の月日が流れたような気さえします。
先が見えない行程というのは、恐ろしく人の心をかき乱します。
かき乱されても、かき乱されても、春風を想像力で頭上に吹かせます。

人の心は単純ではありません。
いくつもの層が複雑に折り重なっています。
いくら表面が黒い氷に覆われようとも、その下には好奇心と希望に満ちた心が目を輝かせています。
逆に言えば、いくら心が好奇心と冒険心に富んでいようとも、その輝きを覆い尽くす黒い氷の層もまた心ではあるのです。

そんなこんなの七面倒くさい心の層と層との隔壁をこそ、この春風に溶かすべきなのでしょう。
その七面倒くさい心のありようをこれでもかと分析したのが仏教の「唯識論」です。

以下、ウィキペディアより抜粋。

まず、視覚とか聴覚とかの感覚も唯識では識であると考える。感覚は5つあると考えられ、それぞれ眼識(げんしき、視覚)
・耳識(にしき、聴覚)・鼻識(びしき、嗅覚)・舌識(ぜつしき、味覚)・身識(しんしき、触覚など)と呼ばれる。
これは総称して「前五識」と呼ぶ。
その次に意識、つまり自覚的意識が来る。六番目なので「第六意識」と呼ぶことがあるが同じ意味である。
また前五識と意識を合わせて六識または現行(げんぎょう)という。
その下に末那識(まなしき)と呼ばれる潜在意識が想定されており、寝てもさめても自分に執着し続ける心であるといわれる。
熟睡中は意識の作用は停止するが、その間も末那識は活動し、自己に執着するという。
さらにその下に阿頼耶識(あらやしき)という根本の識があり、この識が前五識・意識・末那識を生み出し、
さらに身体を生み出し、他の識と相互作用して我々が「世界」であると思っているものも生み出していると考えられている。

抜粋以上。

西洋心理学に無理やり適用すれば、

六識 = 意識
末那識 = エゴ、イド
阿頼耶識 = イデア、集団無意識

といったところになるのかと思います。
そんなこんなは今となってはどうでもいいことのように思えます。
心が複雑だといくら叫んでみても、それを解消するのは一人一人の意識のあり方であり、行為の選択です。

西洋風な効率主義的に考えれば、己の一つ一つの経験に意味と価値を求めます。
仏教的に受け止めれば、経験に充足と喜びを見出します。
そこにはなかなか埋めがたい断絶があります。

そんな断絶を目の前にして、立ち止まっているつもりはありません。
瞬間瞬間の経験を経験そのものとして立ち上げていく。
辛いは辛い。
苦しいは苦しい。
悲しいは悲しい。
嬉しいは嬉しい。
喜びは喜び。
ただひたすらそれだけのことになりきるときに、効率と計算は死に絶えます。
何が残るのでしょうか?
残すことさえ放念したときに、何かがわかるのでしょう。


















凧揚げ

2014年01月07日 | 雑感
というわけで、今朝は惰眠を削り、冬休み中の娘を連れて公園で凧上げに行ってきました。
ちょうどいい具合の風が吹いていて、からりとした冬の青空にくるくる踊る凧。
通勤途中の人たちも物珍しそうに凧を見上げます。
娘は大はしゃぎで凧糸を持って走り回り、ついでに凧を木に引っかけてしまいました。
大きな梯子でもなければ取れそうにもありません。
しょんぼりする娘を自転車に乗せて帰宅し、七草粥を作って食べさせました。
最初はいやいや食べてましたが、次第にそのシンプルで少し苦い味に慣れたのか、お代りをしました。

そのまま娘を義父母の家に預け、店に出ます。
用もないのに定時前に店に出るのは初めてのことです。
街の背後に連なる山並みが眩しいです。

さて、店に着いて、何をしようかと考えます。
まだ営業時間までには間がありますから、何でもしようと思えばできます。
今までは朝はぎりぎりまで寝腐り、夜はスキさえあれば飲んでいましたから、
こういう前向きな時間はほんとうに久しぶりな感じがします。
コーヒーを淹れます。
PCを立ち上げます。
窓の外は青空です。

取り巻く状況は厳しいままで何も変わってはいないのですが、自分の行動と心境は変えられます。
今日の朝は今日の朝があり、明日の朝は明日の朝があるのでしょう。
どの朝も大切な朝であることは違いがありません。
自分の行動と心境さえ気持ち良ければ、どんな朝であろうが気持のよい朝を迎えることができるのでしょう。

