風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

恩寵

2013年09月12日 | 雑感
朝方、これはブログにふさわしい話題だと思い浮かんだトピックが、なんだったのか丸っきり思い出せません。
酒を飲んでないモードと、酒を飲んでるモードとでは、発想システムが切り替わっているのかも知れません。

まぁ、それはそれでしかたがありません。
で、今はというか、いつものことなんですが酒を飲んでるモードでなにかを語ろうとしています。

語るというのは、おのれの辿った選択、つまりは「したこと」、あるいは「しなかったこと」の羅列なわけです。
「したこと」に関して言うのはよりたやすいことですが、「「しなかったこと」を語るのはなかなか難しいです。
するまでもないことは、「しなかったこと」にわざわざ分類される必要はありません。
「したい」と思っても「しなかったこと」というのが、いろいろな意味で大事な人生の負のファクターになっていきます。
したいと思ってもしなかったことというのは、大抵「愚痴」という形で語られます。

したいことを思い切りすればいい、と多くの人々がアドヴァイスします。
それはその通りです。
でも、それ以前に、したいことがなにか分からないという状況の人が圧倒的に多いのも事実です。
したいことがなにか分からないという人に対して、どんなアドヴァイスができるのでしょうか。

したいことというのも、いろいろなレベルがあるわけです。
自分の都合のいいように行動するというのもそうですし、自分の好みで動くというのもそうですし、
なにかしらの使命感に囚われて動くというのも、そういうことでしょう。
そういう何らかの目盛りに従うことがしたくなくなった、或いは従うことが不可能になったという場合に、
したいことが分からなくなります。

おのれ自信の指標と価値体系を自分勝手に信じきって突き進めるほど、現代の状況は甘くありません。
人は人との関係性でしか生きられません。
関係性を保つためには、「唯我独尊」は途轍もなく難しいテーマになります。
本来の「唯我独尊」には、自分さえよければいいという低級な意味合いはみじんもありません。
すべてを、愉快であろうが不愉快であろうが、あらゆる現象を「自分」を拠り所にせよ、といった意味合いでしょうか。
刻々と移り変わる周囲の状況に右往左往することなく、状況をその状況たらしめている本人は誰なのか、という究極的な問いです。

「したいこと」。
なにか一つのことをやり続ければ、それが「したいこと」に溶け合って一つになるというのも事実でしょう。
なにかのきっかけがあって、「したいこと」に目覚めて没頭するということもあるのでしょう。
したいこと。
それ見つけるということこそが人生を生きるということの最大の恩寵なのだと思います。














2013年09月11日 | 雑感
見たところ草むらなど周囲にはないのに、虫の音があちらこちらから聞こえてきます。
わずかなコンクリートの隙間に生えた雑草を拠り所に、彼らは思いっきり羽をこすり合わせて鳴いているのでしょう。

ぼくは幼少の頃は思いっきりセンチメンタルな子供でした。
町ですれ違った腰の曲がった老人を見ては、この人はいずれこの世からいなくなってしまうだと勝手に思っては涙ぐんだりしていました。
そういうセンチメンタルな子供も、紆余曲折、酒池肉林、七転八倒を経て、冷淡とも言える石頭になり果てました。
共感度は高い方だとは思うのですが、共感することを拒絶し、あえて人という人から距離を取ろうとしてきました。
人との付き合いは技術論的なテクニックに堕していきました。
言葉の裏を読んで、意表を突いて自分のペースに持ち込む、とかまぁそういった類いのろくでもない心理学です。
当然ながら、そういうテクニックやら似非心理学に自らが溺れますと、果てしもなく陳腐で醜悪な人生を自らが生きることとなります。
目の前に現れる人も、世界で起きる事象も、すべて自分の損得基準でしか見れなくなるからです。

そういう生き方はとても疲れます。
損得などは時と共に裏表しながら流れていくだけなのに、損得を血眼になって追い求めるようになるからです。
で、そういう生き方は止めるしかなくなります。
そういう生き方が正しいからとか、間違っているからということではありません。
そういう生き方は「楽しくない」からです。

「楽しい」というのは極めて個人的な感情です。
登山というのは、山登りをしない人にとっては狂気の沙汰です。
マニアと呼ばれる人々に対する世間の人々の目は冷ややかです。

ぼくは何でか知りませんが、「生きる」ということは「楽しむ」ことだと思い込んでいます。
ただ、流行や似非心理学を駆使した、人におもねる、人を操るという方向性では決して楽しめないことを知ってしまいました。
人におもねるか、操るかしか知らなければ、自分が自分でいることがとても難しくなります。
人は他者との関係の中で自分の立ち位置を初めて知ることができるからです。
おもねることも、操ることも断念したとき、それまでに築いてきた人との関係が途絶えます。
途絶えたときに、あると思っていた「自分」などというものがどこにもないことに気がついてしまいます。
そんなどこにない自分が、なにを楽しむのか。

