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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 人間的権力による一切の強制からの免除?

2007年07月11日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

■ 宗教上の問題におけるすべての人間的権力による一切の強制からの免除?

『信教の自由に関する宣言』 2
「この自由は、すべての人間が、個人あるいは社会的団体、その他すべての人間的権力による一切の強制を免れることに存する。」

【疑問点 32】
 超自然的であるとはいえ、人間的な権威である使徒たちの権威が、宗教上の事柄において愛の法にふさわしい説得という手段の他に、強制力を用いたことを新約聖書は示している。すなわち、使徒たちが、まず第一に霊的および現世的罰の脅威による精神的拘束、さらには物理的拘束さえも用いたという事実に鑑みてみると、先述の『信教の自由に関する宣言』第二項の文章は(「一切の強制」および「すべての人間的権力」という言葉遣いの例外を許さない一般的な性格をよく考慮に入れた上で)、新約聖書に含まれた聖書の教えと合致するのか。

【疑問点 33】
 「一切の強制」および「全ての人間的権力」という表現は、その一般的性格のゆえに教会のヒエラルキーが教会の成員に対して有する権力を含み、なおかつあらゆる種類の強制を排除するものである。したがって、先に引いた『信教の自由に関する宣言』の引用文において説かれている第二バチカン公会議の教えがピオ6世によるピストイア公会議の不可謬の排斥と、はたして相容れるかと問うことができる。
「『教会の権威を教義と道徳の範囲を越えて外的な事柄にまでおし広げ、本来説得によるべきことを強制力をもって要求することは、教会権威の濫用である』および『自らの発布する教例への従順を強要するのは、およそ教会のやり方ではない』という命題は、「外的な事柄にまでおし広げ」という不特定な表現が、天主から教会が譲り受け、他ならぬ使徒らが外的規律を制定ないしは許可をとおして用いた権威の行使を教会権威の濫用として排斥するかぎりにおいて、異端的命題である。」
(『アウクトーレム・フィデイ』DS 2604)

【疑問点 34】
 宗教に関する事柄において、人間の人格 が「本質的に」天主へと関係付けられ、天主からの強制力を被り得ると同時に、人的権力による一切の強制から免除されねばならない、と主張することは、信仰を少なくとも間接的に損なう根本的な誤謬を唱道することにならないか。事実、信教の自由を説く教説は、19世紀のそれにせよ、20世紀のそれにせよ、自主独立、行動の自由、とりわけ宗教上の問題における、すべての人間的権力による一切の強制からの免除を要求した。かかる要求は、徹頭徹尾のリベラリズム(自由主義)が流行した19世紀にはつじつまの合うものだったが、「天主に本質的に関係付けられた」個人の、天主の至高権への従属を説き、それと同時にすべての人間的権力、とりわけ強制力からの独立を唱道する20世紀においては、甚だしい矛盾を呈することになる。なぜなら、第一原因である天主が種々の二次的原因、特にすべての人的権威をとおして自らの権能を行使されるということは、信仰上の真理だからである。実に、これこそ天主の万物統治の計画の原理たるものだ。(聖トマス・アクィナス『神学大全』第一部第一03問題第三項)他方、一切の権威(両親、国家および教会の権威)が天主の権威への参与であるということも、信仰上の真理である。(ヨハネ19章11節;ローマ人への手紙13章1節;エフェゾ人への手紙3章15節参照)したがって、もし先に見たように、天主の権威および天主による強制が存在し、宗教上の事柄において人間に対して行使されるのだとすれば、天主の権威に参与し、宗教上の事柄において行使される人的権威および強制もまた存在することが絶対に必要である。それゆえ教会による強制、両親による強制、国家による強制が存在することになる。

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教皇グレゴリオ十六世 自由主義と宗教無差別主義について『ミラリ・ヴォス』1832年8月15日
教皇福者ピオ九世 現代社会の誤謬表『シラブス』 1864年12月8日
教皇福者ピオ九世 現代の誤謬の排斥『クヮンタ・クラ』 1864年12月8日
教皇レオ十三世 自由について『リベルタス・プレスタンティッシムム』1888年6月20日
教皇聖ピオ十世 聖楽に関する自発教令『Inter Pastoralis Officii』(MOTU PROPRIO "TRA LE SOLLECITUDINI" SULLA MUSICA SACRA)1903年11月22日
教皇聖ピオ十世 近代主義の誤りについて『パッシェンディ』1907年9月8日
教皇聖ピオ十世 司祭叙階金祝にあたって、カトリック聖職者への教皇ピオ十世聖下の勧告『ヘレント・アニモ』1908年8月4日
教皇聖ピオ十世 シヨン運動に関する書簡『私の使徒的責務』1910年8月25日
教皇聖ピオ十世 近代主義に反対する誓い『サクロールム・アンティスティトゥム』1910年9月1日
教皇ピオ十一世 真実の宗教の一致について『モルタリウム・アニモス』1928年1月6日
教皇ピオ十一世 王たるキリストについて『クワス・プリマス』1925年12月11日
教皇ピオ十二世 福者ピオ十世の列福式に於けるピオ十二世の説教 1950年6月3日
教皇ピオ十二世 進化論及びその他の誤謬について『フマニ・ジネリス』1950年8月12日
教皇ピオ十二世 支那の国民に対し『アド・シナールム・ジェンテム』1954年10月7日
教皇ピオ十二世 日本国民に対するメッセージ 1952年4月13日
教皇ピオ十二世 童貞聖マリアの無原罪の教義宣言の百年祭 回勅『フルジェンス・コロナ・グロリエ(輝く栄光の冠)』 1953年9月8日

第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 信教の自由: どこまでが「正しい範囲」か?

2007年07月11日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

■ 信教の自由: どこまでが「正しい範囲」か?

1-『信教の自由に関する宣言』 2
「宗教問題において、何人も、自らの確信に反して行動するよう強制されることなく、また私的あるいは公的に、単独にあるいは団体の一員として、正しい範囲内で自らの確信にしたがって行動するのを妨げられない」

【問題点 6】
 文末に置かれた「正しい範囲内で」という句は、「何人も、自らの確信に反して行動するよう強制されることなく、また私的あるいは公的に、単独にあるいは団体の一員として、正しい範囲内で自らの確信にしたがって行動するのを妨げられない」という命題に適用するのでしょうか。もしそうなら、不都合が生じることになります。ある場合においては、何某かの人を、その人の良心に反して強制し得ることになってしまうからです。

2-『信教の自由に関する宣言』 4「さらに、宗教団体が、社会に秩序を立て、人間の全行動に活力を与えるために、その教義の特殊な力を公に発揮することを妨げられないことも、信教の自由に属している。」

『信教の自由に関する宣言』 7「なお市民社会は、信教の自由の口実の下に起こり得る弊害に対して自衛権をもっているが、かかる自衛権を客観的な道徳原理に一致した法規に従って用い(中略)かつ公共道徳のしかるべき保護を図るのは、特に公権に属することである。」

【疑問点 29】
 婚姻およびその実践に関する法規は、公共の道徳の一部を成すものである。しかるに、婚姻に関する非常に多くの宗教の教えならびに実践は、カトリック教会が表明する客観的道徳秩序から、甚だしく乖離している。離婚ならびに重婚は、多くのプロテスタント宗派によって認められ、普及されている。同時的重婚すなわち多妻婚(自然に反する関係の罪は言うに及ばず)は、イスラム教によって認められ、広められている。先述の文章(『信教の自由に関する宣言』7)で指摘されている第二の要請 に答えようとする国家は、婚姻に関する見地上「社会に秩序を立て、人間の全行動に活力を与えるために、その教義の特殊な力」(『信教の自由に関する宣言』2)をおよそ現さない宗教に信教の自由を拒む権利を有するのか。また当の国家は、恐れと憎しみとを広めるアニミズムに対して、あるいは個人における受動性を生み、かつインドの巨大な大衆を集団的無気力に陥れる仏教に対して、これを抑制する政策を採ることができるのか。

【疑問点 30】
 『信教の自由に関する宣言』が信教の自由の範囲として示す「客観的道徳秩序」は、純然たる自然法の道徳秩序と同一のものではない、と見なさなければならないのか。もしそうなら、共通善の一部を成し、かつ社会の法制において表出されるべきである「客観的道徳秩序」は、自然的秩序に適合する必要がないと主張することが、文面上のではないとしても、第二バチカン公会議の精神の意図するところなのか。もしそうだとすれば、かかる首長はピオ十二世教皇が法的実証主義に対して説いた教えと相容れるのか。
「法的秩序が道徳秩序との結びつきを自覚する必要があります。(中略)しかるに、道徳秩序は本質的に天主とその意志、その聖性ならびにその存在に根拠を有しています。方角のもっとも深遠かつ細微な考究も正しい法と不正なほう目的新の権利と単に法律上の権利とを区別するために、事物と人間の自然本性に基づいて判断する理性の光、および造物主によって人の心に刻み付けられ、啓示によって明白に確証された法という基準の他に、いかなる基準をも見出すことができないでしょう。」
(1949年11月13日教皇庁控訴院の教皇庁裁判所での訓話 “Con vivo compiacimento”, p.485-486 / PIN 1076)


【疑問点 31】
 もし『信教の自由に関する宣言』の語る「客観的道徳秩序」が十全な自然的道徳と同一のものであるならば、第二バチカン公会議は、誤った諸宗教の信教の自由が、たしかに道徳上の理由によって制限され得るとしても、教義によって誤っているという事実のゆえに、これらの宗教が、共通善の促進と、真の宗教の保護のために、それ自体として制限を被り得るということはない 、と言明ないしは想定しているのか。もしそうだとすれば、かかる想定は国家の不可知主義ないしは宗教無差別主義の排斥(例えばレオ十三世 回勅『エ・ジュント』PIN 234-235)と相容れるのか。

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トレント公会議(第19回公会議)決議文
第一バチカン公会議 (第20回公会議)決議文(抜粋)
聖ピオ五世教皇 大勅令『クォー・プリームム』(Quo Primum)
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ベネディクト十六世教皇の自発使徒書簡『スンモールム・ポンティフィクム』に関する日本語の記事