満たされない心は破壊衝動を生みます。
その破壊の対象が他者に向かうのか、自分に向かうのかという違いがあるだけです。
本当はすべてがそのままで満たされているのだということはぼくは知っています。
ただ、日々に追われるあまり、そのことを忘れてしまいます。
忘れてしまいますと、忘れたままの空虚な心で、空虚な行動を重ねていきますから、
心が満たされないという虚構の心境に堕ちてしまいます。
意味なく酒を飲み、意味なく自分を責めさいなみ、意味なく布団の中に引き籠ります。

だから、時に追われてはいけません。
時を創っていかなければいけません。
時を創るとは、行動を、意識を、心を創っていくことにほかなりません。
それこそが創造主です。

どんなこともちっぽけなことというのはありません。
それをちっぽけと感じるちっぽけな心があるだけです。

明日の朝も頂いた新米を炊いて、美味しいみそ汁を作って娘と一緒に食べようと思います。


あけましておめでとうございます

2014年01月05日 | 雑感
あけましておめでとうございます。
ブログを書くのもほんと久しぶりになってしまいました。
書く時間もないほど忙しかったかというと、そういうことでもありません。
意識に何かを書くという余裕がなかっただけです。
飲んでばかりいたので、意識の許容量がどんどん狭くなっていってる感じです。
正月早々つまらぬ愚痴であいすみません。

さて、今年もスタートして、どんどん容赦なく時間は流れます。
自分のしたり考えたり感じたりするペースを再構築する必要を感じています。
自分の行動の配分を考える。
午前中の無意味な惰眠をごっそりと削り、衰えた体力の回復や、絵を描いたり山に登ったりという趣味に割り当てる。
物理的にも精神的にも無為の時間が多すぎるので、その日その時のテーマを決めて、意識の拡張なり深化を試みてみる。
まぁ、したいことやしてみたいことは山のようにあるわけですが、ここ2年ほどはそういうことに意識を向けることさえ
自分に禁じていたようなところがあります。
実際のところ、とてもそのような余裕はありませんでした。
金銭的な余裕のなさは慣れっこですからあまりストレスは感じませんが、精神的な余裕のなさは正直心身に堪えました。
その精神的な余裕のなさは、つまるところ金銭的な日々のストレスからくるわけですから、
まぁ、商売をする以上事業なり商いなりを軌道に乗せるまでにはどうしても避けて通れぬ関門です。

そういったストレスに数年にわたって四六時中とり付かれてますと、意識が疲れ、体が疲れ、精神が疲れ、魂が疲れます。
そこでへこたれてしまえばそれで終わりです。
この先もどうなるかはわかりませんが、へこたれないことは僕の中での決定事項です。
ヘミングウェイの「老人と海」で、大カジキと死闘を続けるサンチャゴのセリフに、
「人は打ち殺されることはある。でも、決して負けないこともできる」というような言葉がありました。
結果的に殺さにれることはあるでしょうが、最後まで戦い続けることもできるわけです。
戦い続けさえすれば、勝敗は天の采配に任すのみです。
たたき続ける者に負け

別に恰好をつけてるわけでもなんでもありません。
そこまで追い詰められてこの2年間はやってきた感じです。
先の結果を検討したり、追い求めるような余裕もありませんでした。
日々の目の前の変化にじたばたしながらもクリアすべく徒手空拳で挑んできたという感じです。

さて、今年です。
弁当事業が大きな展開をみせそうです。
立ち上げた宮城県人会も具体的な活動に入りそうです。
惰性に近い感じでやってきた店の営業もきちんと戦略と戦術を持ってリセット、リスタートしようと思っています。
まずは体力です。
2年前からすると10キロほど痩せました。
新年冒頭に意図すべきは体力の回復です。

これからも状況は変化し続けるでしょう。
変化を恐れず、それを楽しむためには、いろいろな意味での「力」が要ります。
力をつける年にしたいです。
この年になって「力」をつけようなどということを言うことになるとは夢にも思っていませんでした。
力をつけるなどというのは、青年期から3~40くらいまでの年齢の人間の必要な階梯だと思っていました。
ある意味、一生「力」をつけていく過程なのかもしれません。
物事を覚え、分析するのも「力」なら、物事を忘れ、執着を手放すのも「力」なのかもしれません。