これから先は話が面倒くさくなります。
だから止めます(笑)。

なにを言いたいのかというと、もう「嘘」はつくまいということです。
人に対する嘘などどうでもいいのです。
自分に対する「嘘」は怖ろしいほど自分の人生にダメージを与えます。
なにが「正直」なのかはまだ分かりません。
ただ、「嘘」はつくまいと思うのです。






着地点

2013年09月10日 | 雑感
9月に入って涼しい日が続くと思っていたら、蒸し暑くなった今日この頃です。
10月くらいまで暑い日は続くだろうとは覚悟しています。
あの異様な暑さを経験していれば、多少の暑さは何ともありません。

長い間を置いたブログの更新です。
順風満帆なら得意げに日々の心境を語ることもできましょうが、なんだかひたすらあくせくしている毎日です。
PCの前に落ち着いて坐っているゆとりがありません。
この状況をどう説明していいのか、ちょっと分かりません。

先に可能性がないわけではありません。
ただ、その先に行き貫く勢いがまったくありません。
なにかを突破して行くには「勢い」が必要です。
今までやりたいと思うことは、そのまますんなりとやってきましたが、すんなりとことが進まなくなっています。
考えたこともなかったのですが、これが「老い」ということなのかと思い至りました。

そうだとすれば、作戦を変更する必要があります。
今までのように「勢い」に任せて自分の望み通りに流れていくことが、もう不可能になっているのかも知れません。

さてさて、です。
勢いを失った流れが止れば、澱みになります。
無理に流そうとすれば、疲弊します。
本来ならば、ある程度の年になれば、どうすれば清澄な湖に溶け込めるか、あるいはどうすれば豊穣な海に回帰できるか、
そんな段階に行くのだと思います。
そういう自然の摂理を無視して、ありもしない「勢い」を夢見て、急流を流れ下ろうと思っても急流はもはや涸れている、
そんな感じです。

それでも、とりあえずの目的地には辿り着かなければなりません。
「流れ」だとか「勢い」だとかはなくても、この足で歩み寄っていかなければなりません。
それはそれでかまいません。
いろいろなことに目が眩んで、「流れ」があるうちに流れに乗らず、「勢い」があるうちに前に進まなかった自分が阿呆だっただけです。
阿呆らしく、流れも勢いもない道のりを一歩一歩前に進み続ければ、少なくとも日々を生きている実感のようなものを、
手に入れられるのかもしれません。

この世は幻想だというのは、あらゆる意味でそう思います。
それでも、その幻想を幻想たらしめている自分というものに、ぼくは重い責任を負わなければいけません。
この状況、このあり方、この風景、すべてはぼくが創りだしたものです。
「ぼくが」という自意識から離れようとすればするほど「ぼくが」という悪魔がほくそ笑みます。
そういう自意識のおぞましい循環から逃れだそうとすればするほど、「ぼくこそは」という悪魔がニタニタ笑います。

自分というものに執着もせず、捨てもせず。
その均衡を保つ着地点を探す旅が続きます。







「自分」

2013年07月18日 | 雑感
炎天という言葉がまさにふさわしい日々が続きます。
日中に畑で作業していると、これ以上はヤバイというような無音の警報音が体内に響きます。
中学時代は野球部でしたが、練習中は絶対に水を飲んではいけませんでした。
いまそれをしたら病人死人続出だと思います。
昔の太陽光と今の太陽光は別物に感じます。

仕事の選択とか、生き方の選択とか、パートナーの選択とか、この世で生きることは選択の積み重ねです。
でも、これらの選択は、すべて外部環境の選択なわけです。
どの会社に入ってなんの仕事をするか、どんな生き方が世の中にはあるのか、どんな人を選ぶのか。
それらの選択肢はどれもが誰かが作った選択肢なわけです。

そういう外部環境に左右されない自分自身の指針というか方向性を選択するというのはなかなか容易なことではありません。
そこには選択基準となるべきものがなにもないからです。
ただそれを選ぶのか、選ばないのか、という判断があるだけです。
判断基準はなんなのでしょうか。

直感とか、インスピレーションとか、便利な言葉はあります。
では、直感とか、インスピレーションの源泉はなにかと問うたら、答えに詰まります。

人が生きるということのうえで、常に判断基準とされているものとはなんなのでしょうか。
宗教や倫理学や哲学をいくら学んでみても、文字通りその原理原則に従って生きるわけでもありません。
それでも人は、なにか「自分」というものがあると仮定して、その「自分」の声に従って生きようとします。
その「自分」とは、誰なんでしょうか。

