Altered Notes

Something New.

テレビ局が作る不自然な映像

2013-07-21 04:54:06 | 放送
テレビ局が放送する映像といえばプロが作るものだから一流で当たり前…かと思うととんでもない、という事例があちこちにある。
プロどころかどう見ても素人の撮影としか思えない酷い映像も少なくない。




[事例1]:人物が登場する時のカメラワーク

人物が登場した時にまずその人の足元をアップで写して、アップのまま身体を足元→胸元まで舐めるように上行し、最後に顔を含めた全身を映す。
このようなカメラワークが現在あちこちで見られる。これはどの局のどのカメラマンでも同じでワンパターンとなっている。
このカメラワークは視る側にとってはストレスが溜まる。
なぜか。
人物が登場した時に人はまず全身を見たいと思うのが普通である。全身の有様を見てその人の印象を持ちたいと思うものだ。しかし全身は見せてくれず足元を見させられるのである。足元だけ、→太もも→腰→胸元、と言った具合に”部分”しか見せない無粋なカメラワークが視聴者にストレスを与えるのである。
まず全身を見たい。そう考える視聴者の気持ちを土足で踏みにじるようにカメラは部分(足元)に寄っていく。その後も身体の部分をアップで写し続けて、視聴者のストレスも最高潮になった頃にようやく全身が写されるのだ。
初めに足元を見せる意味は全くない。むしろ視聴者にストレスを与える。それでも馬鹿なカメラマンは足元へ寄っていく。

なぜこのようなカメラワークが生まれたのか?
それはテレビ屋の勿体ぶった体質が影響している。
現代のテレビ番組はやたらに「勿体ぶった」作りが目立つ。視聴者が見たい対象をできるだけ見せずに、じらして時間を稼いで勿体ぶる手法である。いわゆる「CMまたぎ」などもその一例である。視聴者が見たいものを焦らしてなかなか見せようとしないあの手法である。それが視聴者に対してどれだけストレスと憤りを与えているかなど夢にも考えてない無能なテレビ番組製作者達は平然と勿体ぶった演出・勿体ぶった映像作りをしている。
前述の「足元に寄り、アップのまま部分ばかり見せるカメラワーク」も同じでテレビ屋の「勿体ぶる」思想がカメラワークにまで浸透してきた一例なのである。
こうした思想・体質の根源にあるのは「視聴者を見下した精神」である。

失笑モノの事例もある。
「足元アップ~アップのまま身体を舐めるように上行」のカメラワークをひと通り完遂するにはそれ相応の時間が必要である。ところが、人物登場から次のカットまで時間が無い時にすらカメラマンはこのパターンを守ろうとするのだ。ほんの数秒しかない中で一連のカメラワークをするにはいきおい超特急でカメラを振らなければならない。これは滑稽である。
時間がないなら無いなりに別の撮り方をすればいいのだが、何しろTVカメラマンは何も考えてない馬鹿である。いつもと同様のパターンでしか撮れないのだ。間抜けもここに極まれり、である。(蔑笑)

こんな例もある。
被写体の出演者が挨拶(お辞儀)をしている時にカメラは足元へ寄ってしまっているので、肝心な挨拶(お辞儀)が撮れてない事も多々ある。本末転倒であり酷いものである。カメラマンは今、何を撮るべきかを全然考えてないのだ。阿呆である。

とにかく画面上に新しく人物が登場すれば必ず「まず足元へ寄る」が金科玉条のように寄っていくカメラワークは、あたかも「訳が分からないながらも親の言いつけを必死に守る子供」のようでひたすら滑稽、としかいいようがない。

呆れたことにどの番組のどのカメラマンも全く同じパターンで撮影する。
カメラマン個人の撮り方(考え方)は一切反映できないのであろう。ディレクターのレベルで撮り方が事細かに決められていてカメラマンのアイディア等はすべて無視されるのだ。
これでは優れたカメラマンは育たない。カメラマンに「考える余裕」「発想の余裕」を与えないからである。
実際に人間の自然な生理を無視した無神経で無粋なカメラワークばかり見せられる現状を見るに、カメラマンの質がどんどん劣化していく一方であることが痛感されるところである。