2007年07月10日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

 ベネディクト十六世教皇の自発使徒書簡『スンモールム・ポンティフィクム』に関する日本語の記事を幾つか紹介します。
 くわしくはリンク先をお読み下さい。

ローマ法王、伝統的ラテン語ミサの自由化を許可
2007年07月08日 19:33 発信地:バチカン/バチカン市国


【7月8日 AFP】ローマ法王ベネディクト16世(Pope Benedict XVI)は7日、ローマカトリック教会(Roman Catholic Church)での数十年にわたる分裂に終止符を打つべく、伝統的ラテン語ミサの自由化を認める自発教令を公布した。


1970年以前のローマ・ミサ典書の使用についての教皇自発教令
(2007.7.7)


 教皇ベネディクト16世は、7日、使徒的書簡「1970年の改革以前のローマ・ミサ典書の使用についての自発教令」を発表された。

 この使徒的書簡に記された自発教令「スンモルム・ポンティフクム」は、教会内の「和解」を目的に、1962年福者教皇ヨハネ23世によって発行されたローマ・ミサ典書、すなわち第2バチカン公会議による典礼改革以前のラテン語による最後のミサ典書の使用についての規範を示すもの。

 教皇は同教令に併せて、この教令の意図するところとその精神を詳しく記した手紙を全世界の司教に宛てて送られた。・・・

 一方、聖ピオ5世によって公布され福者ヨハネ23世によって改版されたミサ典書は決して廃止されていないことを教皇は指摘しつつ、これを特別形式と見なすとしている。これは「唯一のローマ典礼の2つの使用」であり、これによって「信仰の規範」が分かたれることは決してないことを教皇は強調されている。

 この原則のもと、教皇はカトリック・ラテン典礼の司祭が会衆なしでミサを捧げる時は、許可を必要とせずに、聖なる三日間以外は1962年のヨハネ23世のミサ典書または1970年のパウロ6世のミサ典書のどちらを使用してもよい、とするほか、修道会や共同体などにおいても同様のことを可能(ただしそれを常用化する場合などは長上の判断が必要)としている。・・・


ミサ典書についての自発教令:教皇の司教たちへの書簡(2007.7.8)

 教皇ベネディクト16世は、使徒的書簡「1970年の改革以前のローマ・ミサ典書の使用についての自発教令」の発布にあたり、世界のすべての司教に宛て、この教令を発するに至った理由およびその根底にある精神を説明する書簡を発表された。

 「私は大きな信頼と希望を持ってこの使徒的書簡を司牧者である皆さんの手に託します」と始まるこの書簡で教皇は、今回の教令が長い考察と、様々な協議、そして祈りの結果であることを記しておられる。

 そして、1962年のミサ典書をミサ典礼の特別形式として使用することにあたり、教皇は、このミサ典書が法的に廃止されたことは決してなく、原則としてそれは常に認可されているものであることを指摘されている。・・・

 この教皇の司教たちへの書簡は、「護教の盾」さんが日本語に訳されています。

教皇ベネディクト十六世1970年以前のローマ・ミサ典書の使用についての自発教令 SUMMORUM PONTIFICUMの公布に際して教皇ベネディクト十六世から司教達へ宛てられた書簡2007年7月7日

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谷大二(さいたま)司教様の「船員の日」メッセージを読んで:谷司教様はどんな「神」に祈るのか?

2007年07月10日 | エキュメニズム関連情報
アヴェ・マリア!

日本カトリック難民移住移動者委員会 委員長 谷 大二(さいたま司教)の「船員の日」 メッセージ 2007年が発表されている。

====引用開始====



 教皇庁移住移動者司牧評議会は、7月8日(7月の第2日曜日)を「船員の日」(Sea Sunday)と定め、世界中の信徒に船員たちのために祈るよう呼びかけています。日本カトリック難民移住移動者委員会も船員たちとその家族のために祈るよう、皆様に呼びかけます。

 さて、今年のポスターは七福神をイメージしたものです。「カトリック教会なのに神々のポスターを作るとは何事だ」と怒られそうです。そこで、なぜ七福神なのかを少し説明しましょう。七福神の神々のうち大黒(だいこく)・毘沙門(びしゃもん)・弁才(べんざい)はインドのヒンドゥー教、布袋(ほてい)は中国の仏教、福(ふく)禄(ろく)寿(じゅ)・寿(じゅ)老人(ろうじん)は中国の儒教からきています。この6人の神々に日本の恵比寿(えびす)が入っています。いかにも日本らしい神仏習合的な信仰です。しかし、実にインターナショナル(国際的)ではありませんか? しかも、七福神は船に乗って、と書かれた俵を積んでいるのです。日本は17世紀から鎖国時代にはいりますが、それ以前はペルシャから中国にいたる多くの国々との間に、船による貿易、豊かな交流がありました。アジア各地に日本人街もできていたほどです。この貿易は経済的な豊かさをもたらしたばかりでなく、多くの文化的な豊かさももたらしました。なにしろ、インドや中国の神々が日本の神々と一緒になって、船に乗っているくらいですから。七福神は豊かさをもたらす船員のシンボルだったとも言えるでしょう。

 さて、現代はどうでしょう。私たちの生活物資の90%は海外からの輸入でまかなわれ、その99%は船に頼っています。昔以上に、船員たちの労働に頼っていることになります。しかし、船員たちと私たちとの間に人間的な交わりや文化的な交流はどの程度あるのでしょうか。船員のことに心を配ることはあるでしょうか? 確かに、経済的な理由から船員たちの上陸時間は短くなり、港での憩いのひと時もままなりません。だからこそ、そのひと時を応援するために、船員司牧(AOS)が必要なのです。そして、離れ離れで生活せざるを得ない船員とその家族のために、サポートし、祈る必要があるのです。

 厳しい環境の中で働いている船員たちのために祈ってください。かれらが私たちの生活を根底で支えていることに感謝し、彼らの航海の安全と家族の幸せをに祈ってください。そして、関心のあるかたは、当委員会またはAOS(Apostleship Of the Sea)に連絡をとって、一緒に活動に参加してください。


2007年7月8日
日本カトリック難民移住移動者委員会
委員長 谷 大二(さいたま司教)

====引用終了====


【コメント】

 私たちの生活物資、大自然、命、平和など私たちの存在そのものまで全ては唯一の天主に依存し頼っている。そればかりではない、私たちの超自然の命、超自然の祝福と聖寵は、私たちの主イエズス・キリストによりイエズス・キリストを通して来る。真の天主は肉体を取って人間となり私たちのうちに住まわれた。「そうだ、私たちは、そのみちあふれるところから、恩寵に次ぐ恩寵をうけた。なぜなら、律法はモイゼを通じて与えられたが、恩寵と真理とは、イエズス・キリストによって私たちの上に来たからである。」(ヨハネ1章)

「私にとどまっていて、私もまた彼のうちにいるなら、その人は多くの実を結ぶ。なぜなら、私がいないと、あなたたちにはなに一つできないからである。私にとどまらない人は、枝のように外に投げすてられて、枯れはててしまい、人々にひろい集められて、火に投げいれられ、焼かれてしまう。」(ヨハネ15章)

「永遠の命とは、唯一のまことの天主であるあなたと、あなたがお遣わしになったイエズス・キリストを知ることであります。」(ヨハネ17章)

 真のインターナショナル(国際的)とは、真理において一つとなること、一致することだ。全宇宙を創りそれを保ち給う天主の御子が、人間とその社会問題を解決するために人間となって、ある意味で「国籍の区別のない」聖なるカトリック教会を創った。そこで罪を赦された人々が、全世界どこででも一つの信仰を持ち、一つの言葉を話し、天主にまで到達することができるように。王であるイエズス・キリストがその角石(おやいし)となり基礎をおいた。

 カトリック教会こそ人類が知る唯一の完璧な国際社会組織だ。何故なら、復活して聖父の右に座し給う私たちの主イエズス・キリストが、ご自分の設立した新統治に、天の王の玉座から聖霊を送り給うたからだ。バベルの塔の建設時に受けた天罰と反対のことが起こった。イエズス・キリストの教会は「天主が設計し、建造される、たしかな基礎をもっていた」。「かれは、主なる天主によって父ダヴィドの王座を与えられ、永遠にヤコブの家をおさめ、その国は終ることがありません」(ルカ)天主の御子は、人となり、人類社会の問題を解決するために真の平和のための理想社会(ユートピア)を創った。今から2007年前に真の意味での「新世界秩序」を創った。それが聖ペトロの船であり、新約の第二の「ノエの方舟」であり、母にして聖なるカトリック教会だ。

 ところが、谷大二司教様は、私たちの主イエズス・キリストのことに心を配らない。谷大二司教様の船は、ペトロの船ではない。何故ならその船の中には、イエズス・キリストの名前も、その贖いの道具である十字架も見あたらないからだ。谷司教様の船には七福神が乗り、宝と書かれた俵だけが積まれているからだ。谷司教様は、いったいどんな「神」に祈るというのだろうか? 谷司教様の信じる「神」は、神仏習合的な神々であり、司教様は、インドや中国の神々が日本の神々と一緒になったこの世の(文化の??)豊かさを信じておられる。これは私たちの主イエズス・キリストが私たちに教えて下さった信仰でも聖福音でもない。

「彼らは、私があなたから出たものであることをほんとうに認め、あなたが私をおつかわしになったことも信じました。その彼らのために、私は祈ります。この祈りはこの世のためではなくて、あなたがくださった人々のためであります。かれらはあなたのものです。・・・正しい父よ、この世はあなたを知りませんが、私はあなたを知り、この人たちも、あなたが私をお遣わしになったことを知るに至りました。あなたが私を愛してくださったその愛が、彼らにもあるように。」(ヨハネ17章)


聖ピオ十世はこう言う。
カトリックの教えに従えば、愛徳の第一の義務とは、誤った考えをそれがたとえそれがいかに誠実な心から出たものであったにせよ、容認することでもなく、あるいは私たちの兄弟が陥っている誤謬や悪徳に対する理論上のもしくは実際上の無関心にあるのでもありません愛徳の第一の義務とは、それと反対に兄弟の物質的福利と共に、その知的、道徳的な改善を図る熱意に存するのです。カトリックの教理はさらに、隣人に対する愛は、全ての者の父であり人類家族の目的である天主への愛にその源を有していること、またその愛(隣人愛)は私たちがその肢体であるところのイエズス・キリストのうちに存しており、他人にすることはイエズス・キリストご自身にすることに他ならないことを教えています。これ以外の他のいかなる種類の愛も全くの幻想であり、不毛で儚いものです。