ときには、その「自分」は暴走します。
あらゆる論理、知性、道徳を無視して、他人に、或いは社会に暴虐の限りを尽くします。
それでもその行為は「自分」の声に従ってなされた行為以外ではありません。
「自分」というのは決して論理的でも、哲学的でも、道徳的でもありません。

で、そういう「自分」というものを徹頭徹尾認めようとしないのが仏教です。
いきなり話が飛びますが(笑)

「自分」というものがなければ、物事を認識し判断し行動する主体がないじゃないかというのが西欧哲学です。
端的に言いますと、主体などないというのが仏教です。
誤解を招きそうですから言い添えますと、主体・客体という相対論的な意味で、主体はないということです。

この辺りは説明がとても面倒です。

例えばです。
女房と二人で食事するとします。
女房が買い物をして、料理をしてくれて、テーブルに並べてくれたから、今ご飯を食べている、という解釈があります。
ぼくが仕事が休みで家にいるから、女房は買い物をし、料理をし、テーブルに並べた、という解釈もあります。
一組の名も知れぬ夫婦が夕食を食べた、というだけの解釈もあります。
どの解釈が正しいもなにもありますでしょうか。
買い物をすれば、それを生産した人、流通した人、売る人があり、料理機材だって同じく製造した人、流通した人、売った人がいて、
テーブルに坐れば、それを作った人、流通した人、セールスした人、運んだ人がいるわけです。
数限りにない「自分」たちの関与によって、今この「食べる」という瞬間が成り立つわけです。
その数限りない「自分」というものをとことん追求するのが西洋流の学問です。

(続く)





演じる以前

2013年07月04日 | 雑感
近頃、柳という木を見ることがありません。
昔は川端に行けばどこにでも見ることのできたありふれた木だったように思います。
風に逆らわず、つまりはどんな逆境にもしなやかにやり過ごす、そんな柔軟な生き方の代名詞が、柳という木だったように思います。

剛直に生きることがもてはやされる時代もあれば、どこまでもしなやかに生きることの方が生きやすい時代もあります。
今はどんな時代なのでしょうか。
この年になりますと、今という時代とかレンド゛とか政治とかに興味が薄くなります。
最終的に、おれはなにをしようとしているのか、どうありたいのか、というところに興味が集中します。
もちろん人によって興味のあり方は様々なのですが。

明治維新というのは、武士としての誇りと自負がバックボーンにあるからこその希有と言うべき奇蹟的な革新でした。
一億総平民の今の世で、少数の誰かがなにかを変革するという時代は期待すべくもありません。

ぼくはなにを言いたいのでしょう。
ある程度自分が生きるという齢を重ねてきたら、自分がどのように生きていくのがふさわしいのかをきちんと考え・・・。

そんなことは死ぬまで分かりません。
死ぬまで分からないからこそ、この世は面白いわけです。

なにが面白いのか。
優劣、有名無名、貧富、そんなどこかの誰かが作った規範に乗っかることが面白いわけではありません。
かといって、そういう規範から外れることが楽しいことでもありません。
なにが面白いのか。

自分というかりそめの存在が、この世というかりそめの舞台で、なにを演じるのか。
ビジネスマンであれ、主婦であれ、作家であれ、演じきるのも虚仮だし、演じきらぬのもまたこれ虚仮。
さてさて、どうしたものか。

柳は自分を人に「ヤナギ」と呼ばれる存在であると思っているわけではありません。
川縁で、自分の特性を最大限に活かし切りながら、風に吹かれてゆらゆらと生きているだけなんでしょう。
「演じる」という過剰な自意識がそこにはありません。

なにも演じない。
そうなれば、そこにはありのままの、自分のようなものがおぼろげに立ち上がります。
ありのまま。
なにがあるのか。
「まま」とは移ろうということ。
あるものが移ろえば、あるものはどこへ行くのか。

本当のところを言えば、こういう言葉遊びはまったく興味がありません。
なにも演じない自分。
演じる以前の自分。
無言の自分。
あとは豊穣な沈黙が、自ずからひたすら沈黙する世界。

まぁ、拙い言葉で言おうとすればそんなことなんでしょうが、
そんなことより、お休みなさい。
明日はおいしい牛タンシチューの完成予定です。

隣の家の軒先のツバメの巣には、4羽の子ツバメが確認できました。
なんかいろいろ心配しましたが、今年も隣の軒先から子ツバメが巣立ちそうです。
親鳥が近づくと、4羽の子ツバメが懸命に首を伸ばして、口を顔より大きく開きます。
なにもかもが愛しいと思える瞬間です。




