昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

「枚聞神社」に参拝

2007年01月31日 | 九州の旅
写真上は、「枚聞神社」(ひらききじんじゃ)を入口からとったもので、上に「開聞岳」が見えます。
「開聞岳」は、古くは「ひらきき岳」と呼ばれ、「枚聞神社」は、「開聞岳」を神体山とすることが知られています。
古代、遥拝所であった場所に建物が建てられ、神社に発展したものと推察しています。(霧島市上野原遺跡の祭礼場所と思われる遺跡を連想します)

「枚聞神社」は、薩摩国一の宮で、案内板によると祭神は「枚聞神一座」とあり、「神社由緒記に大日孁貴命(天照大神)を正祀とし他に皇祖神を併せ祀る」とあります。
鹿児島湾の入口にあり、航行の目安になる「開聞岳」の「開聞」の名は「海門」の意味もあるようで、航海安全・漁業守護の神さまとして厚い信仰を受けているようです。

写真中段は、拝殿の正面で、朱漆塗・黒漆塗・金の菊のご紋・独特のしめ縄などがあり、華やかさの中にも厳粛さを感じさせる建物でした。

写真下は、毎年10月15日に開催される「ほぜ祭り」のテントや、その左に相撲の土俵ですが、1週間前の状況です。「ほぜ祭り」鹿児島県内各地で行われる秋祭りで、「ほぜ」とは、豊饒の意味だそうです。

神の山「開聞岳」を遥拝

2007年01月30日 | 九州の旅
写真は、「開聞岳」です。 間近に見る迫力のある「開聞岳」を見た後、少し離れて見る美しい「開聞岳」をしばらく見入っていました。

開聞岳は、鹿児島県指宿市にある標高924mの火山で、「薩摩富士」といわれています。山は玄武岩で出来た成層火山の上に、安山岩の溶岩ドームが乗った二段の構造になっているそうです。
約2500年前の噴火で山が出来、約2000年前・1500年前に大量の溶岩が噴出して下部の成層火山体が完成、885年の噴火で頂部の溶岩ドームが完成したといわれています。
2000年にも噴気が上った記録があるようです。

実は、開聞岳は、「阿多カルデラ」の一部で、桜島と同様にカルデラ(大きな噴火口)の外輪山でもあります。「阿多カルデラ」は開聞岳・池田湖(カルデラ)・指宿・大隈半島の西岸まで含む大きな噴火口といわれています。

山頂には「枚聞神社」の奥宮である「御岳神社」があるそうで、周辺の定住遺跡や、遺物と合わせて考えると、まだ神社が造られていない旧石器時代や、縄文時代から「神の山」としてあがめられてきたと推察しています。

鹿児島に「リュウキュウコウガイ」のマングローブがあった

2007年01月28日 | 九州の旅
10月8日知覧を後にして、鹿児島市喜入町生見(きいれちょうぬくみ)の国道226号線沿いにある「喜入リュウキュウコウガイ」を見に行きました。
リュウキュウコウガイ(別名メヒルギ)は、沖縄などの河口や、入江でよく見られるマングローブの木の一種です。

国道のすぐ脇からマングローブが広がっていますが、木々は排気ガスの影響か、少し元気がないようでした。
駐車場が見当たらず、ちょっと困りました。Uターンして国道脇の空き地に止めましたが、国の天然記念物ならもっと生育環境や、駐車場・案内板の整備を願うものです。

木の実(写真左上-沖縄の慶佐次マングローブの案内板の写真)は「胎生種子」といい、枝に付いたまま根が出て、落下しても下の土に突き刺さって育つというとても強い繁殖力を持っているそうです。
動物でいえばカンガルーなどの有袋類のように子供を大切に育てる植物ですね。

「リュウキュウコウガイ」は、「琉球笄」と書き、笄(こうがい)とは、昔に琉球女性が使っていた細長い棒状の髪飾りで、細長い実(15センチ前後)が似ていることから名付けられたようです。(日本髪でも使います)

喜入町が自生地の北限として特別天然記念物になっているようですが、少し北に位置する薩摩半島の南西にある南さつま市大浦町にも自生しているようです。

本文一行目の地名で「生見」を「ぬくみ」と読むそうですが、初めての人ならまず読めない地名ですね。

「知覧型二ツ家」は、黒潮文化圏の住宅だった

2007年01月27日 | 九州の旅
写真上は「知覧型二ツ家」で、母屋(オモテ)と、台所(ナカエ)の二棟を合体したもので、知覧独特の建築様式だそうです。(写真右上に平面図があります)
鹿児島の民家は、母屋と、台所の二棟が隣接して建てられる形式だったようですが、沖縄旅行で見た古い民家を思い出しました。
写真下は、沖縄県本部町の「おきなわ郷土村」にある地元から移設した古い住宅で、左の棟は、台所で土間になっており、右の棟は母屋で竹の床になっています。おきなわ郷土村には与那国島・奄美大島・琉球王朝時代の民家もあり、いずれも「二棟造り」となっていました。
「二棟造りの民家」を調べたら沖縄から小笠原島までの黒潮に沿った地域に見られるそうで、国境を越えた古代からの伝統的な住宅形式かも知れません。