「そして今、尊敬する兄弟たちよ、深い悲しみに沈んだ心で私は、シヨンのカトリック主義はどうなってしまったのだろうかと自問します。嗚呼、以前は非常に明るい期待を抱かせてくれたこの組織、活き活きとして勢いがみなぎっていたこの流れは、現代における教会の敵どもによって利用されてしまいました。今やあらゆる国々で企てられつつある世界統一宗教を打ち立てるために、ある大きな棄教的運動の中のあわれな一支流と化してしまいました。そしてこの世界統一宗教とは、いかなる教義、位階制も持ち合わせず、精神の規律も無く、情念に歯止めをかけるものも無く、自由と人間の尊厳の名のもとに(もしもそのような「教会」が立ち行ってゆけるならば)合法化された狡知と力の支配[する状態]ならびに弱者および労苦するものらの圧迫を世界にもたらしてしまうでしょう。」

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ルフェーブル大司教著
『DUBIA 信教の自由に関する私の疑い』

第一章
■ 自由についての一般的考察 「自由」の3つの意味
■ 法とは何か? 法は自由にとって敵なのか?
■ 良心とは何か。行為の実効的規範とは客観的真実のみ。
■ 良心および強制に関する一般的考察:良心を侵すことになるか。法律上の強制についてどう考えるべきか
■ 基本的諸権利とは何か。その限界は?誤謬または道徳的悪に対する権利は存在するか
■ 誤謬または悪に対する消極的権利は存在するか?また、寛容に対する権利は?

第二章
■ 本来の意味での「信教の自由」:人間人格の尊厳は、真理を考慮に入れない自由には存しない。
■ 19世紀の教皇たちはこぞって、いわゆる「良心と諸信教の自由」を排斥した
■ 諸教皇は、何故「良心ならびに信教の自由」を排斥したのか、理由は?
■ 信教の自由とその新たな「根拠」:およびそれへの反駁
■ 真理探求の自由は宗教的自由の根拠となり得るか
■ 宗教無差別主義について確認しておくべき点
■ 信教の自由は人間人格の基本的権利なのか、歴代の教皇様は何と言っているか?
■ 聖書の歴史に見られる、宗教的事柄においての強制
■ 「宗教的事柄における一切の拘束からの免除」としての宗教的自由の是非
■ 「宗教的事柄における一切の拘束からの免除」としての宗教的自由の是非 (つづき)
■ 世俗の共通善、カトリック宗教とその他の諸宗教
■ 真の宗教に対して国家が取るべき奉仕の役割
■ 教会と国家との関係
■ 宗教的寛容
■ 宗教的寛容についての結論

ベネディクト十六世教皇の自発使徒書簡『スンモールム・ポンティフィクム』が発表されて

2007年07月09日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

ベネディクト十六世教皇の自発使徒書簡『スンモールム・ポンティフィクム』が発表されて


 街の若者を対象に〝宣教するバンド〟として本格的にライブハウスで音楽活動をする、これはそんなに目新しいことではない。既に第二バチカン公会議直後に、アジョルナメント(=現代化)をモットーにスペインの司教(オルランド・アルセ・モヤ司教)がナイトクラブでドラムをやっていた。

1969 - The Church goes to the Nightclub


 第二バチカン公会議後、「教会が世界にキリストを届ける」「若者たちが教会に来るのを待っているのではなく自分たちが若者たちに〝教会を〟届ける」と聞かされた。しかし、現実に起こったのは「世界が教会にその頽廃を持ち込んだ」「自分たちが世俗の精神に飲み込まれた」ということではなかったのか? そしてそのために全世界で司祭職の危機が起こってしまった。だから今、教皇様は司祭に聖伝のミサを返そうとしているのではないだろうか。司祭が司祭であるために。

 司祭とはいったい何なのか? 司祭とは宣教するためにあるのか? 聖パウロは言う。「大司祭はすべて、人間の中から選ばれ、天主に関することについて、人間のために任命されている。それは、罪をあがなうそなえものと生贄とをささげるためである。」
「すべての大司祭は、供え物といけにえとをささげるために立てられている・・・」


 司祭は、罪をあがなういけにえをささげるために存在している。だから、いけにえを捧げることができるように、司祭の手は聖別されている。司祭は、ミサ聖祭の時、聖別された手を洗う。何故なら、司祭の手において天主の子羊であるイエズス・キリストが秘跡的に屠られるからだ。カリスと同様に、司祭の手はいけにえの場となるからだ。だから司祭の手は清らかでなければならない。できるなら、司祭の手は私たちの主イエズス・キリストだけを触るだけのものとなるように。だから、司祭は聖別され清くなければならない聖なるものでなければならない。だから、司祭は童貞であり独身でなければならない。世俗のものから切り離されていなければならない。司祭はいけにえのために聖別されているからだ。司祭は天主に捧げられているからだ。だから、私たちは司祭を尊敬しなければならない。司祭のために祈らなければならない。全ての司祭たちのために祈らなければならない。

 聖伝のミサを捧げないから「悪い」司祭などということはない。聖伝のミサを与えられなかったかわいそうな司祭! 何故、司祭があまりにも世俗的なやり方でミサを捧げるのか、何故、新奇なことばかりをやりたがるのか、何故、信仰の無いようなやりかたでミサをするのか、私たちにはその理由が分からない。何故そうなってしまったのかそれなりの理由があったのだろう。だからといって私たちは司祭職に対する尊敬を欠いてはならない。もちろん、私たちはカトリック信仰を危険にし聖なるものを汚すような説を唱える司祭たちから私たちを守らなければならない。それは私たちの義務だ。しかし司祭は司祭だ。たとえ司祭が罪に落ち込んでいたとしても司祭は司祭だ。司祭のために祈ろう。

 願わくは世界中の全ての司祭たちが司祭が何であるかを再発見することができるように、何のために司祭となったのかを再発見することができるように!! 全ての司祭のために祈ろう。私たちには司祭が必要だから。聖なる司祭が必要だから。

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教皇ピオ十二世 支那の国民に対し『アド・シナールム・ジェンテム』1954年10月7日
教皇ピオ十二世 日本国民に対するメッセージ 1952年4月13日
教皇ピオ十二世 童貞聖マリアの無原罪の教義宣言の百年祭 回勅『フルジェンス・コロナ・グロリエ(輝く栄光の冠)』 1953年9月8日

天主に感謝!聖母マリアに感謝!教皇様に感謝!兄弟姉妹の皆様に感謝!ルフェーブル大司教様に感謝!

2007年07月09日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア! 

 愛する兄弟姉妹の皆様、お元気ですか?
 天主に感謝!聖母マリアに感謝!教皇様に感謝!兄弟姉妹の皆様に感謝! そしてルフェーブル大司教様に感謝!