雨と猫と畑

2013年07月03日 | 雑感
昼くらいから突然表が暗くなり、雨が降り出しました。
さらに雷まで鳴り出し、
あまり見たことのないよな激しい土砂降りです。
雨の粒の一つ一つが大きくて、バシャバシャと地面を叩き付ける感じです。
これがゲリラ豪雨というやつなんだと思いました。
後でニュースで知ったところによれば、市内各地で浸水一歩手前まで行ったようです。

で、気が付いてみれば、もう7月です。
5月末にアンティークの店を閉めて、6月に入って一週間の滝行に入り、無事に終了したか思いきや、
同僚が急遽入院し、ひとりでバタバタと牛タン屋をなんとか切り盛りし、禅の摂心会に突入しました。
さすがに身体の芯に疲れが溜まりに溜っているような感があります。
でもどういうわけか休める状況ではなく、また休みたいという気持ちにもなりません。
試合を控えたボクサーみたいと言ったらかっこつけすぎでしょうが、なんかふらふらとようやく立っている感じです。

近くに安く使える公共のスポーツジムを見つけましたので、そろそろそっちの方面のメンテナンスも始めようかと思っています。
無理を承知で無理を重ねてきましたので、大分修復が必要な気がしてます。
身体が弱ってくると、頭もまともに動きません。
冴えというものがありません。
ありきたりの枠内を、ありきたりな思考がぐるぐる同じところを回るだけです。

黒猫が店に迷い込んでから一月ほど経ちました。
飼い主はまだ決まっていません。
ですから、名前はまだ付けていません。
半端なく人なつっこい猫で、部屋に一緒にいればべたべたとまとわりつきます。
猫好きの方には堪らないと思うんですが。

そうそう、畑は順調です。
梅雨時期は、雨のせいで数日畑に行けないでいますと、びっくりするくらいに雑草だらけになっています。
たまたま好天に恵まれた一昨日2度目の草刈り機を投入しました。
雑草という名の草花などもちろんないのですが、きれい事を言ってられません。
放っておくと、トマトにしろキュウリにしろナスにしろ、どんどん脇芽を伸ばして手が付けられない姿に生い茂ります。
せっせせっせとお世話を焼きます。
ぼくはなんにせよあんまりお世話をやくタイプではないのですが、イヤな顔もせずお世話をやいております。
そのうち、入道雲が空に湧き、トンボが飛び回るようになれば、病気や害虫と戦い続けた野菜の株も安定し、収穫の時期です。
無農薬の取り立ての野菜は、作った人でなければ食べられません。
あんまり天ぷらは食べなくなっていたのですが、先日畑で取れたナスと甘長トウガラシとシソの天ぷらを食べてみたら、はまりました。
今日先日漬けたラッキョウを食べてみたら素晴らしい仕上がりです。
梅干しも梅雨が明けたら天日干しをするのを待っています。
秋になったら味噌造りも再チャレンジです。
それからトマト、これは自家製に限ります。
ちゃんと酸味があり、味が濃いです。

朝から夜まで店の営業をして、時間があれば畑に行ってという生活をしてますと、日常にいわゆる「華」というのがなくなります。
どこかでパーティーをしたり、ドライブしたり、諸々の悪いことをしたりといったことが皆無になっていきます。
夢中になるとか、舞い上がるとかいう要素に乏しい生活環境になっていきます。
でも、なんの不足もありません。
夏休みになれば、娘を海に連れて行ってやろうと思うくらいです。
アンティークの店をしているときは、なんと言ってもジュエリーとか美術工芸品などのとびっきりの「華」を売るのが仕事でした。
ぼくの中ではなんにも矛盾していることではありません。
「華」を売るときは「華」の魅力を紹介しきるだけであり、畑に行くときは雑草と格闘し、土をいじって、
野菜のお世話をするだけのことです。

畑の周囲に植えられたイチジクの実が日ごとに膨らんできています。
畑仕事に一息ついたら、もいで食べます。
シンプルなもんです。


近況

2013年06月03日 | 雑感

久しぶりのブログの更新です。
アンティークの店を閉店し、残った荷物を一日で移動し、その最中にも決算の処理をしなければならないといった具合で、
なかなかハードな局面でした。

で、そんなこんながなんとかこなせたので、先週末の土曜日から滝行に入りました。
ちょうど梅雨時で水量も多く、水温も冷たすぎず温過ぎず、溜まった疲れやらなんやらを一気に流そうというわけです。
まぁ、疲れを流すと言いますが、実際は久しぶりに滝に入ると、その後一時間くらい横になって寝ないと、
一日中頭がフラフラして仕事にならない位、ある種のダメージというか衝撃を心身に受けます。
三日、四日と経つにつれて慣れてはいくのですが。

GW前後に植え付けた苗も根付いて、グングン成長しています。
来月からは収穫に追われるでしょう。

というわけで近況です。

今日、月曜日で牛タン屋がお休みです。
今まで手が付かなかった店内の無線ランの構築を電話でアドバイスを受けながら一気にしてしまいました。
やっと買ったノートPCがネットにつなぐことができました。

