Altered Notes

Something New.

人の「思い」、その究極の昇華 ヨコハマメリーに思う

2020-05-19 19:09:00 | 人物
2018年の10月8日、日本テレビで日本の風俗をテーマにした珍しい番組が放送された。
『かたせ梨乃が進駐軍の前で踊り狂った時代…とマツコ』
という番組で、マツコ・デラックスがMCを務め、友近がコメンテーターとして出演した。

番組では風俗学の専門家も登場して日本の風俗史を地上波テレビ番組としては異例のディープさで描いてみせた。風俗には数多のカテゴリーがあり、時代の変遷と共に変化を遂げてゆくものである。しかし「万物が流転」してゆく世相の中で一生涯全く変わらない強い思いを貫いた一人の女性(娼婦)が存在したことを番組は最後に紹介した。通称「ヨコハマメリー」その人である。

メリーさんについては既に少なくない情報が公開され多くの人が語っている。メリーさんの基本的な情報についてはここでは語らない。詳細は下記のリンク先を参照されたい。

メリーさん自身についての解説
メリーさん

メリーさんをテーマにしたドキュメンタリー映画の紹介
ヨコハマメリー

上述の番組の中でもあのマツコ・デラックスが神妙な顔つきになり言葉を失ってしまうほどメリーさんの生き様は壮絶であり、しかも一つの思いをブレずに保ち続け、限りなく限りなく「純粋」に己の道を生ききったのである。


当稿ではあくまで筆者自身がポイントとして感じた部分のみにスポットを当てて述べる。

メリーさんが横浜に居たのは1963年~1995年である。特に1980年代からその存在が公に知られるようになった。有り体に言えば「有名になった」ということだが、予備知識無しにいきなりメリーさんを見たら相当に「異様」に思うだろう。「異形の」という形容をしたくなるほど…かもしれない。筆者も1980年代~1990年代に横浜、それも関内・伊勢佐木町周辺を歩いたことが何度もあるので、記憶は定かではないが、もしかしたらメリーさんを見かけていたかもしれない。

そもそもの疑問。
なぜメリーさんは老境に至るまで横浜の街に(ホームレスになってまで)立ち続けていられたのか?

生涯でただ一人、本気で愛したアメリカ人将校が居たようで、これについて映画「ヨコハマメリー」の監督である中村高寛氏は「以前と同じ格好でいれば、白粉を塗って白いドレスを着てずっと居れば(再会した時に)相手も判ってくれるんじゃないか、印(しるし)として白いドレスを着て白く塗ってアメリカ人の恋人をずっと待ち続けていたんじゃないか…それが私の中でもひとつの納得できる答えかな、と思っています」と述べている。

誰でも若い頃には一度は「命を賭けた」「全身全霊の」「それ以外は考えられないほどの」恋愛を経験するかと思う。しかし、その「思い」を生涯同じポテンシャルで持ち続けることなど通常は不可能だ。しかしメリーさんはそれを貫いたのであり、筆者も中村監督の推察には同感である。そのあまりにもピュアな「思い」が彼女を横浜に留めておき相手をひたすら待ち続けることができたのではないか、と思われる。

メリーさんは孤高の人であった。決して社交的とは言えず、その面での苦労も多かった筈である。その意味で思うのは、メリーさんが元々「人との関係」に苦労される個性の持ち主だったのではないか、ということである。メリーさんが不器用だとかそういう話ではない。世の中を占める多数派の人々とは毛色の異なるタイプだった、ということだ。それを思わせるエピソードは若くして嫁いだ時代に既に表れている。太平洋戦争が始まって軍需工場で働くが、人間関係を苦に自殺未遂騒動を起こした、という事実。ここに「多数派を占める人々と折り合いをつける事が難しかったのであろう」という事情を伺い知る事ができる。非常に繊細な神経の持ち主である。しかし、だからと言ってメリーさんは自分を曲げて社会に迎合する生き方は決してしなかった。だから1995年に老齢に依る看過できない身体的な不都合が起きるまで自分のスタイルを貫き通すことができたのであり、その原資は生涯唯一本気で愛したアメリカ人将校の男性への「純粋な思い」であり「愛」なのである。また、逆に考えれば、そうした純粋かつ極めて強固な思いが無ければそれほど長く横浜の地に居続けることは不可能であり、そこが一般的なタイプの人々とは異なるが故…の部分だったのではないか、と。その意味で中村監督の説明には普遍妥当性を感じるところである。

横浜に於いてメリーさんは一部を除いてほとんど誰とも交流しようとしなかった。それはメリーさんという人の特質が社会の大多数を占める人々とタイプが異なっていたことと、もう一つは社会(或いは多数派を占めるタイプの人々)に対して少なくない不信感を持っていたのではないか、という推察から考えることができると思う。ここで誤解してはいけないのは、メリーさんは決して非常識で無礼な人ではなかった、ということ。とんでもない、むしろ礼節には人一倍重きを置いていた人である、ということは重要だ。少しでも世話になった人には必ずお礼の品を届ける。礼儀正しく受けた恩を大切に思う人でもあったのだ。

