酉の市の季節に入った
11月1日は映画の日。
家事少々、お昼の準備をして、電車に飛び乗る。シャンテのある日比谷が目当て。
先週の分科会で知り合った同人Sさんから、教わった【悪童日記】が上映されている。
以下、ネタバレもあるのでご用心。
その原書は、ハンガリー人のクリシュトーフ・アーゴタ(日本と同じ姓→名)が書いている。日本にはフランス語の筆名、アゴタ・クリストフとして紹介された。
作品名から想像される通り、痛快とか爽快とかいうジャンルではない。
初回は人もまばら。だがこのフィルムを観たさに訪れた人もまた興味深い。みな同じ想いだろうか。
途轍もない映画だった。
カラダも心も呆れたように動かない。感動しているのか、動揺しているのかすら判らない感情が渦巻いている。
作者のクリストフは、1935年生まれ。56年のハンガリー動乱の際に、夫と幼子を連れ、オーストリアを経てスイスへ逃げた。
その時の体験が作品にも投影されている。
冒頭、四人家族の和やかな様子が映される。軍隊から帰った父が二人に爪を切っている。どこにでもある日常だ。
その後、世界大戦の戦渦が激しくなったのか、無邪気に過ごしていた都会から離れ、二人は祖母の家に疎開させられる。
緑豊かな自然、まだらな石畳、堅牢だが古くひび割れたレンガの家、横殴りの風雪と大雪原、深淵で静謐な森、どれもが幻影と思えるほど美しい。
瓜二つの双子は一卵性だろう。よくぞ探したものだ。
無垢な少年たちが、魔女と呼ばれる粗野な祖母、盗みをしてまで強く生きる町人たちの中で、徐々に心を蝕まれ、変貌していく。
二人の端正な顔立ちをみると、ドイツ人将校が見初め友人?として扱い、司祭館の女中が汚れた躰を洗ってあげるのも理解できる。
圧倒されるのは淡々と続けられる登場人物たちの生の営みである。戦時下であれ、いやだからこそ、人はより生々しく土の上を歩く。
母の言葉を忠実に守り、過酷な労働のあとも勉強をし、父の託した日記にありのまま書き留めていく。
この日記の記述描写が映画ならではの醍醐味、簡素な絵の辛辣が面白い。
そう、少年たちは現実を直視し目を逸らさない。彼らの視線が大人たちの心を射抜く。
暴力に抗うためお互いをむち打ち躰を鍛える少年たち。
この強さはなんなのか。
無垢と無知、鈍感と鋭敏、怯えと恐喝、冷酷と愛憎、汚泥と潔癖、傍観と親身。
司祭が十戒を知っているか?と問う。
人が人を殺す世の中にあって存在意義を成していないと、反対に司祭を脅し、司祭を説く少年たち。
純真な目の奥の率直に、いつだって大人はたじたじとなり、言い訳がましく嘘をつくほかはない。
吐くと凍るほどの息が、二人の無二の絆をつなぐ。
見終わったあと、暫く茫然としてしまう。自失とはまさにこのことか。
原作は母国語でなく、異国の仏語で書いたとSさんに聞いた。
圧倒的な物語世界を前にしたら、難しい比喩も、理解不能な熟語も、スノッブな外来語もいらないのだ。
平易でいいのだ。私は飾り立てた化粧でごまかそうとしていないか。書きたいものはなにか? そろそろ向き合ってもいいんじゃないか。
気になったので原作も読んでみるつもりだ。
愛してると手紙に認めた母は夫以外の赤子を抱え、話す言葉も薄く白々しい。
捕虜になった父が現れ、少年たちを再び置き去りにする。この無常観はなんだ。
小さな田舎町で暮らす二人を中心に描きながら、綿密に張り巡らされた伏線とあっけないほどの裏切りが観客を捉え、狼狽させる。
あのラストはなんだろう。
空虚のなかの静謐。淋しさを寄せ付けない、生への執着。それを前にしては正義など振りかざしても無意味なのだ。
泥の河にあった日本人の感性とは違う、東欧の少年の成長の物語。これが成長といえるのか、怪物を創るのはいつの世も、大人の都合と不条理だ。
シネマズシャンテをでた。細かい雨が傘をたたく。
まだ躰のうちの細胞の襞という襞が水分を失い、機能を失くしたようだ。
揺さぶられた何かがあった気もするが、実際頭のなかは空疎だ。
悪童日記。
うっかりみると、やられますわ。
教えてくれたSさんに感謝したい。
いまもなお、双子の視線が脳裏から離れない。
【違う国別れの先に未来あり】哲露
運動不足だ。
小降りになったところで走る。
芭蕉庵の翁が川面を向いて燦然と輝いている。ライトアップした新大橋と屋形舟も一緒に。
木曜日は、緩い感じのフットサル。
主催者の女性が、本格的な俳句をやっていて驚く。現役の作家もいたそうだ。
世間は狭いね。類は友を呼ぶってか。
ボールなど蹴っている場合じゃないんだけどね、これも必要なんだよ、たぶん。
この日は眉月。綺麗やったな~