Windows8です。
なんだか使いづらいです。
慣れるのでしょう。

 

 


出口

2013年04月28日 | 雑感

桜も散って、新緑が芽吹き、娘が小学校に入学しました。
ぶかぶかの制服を着た娘はちょっぴり緊張しながらも、幼稚園の時とは違って、
しっかりと新入生の集団に溶け込んでいました。

アンティークの店は5月いっぱいで閉めます。
お陰様で、予想以上の盛況でした。
次のステップとしては、牛タン屋の2店目を街中に持ってきて軌道に乗せ、
それからアンティークショップの再開を目指します。

牛タン屋の方は、ボチボチと常連のお客さんもついて下さり、まずまずは順調です。
お医者様向けの弁当の注文も、複数の製薬会社から注文くださるようになり、
嬉しいことは嬉しいのですが、これ以上注文が増えるようだと対応しきれないというお肉屋さんの事情もあります。
街中の2店目の件も含めて、黒毛和牛の牛タンにこだわった営業形態を持続できるかどうか、微妙なところです。

畑は二つ目の土地を借りました。
日当たりと風通しの良い、最高の土地です。
ざっと整備を済ませ、あとは苗をバンバン植える段取りです。
農協やホームセンターに行きますと、苗が所狭しと並べられています。
あれもこれもと、どれを植えるか迷うのですが、今年からはきちんと計画的に植え付けようと思っています。

それと並行的に、発足したばかりのトランジション・タウン・プロジェクトというのにも参加しています。
簡単に言えば、持続可能な社会共同体を目指すというもので、資本主義社会の軛から離れて、
無理なく、楽しく、豊かに暮らしていける方法やアイデアを分かち合いながら、
具体的実践的に生活していくという方向性のものです。
何の組織も規則も会費もありません。
有志が自由自在に結びついていくだけです。

決算の時期でもあります。
こればっかりは、毎年毎年飽きずに、憂鬱です。
今年は馬力を入れて早め早めに仕上げようとは思っています。
税理士事務所からの電話は着信拒否にしようかと思っています(笑)

そのほか、禅や滝行の映像化や、東北物産の海外への紹介や、いろいろと立ち上げたいことが控えています。

去年までは、本当に暗く長いトンネルでした。
出口が全く見えませんでした。
ただただ必ず行く先には明かりが見えるはずだと信じ込んで、ひたすら歩を前に前にと進めていただけです。
ようやく、出口が見えてきたように思います。

次のテーマは海外です。
日本文化の海外への紹介です。
牛タン屋と何の関係があるのかと思われるでしょうが、まぁ、関係ないかな(笑)
でも、ぼくの中では有機的に結びついているので、大丈夫でしょう。

そういえば、去年は一度も旅行に行ってません。
近場の温泉にも泊まりに行ってません。
子供のころから、どこかに行きたい症候群の重症患者であったぼくとしては、恐るべきありようです。
ちょっと今年はどこかに行ってみたいです。

ツバメが今年も隣の家の軒先に巣作りを始めたようです。
また今年も、子ツバメたちの口パックリの姿が見れると思うと、楽しみです。

 


3.11再び

2013年03月11日 | 雑感

あの震災から2年の月日が経ちました。
2時46分に一人で黙祷を捧げました。
灰色の海の上を、無数の光がきらきらと舞う光景が見えました。

もう東北の人たちは心情的支援が欲しい段階ではないでしょう。
具体的に前に進みたがっているでしょう。
仕事をし、しっかりと家庭生活を、社会生活を営みたいでしょう。
なにをしてやれるのか。
仕事で結びつくと言っても、なにをどうすればいいのか。

いろいろ考えています。
近いうちに東北に行こうと思っています。
九州と東北、さらには東北と世界を繋げるなにかができないか。
アイデアが具体的になったら、多くの人の協力を仰ぎながら、どんどん前に進めたいと思っています。

まだまだ復興の網の目からこぼれ落ちた集落や地域があると聞いてます。
そんなところに目を向けられるのも、我々個々人の力です。
現地に飛び込んで、一杯情報を吸収して、皆さんと共有できることが望みです。

三陸の海は磯の香りの豊かな独特の海でした。
子供の頃よく泳ぎに行きましたが、海の色が深い緑色で、生命力に満ち溢れているような気がしたものです。
今ものすごい勢いで海は再生しているのだろうと思います。
ワカメ漁が再開したというニュースをどこかで見ました。
今年の夏には大好きなホヤも食べることができるのでしょうか。

