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WNLに見る恋愛強者と弱者の格差 チッチ勢の悲哀

2024-03-21 17:07:17 | 社会・政治
ウェザーニュースライブ(WNL)という人気の気象情報番組は既に多くの人がご存知だろうと思う。番組のキャスターを務めるのは若い美人女性達であり、一般社会に於いては紛れもない恋愛強者であろう。

番組では単に気象情報を提供するだけでなく、視聴者からのコメントが頻繁に受信されており、キャスター達はその文面を読んでリアクションを取りながら番組は進行してゆくのが平均的な形である。

番組では、例えば2月14日のバレンタインデーとか、12月24日のクリスマスイブといった節目となる日には、それにちなんだ企画を催したりするのだが、バレンタインやクリスマスイブといった日に何か特別な感情を持つのは恋愛強者だけであって、視聴者の大多数を占める独身男性達にとっては「何もない(いつもと同じ)普通の日」でしかない。(*1)

恋愛強者の定義について記しておく。博報堂出身のマーケティングディレクターで独身研究家でもある荒川和久氏によれば、独身男女の内、その気になればいつでも恋愛できる人の比率は常に2~3割であり、そうした人々を恋愛強者と呼んでいる。残りの7~8割は(濃淡の差はあれど)恋愛弱者として分類される人々…つまり恋愛にはほぼ縁がないか、或いは全然縁が無い人々である。これは不思議なことにいつの時代でもこの比率は同じであり、それこそ江戸の昔であろうが、昭和であろうが、現在の令和であろうが、同じ比率なのである。

余談だが、一時流行した「草食男子」という言葉は上記で示した実態を見る限り嘘である。マスコミなどは少子化時代で騒ぎ始めるようになってから突然出現したかのように無責任に喧伝するが、荒川氏が示すデータを見る限り、どの時代もモテる人、モテない人の比率は同じで、今になって特別な特徴を持つ男性達が出現した訳ではないのである。

閑話休題。話をWNLキャスターに戻す。

冒頭に書いたように、WNLキャスターの女性たちは全員が飛び抜けた美人であるが故に恋愛系の経験も豊富であろうし、その方面への自負もあるが故にいつも自信に満ちた笑顔でいられるのである。番組にはいわゆる視聴者からのお便りといったものや、リアルタイムに送られるコメントが飛び込んでくるのだが、このお便りやコメントが恋愛系の内容になると、すぐに湧き出すように出てくるのが「(・д・)チッ!」とか「チッ!」という舌打ちをするコメントである。「チッチ勢」と呼ばれる人たち(視聴者)だが、これは恒例のネタというか、ある種のユーモアとして投稿している視聴者も居る一方で、真面目に心情を表す為に投稿している視聴者も居るであろう。上述した恋愛弱者の男性たちであり、恋愛に縁のない人生の悲哀の感情を込めて投稿しているものと推察されるが、しかしWNLの美人キャスター達はこれらを笑いのネタとして軽く処理する場合が少なくない。なぜなら、恋愛弱者の心情など想像の埒外だからだ。無理もないだろう、いつでも恋愛やモテが近くにあるキャスターたちと恋愛弱者の男性たちとの間には超えられない大きな壁が存在しているが故に、キャスターの女性達には「悲哀に満ちた弱者男性の心」などには一分の関心も無いのである。意識の持ち方一つ取っても両者には天と地ほどの差異があるのは仕方がないといえば確かにそうである。また、現実的に「チッチ勢の悲哀」に寄り沿って番組を盛り下げる訳にもいかないのも事実だ。