そんなこんなで、今年もなにとぞよろしくお願い申し上げます。







戯れ

2013年10月25日 | 雑感
深海と宇宙は相似形
果てに行くほど闇は濃くなり、肌寒くなる
光は光とて、自ずと限界がある
光の届かぬ領域があるからこそ、光と闇との戯れがある

波間に漂う塵のように、人は思い煩う
ただ戯れだったはずの光と闇が、人の因縁となって人を悩ます
悩みが産むものは、悩み
果てしのない悩みのさざ波が、地表を覆う

悩みながら喜ぶことはできない
悩みながら慈悲の心を持つことはできない
悩みは悩みの螺旋をえがいて下降する
戯れとは一切無縁のままに

ふと思う
すべてが戯れだとしても、そこには「上がり」があるはずだと
「上がり」のない戯れは、戯れではなく勤務になってしまう
光と闇の戯れの「上がり」とはなんなのか?

光でも闇でもないもの
そんなものをぼくらは知らない
おそらくは、それはただの「息吹」
ただ吐いて、そしてただ吸う

なにを吐いて、なにを吸うのか
それはおそらくは「思い」
思いを吐き出して、思いを吸い込む
それが「命」というものの永遠の連鎖

二つの台風が接近中
地球が自在に戯れ始めている
人は波間に漂っている場合ではないのだ
大いなる戯れに参加する時がきた






もたもた

2013年10月19日 | 雑感
近頃自分でも、もたもたしているなと思うときがままあります。
寄る年波のせいでもありますでしょうが、寄る年波のせいでしょう(笑)←ケツロン

まず関節がなめらかに動きません。
滑舌も悪いと指摘されます。
物覚えが悪いです。
その前にものを覚えようという気が希薄です。

そんな中でも、先週は禅の摂心会を終え、ふらふらになりながら今週を迎えました。
なにせ摂心中は毎朝4時起きです。
夜は店の営業で道場に行けませんから、朝しか行けません。
でも、頑張って行った甲斐がありました。
早朝の道場は独特のすがすがしさがあります。
「清々しさ。」
それが禅の目的でもあります。
日本古来の神道の流れでもあります。

夏野菜もそのシーズンを終え、トマトやナスの逞しく太った枝を抜き、土を耕して冬野菜の迎えいれ準備をします。
そして気がつくのは、トンボの姿が見えないことです。
この季節には、トンボがこれでもかと飛び回っているはずなのです。
昨日、友人の田んぼの稲刈りの手伝いに行ったのですが、田んぼの周囲に蕎麦のたのを撒いたのはいいのですが、
咲いた蕎麦の花を媒介する「ミツバチ」がいないので、蕎麦は稔らないそうです。
ミツバチは一足先にアセンションしたんだよと冗談を言ったら、友人は真面目な顔してそうなんだと言いました。

なにはともあれ、もたもたしています。
もたもたすると、周囲の人々が苛立ちます。
もたもたブルースでも歌ってやります。

ああしろ こうしろと
うるせぇな こっち見るな
おれもおまえの 傍にいたいけど
わけもない思いつきで おれを振り回すな

なにを言おうと していたのか
おれもわからん 知ったことか
分かり合おうと するの止めた
止みもせぬ心の波 心の溝深めるだけ

もたもたブルースでした。








2013年09月21日 | 雑感
言葉を呑むほどの天空に輝く中秋の満月を観て、そろそろと季節は移ろっていきます。
日本は異常な暑さに見舞われていましたが、南半球は異常な寒波に襲われていたようです。
なにはともあれ、現況を生き抜くだけです。
紛争や騒乱も、世界各地で絶え間なく勃発し続けます。
生き抜いて欲しいと願うばかりです。

いつの間にか、自分の周囲半径5メートルくらいしか、みえなくなっているような気がします。
大局観とか、男子の本懐とか、使命とか、そんなものが急速に希薄になっていくような気がします。
産まれて、好奇心に溢れ、知ったつもりで生意気になって、世間の壁にぶつかり、七転八倒して、曲がりなりにも自分の人生の形を作り、
さてそれからという時に、モチベーションを見失います。

誰かは自分のために、あるいは誰かのために懸命に生きている。
ぼくが口を出す隙はありません。
それで問題があるとも思いません。
で、問題は、このおれです。
ありもないしない「おれ」を生きようとするこの「おれ」です。

