酒を飲んでないモードと、酒を飲んでるモードとでは、発想システムが切り替わっているのかも知れません。
まぁ、それはそれでしかたがありません。
で、今はというか、いつものことなんですが酒を飲んでるモードでなにかを語ろうとしています。
語るというのは、おのれの辿った選択、つまりは「したこと」、あるいは「しなかったこと」の羅列なわけです。
「したこと」に関して言うのはよりたやすいことですが、「「しなかったこと」を語るのはなかなか難しいです。
するまでもないことは、「しなかったこと」にわざわざ分類される必要はありません。
「したい」と思っても「しなかったこと」というのが、いろいろな意味で大事な人生の負のファクターになっていきます。
したいと思ってもしなかったことというのは、大抵「愚痴」という形で語られます。
したいことを思い切りすればいい、と多くの人々がアドヴァイスします。
それはその通りです。
でも、それ以前に、したいことがなにか分からないという状況の人が圧倒的に多いのも事実です。
したいことがなにか分からないという人に対して、どんなアドヴァイスができるのでしょうか。
したいことというのも、いろいろなレベルがあるわけです。
自分の都合のいいように行動するというのもそうですし、自分の好みで動くというのもそうですし、
なにかしらの使命感に囚われて動くというのも、そういうことでしょう。
そういう何らかの目盛りに従うことがしたくなくなった、或いは従うことが不可能になったという場合に、
したいことが分からなくなります。
おのれ自信の指標と価値体系を自分勝手に信じきって突き進めるほど、現代の状況は甘くありません。
人は人との関係性でしか生きられません。
関係性を保つためには、「唯我独尊」は途轍もなく難しいテーマになります。
本来の「唯我独尊」には、自分さえよければいいという低級な意味合いはみじんもありません。
すべてを、愉快であろうが不愉快であろうが、あらゆる現象を「自分」を拠り所にせよ、といった意味合いでしょうか。
刻々と移り変わる周囲の状況に右往左往することなく、状況をその状況たらしめている本人は誰なのか、という究極的な問いです。
「したいこと」。
なにか一つのことをやり続ければ、それが「したいこと」に溶け合って一つになるというのも事実でしょう。
なにかのきっかけがあって、「したいこと」に目覚めて没頭するということもあるのでしょう。
したいこと。
それ見つけるということこそが人生を生きるということの最大の恩寵なのだと思います。