キャスターの意識がいかに恋愛弱者男性のそれとはかけ離れているかを示す一つの実例がある。

2023年の2月14日(バレンタインデー)の配信では飛び抜けた美人で知られる戸北美月キャスターが気象予報士の山口剛央氏に「バレンタインの思い出はありますか?」と話を振った。間髪入れず山口氏は「無いです」と返答。話が秒で終わってしまったことに喫驚し「あ、無い…」と苦笑しながら戸北キャスターは本気でそれが「意外だった」様子を見せながら愛想笑いを浮かべていたのである。さらに山口氏は「普通、無いんですよ」とコメント。視聴者からも「それ、聞く?」というコメントが…。だが、戸北キャスターは「今日の定番質問かなと思った」と発言。ここに恋愛強者にとっての常識との大きなズレが起きている事に注目せざるを得ない。

そのズレとは…。

ただでさえ女性には「性的優位性」が与えられており、まして戸北キャスターのような群を抜いた美人女性であれば「バレンタインの思い出」は「ある」方が「普通」なのである。常に恋愛やモテが近くにある人の意識はこうなのだ。だがしかし、恋愛弱者の男性には年間を通して「何も無い」のが「普通」なのであり、ここが恋愛強者の戸北キャスターには到底理解できず想像もできない世界なのである。だから戸北キャスターは「今日の定番質問かな」と本気で言ったのであり、それが非モテ男性の心を「アイスピックで抉る」ような酷い言葉であることに気が付かない。

彼女にとっては「あって当たり前」の「バレンタインの思い出」を二人で話そうと思ったのである。だから山口氏が「無いです」という返答をしたことに本気で喫驚したのである。この2人の間にはとてつもない大きなズレと障壁が存在していて、それが戸北キャスターには見えず意識化できないのであるし、仮に認識できたとしても理解できないであろうことは間違いないところである。なぜなら「(思い出が)ある」事が「普通」の人種だからだ。

この恋愛系の事象が人生に於いて「何も無い」ことが「普通」な男性達が、その悲哀の感情を乗せて「チッ」という舌打ちのコメントを送るのだが、WNLキャスターの美人女性キャスター達の誰一人として、この「チッ」に込められた寂寥感に満ちた弱者男性の感情を汲み取る事もできず、それに思いを馳せることもできず、それどころか、笑い飛ばすネタとして軽く処理されてしまうのが実情である。中には恋愛弱者男性をサディスティックに煽ることで余計に弱者男性の「恋愛に縁遠い惨めさ」を痛感させ、心の傷口をダガーナイフで突っつくようなキャスターも居る。ここまでくるともはや嫌味なニュアンスしか感じることしかできず、「シャレにならない」レベルと言えよう。

上記の戸北キャスターも無邪気に「今日の定番質問かな、と」などと無邪気に言ってのけるあたりに憤りを感じた男性も少なくないであろう。弱者男性の心を逆なでする発言だからだ。そこに1ミリも気づいていないところに憤りを感じる人も少なくない。また、彼女は他の場面で「チッチ勢」が湧いてきた時には「チッチさんは誇りを持ってください」などと全く意味不明な発言をしたこともある。「チッ」の舌打ちが意味するものを全く読み取れていないことがよくわかる事例である。


所詮、恋愛強者と恋愛弱者は全く別の世界に生きているのであり、恋愛強者はナチュラルに恋愛弱者を見下し、この両者が決して理解しあったり交わることはない・・・それが実情であり実態というものだ。そうした世間の有り様をWNLの中に見出す、という話であった。




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(*1)
気象予報士の山口剛央氏も「2月14日は2月も半分終わった事を思う日」として、それ以外の意味はない、という発言をしていた。




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脱炭素の無意味さ 環境派の欺瞞

2024-03-21 13:30:00 | 国際
あれだけ環境に優しいとして全世界的に普及が推し量られて(押し付けられて)きたEV(電気自動車)であるが、ここへきてその化けの皮が剥がれてきて世界中の人々からそっぽを向かれる存在になっている。当ブログでもEVの無意味さについては以前に記事にしているので参照されたい。↓

『EVが使いもんにならない当然の理由』

そもそも、国際社会(国連)がSDGsがどうだこうだと「脱炭素社会を目指す」とした目標自体が実に怪しいのである。

物理学者でノーベル賞も受賞しているジョン・クラウザー博士は脱炭素化の意義を疑問視している。以下はクラウザー博士の意見を基調に記してゆく。

CO2排出の削減が地球温暖化に与える影響は極めて限定的なのである。ではそれはどの「程度」なのか?