生きていれば、好むと好まざるとを関わらず、なにがしかの因縁を産み引きずります。
因縁が凝り固まって、身の回りに凝結し出しますと、本来自由な自己は窒息し始め、生き延びるための架空の人間像を創りだし、
ひたすら重く型ぐるしい現実に対する防波堤とします。
できるビジネスマン、気配りの行き届いた主婦、世を拗ねた風来坊、刹那の快楽を追い求めるニヒリスト、
挙げればきりがありません。

そういった、生きていれば際限なく産み出されていく因縁から自由になることを、「解脱」というのでしょう。
「解脱」は「解脱」したいと思った瞬間に遠のきます。
「~したい」という「我の欲求」からの解脱だからです。
「~したい」という欲求不満の境地から、今ここにいるという峻烈な時空を体験すること。
それしか「解脱」の道筋はありません。
正確に言えば、それは時空ですらありません。
生命が光る。
光が生命。
時空だとかなにをしていつのだとかの、座標軸に囚われない光。

その光を見ることはそれほど難しいことではありません。
その光になりきることが、難しいです。
なりきるというのではありません。
そのままでいるということです。
「そのまま」を誤解しているうちは、自分をも含め、なにもかもを誤解し続けるということです。
自分という存在の「そのまま」。
半径5メートルのうちにあるのか、何千光年先にあるのか。
掴もうと思っているうちは掴めなく、それでは掴むことを放念すれば、掴めるものなのか。

繰り返しますが、光を見ることは難しいことではありません。
光になるということはどういうことなのか。
それこそが最終的な問題なんだと思います。


2013年09月14日 | 雑感
人の生きる進路には常に壁が立ちはだかります。
それが、ある人であったり状況だったりするわけですが。
お金がないから、できない。
したいことが誰それの反対で、或いは邪魔で、できない。
したいことをするためには、あれこれこういう条件が整う必要がある。
きりもなく次々と自分の外部に壁が立ちはだかります。

ほんとうは、壁というのは誰か他の人であったり、状況であったりするわけではありません。
自分の中にある、人とか状況に対する条件付けがあるだけす。
こうすれば上手く行くという仮定に反する状況なり、人物なりが現れると、上手く行くはずがないと思い込むだけです。

自分が自分の壁を創ります。
できるできないを思い悩むのは自分です。
何でもかんでもできると思うのも問題ありですが、したいことをするということに当たって、できるかどうかを問うべきではありません。
できるかどうかよりも、するかしないか、です。

「する」というのは一切のごまかしが効きません。
なにかを「する」、ということのだけです。
なにかをしようと検討するとか、思いを巡らすとか、そういうことではありません。
結果は分からないけれども、「する」という自分の意思に、決断に自分という全存在を委ねます。
結果はもちろん保証されません。
したことによって、おおいに傷付くことだってありえます。
でも、「した」ことによる、した人にしか分からない経験を積むことができるし、次のステップに向けての反省も生まれます。

壁というのは人の心の「恐れ」が産み出す幻です。
幻だからどうでもいいといいということでもありません。
何でもかんでもしたいようにできることが許容されるほど人は練達していません。
なんの恐れもなく、地球を、人々を蹂躙されてはたまったものではありません。
今の段階の人類には、なにかをするに当たっての「恐れ」というものが必要なのも、むべなるかな、です。

それでも、そろそろ、その「恐れ」を超克する時が来ているように思います。
「恐れ」の内容は人それぞれです。
臆病、無関心、傲慢、人のせい。
どれもが「恐れ」がなければ効力を失う心理的傾向です。
心理的傾向というのは、自分というものをなにがなんでも保持するためのもであるだけに、とても頑固です。
その頑固さも「する」という唯一の具体的な行動の前には口を出せません。
世の中の平和をいくら布団の中で夢想しても、「おはようございます」と無邪気に陽気に挨拶できる人の作り出す現実には敵いません。
政治家をいくら攻撃しても、畑で野菜を収穫する人が感じる平安を得ることはできません。

くどいようですが、何でもかんでもすればいいというわけではありません。
すべき価値が自分であると確信したことに関しては、果敢に実行に移せばいいのです。
その際に、失敗かどうかを気にする必要はありません。
したいことをするという、人間として生まれてなによりも尊い自由を行使するのですから。

じゃあ、人を殺したいと思うのも自由か、と問われます。
自由です。
それがあなたという人間の価値です。
それだけのことです。