今日は牛タン屋の一周年です。
ささやかな宴を催します。
紆余曲折、とてもとても長く感じた一年でした。

それから、アンティークの店は一旦撤退することにしました。
このまま二つに店を回していく力は残念ながらないと判断しました。

生きていれば、いろいろなことが起きて行きます。
五体満足で生きていることのありがたさをどう活かし切るか。
ボヤボヤしている暇はありません。


 

 

 

 


なにか

2013年02月22日 | スピリチュアル

酸味の強いコーヒーは苦手で、エスプレッソをコーヒーメーカーで飲んでますが、苦すぎました。
酸味の少ない少し苦みが強くてこくのあるコーヒー豆の銘柄を誰か教えて下さい。

日射しがだいぶ明るくなって来ました。
風はまだまだ冷たいですが、春は確実に近づいてきています。

自然に生きるというのは、おのれの喜怒哀楽という荒ぶる感情をも含めての自然に生きるということか、とふと思います。
制御しがたい喜怒哀楽に振り回されることを、自然に生きるということができるでしょうか。
自然というのは、善悪差別のない、穏やかなものも荒ぶるものもすべて含めたエネルギーの交換場なんだと思いますが、
荒ぶるものに身を任せて、心身を破壊するに任せることは、自然に生きるとは言わないような気がします。

喜怒哀楽という感情も人に天然に備わった外界に対する反応の仕方ではありますが、
感情に身を任せてしまうとどうしてもそれに引きずられ苦悩の海に沈み込んでしまいます。
感情というのは、そのほとんどが外界の事象に対する心の反応ですから、
感情に引きずられるということは、外界の事象に引きずられるということになります。
自分の周囲の条件によって、喜んだり悲しんだり怒ったりし続けるということです。
外界で起きることというのは自分の手でコントロールできませんから、必然的に思い通りにならないことだらけになります。

それならば、自分の感情、外の世界での出来事に一喜一憂することからどうやって抜け出せるかということになります。
外の出来事に対する集中することから、自分の内なる世界に集中するということになるのかも知れません。
外と内というふうに分けることも本来ならナンセンスなのでしょうが、まぁ、わかりやすくいうとするなら
そういうふうになるのだろうと思います。

内なる世界といっても、そう単純でシンプルなものではありません。
外の世界と同じく、複雑で、葛藤に溢れ、計略に満ちてます。
そんな生い茂った精神の雑草をかき分けかき分け、奧へ奧へと探っていきますと、何かがあるかも知れませんし、
ないかもしれません(笑)。

まぁ、とにかく、お金のあるなし、異性と惚れた振られた、誰かと比べて優劣を競う、そんな外界の事象に振り回される=
感情に振り回される生き方にほとほと疲れたならば、
自分の内面に、何事にも影響されない、変わらないなにかを見つけなければなりません。
それを光というのか、悟りというのか、本来の面目というのか、恩寵というのか、とにかくなにか、です。

荒ぶるカミたちのように、感情にまかせてほしいままに振る舞うのも自然のあり方だとは思うのです。
自分の内側に「なにか」を見いだして、穏やかに生きるのもまた自然のあり方の一つではありましょう。
どっちの生き方がいいとか悪いとかということではありません。
ただ、自分の外の世界に振り回されると苦悩が多く、自分の内の世界になにかを見つけると、安心できる可能性があるということです。

清濁明暗ひっくるめたのが外の事象たる自然界です。
でもその清濁明暗の価値判断しているのは人間です。
自分の内側に広がる自然界には、清濁明暗の価値対立のない、明白な「なにか」があるような気がして成りません。

 

 


まかす

2013年02月18日 | 雑感

子供の頃、何でかは分かりませんが、船の操縦士になりたいと思っていました。
船なんか見たこともないのに、そう思っていました。
友達なんかも、男の子であればプロ野球選手、ヒーロー、女の子であればケーキ屋さんとか看護婦さんとかが多かったように思います。
ある意味、成りたいことが明確だった時代は幸せでした。
成りたいとただそう思うだけで心が躍りました。

そのうち成長するにつれ、成りたいということよりも、なにに成れるか、なにが得かという計算が先に立っていきます。
成りたいけれども資格がどうの、学歴がどうの、職歴がどうのといった話が重きをなしてきます。
なにかに成りたかった自分というものが、どんどん置き去りにされていきます。

そうして、ふと自分を鑑みてみますと、なにに成りたかったのかが分からなくなっている自分がいます。
やれること、やれないこと、やりたいこと、やりたくないことというのは挙げることはできますが、
なにに成りたいかと問われれば、言葉に詰まります。
自分はなにに成りたかったのだろう?