 7月の初土曜日である7日に、ベネディクト十六世教皇様が自発使徒書簡『スンモールム・ポンティフィクム』を発表されました。

ラテン語
SUMMORUM PONTIFICUM

英語訳
SUMMORUM PONTIFICUM

フランス語
SUMMORUM PONTIFICUM

 聖ピオ十世会の総長であるフェレー司教様は、もっとも都合の良い早い時期に兄弟姉妹の皆様と天主に感謝する讃歌である「テ・デウム」を歌うことをお望みになっておられますので、日本では東京で7月22日にミサ聖祭の直後、司祭の退場の前にテ・デウムを歌いたいと思っています。

~~~~~



聖ピオ十世会総長の報道発表

 自発使徒書簡『スンモールム・ポンティフィクム』によって教皇ベネディクト十六世はトリエント・ミサの権利を再度述べ、聖ピオ五世によって発布されたローマ・ミサ典書が一度も廃止されたことがないことを明らかに断言した。教会がこうして自分の典礼の聖伝を持ち直し、天主の栄光のため、教会の善のため、霊魂の救いのために、聖伝のミサの宝をいままで奪われてきた司祭や信徒がそれに自由に近づくことができるようになったことを聖ピオ十世司祭兄弟会は見て喜ぶ。聖ピオ十世司祭兄弟会は、この偉大なる霊的利益のために教皇様に深い感謝を表明する。

 自発書簡に伴われている手紙は、しかしながら、まだ残っている困難について隠そうとしていない。聖ピオ十世会は、聖座の新しい態度によって好ましい雰囲気が確立され、さらに同会の司教たちに関する破門の教書が撤回された後、より落ち着いて論議の的となっている教義の問題点を考察することを期待する。

 Lex orandi, lex credindi 典礼の法は、信仰の法である。私たちの創立者であるマルセル・ルフェーブル大司教の精神に忠実に従い、聖ピオ十世会が聖伝の典礼に執着し続けることは、「常にどこでも全てによって」宣言されてきた信仰と、切り離され得ずに一致している。

メンツィンゲンにて、2007年7月7日
+ベルナール・フェレー

Communiqué de presse du Supérieur Général de la Fraternité Sacerdotale Saint-Pie X(フランス語)

Press Release from the General Superior of the Priestly Society of Saint Pius X(英語)

PRESS RELEASE CONCERNING THE MOTU PROPRIO SUMMORUM PONTIFICUM CURA

Presseerklaerung des Generaloberen der Priesterbruderschaft St. Pius X(ドイツ語)

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聖ピオ十世会韓国のホームページ
トレント公会議(第19回公会議)決議文
第一バチカン公会議 (第20回公会議)決議文(抜粋)
聖ピオ五世教皇 大勅令『クォー・プリームム』(Quo Primum)
新しい「ミサ司式」の批判的研究 (オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿)Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae
グレゴリオ聖歌に親しむ会

カトリック信者が、共産党に党員として加入すること、これを助けることは許されるか?

2007年07月07日 | 共産主義
アヴェ・マリア!

共産主義を奉じている信徒、これを防衛し、宣伝する信徒は、カトリック信仰に対する背教者として、破門に処せられる。

【質問】「キリスト者は、共産党に対して、どのような態度を取ったらよいのでしょうか。まず、(A)カトリック者が、共産党に党員として加入すること、あるいは、なんらかの方法で、これを助けることは許されますか。」

【ローマからの回答】「否定する。なぜなら、共産主義は、唯物主義的、反キリスト教的だからである。共産主義の首領(指導者)たちは、ときどき、言葉の上で、われわれは宗教を攻撃しないと宣言する。しかしながら、実際においては、あるいは、その理論により、あるいは、その行為によって、天主と真の宗教とキリスト教会とに敵対していることを示すのである。」(検邪聖省の回答 1947年7月1日 ローマにて 検邪聖省書記 ピエール・ヴィゴリタ - 天主の摂理によって教皇であるピオ十二世聖下は、1947年7月30日、検邪聖省補佐にまわった通常謁見において、いとも偉大なる師父たちの決定を承認し、これを、使徒的聖座録の公式機関において発布することを命じました。)


【質問】「それでは、(B)カトリック者が、共産主義者の理論あるいは行動を支持する書籍、雑誌、新聞、あるいはリーフレットを刊行し、流布し、読み、あるいは、これに書くことは許されますか。

【ローマからの回答】「否定する。なぜなら、これらすべての著述は、当然の権利により、罰せられているからである(教会法第1399条参照)。」(検邪聖省の回答 1947年7月1日)


【質問】「上のAおよびBに該当する行為を知りながら自由になす信徒に、司祭や司教は秘跡をさずけることができますか。」

【ローマからの回答】「否定する。相応しい準備ができていない信徒は秘跡をさずかることができないという普通の原則によって。」(検邪聖省の回答 1947年7月1日)


【質問】「共産主義者の唯物主義的・反キリスト教的理論を奉じている信徒、とくに、これを防衛し、あるいは宣伝する信徒は、カトリック信仰に対する背教者として、当然の権利により、特別に聖座に保留された破門に処せられますか。」

【ローマからの回答】「肯定する。」(検邪聖省の回答 1947年7月1日)


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■ 現在、教会に危機は存在するか?
■ 教会における現代の危機の責任は、司教様たちなのか?
■ 教会における現代の危機の責任は、司教様たちなのか?(つづき)
■ イエズス・キリストは、市民社会の王であるか?
■ イエズスは「自分の王国はこの世からのものではない」と言われたのではないか?
■ 第二バチカン公会議はどこが特別なのか?
■ ミサ聖祭とは何か?ミサがいけにえであるということを誰が否定したのか?
■ 新しいミサの第二奉献文(Prex eucharistica II)は、極めて古代のものではないのか?
■ 決して廃止されたことのないこの古い典礼を求める新しい刷新された関心 聖伝のミサは廃止されているか?
■ どのように御聖体拝領をすべきか?
■ 現在手による聖体拝領を拒むことは、進歩への跳躍と発展をも拒むことであるか?
■ ミサ聖祭はラテン語でなければならないのか?ベネディクト十六世教皇のラテン語奨励はいいアイデアか
■ カトリック典礼が普通に有するべき三つの性質:新しいミサはこの三つの特徴を満たすか?

カトリック司祭とは一体何か?いけにえを捧げるために天主に聖別された人か?それとも??

2007年07月06日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

カトリック司祭とは一体何か?
いけにえを捧げるために天主に聖別された人か?
それとも??


カトリック新聞「〝宣教する〟山口ブラザーズバンド神父ら 本格デビュー
東京・高円寺のライブハウス」
より

 音楽を通じての宣教活動を目指す、東京・赤羽教会の音楽グループ「山口ブラザーズバンド」(以下・YBB)が6月22日、東京・高円寺のライブハウスに出演。

 YBBは、街の若者を対象に〝宣教するバンド〟として本格的にライブハウスに飛び込んだ。


山口神父(左から2人目)はローマンカラーで登場

 会場では若者たちが思い思いに酒やタバコを手にステージを眺める。

 その中を、YBBメンバーの山口雅稔神父(36/コンベンツアル聖フランシスコ修道会)がギターを手に、ローマンカラーの司祭服姿で登場。あえて司祭服を身に着けたのは、若者たちが教会に来るのを待っているのではなく、信仰による音の力を信じて、自分たちが若者たちに〝教会を〟届けようという意気込みの表れだ。

8月には、東京の大塚や代官山のライブハウスでの〝宣教演奏〟も計画している。

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カトリック典礼が普通に有するべき三つの性質:新しいミサはこの三つの特徴を満たすか?

2007年07月06日 | ミサ聖祭
アヴェ・マリア!

カトリック典礼が普通に有するべき三つの性質

 聖ピオ十世は、聖楽に関する自発教令『Inter Pastoralis Officii』(MOTU PROPRIO "TRA LE SOLLECITUDINI" SULLA MUSICA SACRA)1903年11月22日において、カトリック典礼の持つ固有の特質(le qualita che sono proprie della liturgia)について三つを挙げている。
【イタリア語版は次のバチカン・サイトを参照のこと。TRA LE SOLLECITUDINI

(1)カトリック典礼の最初の特質は「聖性」(santita)である。「聖でなければならない。それで、一切の俗的事物を駆逐しなければならない。」(Deve essere santa, e quindi escludere ogni profanita)
 つまり、天と永遠の真理にかんすることから、この世の世俗の染みがないように一切駆除し、純粋に天上のこと、天主のこと、永遠のことへと向かっていなければならない。

(2)第二に「佳良な形式」(la bonta delle forme)を有し、「真の芸術でなければならない。」(Deve essere arte vera)
 つまり、最善で最高の美の表現であり形式でなければならない。その動き、その跪き、その立ち振る舞い、その音楽、その崇高なラテン語での祈り、その優雅な典礼様式は、真の芸術美を持っていなければならない。

(3)第三の条件は「普遍性」(l'universalita)である。「普遍的でなければならない。」(dovra insieme essere universale)
 つまり、ピオ十二世教皇様の言ったように「教会のカトリック的な一致を明らかにするもの」(『メディアトル・デイ』)である。つまり、地方ごとにやり方が違っていたり、またその日によっていつも新しいものが導入されたりしてはいけない。太陽の昇るところから日の沈むところまで、永遠の天主の聖名に永遠恒久を繁栄する普遍な典礼が捧げられて当然であり普通であるべきである。


 ピオ十二世教皇様は、聖ピオ十世の言っていることを確認してこう言う。「私の先任者ピオ十世が述べた三つの特徴は、全ての典礼奉仕を飾るべきである。つまり、世俗の影響を忌み嫌う聖性、真の正真正銘の芸術が持ち高める高貴さ、地方の正当な習慣を守りながらも教会のカトリック的な一定を明らかにする普遍性である。」

"188. Three characteristics of which Our predecessor Pius X spoke should adorn all liturgical services: sacredness, which abhors any profane influence; nobility, which true and genuine arts should serve and foster; and universality, which, while safeguarding local and legitimate custom, reveals the catholic unity of the Church."
Mediator Dei

 そして、そのためにこそ言語もラテン語であるべきであるし、典礼音楽もグレゴリオ聖歌であるべきだ。

「ラテン語の使用は、教会の極めて重大な部分の慣習であり、一致の明らかで美しいしるしであると同時に教義上の真理が腐敗することからの効果的な対抗策である。」(ピオ十二世『メディアトル・デイ』)

60. The use of the Latin language, customary in a considerable portion of the Church, is a manifest and beautiful sign of unity, as well as an effective antidote for any corruption of doctrinal truth.
『メディアトル・デイ』
Mediator Dei

