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被昇天―天国には徳によってのみ到達できる

2024年08月16日 | お説教・霊的講話

ワリエ神父 2024年8月15日 説教

親愛なる兄弟の皆さま、

聖母が天国に入られたことを思い巡らすとき、私たちはこう考えようという誘惑にかられるかもしれません。「そうですね、もちろん、聖母は天主の御母でいらっしゃったのだから、それ以外はあり得なかったのでしょう」と。
しかし、私たちが天国を得ることができるのは〈功徳の報いとして〉だけである、ということを理解する必要があります。

1.特権によってではない

天主の御母であるということは、実際、崇高で高貴な特権ですが、それは天主が、天使には天使の本性を、人間には人間の本性を授けようと決心されたのと同じように、天主によって寛大に授けられた尊厳なのです。ですから、童貞聖マリアが天主の御母であるということには、〈名誉はあっても功徳はありません〉。
さて、ナザレトのマリアが、天主の御母となることによって天国の栄誉を得られたのではないとすれば、どのようにしてその功徳を得られたのでしょうか。答えは簡単です。〈聖母のこの世での徳のある生活によって〉です。

かつて、キリストが群衆に説いておられたとき、キリストの知恵の言葉を聞いたある女性がこう叫びました。「幸せなこと、あなたを生んだ胎、あなたが吸った乳房は」。しかし、イエズスは即座にこう答えられました。「幸せなのはむしろ、天主のみ言葉を聞いて、それを守る人だ」(ルカ11章27、28節)。私たちの主は、「あなたは私の母を、私の母であるがゆえにほめたたえるが、私は母を、その聖性のゆえにほめたたえるのである」という意味で言われたのです。

同様に、別の機会に、主の周りに大群衆がいたとき、だれかがこう言いました。「あなたの母と兄弟が外であなたを待っています」。キリストはこう答えられました。「『私の母、私の兄弟とはだれか』。また周りにいる人々を見回し、『これが私の母、私の兄弟である。天にまします私の父の御旨を行う者はすべて、私の兄弟、姉妹、母である』と言われた」(マルコ3章32-35節)。外的な特権がいかに大きなものであっても、たとえそれがメシアとその祝された御母とを結びつける血の絆であっても、天主の御旨への従順に比べれば、無意味なものなのです。

おそらく、これが、カナの婚礼における私たちの主の不可解な言葉の説明でもあるのでしょう。主は、聖母の母としての権威に対しても拒まれたことを、聖母の徳と聖性に対しては与えられ、「(主の)時はまだ来ていない」という事実にもかかわらず、すぐにお望みの奇跡を起こされたのです。

童貞聖マリアの被昇天に話を戻すと、こう考える人がいるかもしれません。「聖母は、いとも簡単に、求めるものを手に入れられます! 聖母は、ただ求められるだけで、それが実現するのです。聖母は、高貴な相続人が、血のつながりがあるという肩書だけで父親の大邸宅に入るように、天国に入られるのです。それは単なる家族優遇にすぎません!」。
しかし、そうではありません。私たちの救い主はこう言っておられます。「私の右や左に座ることは、私が決めることではなく、私の父によって用意された人々のものである」(マテオ20章23節)。

2.功徳によって

ナザレトのマリアが天国を得るに値するお方になられたのは、天主の御母となることによってではなく、〈この世での徳のある生活によって〉でした。マリアが天主の恩寵に完璧にお応えにならなかったことは、決してありませんでした。
「マリアの信仰は、すべての人間とすべての天使の信仰にまさっていた。彼女は、ベトレヘムの馬小屋で御子を見て、御子がこの世の創造主であると信じた。彼女は、御子がヘロデから逃げるのを見ても、御子が王の中の王であるという信仰を揺るがすことはなかった。彼女は、御子が生まれるのを見て、御子が永遠のお方であると信じた。彼女は、御子が貧しく、基本的な生活必需品さえないのを見ても、それでも御子が宇宙の支配者であると信じた。彼女は、御子が藁の上に横たわるのを見て、自分の信仰から、御子が全能者であると信じた。(…)そして最後には、彼女は、御子が十字架にかけられ、あらゆる侮辱にさらされながら死のうとするのを見て、他のすべての人々の信仰が揺らいだにもかかわらず、御子が天主であるという揺るぎない信念を持ち続けた」(聖アルフォンソ・リグオーリ)。

このように、天主への忠実で忍耐強い愛以外に秘訣のなかった身分の卑しいユダヤの少女は、今、御子と永遠に住み給う天国の輝く大邸宅を、ご自分のために準備しておられたのです。
「あなたはエルザレムの栄光、イスラエルの喜び、われらの民のほまれ!」【ユディット15章9節】。

結論

親愛なる兄弟の皆さま、

私たちは、マリアのように罪がないわけではありません。しかし、私たちには洗礼の恩寵があり、それによって、私たちは天主の子、天国の相続人とされており、それによって、私たちは罪に打ち勝つことができるのです。
私たちには、聖母のように、私たちの主の現存が目に見える形であるわけではありません。しかし、私たちには、主の現存が、見えない形で、私たちの心の中に、また聖体拝領によって秘跡的に私たちの中に、あるのです。
私たちは、聖母のように恩寵に満ちているわけではありません。しかし、私たちには、祈りに応じて約束された限りない恩寵があります。すべては、私たちが恩寵に協力するかどうかにかかっています。いとも忠実なる童貞であるマリアは、あらゆる恩寵に忠実にお応えすることによって、その崇高な段階の栄光に到達されました。
親愛なる母マリア、私たちのために天国でお声を上げてください。あなたの足跡をたどりつつ、いつの日か、私たちもあなたの栄光に共にあずかり、あなたとともに、父と子と聖霊を永遠に賛美することができますように。アーメン。



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1 コメント

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シスター笹川 永遠の安息を祈ります (へれな)
2024-08-16 16:00:20
アヴェマリア🌹
ちょうど東京では聖母行列のころ帰天されたのですね
帰りに
建設途中の秋田の御聖堂の写真が出来たので信者さんにプレゼントしたんです 
偶然も天主の御手のうち

聖母行列にて
丁度
秋田の聖母のことを教えてくださった方々(帰天なさった)のことを思いながら歩いていました。
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