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手による聖体拝領は、ふさわしいやり方なのか?

2007年07月04日 | ミサ聖祭
アヴェ・マリア!

兄弟姉妹の皆様、手による御聖体拝領についてです。

■どのように御聖体拝領をすべきなのか?

【答え】御聖体は、敬意をもって拝領しなければなりません。何故なら御聖体には私たちの主イエズス・キリストがその御体、御血、御霊魂、天主性と共に現存されるからです。この敬意を表明する最善のやり方は、御聖体を司祭の手から跪いて口に受けることです。


◆私たちの主イエズス・キリストは、ご自身が御聖体において真に現存しておられることを言われたのか?

【答え】はい。私たちの主イエズス・キリストは御聖体において真に現存されていることを言われ、御聖体がイエズス・キリストの本当の体であることを断言されました。

「私の肉はまことの食物であり、私の血はまことの飲み物であるから、私の肉を食べ、私の血をのむ人は、私におり、私もまたその人のうちにいる。」(ヨハネ6:56ー57)
caro enim mea vere est cibus et sanguis meus vere est potus. qui manducat meam carnem et bibit meum sanguinem in me manet et ego in illo.

◆私たちの主イエズス・キリストはこの真理を他の時にも言われたか?

【答え】私たちの主イエズス・キリストは、最後の晩餐の時、最初のミサ聖祭を捧げながら、聖体を制定しながら御聖体が何かをはっきりと宣言されました。
「食事の間、イエズスは、パンをとって、祝して、さき、それを弟子たちに与えて、「とって食べよ。これは私の休である」とおおせられた。また、さかずきをとって感謝し、かれらに与えて、「みな、このさかずきから飲め。これは、多くの人のために、罪のゆるしを得させるため流す契約の私の血である。」と仰せられた。」(マテオ26:26)

cenantibus autem eis accepit Iesus panem et benedixit ac fregit deditque discipulis suis et ait accipite et comedite hoc est corpus meum. et accipiens calicem gratias egit et dedit illis dicens bibite ex hoc omnes. hic est enim sanguis meus novi testamenti qui pro multis effunditur in remissionem peccatorum.


■手による聖体拝領は、ふさわしいやり方なのか?

【答え】手による聖体拝領は今日なされているやり方では、御聖体に真にましましたもう私たちの主イエズス・キリストに敬意を払っていません。このやり方は、私たちの主イエズス・キリストの真の現存の信仰を弱めるものであり、捨て去らなければなりません。このような形では、教会において過去かつてあったことがありません。


◆手による聖体拝領は、初代教会になされていたことではなかったのか?

【答え】確かに初代教会の一部の地方で手に御聖体が配られていたことがありました。ただしそれは現在なされているのとは全く別のやり方でした。初代教会では御聖体拝領をする信徒の方々は深々と頭を下げて御聖体を受け取り、少なくともある地方では手にベールを被せて受け取っていました。司祭は御聖体を右手に置き、平信徒は別の手でそれを取らずにそのまま口に運んでいました。

◆これらの違いは本当に重要なのか?

【答え】これらの違いは、現行の手による聖体拝領とは全く別の精神・心構えを明らかにしているので極めて重要です。何故なら、現行の左の手に御聖体を受けて右の手で掴むというやり方は、御体を所有し支配するというキリストの御体に対して全くあるべきではないしぐさであるからです。

◆初代教会にしていたことと、現在していることとの心持ちの違いは別のやり方でも表されているか?

【答え】この全く違った精神は、御聖体の破片に対してなされる注意と気づかいにも表されています。エルサレムの聖チリロは御聖体のいかなる破片をも地面に落とさないように細心の注意を払わなければならないことを勧告しています。
「何も地面に落とさないように気を付けなさい。あなたが落す破片は、自分の体の肢体を失ったかのように考えなさい。私に答えなさい。もしも誰かがあなたに黄金の金粉を与えたとしたら、あなたは注意深くそれを集めるのではないだろうか?あなたの利益のために一つもそれを失うことがないように。黄金よりもダイアモンドよりも遙かに貴重なもののいかなる破片さえも失うことがないようにあなたはもっと注意深くなるべきではないだろうか?」
(Sanctus Cyrillus Alexandrinus, catechesis quintus mystagogica, 21; PG 33, 1126)

◆聖チリロのこの勧告は何を表しているか?