 「典礼の自己破壊」(ベネディクト十六世)である新しいミサは、一体上の三つの特徴を満たしているのだろうか? 人間中心の騒がしい新しいミサが? 手による聖体拝領の新しいミサが? 常に実験を導入し、教区ごとに司祭ごとにやり方が違う新しいミサが? インカルチャレーションとカリスマ運動とエキュメニズムの新しいミサが? カトリック典礼が普通に有するべき三つの性質を満足させることができない例外的で特別な(extra-ordinary)新しいミサが、何故、一体何故、カトリックの普通の典礼様式(ordinary rite)となりうることができるのだろうか?

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■ 現在、教会に危機は存在するか?
■ 教会における現代の危機の責任は、司教様たちなのか?
■ 教会における現代の危機の責任は、司教様たちなのか?(つづき)
■ イエズス・キリストは、市民社会の王であるか?
■ イエズスは「自分の王国はこの世からのものではない」と言われたのではないか?
■ 第二バチカン公会議はどこが特別なのか?
■ ミサ聖祭とは何か?ミサがいけにえであるということを誰が否定したのか?
■ 新しいミサの第二奉献文(Prex eucharistica II)は、極めて古代のものではないのか?
■ 決して廃止されたことのないこの古い典礼を求める新しい刷新された関心 聖伝のミサは廃止されているか?
■ どのように御聖体拝領をすべきか?
■ 現在手による聖体拝領を拒むことは、進歩への跳躍と発展をも拒むことであるか?
■ ミサ聖祭はラテン語でなければならないのか?ベネディクト十六世教皇のラテン語奨励はいいアイデアか

決して廃止されたことのないこの古い典礼を求める新しい刷新された関心

2007年07月05日 | ミサ聖祭
アヴェ・マリア!

■聖伝のミサは廃止されているか?

【答え】パウロ六世によって新しいミサの典礼様式が導入されました(1969年)。しかしこの導入で、聖伝のミサ(Traditional Mass, La messe traditionnelle)を廃止することも禁止することもなされませんでした。何故なら、聖伝のミサを廃止や禁止することは教会の精神に全く反していることなのでほとんど不可能のことであったからです。何故なら教会は常に数世紀にわたって行われ続けてきた典礼様式を尊重してきたからです。更に聖ピオ五世は1570年7月14日の大勅書『クォー・プリームム』によって聖伝のミサに永久の特権を付けたからです。この永久の特権によって全ての司祭はこの聖伝のミサの典礼様式に忠実であることを誰からも決して妨害されたり禁止され得ないからです。

◆聖ピオ五世の1570年7月14日の大勅書『クォー・プリームム』の決定は、パウロ六世が新しいミサを発布した時に出した使徒憲章『ミサーレ・ロマーヌム』(1969年4月3日)によって廃止になったのではないか?

【答え】いいえ。1969年4月3日の使徒憲章『ミサーレ・ロマーヌム』は、聖ピオ五世によって与えられた特権を廃止するということを主張しなかったからです。従って、聖ピオ五世から付与された特権は現在でも有効であることは全く確かです。従って、全ての司祭は聖伝のミサの典礼様式に忠実である権利があります。

◆聖伝のミサが廃止されていないと言うことは確かか?

【答え】聖伝のミサが廃止されていないという事実は確かです。何故なら、たとえばベネディクト十六世のブラジル訪問の際に開かれた南米司教総会で、聖座を公式に代表して、カストゥリヨン・オヨス枢機卿は2007年5月16日に「1962年に福者ヨハネ二十三世によって発布された典礼書に従ってミサ聖祭と秘蹟を執行すること(celebrating Holy Mass and the Sacraments according to the liturgical books promulgated by Blessed John XXIII)」についてこう言っているからです。「今日、決して廃止されたことのないこの典礼を求める新しい刷新された関心が存在する」(There is today a new and renewed interest for this liturgy, which has never been abolished)と。

 更に、カストゥリヨン・オヨス枢機卿は同時に、シュティックラー枢機卿が12年前(1995年)にインタビューの時にリークした事実を聖座を代表して再確認したからです。

 つまり21年前(1986年)に、ヨハネ・パウロ二世によって作られた9名の枢機卿たちからなる秘密の「第一委員会」(そしてエクレジア・デイ委員会はそれを引き継ぐ「第二委員会」となる)のことです。ヨハネ・パウロ二世はこの1986年の「第一委員会」に、(1)パウロ六世が聖伝のミサを廃止したか否か、また(2)司教は自分の司祭が聖伝のミサを捧げるのを禁止することができるか否か、ということについて研究するように求めたのでした。その時、9名の枢機卿のうち8名が、聖伝のミサは廃止されていないと回答し、9名全てが一致していかなる司教といえどもカトリック司祭をして聖伝のミサを捧げることを禁止することができない、と答えました。

 やはり聖座の公式見解としてカストゥリヨン・オヨス枢機卿が5月16日に南米司教総会で「教皇様は、1986年の第一枢機卿委員会がそうすることを望んだように、この典礼へ近づくことを容易にさせる時が来たと信じておられます。」(The Holy Father believes that the time has come to ease, as the first Cardinalatial commission of 1986 had wished to do, the access to this liturgy.)



【参考資料】

質問:教皇パウロ6世は古いミサを禁止されたのでしょうか。

スティックラー枢機卿:ヨハネ・パウロ教皇は1986年9人の枢機卿からなる委員会に次の2つの質問をしました。まず、教皇パウロ6世或いはその他の権限を持ったものが法的に現在トレント・ミサを世界中で捧げることを禁止したのか?禁止しませんでした。教皇はベネリ(枢機卿)にはっきりこう聞かれました。「パウロ6世は古いミサを禁止したのか?」と。ベネリ枢機卿は何も答えませんでした。ハイともイイエとも言いませんでした。
 なぜでしょうか?「はい、パウロ6世は古いミサを禁止しました」とは言うことができませんでした。なぜなら、パウロ6世は最初から有効であったしかも数万の聖人や信者たちのミサであったそのミサを禁止することはできなかったからです。パウロ6世にとっての難しかったところは、彼はそれを禁止できなかったけれどもそれと同時に彼は新しいミサが立てられ受け入れられることを望んだのです。だから、彼は「私は新しいミサが立てられることを望む」と言うことができるだけでした。これが枢機卿たちが教皇様から出された質問に答えた回答でした。彼らは、教皇様は皆が新しいミサに従うことを望まれたと答えました。
 さて、1986年に枢機卿のうち8人はこう答えました。「聖ピオ5世のミサはかつて廃止されたことはありません」と。私は次のことを打ち明けることができます。私はそう答えた枢機卿のうちの一人でした。反対だったのは一人だけでした。その他の枢機卿は自由の許可を支持していました。つまり、誰でも古いミサを選択することができる、ということです。教皇様はこの回答を受け入れた、と思います。しかし、司教会議のうちいくつかはこの許可の危険に気が付くようになり教皇様のところに行って「これは絶対に許すべきではありませんなぜなら信者の間での論争の機会、更には原因となるでしょうから」と言いました。この議論の耳にされて、と私は思うのですが、教皇はこの許可にサインをするのを控えたのです。しかし、私は自分自身の体験して知っていることですが、委員会としては大多数の答えが古いミサに対して肯定的でした。
 また、次のように非常に興味深い質問もありました。「司教は誰でも正当な司祭にトレント・ミサを捧げるのを禁止することができるか」というものでした。9人の枢機卿は9人とも満場一致でいかなる司教といえどもカトリック司祭にトレント・ミサを捧げることを禁止することは許されない、ということで同意しました。私たちにはいかなる公的禁止もありませんし、私の思うには教皇様も今後公的禁止を出すことがないでしょう・・・。
(Cardinal Stickler, Latin Mass Magazine, May 5, 1995)

 個人的には、2003年にメディナ枢機卿(当時、典礼秘跡聖省長官)は『自分はこのミサが禁止されたとはどこにも見たことがない』と記事(ラテン・ミサ誌2003年 春号の記事)を書いて、それを再確認しています。また、2005年9月には、上述のカストゥリヨン・オヨス枢機卿も、個人的にトレンタ・ジョルニ誌に「聖ピオ五世のミサは廃止されたことがない」と宣言しています。

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ミサ聖祭とは何か?ミサがいけにえであるということを誰が否定したのか?

2007年07月05日 | ミサ聖祭
アヴェ・マリア!

■ミサ聖祭とは何か?

【答え】ミサ聖祭とは、十字架のいけにえの再現・再現在化です。司祭の仲介を通してキリストはミサ聖祭で聖父に、既に十字架の上で流血のやり方で屠られたご自分の御体と御血とを、無流血のやり方で捧げます。ミサ聖祭は真実のいけにえであり、このいけにえを通して十字架のいけにえの功徳が私たちに適応されるのです。

◆ミサ聖祭に関する教会の教えはどこに見つけることができるか?

【答え】トリエント公会議はこう教えている。
「私たちの天主であり、主であるキリストは、十字架の祭壇の上で死に、「一度で永久に」(ヘブライ10・14)父である天主に自分をささげて、救いのわざを完成した。しかしキリストの司祭職は死によって消去るものではなかったので(ヘブライ7・24、27)、敵の手に渡される夜(1コリント11・13)、最後の晩さんにおいて、自分の愛する花嫁である教会に目に見える供え物を残したのである(人間のためにはこれが必要であった)(第1条)。この供え物によって、十字架上で一度血を流してささげたものが表わされ、その記憶が世の終りまで続き(1コリント11・23以下)、その救いの力によってわれわれが毎日犯す罪が赦されるのである。キリストは「メルキセデクの位にひとしい永遠の司祭」(詩編109・4)であると宣言して、自分の体と血をパンとブドー酒の形色のもとに父である天主にささげた。そして、使徒たちを新約の司祭として制定し、パンとブドー酒の形色のもとに拝領するように自分の体と血を与えた。使徒たちとその後継者たる司祭職に、「私の記念としてこれを行え」(ルカ22・19;1コリント11・24)という言葉で、それをささげるように命じた。これはカトリック教会が常に理解し、教えてきたことである(第2条)。」(DzS 1740)
トリエント公会議、第二十二総会

◆ミサが本当に固有の意味でいけにえであることは確かなのか?

【答え】「ミサにおいて真実の供え物が天主にささげられないとか、これをささげるのはわれわれにキリストを食べさせるためだけであると言う者は排斥される。」(DzS 1751)
トリエント公会議、第二十二総会決議文

■ミサがいけにえであるということを誰が否定したのか?

【答え】千年以上、西方教会東方教会の誰一人としてミサ聖祭がいけにえであることを否定しようと考えた人はいませんでした。カトリック信者はこの真理を平和に享受していました。十二世紀になるとミサ聖祭を攻撃し始めるセクト(党派)が出現しだしました。ミサ聖祭がいけにえであるということを否定した主要な人は、マルチン・ルターとそのプロテスタント主義です。これは多くのキリスト者たちにこのドグマを捨てさせました。

◆ミサに関してマルチン・ルターは何と言ったか?

【答え】マルチン・ルターは、カトリック教会の心臓を攻撃するためにミサを破壊することを望んでいると明確に述べていた。
「ミサを転覆させるなら、私たちは教皇制度を転覆させたことになると私は考える。何故なら、巌の上に立てられたかのようにミサの上に全教皇制度はその修道院、司教、大学、祭壇、聖務者、教義などが立てられており、その上に全ての重量が寄りかかっているからだ。これら全ては、冒涜的で厭わしいミサが倒れると共に全て倒れるに違いないからだ。」
(「英国王ヘンリーに反対して」)
Martinus Lutherus contra Henricum Regem Angliae

◆ルターはある意味でミサがいけにえであり得るとも認めていたのではないか?

【答え】ルターは確かにミサのことを「いけにえ」という言葉を時々使っていたが、「聖なるもの」という極めて広い意味でのみ使っていた。ミサが、固有の意味でいけにえであると言うことを断固として拒否せいていた。