[事例2]:「寄り」が多すぎる絵作り

テレビ番組で特徴的な絵作りの一つに「寄り(アップ)の絵が多い」ことがある。
人物の表情のアップ、物品のアップ、場所の一部分のアップ、等々、とにかく被写体に寄りまくってアップで撮影することに固執している。
その結果、ほとんどアップの場面が連続するシーンが多くなる傾向にある。これもまた視聴者側からはストレスになる。
視る側からすればアップよりもまずその場の全体を映してほしいと思うものだ。状況把握にはまず全体像、だからだ。しかしテレビ屋はアップで撮影し、一部分しか見せようとしない。

そもそもテレビ局は視聴者を馬鹿と規定して、そこから発想する番組作りをしている。映像のカメラワークにもその思想は反映されているのだ。
アップが多用されるのは視聴者に考える隙を与えず、常に「これを見せたい」ことがはっきり伝わるからである。視聴者の程度が低い事を前提とした考え方である。

また、テレビ屋がアップにこだわるのは歴史的な経緯もある。
昔はアナログNTSC(アナログテレビ放送の規格名であり、画質はSD放送と同じ。画角4:3)だったので現在(HD放送)と比較すると解像度が低く(画素数が少ない、と同義)、アップで撮影しないと何を映しているかわかりにくかった、という事情がある。
特に昔は受像機はすべてブラウン管という真空管の一種を使っており、それに映像を映し出していたので、いわゆる大画面テレビが作りにくかった。(37インチのブラウン管もあったが、滅茶苦茶重かった)
一般家庭で普及していた最も多いサイズは14~16インチ程度であろう。この時代のラーメン屋に置かれていたテレビも14インチが多く、客はその小さな画面で番組を見ながらラーメンを食べていたものだ。
そんな小さいサイズで視聴する事を前提とすれば、たしかに引きで全体を映しても何を見せたいのか伝わりにくかったであろう。いきおい、寄り(アップ)の映像が多用されるようになったのは必然と言える。

しかし現在はデジタルハイビジョン放送(HD放送。画角16:9)の時代である。
SD放送に比べれば情報量は飛躍的に多くなり、引き(広角)で撮っても充分な情報量が確保されるようになったし、逆に引きの絵(広角映像)の美しさがアピールできる時代になったのだ。
そのような放送インフラが画期的に変化した時代に、未だに旧態依然のアナクロな撮り方をしているのが現在のテレビ屋なのだ。
テレビ屋は、地デジ(HD放送)の時代になっても頭の中はNTSC(SD放送)のままで進化していないのであろう。
HDを生かした絵作りがきちんとできなければおよそプロとは言えない。せっかくの16:9の広い画角と緻密な解像度を生かした映像を創ってもらいたいものである。





[事例3]:ピンぼけ映像のオンパレード

これは更に酷い。
なんとピント(フォーカス/焦点)が合ってない映像を平気で放送するのである。
ロケで小型のカメラで収録する場合に特に多く見られるのだが、映像のメインである人物にピントが合ってないのだ。ピントは背景に合焦している。
こうした余りにも間抜けな映像が平然と放送されている。とてもプロのカメラマンが撮影したとは思えない酷さである。
なぜこうなるのか。
小型カメラでロケの場合、恐らくオートフォーカスに頼ってしまうのであろう。理由は「楽だから」である。とてもプロとは思えない怠慢だ。
およそプロのカメラマンならばフォーカスはマニュアルでしっかりと映像のメインの対象に合わせるのは当たり前である。こんな基礎的な事すら満足にできないのが今のテレビカメラマンなのである。これでは素人と変わりない。情けない。

驚くべきことにロケだけでなくスタジオでの撮影でもフォーカスが合ってないケースが少なくない。スタジオカメラのビューファインダーはロケ用の小型カメラよりもはるかに見やすく確認しやすいクォリティを持っている。
にも関わらず、人物はボケていて背景にフォーカスが合っている・・・そんなマヌケな映像が時折見られる。カメラマンも素人ならディレクターも素人なのだろう。誰も気が付かないところが「既に終わっている」感満載である。

プロが作る映像で「ピント(フォーカス)が合ってない」など本来有り得ないことである。
フォーカスすら合わせられない今のTVカメラマンは仕事を放棄していると言われても仕方がない低レベルな連中である。そう、正に素人である。






