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ベネディクト十六世教皇の自発使徒書簡『スンモールム・ポンティフィクム』が発表されて

2007年07月09日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

ベネディクト十六世教皇の自発使徒書簡『スンモールム・ポンティフィクム』が発表されて


 街の若者を対象に〝宣教するバンド〟として本格的にライブハウスで音楽活動をする、これはそんなに目新しいことではない。既に第二バチカン公会議直後に、アジョルナメント(=現代化)をモットーにスペインの司教(オルランド・アルセ・モヤ司教)がナイトクラブでドラムをやっていた。

1969 - The Church goes to the Nightclub


 第二バチカン公会議後、「教会が世界にキリストを届ける」「若者たちが教会に来るのを待っているのではなく自分たちが若者たちに〝教会を〟届ける」と聞かされた。しかし、現実に起こったのは「世界が教会にその頽廃を持ち込んだ」「自分たちが世俗の精神に飲み込まれた」ということではなかったのか? そしてそのために全世界で司祭職の危機が起こってしまった。だから今、教皇様は司祭に聖伝のミサを返そうとしているのではないだろうか。司祭が司祭であるために。

 司祭とはいったい何なのか? 司祭とは宣教するためにあるのか? 聖パウロは言う。「大司祭はすべて、人間の中から選ばれ、天主に関することについて、人間のために任命されている。それは、罪をあがなうそなえものと生贄とをささげるためである。」
「すべての大司祭は、供え物といけにえとをささげるために立てられている・・・」


 司祭は、罪をあがなういけにえをささげるために存在している。だから、いけにえを捧げることができるように、司祭の手は聖別されている。司祭は、ミサ聖祭の時、聖別された手を洗う。何故なら、司祭の手において天主の子羊であるイエズス・キリストが秘跡的に屠られるからだ。カリスと同様に、司祭の手はいけにえの場となるからだ。だから司祭の手は清らかでなければならない。できるなら、司祭の手は私たちの主イエズス・キリストだけを触るだけのものとなるように。だから、司祭は聖別され清くなければならない聖なるものでなければならない。だから、司祭は童貞であり独身でなければならない。世俗のものから切り離されていなければならない。司祭はいけにえのために聖別されているからだ。司祭は天主に捧げられているからだ。だから、私たちは司祭を尊敬しなければならない。司祭のために祈らなければならない。全ての司祭たちのために祈らなければならない。

 聖伝のミサを捧げないから「悪い」司祭などということはない。聖伝のミサを与えられなかったかわいそうな司祭! 何故、司祭があまりにも世俗的なやり方でミサを捧げるのか、何故、新奇なことばかりをやりたがるのか、何故、信仰の無いようなやりかたでミサをするのか、私たちにはその理由が分からない。何故そうなってしまったのかそれなりの理由があったのだろう。だからといって私たちは司祭職に対する尊敬を欠いてはならない。もちろん、私たちはカトリック信仰を危険にし聖なるものを汚すような説を唱える司祭たちから私たちを守らなければならない。それは私たちの義務だ。しかし司祭は司祭だ。たとえ司祭が罪に落ち込んでいたとしても司祭は司祭だ。司祭のために祈ろう。

 願わくは世界中の全ての司祭たちが司祭が何であるかを再発見することができるように、何のために司祭となったのかを再発見することができるように!! 全ての司祭のために祈ろう。私たちには司祭が必要だから。聖なる司祭が必要だから。

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1 コメント

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近代主義の魔力 (M.C.)
2007-07-12 21:53:44
アジョルナメントというモットーからナイトクラブでドラムを叩くという行為になぜ短絡してしまうのか、それを嘲笑するのは簡単だろうが、ここにこそ鍵があるのではなかろうか。既に列福されてしまった教皇ヨハネ23世を批判するのはまことに僭越かもしれないが、アジョルナメントという言葉それ自体に「近代主義への抑圧の解除」というニュアンスが含まれていたのではないだろうか。奇しくも今年は回勅「パッシェンディ」100周年にあたる。現教皇様が100年目にあたる9月8日に際し、どのような談話を発表するのかもしくはしないのか、大いに注目される。現教皇の伝統回帰路線は果たしてどこまで進められるのか。
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