 「彼らのうちの諸悪のなかでそれ以上のものはないものは、彼らの酷いミサである。それをもっていけにえとなし、善行とし、・・・」
(修道誓願について)
127 Atque ut aliud nihil malorum apud eos sit, ipsae execrabiles Missae eorum, quibus in sacrificia et opera bona uersis abominanda peruersitate retribuunt suis benefactoribus spiritualia, id est, faciunt eos fidere in mendacia, et secum trahunt in profundum, caeci caecorum duces,
(De votis monasticis)

◆ルターにとってミサとは何なのか?

【答え】ルターにとって、ミサとは御受難の単純な記念にすぎず、ミサの目的は信徒に教えること、内的に信仰を起こさせるためにカルワリオのいけにえを信徒に思い出させることです。ルターが「いけにえ」とか「犠牲」とかと言う場合には、賛美のいけにえ、感謝のいけにえという意味であって、贖いの価値を持つものではありません。

◆ルター自身は何と言っていたのか?

【答え】ルターはこう教えていました。
「従って、罪のため、天主の正義を満足させるため、死者のため、或いは自分と他人のあらゆる必要のためにミサを捧げる、或いは適応させるというのは、明らかに不敬な誤謬である。」
189 Vnde manifestus et impius error est, Missam pro peccatis, pro satisfactionibus, pro defunctis, aut quibuscunque neccessitatibus suis aut aliorum offere seu applicare.
(De captivitate babylonica)

◆ルターのミサに関する誤謬は、典礼においてどのような結果を生み出したのか?

【答え】ルターにとって「御言葉の祭儀」が第一に重要なものであり、聖体拝領は二次的なものでなければなりません。ミサの儀式を少しずつ変えながら、ルターは信徒らの信仰を少しずつ変えることに成功しました。ルターは「この目的に確実にうまく到達するために、あまりにも突然の変化によって躓いてしまうかもしれない弱い信徒らのために古いミサの儀式を幾らか残すべきである」(ルター全集 第十二巻 p. 212)と言っています。

◆プロテスタントは典礼儀式を少しずつ変更しながら自分たちが新しく信じだした内容を信徒らに故意に押しつけたのか。

【答え】英国聖公会が特にこの作戦をとって信徒たちに新しい教義を押しつけました。1549年に出された最初の祈祷書(Prayer Book)は、奉献(offertorium)を廃止し、典文(canon)を変更し、聖体制定の叙述をルター式に変えました。罪の償いのためのいけにえということは直接はっきりとは否定はされずに、沈黙に伏せられました。ただしそれは第一段階に過ぎませんでした。祈祷書の第一版が至るところで受け入れられると、1552年に改訂版の祈祷書が出され、カルヴァン派の晩餐式に多く似通ったものとなりました。
 ルター自身もこのやり方についてははっきりと提示していました。
「司祭は一般民衆がミサの中に変化が加えられたことを気づかないまま躓くことなくそれに与ることが出来るようにうまく変えていくことができる。」
(quoted by Jacque Maritain in "Trois reformateurs" Paris, 1925. p.247)

◆ルターはどのような変化を典礼に取り入れたのか?

【答え】ルターは特に聖伝のミサの奉献文(Offertorium)と聖伝のミサの典文(canon)を攻撃していました。この奉献文とは典文の前にある祈りで、新しいミサの「奉献文」(Prax Eucharistica)とは別ものです。そこで、ルターはミサの奉献文(Offertorium)を無くしてしまい、典文を大幅に変更してしまいました。ルターは、ミサの一般的な構造は残しましたが、その本質は骨抜きにしてしまいました。
 1521年、ルター派のクリスマスの儀式は次のように執り行われました。告白の祈り(confiteor)、入祭誦(introitus)、栄光頌(Gloria)、書簡の朗読、福音、説教、奉献文が無く、三聖頌(Sanctus)、晩餐の聖体制定の叙述をドイツ語で大きな声で唱える、両形態での聖体拝領(パンは手で、ブドウ酒はカリスから、ただし聖体拝領の前に告解をする必要はない)、神羔誦(Agnus Dei)、最後に「ベネディカムス・ドミノ」。ラテン語は本当に少しずつ少しずつしか無くなりませんでした。

◆ルターがカトリックのミサ聖祭に対して抱いていた憎しみについてどう考えるべきか?

【答え】ルターはこの点を正しく理解していました。つまり、無流血の仕方で祭壇の上で繰り返し再現されているカルワリオのいけにえの上に、カトリック教会の全ての生活は成り立っている、ということです。従って、カトリック教会を破壊するには、ミサ聖祭を変質化することが最も効果的であるということです。カトリックの著者らはこれこそが反キリストの業であるだろうと書いています。

 たとえば聖アルフォンソ・デ・リグオリはこう言っています。
「ミサは教会でもっとも良いものであり最も美しいものである・・・悪魔は常に、異端者達を通してミサをこの世から取り除こうと常に努力してきた。そうすることによって彼ら異端者達は、反キリストの先駆者となった。・・・」
La messa e il piu buono e piu bello della chiesa, secondo predisse il profeta... E percio il demonio ha procurato sempre di toglier dal mondo la messa per mezzo degli eretici, costituendoli precursori dell'Anticristo, il quale, prima d'ogni altra cosa, procurera d'abolire, ed in fatti gli riuscira d'abolire, ...
S. Alfonso Maria de Liguori
Messa e officio strapazzati

◆ルターは何故聖伝のミサの奉献文を憎んでいたか?

【答え】ルターがカトリックのミサ聖祭を憎んでいたのは、ミサの「奉献文」(OFFERTORIUM)によって、ミサ聖祭が罪の償いのためのいけにえであることを明らかに表しているからです。
「聖なる父、全能永遠の天主、不肖の下僕である私が、活ける真の天主に捧げるこの汚れなきホスチアを受け容れ給え。私は私の数知れぬ罪と侮辱と怠りとの為、又、ここに列席する人々の為、そして生きる者、死んだ者、全てのキリスト信者の為にこれを御身に捧げ奉る。願わくは、これを私と彼らとの永遠のたすかりに役立つものと成らせ給え。アメン。」
Suscipe, sancte Pater, omnipotens aeterne Deus, hanc immaculatam hostiam, quam ego indignus famulus tuus offero tibi Deo meo vivo et vero, pro innumerabilibus peccatis, et offensionibus, et negligentiis meis, et pro omnibus circumstantibus, sed et pro omnibus fidelibus christianis vivis atque defunctis: ut mihi et illis proficiat ad salutem in vitam aeternam. Amen.

◆新しいミサではこの奉献文はどうなったか?

【答え】新しい典礼様式では、聖伝のミサの奉献文(Offertorium)は廃止され、「奉納の準備」(Praeparatio donorum)に取って代わっている。この「奉納の準備」は、ユダヤ教の食事の前の祈りから取られている。

「神よ、あなたは万物の造り主、ここに供えるパンはあなたからいただいたもの、大地の恵み、労働の実り、私達の命の糧となるものです。」
Benedictus es, Domine, Deus universi, quia de tua largitate accepimus panem, quem tibi offerimus, fructum terrae et operis manuum hominum: ex quo nobis fiet panis vitae.

◆新しい典礼の第一奉献文(Prex eucharistica I)は、ローマ・カノンからそのまま取られたものではないのか?

【答え】 新しいミサでの第一奉献文(PREX EUCHARISTICA 1)は、一見古代のローマ典文から取られたかのように見える。しかし、実際はそのままではなく多くのことがそれに導入された。とりわけ次のことは重要視されなければならない。

(1)もはや聖伝のミサのようにミサのカノン(必ず守らなければならない義務規定)ではなくなり、新しいミサではいろいろある選択肢のうちの一つに成り下がっている。

(2)聖伝のミサのように沈黙のうちに唱えるのではなく、新しいミサでは大きな声で唱えるようになっている。

(3)新しいミサでは、聖変化の言葉に手が加えられている。

(4)聖伝のミサのように聖変化を起こさせるために低くはっきりした声で聖別の言葉を唱えるかわりに、新しいミサでは叙述する(物語を語るように述べる)ことになっている。

(5)聖伝のミサのように聖変化の直後に司祭がする跪きは廃止され、新しいミサでは聖別されたホスチアを会衆に示した後、パテナの上に置いて、跪いて礼拝することになっている。

(6)新しいミサでは多くの十字架の印が廃止されている。

(7)新しいミサでは、真実に「主が来られる」聖変化の直後に「主の死を思い、復活をたたえよう、主が来られるまで」と会衆が唱和する。

◆新しいミサにおけるこれらの変更は、本当に悪しきものであるか?

【答え】これらのことは、一つ一つを切り離してみれば必ずしもそれ自体で悪いことだとは言えませんが、その全体としてみると全てがカトリック信仰を弱める方向に創りあげられています。

■新しいミサがプロテスタント化しているのは、故意なのか?

【答え】アカデミー・フランセーズの会員であったジャン・ギトン(Jean Guitton)は、パウロ六世が秘密を打ち明ける大の親友でありましたが、彼はパウロ六世がミサからプロテスタントを不快にさせていた全てのことを全て故意に取り除くことを望んだ、と発表しました。パウロ六世が六名のプロテスタントの牧師達とともに写っている有名な写真もあります。新しいミサは6人のプロテスタントの牧師らとともに作られたからです。



 このうちの一人であるテゼのマックス・チュリアンはこう言っています。
「この新しくなったミサにおいて、福音派のプロテスタントたちを困らせるようなものは全くない。」
"Dans cette messe renovee, il n'y a rien qui puisse vraiment gener les protestants evangeliques."
(Max Thurian dans La Croix du 30 mai 1969)
 マックス・チュリアンはその後1988年に、プロテスタント主義を否んで放棄することなく、そのまま司祭に叙階されました。

◆ジャン・ギトンはいつパウロ六世のこの意向のことに言及したのか。

【答え】1993年12月19日、パリのラジオ局 Radio-Courtoisie で放送されました。ジャン・ギトンはパウロ六世が何故新しいミサを作ったかその意図を次のように説明しています。
「パウロ六世とその名前を持つ新しい典礼の意向は、信徒らにミサに対するより大きな参加をもとめること、聖書にもっと大きな場所を与え、いわゆる『マジック』とか『同一実体の聖変化』とかいわれるもの、全実体変化これがカトリックの信仰ですが、の場所を少なくする、ことだといって間違いはないと思います。言い換えると、パウロ六世には、聖伝の意味においてあまりにも『カトリック』的なものをミサにおいて消し去る、或いは少なくとも訂正するか曲げる、そしてカトリックのミサを、繰り返して言いますが、カルヴィン派のミサに近づけるという意向がありました。」
Aide memoire sur la nouvelle Messe

◆新しいミサがエキュメニカルな傾向をもっていることを証言した人は他にはいるか?