[事例4]:盗撮映像を平然と放送するテレビ屋

テレビ屋がいかに人としての最低限のモラルが欠如しているかの実例を挙げる。
テレビ番組において人物の下半身・股間部をわざわざアップにして撮影することが多々ある。
はっきり言って下品である。
例えば流行のファッションや水着などを着用した女性タレント・モデルが被写体になりやすいのだが、股間のアップ映像など、一般人が同じ撮影をしたら間違いなく盗撮で逮捕される。
そんなモラルに反した撮影をテレビ屋は堂々と行う。
彼らは嫌らしい切り口ではないと言い訳するだろうが、どう見ても下品でありモラルに反すると感ずるのが普通である。一般人が同じ事をしたら逮捕されるような犯罪的な撮り方をしていることがそもそもおかしいのである。
正に下衆の極み、それがテレビ屋なのである。

また、テレビ局ではないが週刊誌のカメラマンが女性タレント等のスカートの中を撮影して、その写真が週刊誌等に掲載されることがある。これなどなぜ盗撮で逮捕されないのか理解に苦しむ。それでいてマスコミは一般人の盗撮をけしからんと言って批判しているこの矛盾。(蔑笑)
テレビを含むマスコミは意識も次元も低くモラルの欠片もない屑な連中ばかり、ということだ。






[事例5]:泣き顔はクローズアップ

また、テレビカメラマンは人物が泣く(涙を流す)と「それっ」とばかりに人物の顔(眼)にズームインする。涙をクローズアップにして写すためである。しかし、これもまた何も考えてない馬鹿カメラマンのワンパターン処理の一つである。

そもそも人の顔をクローズアップで写すことは下品なことなのである。下品だからこそクローズアップをするには最大限の配慮が必要なのだ。テレビカメラマンはそもそもここが全然理解できてない。
その上、人の涙を「さぁどうだ」と言わんばかりにビッグクローズアップで撮影するのは無神経・無礼としか言いようがない。
アップが絶対に駄目だとは言わない。しかし、そこに配慮と判断は必要だ、ということ。泣いている人の心情や泣かざるをえない状況に配慮すれば、そう簡単にアップにして泣き顔を晒しものにすることは本来できないはずなのである。
しかしテレビ屋は無神経の塊だ。泣いて涙が流れれば「それいけ!」とばかりにクローズアップにして晒しものにする。ここでもカメラマンは何も考えずに条件反射のようにアップにする。彼らは本当に下品であり頭が悪く心もない連中である。これもまたテレビ局の絵作りがいかに無神経・無礼で非人間的であるかの一つの証拠である。

泣き顔は引きで撮っても泣いていることはちゃんと伝わるし、そうしたカメラワークができることがプロのカメラマンの必須のスキルである。まして昔のアナログNTSC(SD映像)放送の時代ならともかく、現在のハイビジョン(HD映像)なら引きで撮ってもちゃんと表現できるのだ。それでもテレビカメラマンは 泣き=クローズアップ という単純な図式で処理してしまう。本当に馬鹿な連中である。パブロフの犬じゃないのだから、単純な条件反射で撮影するな、ということだ。少しは考えて撮れ、と。





[事例6]:ドラマ映像の色合い

カメラマンの質が劣化しているのは明らかだが、問題はそれだけではない。
そもそも演出者・プロデューサーのレベルで「おかしな映像」を目指しているケースが見られる。
特にドラマ作品に多く見られるパターンだが、色合いが不自然で見ていて無意識的にストレスが溜まることがあある。

ここ近年出始めた流行のような現象だが、画面全体のトーンが「黄色」だったり「青」だったり、特定の色合いに寄せたカラーリングの映像作りがしばしば見られる。
これが演出者・監督が何を目的としてそのような色のトーンにしているのか、その意図が視る側に伝わっているならそれは問題ない。しかしさっぱり意味が不明なのである。

近年のNHK大河ドラマも例に漏れない。「龍馬伝」「平清盛」「八重の桜」を視て、その色合い(色彩のベースとなるトーン)に違和感を持つ人は少なくない。明らかに不自然な色合い…撮影時のホワイトバランスに失敗したかのような…。こうしたリアルではない人工的で不自然な色彩設計は視聴者の無意識にストレスを生む。
近年の大河ドラマの視聴率がさえないそうだが、こうした独断的で独りよがりな映像設計が生み出すストレスが視聴者を遠ざけている可能性は大きい。