そもそも大気中のCO2の割合は 0.04% である。

ここで人類が作り出しているCO2の量は、上記 0.04% の内の僅か 3% である。

人類が出すCO2の量がこれだけ僅少だと、いくら人類が「脱炭素化」に励んだところで「何も変わらない」に等しい。はっきり言って無駄であり、「焼け石に水」にも満たない虚しい所業でしかないのである。若年層風に言えば「いーみないじゃ~ん」である。

クラウザー博士のこの見解は全世界の専門家からも支持されている。環境派が必死に叫ぶ「気候変動」は人類にとって決して緊急事態でも何でもない。そもそも人類起源の気候変動など無いからである。クラウザー博士の意見に賛同する科学者は1500人以上にのぼるのであり、世界気候宣言にも署名しているのである。


以上が真実なのだが、もう一つ書いておく。



ではなぜ環境派と呼ばれる人々は必死になって「気候変動」を訴え続けるのだろうか?

それは環境派にとって「商売になる」からである。「金づる」と言ってもいいだろう。

実は、元々環境派の人たちというのは共産主義者、或いは共産主義研究者だったのである。1991年に共産主義の総本山であるソ連(ソビエト連邦)が崩壊(共産主義の崩壊)した後で、彼らは「さて、これから何で食べていこうか」と考えて、「環境派」に転じたのである。それ以後、彼らにとっては地球のことなどどうでもよく、覇権を握りオピニオンリーダーになるべく「環境!環境!」「温暖化は悪!」と喚き続けることで公金チューチューも含めて飯を食うことになったのだ。だが、真実は上述したように「気候変動」なんて「無い」。これが真実である。







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写真 プロとアマチュアの決定的な違い

2024-03-21 12:08:12 | 写真・映像
最近は若年層の間でもフィルムカメラが流行しているようだ。昔のフィルムカメラ自体を知らない世代なので、彼らにとっては「新しいもの」なのであり、興味をそそる対象になるのであろう。

ところが、「なぜフィルムカメラに関心があるのか」の理由を問うと、「現像されて返ってくるまで、どのように写っているか分からないので」、だそうだ。アマチュアが趣味で撮影して楽しむ限り、どのようなところに面白みを見出そうと、それは自由というものだが、しかし前言は「アマチュアならではの台詞」でもあるのだ。

アマチュア写真家とプロフェッショナル写真家はどこが異なるのだろうか?
それを下に示す。


[アマチュア]
「現像が終わってフィルムが手元に返ってくるまで、自分がどのように撮影したかわからない」。「現像が済むまで結果の映像がどうなっているか、自分でも想像できない」。フィルムが現像から返ってきて初めて結果を知る。



[プロフェッショナル]
現像しなくても、自分が行った撮影の「カメラの各種設定(露出・シャッタースピード・ストロボの加減・ASA・レンズの選択、等々)」「光(自然光・照明光)の具合」「被写体(人物・物・風景問わず)の状態」などによって最終的に「どのように写っているかは、現像前から判っている」。それに加えて、デジタルで撮影した場合とフィルムで撮影した場合の質感の相違も把握している。



プロというのは最初から「このように写したい」という具体的なイメージが先にあって、それに沿ってカメラや光をセッティングするのである。従って、現像前に「どのように写るか」は把握しているのである。それができるからプロなのだ。一方、アマチュアはカメラの設定をどうすればどうなるかが分からないので、だから現像が終わるまで「どのように写っているか」が分からないのである。だから「意外に良く取れてるね」などと言うのだ。ベクトルが全く逆であることが分かる。






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