【答え】 新しいミサを作った中心人物アンニバレ・ブニーニ神父は新しいミサについてこう言っています。彼はエキュメニカルな意向を隠そうとは決してしませんでした。
「教会は、霊魂への愛と別れた私たちの兄弟たちが一致の道へと至るように全てをしようと言う望みとに導かれ、躓きや気に入らないかもしれない危険の陰とでもなるかもしれないものは全ての石を取り除いた。」
(Annibale Bugnini, Documentation Catholique du 4 avril 1965)

オッセルバトーレ・ロマーノにも、同じことをこう言っています。
“We must strip from our Catholic prayers and from the Catholic liturgy everything which can be the shadow of a stumbling block for our separated brethren that is for the Protestants.” - Archbishop Annibale Bugnini, main author of the New Mass, L'Osservatore Romano, March 19, 1965
Annibale Bugnini The main author of the Novus Ordo

 もう一度彼の言葉を良く読んで下さい。
躓きや「気に入らない」「かもしれない」「危険」の「陰」とでも「なるかもしれない」ものは全ての石を取り除いた・・・。

◆プロテスタントは、パウロ六世の新しいミサを高く評価しているか?

【答え】聖伝のミサを明らかに拒否する多くのプロテスタントは、プロテスタントの聖餐式として新しいミサを使うことが問題なくできると言っています。特に、次のプロテスタント牧師たちは聖伝のミサを拒否するが、新しいミサは問題なく捧げることができると言っています。
マックス・テュリアン(La Croix, 30 mai 1969)
ジークバルト(Le Monde, 22 novembre 1969)
ロジェ・メール(Le Monde, 10 septembre 1970)
オットフリート・ヨルダン(conference at Maria Laach, 15 June 1975)。

 アルザス・ロレーヌ地方のアウクスブルク信仰告白派の1973年12月8日公式宣言でも新しいミサは問題なく捧げることができると宣言されました。

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■ミサ聖祭はラテン語でなければならないのか?ベネディクト十六世教皇のラテン語奨励はいいアイデアか

2007年07月05日 | ミサ聖祭
アヴェ・マリア!

■ミサ聖祭はラテン語でなければならないのか?濱尾枢機卿様は、ベネディクト十六世教皇のラテン語奨励を”いいアイデアではない”とおっしゃっているそうだ。

【答え】天主の礼拝のために司祭が作業服ではなく特別の祭服を着るように、聖なる典礼の言語も俗の言語ではないことが極めてふさわしいと言えます。何故なら、俗っぽい言葉づかいは聖なる行為にふさわしくないからです。ローマ典礼ではラテン語がほぼ二千年の間、典礼の言語でした。宗教儀式のために俗言語以外の「聖なる言語」を使用すると言うことは、東方教会でも、多くの非キリスト教の宗教でも見られることです。
 歴代の教皇様たちはラテン語をいいアイデアであるとおっしゃっています。


◆非カトリックの諸団体も自分たちの儀式用の「聖なる言語」を使っているのか?

【答え】日常会話の言語が流動し変動していくにも関わらず、宗教儀式に関する言語は固定化するということは全人類にどこでも見られることです。ギリシア離教教会では、古ギリシア語を典礼に使いますし、ロシア離教教会でも古スラブ語を使います。イエズス・キリストの時代ではユダヤ人たちが既に古ヘブライ語を典礼に使っていました。そしてこの古ヘブライ語は、日常生活の言語ではありませんでしたが、それについて私たちの主イエズス・キリストも使徒達も非難したことはありませんでした。イスラム教では祈りの言葉として文語体のアラビア語を使います。この文語体は必ずしも一般大衆に理解されているわけではありません。日本でも仏教のお祈りをお坊さんは普通、日本語では唱えません。一般の日本人はそれを当然のこととしています。異教のローマ人たちも、その神々への儀式を執行する時には、普通の人には理解不可能の古代の言い方を持っていました。


◆宗教儀式のために聖なる言語を使うというのはどうして世界中で認められるのか?

【答え】宗教儀式のために聖なる言語を使うというのは、人間には自然的に聖なるものに対する感覚を持っているからです。人間は、自然と、宗教儀式は自分の思う通りにするものではないと本能的に理解するからです。つまり人間は受け嗣いだものを尊重してそのまま伝えなければならない、それを歪めてはならない、と理解するからです。何故なら、神聖なことがらは変わらないと理解するからです。宗教において聖なる変わらない言葉を使うということは、人間の心理に極めて合っていることだからです。実際、永遠で完全な天主の本性の現実は不変であります。

■各国語でミサをした方が信徒らが理解しやすいのではないか?

【答え】ミサ聖祭では、いかなる人間も完全に理解できない絶妙な玄義がなされます。天主の玄義のこの神秘的な性格は、全ての人間に完全に理解されるわけではないからです。従って、ミサ聖祭の或る部分は一般の人々には聞けないような司祭の囁くような声で唱えられます。東方典礼では、イコノスタシス(聖画をおいて至聖所と一般会衆とを分ける壁)でその神秘を表現します。天主に対する宗教儀式であるミサ聖祭は、その神秘の部分が必ずしも全ての人々に理解されるとは限らないラテン語で表現されていると言えます。
 それに引き替え、日常生活の言語でミサをした場合、ミサ聖祭をあたかも理解してしまったかのような表面的印象を与えますが、聖なるものを俗化してしまうだけで、ミサ聖祭が一体何か、その本質は何かについて、またミサ聖祭が聖なるものであることについてさえも人々は一般的によく分からなくなってしまいました。

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■ 現在、教会に危機は存在するか?
■ 教会における現代の危機の責任は、司教様たちなのか?
■ 教会における現代の危機の責任は、司教様たちなのか?(つづき)
■ イエズス・キリストは、市民社会の王であるか?
■ イエズスは「自分の王国はこの世からのものではない」と言われたのではないか?
■ 第二バチカン公会議はどこが特別なのか?
■ 新しいミサの第二奉献文(Prex eucharistica II)は、極めて古代のものではないのか?
■ どのように御聖体拝領をすべきか?
■ 現在手による聖体拝領を拒むことは、進歩への跳躍と発展をも拒むことであるか?

現在手による聖体拝領を拒むことは、進歩への跳躍と発展をも拒むことであるか?

2007年07月05日 | ミサ聖祭
アヴェ・マリア!

■ 現在手による聖体拝領を拒むことは、教会のもっている進歩への跳躍と発展をも拒むことであると言えないか?

【答え】「進歩」「発展」という言葉は、見方によっていかなる変化をも形容することができます。たとえばある生命体において無秩序に細胞が増殖してしまった場合、癌の病状が進展した、と言うことができます。ただし生命体の生命の進歩ではありません。御聖体拝領のやり方をはかる基準とは、私たちの主イエズス・キリストに対する信仰と尊敬です。その基準から見ると、手による聖体拝領は進歩ではなく退歩・後退です。更に言えることは、このやり方は教会の中に革命的で反乱的なやり方で導入されました。従って、そのように導入されたものを進歩と言うことはできません。

◆手による聖体拝領は教会の中に革命的で反乱的なやり方で導入されたと何故言うことができるのか?

【答え】何故なら、手による聖体拝領は、最初に許可無く実践されてしまったからです。聖なる教会の明確な規律と規則に反して、極めて「進歩」主義的なグループの中に導入されました。1969年5月29日教書『メモリアーレ・ドミニ』(パウロ六世の名前でグート枢機卿(Cardinal Gut)とアンニバル・ブニーニ(Annibal Bugnini)とによって書かれた)は、この不従順を注意し、口による聖体拝領の利点を詳細に説明しました(Documentation Catholique du 29 juillet 1969, p. 669-671)。教書『メモリアーレ・ドミニ』はラテン典礼様式の司教たちのもとでなされたアンケートによれば極めて大きな大多数の司教たちが手による聖体拝領の導入に反対していることを明らかにしています。それによれば、2115の有効な回答のうち、1233名の司教たちが手による聖体拝領の導入に絶対反対であり、567名のみが賛成でした。教書『メモリアーレ・ドミニ』は、聖伝に基づく口による聖体拝領を維持しなければならないと結論し、そして司教・司祭・平信徒らが注意深くこの規律を守るように勧告しています。


◆手による聖体拝領は、どうやって排斥されたにも関わらずその後で教会に広がったのか?

【答え】手による聖体拝領は、この教書『メモリアーレ・ドミニ』がリベラルな書き方をしていたので全教会に広がってしまいました。聖伝に基づく習慣をそのまま守らなければならないという全ての理由を列挙した後に、教皇様がこれを守ることを望んでおられると断言し、最後にその反対をする許可を与えていたからです。手による聖体拝領はいけないという理由を述べて、伝統的習慣を守れというところで全ての問題は解決されていたのに、教書は手による聖体拝領が既に導入されたところは(つまり、教会の規律に不従順であったところは)、もしも平信徒らがそれを望むのなら、司教評議会は、条件付きで、この新しいやり方を許可することができると付け加えたからです。


◆この教書『メモリアレ・ドミニ』の後はどうなったのか?

【答え】教書『メモリアーレ・ドミニ』は、手による聖体拝領を禁止するかのようなふりをしながら、事実上それを許可してしまいました。西欧と北米では、教書『メモリアーレ・ドミニ』の結果はすぐに実行されました。この新しいやり方は、教皇様が平信徒らからの執拗な要求のために、仕方なく容認しただけという意味で許可したに過ぎなかったものですが、「教皇様への従順」の名前によって、それを要求したことが全くない平信徒にまでもどこでも強制させられたのです。


■手による聖体拝領の結果は?

【答え】手による聖体拝領は、御聖体に対する涜聖を増長させるのみならず、立ったまま手で御聖体を摘んで食し、破片にも不注意であることにより、御聖体における私たちの主イエズス・キリストの現存に対する信仰を弱める機会になります。少なくとも多くの信徒の方々の御聖体に対する信仰を失わせてしまった責任の一つを担っています。何故なら、人間となった真の天主を御聖体拝領によって受けることを真剣に真面目に信じている信者は、愛の天主に対する崇敬と尊敬とを表明せずにこの秘蹟に近づくことはできないからです。従って、手による御聖体拝領は、まず信仰生活における冷淡と生ぬるさへと導き、次に無関心へ、そしてついには信仰の喪失へと導く責任を担っていると言えます。

◆御聖体における私たちの主イエズス・キリストの現存に対する信仰の喪失の責は手による聖体拝領の導入だと本当に言えるのか?

【答え】手による聖体拝領だけが信仰喪失の全ての原因だとは言いきれません。公教要理の不足、公教要理での間違いを教えられてしまうこと、主日のミサの説教の内容などにも責任があるでしょう。何故なら、御聖体の現存は単なるシンボルであるかのように説明されるからです。しかし、手による聖体拝領は、そのような説明を受け入れることができるように条件付け・信徒の方々を準備し、そしてその説明を再確認させるために役立っていると言えます。何故なら、聖別されたホスチアがキリストのシンボルでしかないのなら、聖像や清雅と同じくとりわけ崇敬を持って受け取らなくとも驚くべきことではないからです。

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教皇グレゴリオ十六世 自由主義と宗教無差別主義について『ミラリ・ヴォス』1832年8月15日
教皇福者ピオ九世 現代社会の誤謬表『シラブス』 1864年12月8日
教皇福者ピオ九世 現代の誤謬の排斥『クヮンタ・クラ』 1864年12月8日
教皇レオ十三世 自由について『リベルタス・プレスタンティッシムム』1888年6月20日
教皇聖ピオ十世 聖楽に関する自発教令『Inter Pastoralis Officii』(MOTU PROPRIO "TRA LE SOLLECITUDINI" SULLA MUSICA SACRA)1903年11月22日