【答え】ここでは全てが御聖体に対する尊敬に満ちています。現在、このような勧告をどこで聞くことができるでしょうか?手による聖体拝領により、御聖体の多くの破片が地面に落ちているにも関わらず誰もそれに注意を払おうとしません。それは、キリストの御体に対する客観的な尊敬の欠如です。

◆しかし、もしも手による聖体拝領が教会ですでに実施されていたなら、現在、何故拒否することができるのか?

【答え】この古代になされていたことの復活ということは、典礼革命の主要な詭弁の一つです。この「考古学主義」の詭弁は、既にピオ十二世によって告発され、排斥されています。

「62.精神と愛情とにおいて、聖なる典礼の起源にまでさかのぼることは、賢明なこと、ほむべきことである。この分野の研究のために、その起源にまで遡ることによって、祝日の意味や、それらの祝日に用いられる式文の意味、教会儀式の意味を、より完全でより注意深い調査をすることができる。しかし、何から何までもすべてを古代の状況にもどそうとするのは、賢明でもないし、称賛すべきことでもない。従って、少し例を挙げてみると、祭壇の原始的なテーブルの形に戻そうとする者、典礼色として、祭服にはけっして黒色を排除しようとする人々、教会に聖画や聖像を禁止しようという人々、天主なる贖い主が受けた残酷な苦しみを一切見せない私たちの主の御体を付けてデザインされた十字架像を注文する人々、そして聖座から与えられた規定に合っているのにも関わらず合唱を非難したり否定したりする人々は、正しい道からはずれている。」
(ピオ十二世教皇 回勅『メディアトル・デイ』 1947年11月20日)

62. Assuredly it is a wise and most laudable thing to return in spirit and affection to the sources of the sacred liturgy. For research in this field of study, by tracing it back to its origins, contributes valuable assistance towards a more thorough and careful investigation of the significance of feast-days, and of the meaning of the texts and sacred ceremonies employed on their occasion. But it is neither wise nor laudable to reduce everything to antiquity by every possible device. Thus, to cite some instances, one would be straying from the straight path were he to wish the altar restored to its primitive tableform; were he to want black excluded as a color for the liturgical vestments; were he to forbid the use of sacred images and statues in Churches; were he to order the crucifix so designed that the divine Redeemer's body shows no trace of His cruel sufferings; and lastly were he to disdain and reject polyphonic music or singing in parts, even where it conforms to regulations issued by the Holy See.
MEDIATOR DEI

◆何故、手による聖体拝領を支持する人々の議論は詭弁なのか?

【答え】何故ならこの議論は、キリスト教の古代において良かったことは、現在でも必ずより良いことである、従って、数世紀の間にかけて教会が制定してきたことよりも古代のやり方をしなければならない、ということを前提としているからです。これは明らかに間違っています。何故なら、古代は初代の熱心のおかげで、まだ御聖体における主の現存に反対する異端説がまた存在していなかったために、元来は危険がなかったことでも、全実体変化を否定するプロテスタント主義の誕生以来、危険となりうるからです。更に、御聖体に対するきめ細やかな愛徳は御聖体に対するきめ細やかな注意を生み出しました。何故なら教会が時と共に御聖体に対する信仰と尊敬の表現をますますきめ細やかに発展させていったことは愛の当然の結果であったからです。ただ形式だけ古代のやり方に戻すということは、現実としては教会のきめ細やかな愛の精神を裏切ることになります。何故なら、教会が芽として持っていたことを成長させて展開させることを拒否することになるからです。

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1 コメント

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トリエント・ミサの御聖体拝領 (侍者2)
2007-07-04 20:24:25
記事をよく理解するためにこの映像をご覧下さい。

Tridentine Votive Mass of the Blessed Virgin Mary (5/6)
http://www.youtube.com/watch?v=q0yMRs5wNE8

御聖体拝領のシーンはもちろんですが、司祭がホスチアのかけらを集めるところ、侍者と会衆とが拝領前に告白の祈りをするところ、万が一にもホスチアを床に落とさないよう拝領台にかけられた布も見どころだと思います。
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