成りたい自分に焦点を当ててこなかった結果、やれることを辛うじてしているだけの惨めな自分がいます。
俗な言い方をすれば、決められたレールを歩くようにすっかり洗脳されていたのでしょう。
認めたくはありませんが。
やりたいことよりも、やれることをしろ。
夢を追わず、現実を見ろ。
何よりもお金を稼いで自立しろ。

そんな網の目のように張り巡らされた「現実」のルールに対しては、できるだけ抵抗もし、逸脱もしてきたつもりでした。
でも、抵抗とか逸脱というのは、「現実」のそんなルールの存在を前提としてのジタバタした試みです。
結果的にいえば、そんなルールを超脱することはできませんでした。

超脱するとは、いかなる「現実」のルールに縛られることなく、成りたい自分に成ることです。
そうすることで、現実のルールが怒濤のように自分を苦しめにかかったとしても、成りたい自分で居続けることです。

そんな成りたい自分であり続ける強さがまだ自分に残っているだろうかと自分に問います。
それ以前に、成りたい自分が自分に残っているだろうかと自分に問います。
否、問い続けています。

冬の寒さや静寂は嫌いではありません。
春の喜びをすっかり忘れてしまっているような気がするだけです。
花はその時を迎えれば迷いなく咲くだけです。
成りたいだの、成りたくないだのの、世迷い言がありません。
散るときには散るだけです。
グズグズした執着もありません。

さてさて、です。
愛というのは絶対的な信頼です。
自分を咲かせることさえ、ためらい、疑う人間には、愛という境地は訪れません。
まだ根っこが土の中に張っているうちに、咲かせるなら咲かせなければ成りません。
それよりも、まず、おまえは本当におまえという花を咲かせたいのかという問いに、答えなければなりません。

しばし黙考。
「咲かせずに終わるのは嫌だ」というのがまず最初に来ます。
「咲かせたい!」という朗らかな気持ちが最初に来ません。
この期に及んで、我ながら嫌になります。

おそらく、自分が咲かせる花のイメージができないためでもあります。
なんのためにだとか、こうすればこうなるだとか、そんな意図的な思考にどっぷり染まっているわけですから、
花を咲かせれば、自ずから虫が集まり、実がなり、風に揺れて地に落ちるという風流が身についていません。

任す。
年を取ったら、味わいたい境地なのかも知れません。


 


iPhone

2013年02月16日 | 雑感

人が使っているのを見て、なんとなくいいなぁ~と思っていたのですが、
この度ぼくもiPhoneに替えました。
やはり使っていて楽しいです。
まとめニュースサイトなんかも便利ですし、カメラもメッセージのやりとりも快適です。
その中でもお勧めはフリーソフトなんですが、iMusicというやつ。
youtobeの音楽動画をダウンロードし放題で、一旦ダウンロードをしてしまえば、
いつでもどこでも音楽動画が楽しめます。

ここ十年以上にもなると思いますが、音楽を聴くという習慣からすっかり遠ざかっていましたが、
片っ端から聞きたかった楽曲をダウンロードして布団の中で聴いてます。
実は以前から自分で聴きたい楽曲をセレクトして自作CDを作ってみたいとは思っていたのですが、
アルバム一枚に一曲くらいしか入っていないことが多く、ずぼらなぼくはすっかり諦めていました。
それがなんと1時間ほどで100曲以上のミュージックデータができてしまいました。
しかも動画入です。

大体ぼくは暗い曲調の音楽が好きで、何曲も暗い曲を聴いていると気が滅入ってくることもありますが、
まぁ、それもそれです。
気が滅入るというのも一つの感情の味わいではあります。

それから、iPhoneに付属のイアフォンが優れものです。
イアフォンを付けてる感じがまったくしません。
ごく自然に高音質の音が聴くことができます。
でも、これって最近のイアフォンでは普通のことなのかも知れません。
ぼくが最近のオーディオ事情を知らなかっただけで。

まぁ、ともあれ、昔のウオークマン時代みたいに、ぼくもイヤフォンで音楽を聴きながら、
街をウロウロする時代が再来したわけです。
「ディアハンター」やら「思い出の夏」といった哀しめの曲を聴きながら、
ぼくは毎日を楽しく生きていきます。

http://www.youtube.com/watch?v=mEzH0FuL8qo

 


春間近

2013年02月15日 | 雑感

3月にあるとばかり思っていた禅道場の摂心会が、なんと明日からでした。
たまたまうちの店に立ち寄ってくれた禅仲間から聞いて初めて知りました。
道場から摂心会に関するメールは来ていたのですが、どうせ3月だからと開封せずに放っておきました。
なんだか心に余裕がないと、こんな凡ミスが重なります。

今回はなかなか摂心には参加できそうもありませんが、できるだけ参加しようとは思っています。
参加するなら早朝の摂心です。
まだ暗い朝の冷たい空気の中を自転車をひいこら漕いで参加してみます。