教皇聖ピオ十世 近代主義の誤りについて『パッシェンディ』1907年9月8日
教皇聖ピオ十世 司祭叙階金祝にあたって、カトリック聖職者への教皇ピオ十世聖下の勧告『ヘレント・アニモ』1908年8月4日
教皇聖ピオ十世 シヨン運動に関する書簡『私の使徒的責務』1910年8月25日
教皇聖ピオ十世 近代主義に反対する誓い『サクロールム・アンティスティトゥム』1910年9月1日
教皇ピオ十一世 真実の宗教の一致について『モルタリウム・アニモス』1928年1月6日
教皇ピオ十一世 王たるキリストについて『クワス・プリマス』1925年12月11日
教皇ピオ十二世 福者ピオ十世の列福式に於けるピオ十二世の説教 1950年6月3日
教皇ピオ十二世 進化論及びその他の誤謬について『フマニ・ジネリス』1950年8月12日
教皇ピオ十二世 支那の国民に対し『アド・シナールム・ジェンテム』1954年10月7日
教皇ピオ十二世 日本国民に対するメッセージ 1952年4月13日
教皇ピオ十二世 童貞聖マリアの無原罪の教義宣言の百年祭 回勅『フルジェンス・コロナ・グロリエ(輝く栄光の冠)』 1953年9月8日

手による聖体拝領は、ふさわしいやり方なのか?

2007年07月04日 | ミサ聖祭
アヴェ・マリア!

兄弟姉妹の皆様、手による御聖体拝領についてです。

■どのように御聖体拝領をすべきなのか?

【答え】御聖体は、敬意をもって拝領しなければなりません。何故なら御聖体には私たちの主イエズス・キリストがその御体、御血、御霊魂、天主性と共に現存されるからです。この敬意を表明する最善のやり方は、御聖体を司祭の手から跪いて口に受けることです。


◆私たちの主イエズス・キリストは、ご自身が御聖体において真に現存しておられることを言われたのか?

【答え】はい。私たちの主イエズス・キリストは御聖体において真に現存されていることを言われ、御聖体がイエズス・キリストの本当の体であることを断言されました。

「私の肉はまことの食物であり、私の血はまことの飲み物であるから、私の肉を食べ、私の血をのむ人は、私におり、私もまたその人のうちにいる。」(ヨハネ6:56ー57)
caro enim mea vere est cibus et sanguis meus vere est potus. qui manducat meam carnem et bibit meum sanguinem in me manet et ego in illo.

◆私たちの主イエズス・キリストはこの真理を他の時にも言われたか?

【答え】私たちの主イエズス・キリストは、最後の晩餐の時、最初のミサ聖祭を捧げながら、聖体を制定しながら御聖体が何かをはっきりと宣言されました。
「食事の間、イエズスは、パンをとって、祝して、さき、それを弟子たちに与えて、「とって食べよ。これは私の休である」とおおせられた。また、さかずきをとって感謝し、かれらに与えて、「みな、このさかずきから飲め。これは、多くの人のために、罪のゆるしを得させるため流す契約の私の血である。」と仰せられた。」(マテオ26:26)

cenantibus autem eis accepit Iesus panem et benedixit ac fregit deditque discipulis suis et ait accipite et comedite hoc est corpus meum. et accipiens calicem gratias egit et dedit illis dicens bibite ex hoc omnes. hic est enim sanguis meus novi testamenti qui pro multis effunditur in remissionem peccatorum.


■手による聖体拝領は、ふさわしいやり方なのか?

【答え】手による聖体拝領は今日なされているやり方では、御聖体に真にましましたもう私たちの主イエズス・キリストに敬意を払っていません。このやり方は、私たちの主イエズス・キリストの真の現存の信仰を弱めるものであり、捨て去らなければなりません。このような形では、教会において過去かつてあったことがありません。


◆手による聖体拝領は、初代教会になされていたことではなかったのか?

【答え】確かに初代教会の一部の地方で手に御聖体が配られていたことがありました。ただしそれは現在なされているのとは全く別のやり方でした。初代教会では御聖体拝領をする信徒の方々は深々と頭を下げて御聖体を受け取り、少なくともある地方では手にベールを被せて受け取っていました。司祭は御聖体を右手に置き、平信徒は別の手でそれを取らずにそのまま口に運んでいました。

◆これらの違いは本当に重要なのか?

【答え】これらの違いは、現行の手による聖体拝領とは全く別の精神・心構えを明らかにしているので極めて重要です。何故なら、現行の左の手に御聖体を受けて右の手で掴むというやり方は、御体を所有し支配するというキリストの御体に対して全くあるべきではないしぐさであるからです。

◆初代教会にしていたことと、現在していることとの心持ちの違いは別のやり方でも表されているか?

【答え】この全く違った精神は、御聖体の破片に対してなされる注意と気づかいにも表されています。エルサレムの聖チリロは御聖体のいかなる破片をも地面に落とさないように細心の注意を払わなければならないことを勧告しています。
「何も地面に落とさないように気を付けなさい。あなたが落す破片は、自分の体の肢体を失ったかのように考えなさい。私に答えなさい。もしも誰かがあなたに黄金の金粉を与えたとしたら、あなたは注意深くそれを集めるのではないだろうか?あなたの利益のために一つもそれを失うことがないように。黄金よりもダイアモンドよりも遙かに貴重なもののいかなる破片さえも失うことがないようにあなたはもっと注意深くなるべきではないだろうか?」
(Sanctus Cyrillus Alexandrinus, catechesis quintus mystagogica, 21; PG 33, 1126)

◆聖チリロのこの勧告は何を表しているか?

【答え】ここでは全てが御聖体に対する尊敬に満ちています。現在、このような勧告をどこで聞くことができるでしょうか?手による聖体拝領により、御聖体の多くの破片が地面に落ちているにも関わらず誰もそれに注意を払おうとしません。それは、キリストの御体に対する客観的な尊敬の欠如です。

◆しかし、もしも手による聖体拝領が教会ですでに実施されていたなら、現在、何故拒否することができるのか?

【答え】この古代になされていたことの復活ということは、典礼革命の主要な詭弁の一つです。この「考古学主義」の詭弁は、既にピオ十二世によって告発され、排斥されています。

「62.精神と愛情とにおいて、聖なる典礼の起源にまでさかのぼることは、賢明なこと、ほむべきことである。この分野の研究のために、その起源にまで遡ることによって、祝日の意味や、それらの祝日に用いられる式文の意味、教会儀式の意味を、より完全でより注意深い調査をすることができる。しかし、何から何までもすべてを古代の状況にもどそうとするのは、賢明でもないし、称賛すべきことでもない。従って、少し例を挙げてみると、祭壇の原始的なテーブルの形に戻そうとする者、典礼色として、祭服にはけっして黒色を排除しようとする人々、教会に聖画や聖像を禁止しようという人々、天主なる贖い主が受けた残酷な苦しみを一切見せない私たちの主の御体を付けてデザインされた十字架像を注文する人々、そして聖座から与えられた規定に合っているのにも関わらず合唱を非難したり否定したりする人々は、正しい道からはずれている。」
(ピオ十二世教皇 回勅『メディアトル・デイ』 1947年11月20日)

62. Assuredly it is a wise and most laudable thing to return in spirit and affection to the sources of the sacred liturgy. For research in this field of study, by tracing it back to its origins, contributes valuable assistance towards a more thorough and careful investigation of the significance of feast-days, and of the meaning of the texts and sacred ceremonies employed on their occasion. But it is neither wise nor laudable to reduce everything to antiquity by every possible device. Thus, to cite some instances, one would be straying from the straight path were he to wish the altar restored to its primitive tableform; were he to want black excluded as a color for the liturgical vestments; were he to forbid the use of sacred images and statues in Churches; were he to order the crucifix so designed that the divine Redeemer's body shows no trace of His cruel sufferings; and lastly were he to disdain and reject polyphonic music or singing in parts, even where it conforms to regulations issued by the Holy See.
MEDIATOR DEI

◆何故、手による聖体拝領を支持する人々の議論は詭弁なのか?

【答え】何故ならこの議論は、キリスト教の古代において良かったことは、現在でも必ずより良いことである、従って、数世紀の間にかけて教会が制定してきたことよりも古代のやり方をしなければならない、ということを前提としているからです。これは明らかに間違っています。何故なら、古代は初代の熱心のおかげで、まだ御聖体における主の現存に反対する異端説がまた存在していなかったために、元来は危険がなかったことでも、全実体変化を否定するプロテスタント主義の誕生以来、危険となりうるからです。更に、御聖体に対するきめ細やかな愛徳は御聖体に対するきめ細やかな注意を生み出しました。何故なら教会が時と共に御聖体に対する信仰と尊敬の表現をますますきめ細やかに発展させていったことは愛の当然の結果であったからです。ただ形式だけ古代のやり方に戻すということは、現実としては教会のきめ細やかな愛の精神を裏切ることになります。何故なら、教会が芽として持っていたことを成長させて展開させることを拒否することになるからです。

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【推薦図書】
聖骸布の男 あなたはイエス・キリスト、ですか?
脳内汚染からの脱出

ドイツのツァイツコーフェン神学校での叙階式:新司祭たちのためにお祈りをお願いします

2007年07月03日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

兄弟姉妹の皆様、
 2007年6月30日、ドイツのツァイツコーフェン神学校での叙階式の写真をご紹介します。新司祭たちのために兄弟姉妹の皆様のお祈りをお願い致します。























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聖ピオ十世会韓国のホームページ
トレント公会議(第19回公会議)決議文
第一バチカン公会議 (第20回公会議)決議文(抜粋)
聖ピオ五世教皇 大勅令『クォー・プリームム』(Quo Primum)
新しい「ミサ司式」の批判的研究 (オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿)Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae
グレゴリオ聖歌に親しむ会

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】