tnlabo’s blog   「付加価値」概念を基本に経済、経営、労働、環境等についての論評

人間が住む地球環境を、より豊かでより快適なものにするために付加価値をどう創りどう使うか。

文化の日に:「争いの文化」と「競いの文化」

2017年11月03日 11時05分12秒 | 社会
文化の日に:「争いの文化」と「競いの文化」
 今日は「文化の日」です。11月3日は、昔から天気予報では「特異日」と言われ、何時も晴れるのだそうですが、今日も日本は広く秋晴れのようです。
 
 「文化」は人間に特有なもので、他の生物は大自然の法則の中で生きています。人間だけが、大自然に(ある程度)働きかける能力を持ち、それが「文化」の源でしょう。
 折角そうした能力を与えられながら、人間はそれをうまく使っているのでしょうか。

 国連機構の下で、文化を名に掲げる機関はユネスコ(国連教育科学文化機関)ですが、現状、アメリカが協力を拒んで機能不全に陥っています。

 人間が「文化」の名のもとに混乱を起こすというのは、何とも残念なことですが、その原因を考えてみますと、文化の源である人間の心の中に、2種類の文化があるように感じられてなりません。

 解釈は私なりのものですが、2種類というのは、「争いの文化」と「競いの文化」と考えています。
 人間の心の中には、「他人に勝ちたい」という「進歩・向上」への欲球があり、これが人間(人類)の進歩の原動力というのは、確かにそうでしょう。

 そこまではいいのですが、それが「争いの文化」の形をとると、他者を征服し、滅ぼして自分の優位を確立する、という行動に発展します。優位が確立してしまうと、そこで進歩が止まり、腐敗や堕落が起きることになります。
 一方「競いの文化」の形を取ると、オリンピックの様に、競い合うことで進歩・向上はいつまでも続きます。

 2つの文化の決定的な違いは、「争いの文化」は相手を認めない「征服の文化」であり、「競いの文化」は相手の存在を認める「共存・共生」の文化という事になるでしょう。
 
 人類の持つべき文化として、どちらが優れているかと言えば、当然「争い」ではなく、「競いの文化」という事になるはずです。相手を滅ぼしてしまったのでは元も子もありません。
 経済で言えば、「独占禁止法」などというのは、こうしたことが良く解っていて作られた法律でしょう。

 人間と自然の関係でも同じです。人間が自然を征服しよう、自然は自分のものだから徹底して収奪しようとした結果が、今の環境問題でしょう。
 今、自然は、異常気象という形で逆襲してきていますが、人間の中でも気づいた人たちは「自然との共生」を大切にしようとしています。

 自然に意思があるかどうかは別として、人間同士、国同士でも、文化のベースに「争いの文化」ではなく『競いの文化』を置かなければならないと、今年も「文化の日」を迎えて痛感するところです。

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