日に日に日射しが明るくなって来てますね。
立春を過ぎると、本当に冬が終わって、春が近づいてくる気配がします。
牛タン屋も3月11日を迎えますと、開店一周年です。
あれやらこれやらバタバタしていますが、そろそろ落ち着いた取り組みをしていきたいです。
バタバタするのは元々好きではありませんし、バタバタするというのは、そういう行動をする癖がつきます。
常にバタバタしていないと落ち着かないみたいな、そんな感じになりがちです。
せっかくの坐禅の修業も吹き飛んでしまいます。
そろそろ軌道修正です。

なんかここのところ反省ばかりしていたような気がします。
そろそろひたすらの反省ではなく、自分のしたいこと、楽しいこと、嬉しいことに焦点を移していこうかと思っています。
なにか特別なことをしたいのではありません。
ささやかな日常そのものが嬉しく楽しくなるような、そんな道を歩いて行きたいです。
長く暗いトンネルを抜け出したら、見るもの感じるものすべてが、嬉しく楽しくなるだろうとは思います。
春の訪れと共に、ぼくもトンネルを抜け出したいものです。

やっほー。
意味もなく元気になってみました。

そういえば、先週どこかで菜の花が咲き誇っているのを見ました。

あいにくの曇り空でしたが、なんだかとても心が躍りました。

 

 

 

 

 


問いかけ

2013年01月26日 | 雑感

今日で無事一週間の滝行も終わりました。
ぼくは付き添いでしたから軽く水に当たる程度でしたが、それでも久しぶりの冬の滝は強烈でした。
今日は滝場にも雪が乱れ舞い、なかなかの光景でした。
滝行を負えたMちゃんは毎日毎日濃い体験をしていたようでした。
その体験が近いうちに油絵に昇華するようです。
楽しみです。
昔の滝行仲間にも会えて嬉しかったです。
焚き火で焼いた餅とスルメも旨かったです。

そんなこんなで、あと数日で一月も終わりです。
二月四日には立春です。
なにかが終わってなにかが始まっていきます。
ぼんやり見てたら毎日が同じように過ぎていきますが、同じ日は二度とありません。
二度とない一日一日を無駄に流してしてはいないかと思うと、なんだか心が痛みます。
滝も一週間入ろうが、100日間入ろうが、水が同じ感触だったことがありません。
毎回滝に入る度に新鮮な驚きと発見があります。
そんなふうに新鮮な驚きと発見に満ちた日々を送れるようにしたいものです。

問いかけがあるところに、答えは見いだされる。
問いかけのないところに、感動も発見もない。
そういうことなんだろうと思います。
自分にどんどん問いかけをして、答えを発見する度に自分の心の扉を少しずつ開いていけば、
いつか心は大きく開かれた状態になる。
そんなふうに思います。

Mちゃんは3月には坐禅の修業もする予定です。
どんな経験になるでしょうか。
ものすごく受け取る力がある子なので、ものすごく楽しみです。

滝行の模様です。

http://www.youtube.com/watch?v=ScsZ5m-DsMM

 

 


冬の滝

2013年01月21日 | 雑感

先週の土曜日から滝に行ってます。
友人の娘さんに連れて行って欲しいと頼まれたからです。
初心者が冬の滝行に単独で挑むことはできませんので、ぼくが付き添うわけです。
冬の滝行は卒業したとあれほど言ってきたのに・・・(笑)。

でも、やはり滝は入る度に新鮮です。
インパクトが半端じゃありませんから、なんというか、原点に引きずり戻されます。
なんの原点かというと、生物としての人間の原点です。
まず、裸足で境内の氷のようなコンクリートを踏んだときから、身体は猛烈な拒否反応を示します。
そんなものは無視して、水の中に足を踏み入れますと、さらに重ねて身体は拒否反応を叫びます。
そんなものは無視して、滝の中に身を入れますと、全身全霊が嫌だと絶叫します。
それでも、無視を重ねて、滝に身を晒します。
そんなのが冬の滝行です。

今回は、滝行をテーマにしたDVDも作ろうと思っています。
今日も友人がカメラを回しました。
一昨日でしたら雪もかなり残っていたのでいい絵が取れたと思うのですが、今日は雪は消えていました。

一週間の行ですが、冬の滝行は想像以上に濃い一週間となります。
数分間、真冬の水に晒されますと、なんというか身体の中の細胞という細胞が必死になります(笑)。
必死にならないと文字通り死んでしまうからです。
フルパワーで活動して、体温がそれ以上下がらないようにあくせくするわけです。
ですから、冬の滝を経験しますと、大体風邪は引きません。
フルパワーで活動する細胞に、風邪ウィルスなどは到底敵わないのです。

もう一週間はその娘さんに付き合うことに決まっています。
ならば、もう覚悟は決まってます。
冬の滝を思う存分楽しみます。