もう一つ重要なのはメリーさんが非常にプライドが高い人だった、ということ。ホームレスになっても決して卑屈になることもなく(背中は曲がっていたが)堂々と胸を張って生きていた事は素晴らしい事であり、前出の「純愛」を貫く強い気持ちが彼女の芯に存在するからこそ、自分をきちんと律して生きていたのであろう。

そして、前述のようにメリーさんは周囲のほとんどの人と交流することもなかったのだが、一人だけ例外がある。シャンソン歌手の永登元次郎(ながと がんじろう)氏である。彼もまた人生において筆舌に尽くしがたい多大な苦労を背負ってきた人物であり、その境遇に似たものがあるということをメリーさんも直感で理解していたのだろうか、彼とだけは交流を持っていたのだ。この永登元次郎氏との出会いは彼のリサイタル(ライブ)が行われる関内ホールの前でリサイタルのポスターを見ていたメリーさんに元次郎氏が声をかけた時であった。奇跡的かつ運命的な出会いであった。元次郎氏はその後、メリーさんをサポートする最重要人物になる。一連のストーリーを振り返ると、その時に永登元次郎氏と出会えた事はメリーさんの運命にとって非常に大きな転換点になったと断言できる。


メリーさんが長く横浜に居られた事と、逆に1995年頃を境に横浜に居づらくなった(居られなくなった)事には時代背景とその変遷がある、と中村監督は言う。1990年代以前なら太平洋戦争を経験した人や戦争の記憶を直接受け継いだ人たちが多く存在していたのでメリーさんの存在を理解し許容できる空気が少なからず存在したのである。しかし徐々に世代は入れ替わり、必然的に戦争・戦時の記憶は薄れていった。「戦後の日本」を自覚し意識して生きる人々が減っていき少数派になった時にメリーさんが自然と「街の邪魔者」という立場に追い込まれてしまったのは悲劇であり悔しいことである。

「悔しい」といえば最大の禍根は「メリーさんを一人残して本国へ帰ってしまったアメリカ人将校」である。一説には「朝鮮戦争に従軍するために日本を離れ、戦争後にそのまま本国に帰った」という事だが、それにしたって、どうして一度でもいいから日本に戻りメリーさんに会ってあげなかったのか、と思う。突き詰めればこの人物がメリーさんの元に帰らなかった事が最も大きな問題なのであり、ここがきちんとしていればその後のメリーさんの人生は大きく変わっていた筈だ。もっともこの将校たる男性については何一つ情報が無いので軽々に断じることも難しいのだが。

ここで究極の「そもそもな疑問」を考える。
メリーさんとは世間一般の尺度で言うならば「一介の娼婦であり俗に言うパンパンである」となるが、メリーさんを知る人ならば娼婦とかパンパンなどという言葉は使いたくないしそぐわない、と考えるだろう。一般的な意味では全く無名だった一人の老女になぜ多くの人がその存在を意識させられ心を奪われているのか?

女優の五大路子氏が演じる一人芝居「横浜ローザ」は戦後の混乱の時代を生きてきたメリーさんに代表されるような女性たち一般の生き様をテーマにした演劇作品であるが、毎回多くの観客を動員して今年で25周年だそうである。この演劇のラストは白粉を塗り真っ白なドレスを来た五大路子氏演じるローザが客席通路をゆっくり歩いて後方のドアに消えてゆく、という印象的なシーンなのだが、後方ドアに向かってゆっくり歩いてゆく五大ローザに向かって客席から「メリーさん!」「メリーさん、ありがとう」という声がかかるのである。五大路子氏が演じているのはあくまで戦後の混乱期を経て生きてきた女性一般の姿であり、メリーさんという特定個人ではないのだ。それでも観客は五大ローザの中にメリーさんを見ている。これは本当に象徴的な出来事である。観客がかける言葉は観客の心の中から自然に湧き出てきたものであろう。メリーさんという存在がそれほどまでに一般市民の中に大きな存在となっていたのだ。

深層心理学的にはメリーさんという存在は人々の心理を突き動かすなにがしかの元型イメージ(アーキタイプ)に相当していたのだと思う。だからこそ多くの人の注目を集め深い共感を得ることができたのだろう。とりわけメリーさん自身が胸に抱く「純粋な思い」と「命絶えるまでそれを貫こうとする精神の圧倒的な迫力」…それらが一般の人々の心を打つ大きなファクターだったのではないか、と思われる。また、多くの人に支持されるのはメリーさん自身が持つ非常に高い「人徳」があるからだろう、と筆者は考えている。メリーさん自身は決して社交的ではなかったし、むしろ孤高の存在であり、あまり一般の人を寄せ付けないオーラを持っていた筈だ。それにも関わらず多くの人に共感され支持されるのは極めて高い人徳を持っていたからにほかならないだろう。

まさしく波乱万丈な人生であったメリーさん。
唯一良かったと思えるのは、最晩年の10年間を故郷近くの老人施設で穏やかに暮らすことができた事だろうか。

改めてメリーさんに敬意と誠意を込めて「おつかれさまでした」「ありがとうございました」と申し上げたいのである。