ブログの更新にまた長い間が空いてしまいました。
いつの間にか日差しはすっかり春です。
風はまだまだ冷たいですが、陽のあたりのよい窓辺に座ってぼんやり空を眺めたりしますと、
なんというか、いろいろな心のわだかまりが溶けていきます。
わだかまりなんぞ金輪際持ちたくはないのですが、未熟なせいで、どうでもいいわだかまりが
黒い雪のように心のうちに積もっていきます。
積もったわだかまりは泥水が凍るように黒い氷床となって心の表層を覆います。
表層を黒で覆われた心は、なすすべもなく暗闇の中で青ざめます。
と、無駄な修辞を連ねますが、実のところかなり心はのほほんとしております。
春風に吹かれております。
どうやら長いトンネルを抜け出しつつあるような気がします。
ここ数年間はほんとうに長かったです。
誇張ではなく、数十年の月日が流れたような気さえします。
先が見えない行程というのは、恐ろしく人の心をかき乱します。
かき乱されても、かき乱されても、春風を想像力で頭上に吹かせます。
人の心は単純ではありません。
いくつもの層が複雑に折り重なっています。
いくら表面が黒い氷に覆われようとも、その下には好奇心と希望に満ちた心が目を輝かせています。
逆に言えば、いくら心が好奇心と冒険心に富んでいようとも、その輝きを覆い尽くす黒い氷の層もまた心ではあるのです。
そんなこんなの七面倒くさい心の層と層との隔壁をこそ、この春風に溶かすべきなのでしょう。
その七面倒くさい心のありようをこれでもかと分析したのが仏教の「唯識論」です。
以下、ウィキペディアより抜粋。
まず、視覚とか聴覚とかの感覚も唯識では識であると考える。感覚は5つあると考えられ、それぞれ眼識(げんしき、視覚)
・耳識(にしき、聴覚)・鼻識(びしき、嗅覚)・舌識(ぜつしき、味覚)・身識(しんしき、触覚など)と呼ばれる。
これは総称して「前五識」と呼ぶ。
その次に意識、つまり自覚的意識が来る。六番目なので「第六意識」と呼ぶことがあるが同じ意味である。
また前五識と意識を合わせて六識または現行(げんぎょう)という。
その下に末那識(まなしき)と呼ばれる潜在意識が想定されており、寝てもさめても自分に執着し続ける心であるといわれる。
熟睡中は意識の作用は停止するが、その間も末那識は活動し、自己に執着するという。
さらにその下に阿頼耶識(あらやしき)という根本の識があり、この識が前五識・意識・末那識を生み出し、
さらに身体を生み出し、他の識と相互作用して我々が「世界」であると思っているものも生み出していると考えられている。
抜粋以上。
西洋心理学に無理やり適用すれば、
六識 = 意識
末那識 = エゴ、イド
阿頼耶識 = イデア、集団無意識
といったところになるのかと思います。
そんなこんなは今となってはどうでもいいことのように思えます。
心が複雑だといくら叫んでみても、それを解消するのは一人一人の意識のあり方であり、行為の選択です。
西洋風な効率主義的に考えれば、己の一つ一つの経験に意味と価値を求めます。
仏教的に受け止めれば、経験に充足と喜びを見出します。
そこにはなかなか埋めがたい断絶があります。
そんな断絶を目の前にして、立ち止まっているつもりはありません。
瞬間瞬間の経験を経験そのものとして立ち上げていく。
辛いは辛い。
苦しいは苦しい。
悲しいは悲しい。
嬉しいは嬉しい。
喜びは喜び。
ただひたすらそれだけのことになりきるときに、効率と計算は死に絶えます。
何が残るのでしょうか?
残すことさえ放念したときに、何かがわかるのでしょう。
いつの間にか日差しはすっかり春です。
風はまだまだ冷たいですが、陽のあたりのよい窓辺に座ってぼんやり空を眺めたりしますと、
なんというか、いろいろな心のわだかまりが溶けていきます。
わだかまりなんぞ金輪際持ちたくはないのですが、未熟なせいで、どうでもいいわだかまりが
黒い雪のように心のうちに積もっていきます。
積もったわだかまりは泥水が凍るように黒い氷床となって心の表層を覆います。
表層を黒で覆われた心は、なすすべもなく暗闇の中で青ざめます。
と、無駄な修辞を連ねますが、実のところかなり心はのほほんとしております。
春風に吹かれております。
どうやら長いトンネルを抜け出しつつあるような気がします。
ここ数年間はほんとうに長かったです。
誇張ではなく、数十年の月日が流れたような気さえします。
先が見えない行程というのは、恐ろしく人の心をかき乱します。
かき乱されても、かき乱されても、春風を想像力で頭上に吹かせます。
人の心は単純ではありません。
いくつもの層が複雑に折り重なっています。
いくら表面が黒い氷に覆われようとも、その下には好奇心と希望に満ちた心が目を輝かせています。
逆に言えば、いくら心が好奇心と冒険心に富んでいようとも、その輝きを覆い尽くす黒い氷の層もまた心ではあるのです。
そんなこんなの七面倒くさい心の層と層との隔壁をこそ、この春風に溶かすべきなのでしょう。
その七面倒くさい心のありようをこれでもかと分析したのが仏教の「唯識論」です。
以下、ウィキペディアより抜粋。
まず、視覚とか聴覚とかの感覚も唯識では識であると考える。感覚は5つあると考えられ、それぞれ眼識(げんしき、視覚)
・耳識(にしき、聴覚)・鼻識(びしき、嗅覚)・舌識(ぜつしき、味覚)・身識(しんしき、触覚など)と呼ばれる。
これは総称して「前五識」と呼ぶ。
その次に意識、つまり自覚的意識が来る。六番目なので「第六意識」と呼ぶことがあるが同じ意味である。
また前五識と意識を合わせて六識または現行(げんぎょう)という。
その下に末那識(まなしき)と呼ばれる潜在意識が想定されており、寝てもさめても自分に執着し続ける心であるといわれる。
熟睡中は意識の作用は停止するが、その間も末那識は活動し、自己に執着するという。
さらにその下に阿頼耶識(あらやしき)という根本の識があり、この識が前五識・意識・末那識を生み出し、
さらに身体を生み出し、他の識と相互作用して我々が「世界」であると思っているものも生み出していると考えられている。
抜粋以上。
西洋心理学に無理やり適用すれば、
六識 = 意識
末那識 = エゴ、イド
阿頼耶識 = イデア、集団無意識
といったところになるのかと思います。
そんなこんなは今となってはどうでもいいことのように思えます。
心が複雑だといくら叫んでみても、それを解消するのは一人一人の意識のあり方であり、行為の選択です。
西洋風な効率主義的に考えれば、己の一つ一つの経験に意味と価値を求めます。
仏教的に受け止めれば、経験に充足と喜びを見出します。
そこにはなかなか埋めがたい断絶があります。
そんな断絶を目の前にして、立ち止まっているつもりはありません。
瞬間瞬間の経験を経験そのものとして立ち上げていく。
辛いは辛い。
苦しいは苦しい。
悲しいは悲しい。
嬉しいは嬉しい。
喜びは喜び。
ただひたすらそれだけのことになりきるときに、効率と計算は死に絶えます。
何が残るのでしょうか?
残すことさえ放念したときに、何かがわかるのでしょう。
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