制作者はこれが良いと思っているのだろうが、意図が伝わらなければ前述のようにストレスにしかならない。不自然な色彩設計はとどのつまり、制作者・演出家のマスターベーションでしかないのだ。(蔑笑)





[事例7]:映像作りの稚拙さ

番組映像の善し悪しを決める重要なファクターがカメラワークであるが、現在のテレビカメラマンは大した訓練もしないままに業務に付いているのではないか、と思われる。
歌番組に見られるようなユラユラフラフラと動きまわって目眩がしそうな下手くそなカメラワークなどは正にそれを感じさせるものだ。そもそもテレビ映像の撮影は固定でいかに良い絵作りができるか、が基本である。そうした基本・基礎が全く培われないままにカメラをユラユラ振ったりズームイン・ズームバックを繰り返したり、眼が悪くなるような映像ばかり撮っている様は正に素人が興味本位で撮影した下手くそなホームビデオ映像を見せられるようなものだ。不愉快極まりないし視聴者の神経を逆なでするものだ。それでいて彼らはこれが格好良いと思っているのだから馬鹿丸出しである。厚顔無恥。

被写体(人物)が激しく動いているのにズームインして望遠側で撮影するカメラマンが居るがこれも最低である。被写体が激しく動いている時には引き(広角側)でFIXで撮るのが常識である。
なぜか。
望遠側で激しい動きを撮ると画面全体が激しく動作する映像となってしまって、ひたすら目が疲れるだけだからである。
アップ(望遠側)のまま急速パン(カメラを水平方向に振る)するのもNGだ。目眩の元であり神経に触る。
この程度の撮影の基本も知らない素人レベルの連中が現在のテレビ番組映像を撮影しているのである。これでは大人の視聴者は離れていくのが当然であろう。あれで喜んでいるのは未熟な子供達だけである。テレビカメラマンは、そのカメラワークの稚拙さ下品さが番組の価値を下げていることを即刻自覚すべきであろう。

次にスイッチングの稚拙さ、である。
通常、スタジオで作られる番組ならテレビカメラは複数台稼働しているのが普通であり、それらのどのカメラの映像を使うかを判断して選択(スイッチング)の操作をするのがスイッチャー(またはTD:テクニカル・ディレクター)である。ここではTDと記す。
よくあるケースでは、本来見せるべき対象物(被写体)ではなく、その対象物を見ている演者のリアクションばかり選択する、というもの。視聴者は紹介された対象物をちゃんとじっくり見たいと思っても、TDは対象物を見て驚いている(或いは喜んでいる)タレントの表情を見せてしまうのである。馬鹿である。
その瞬間に「何を見せるべきか」の判断が全然できない未熟なTDが本当に多くなった。
但し、これはTDだけでなく、そもそも番組ディレクターの指示内容にも関わる事であり、TDだけの問題ではないが、直接的な責任はTDにあることは言うまでもない。





[事例8]:演出の不自然(わざとらしさ)

例えばレストラン等で食べ物を紹介をする時に俗に言う「箸上げ」である。食べ物を箸でつまんで上げた状態をアップで撮影するあれである。必ず若干の震えを加えるのが必須の演出となっている。それで美味しさやシズル感が出せる、とTV屋は言う。阿呆である。そんな演出は不要だ。しかも既にこの手法は一般に広く知られており、視聴者は普通に予定調和の演出と思って冷めた目で見ているのである。逆に箸を震わす(震わせ過ぎる)ことで肝心な食べ物の様子がよく見えない(きちんと視認できない)という悪い副作用をもたらすケースもある。馬鹿としか言いようがない。それでも何も考えてないTV屋は既存のパターンを無自覚に踏襲する。





これらは「テレビ屋のおかしな映像」「おかしな操作」のほんの一例にすぎない。ここから見えてくるのは演出者もカメラマンもその他の現場スタッフも含めて「感性が貧弱」であることだ。感性を磨き続けている人間なら絶対にこうはしないだろう、という悪い例をテレビ屋は作り続ける。それは既に致命的なレベルに達している。


以前から書いているテレビ業界の質の劣化はこうした制作に携わる人間の仕事にも現れているのである。下衆を極めた鬼畜外道な連中だ。

テレビは終わっている。