知覧二ツ家の「雨戸回し」

2007年01月27日 | 九州の旅
二ツ家の母屋で、オジサンによる雨戸回しの実演がありました。
実演の前に縁側に座っている人に座る位置を変えるよう指図を始めたので、何が始まるのかと見物客が注目します。
(回転する雨戸が当らない配慮だったことが後で分かりました)

雨戸が、南側と、東側の角を90度回転して進むカラクリが解説されました。
角の柱と、その外側にある竹の柱の間を雨戸が90度回転して通りますが、鴨居や、敷居の溝にも角柱に近い部分は回転ができるよう工夫がされています。
南側の戸袋を無くし、奥の戸袋に収納することで南側全てが開放され、部屋が明るく、風通しが良くなるそうです。

写真左-角の柱、外側の竹柱、上の鴨居に雨戸がこすれた跡に注目
写真中上-回転中の雨戸
写真右-回転をほぼ終えた雨戸

おもしろい「知覧傘提灯」(ちらんかさちょうちん)

2007年01月27日 | 九州の旅
写真は、江戸時代(安政年間)に下級武士の内職として知覧で考案されたちょっと可愛い「知覧傘提灯」です。茅葺きの民家「知覧型二ツ家」で写真のオジサンがとてもおもしろく説明していました。
閉じた状態は円筒形で携帯性が良く、護身用の武器になります。又、開いて頭にのせると日傘・雨傘、開いて上下に引っ張れば提灯になり、「三徳傘」とも言われる優れものだそうです。現在は、インテリアとして人気があり、一本1,5000円で、予約から品物が届くまで数ヶ月かかるようです。
作り方は、竹の一節を32等分に割り、閉じた状態が元の竹の形になるよう和紙を張り合わせるそうですが、竹を正確に割るだけでも相当な修業が必要だろうと思います。

「知覧武家屋敷群」には鎌倉時代からの伝統があった

2007年01月25日 | 九州の旅
知覧の武家屋敷通りは、二種類の石垣と、手入れの行き届いた生垣が印象的です。石垣は、長方形の石を重ねた石垣と、丸みのある小さめな石を重ねた石垣がありました。小さめの石は、戦の時に崩して投石する目的もあったようです。(写真上)
武家屋敷の7庭園は、国の名勝に指定され、日本庭園の特徴に加え、門の内側にある石塀(ヒンプン)等、琉球・中国の影響も多く見られます。(写真下)
薩摩藩は、島津氏が鎌倉幕府の守護に任じられて以来続き、武士が人口の25%(一般的に5%)と多く、中世の支配体制の特徴を残す「外城制度」を明治維新まで続けていたようです。「外城制度」とは、藩を113に区画してそれぞれに「地頭仮屋」を置き、周辺に武士の集落「麓」(ふもと)を作って統治しており、「麓」の武士の多くは農業を行い、財政を支えていたようです。知覧は、薩摩の小京都と呼ばれ、武家屋敷群は、「麓」の一つです。

モネの庭マルモッタンの「睡蓮の庭」の油絵です。

2007年01月25日 | 妻の油絵
写真は、2004年7月高知旅行の後、妻が描いた油絵です。
クロード・モネが長い不遇の時代を乗り越えて最後に落ち着いた南フランスのジヴェルニーの土地で造った睡蓮のある庭が、2000年4月高知県室戸岬に近い北川村に「モネの庭 マルモッタン」の名で再現されています。
園内は、睡蓮の池を中心とした庭の他、花壇を中心とした庭、レストランなどがあり、南フランスの田舎の雰囲気を感じさせられます。
ちょうど睡蓮の花の時期で、可憐な花を描くことができました。
高知旅行では、室戸岬の他、吉良川の土佐漆喰の商家・いしぐろ塀の道並みも楽しい思い出になりました。

古代神話にも出てくる「産屋」について

2007年01月24日 | 中部地方の旅
戦後しばらくまで、全国的に「産小屋(産屋)」でお産をする習慣があり、古代から長く続いていたようです。へえー、そんなことがあったのかと改めて驚き、伝統的な習慣が又一つ消えてしまったことを知りました。
写真は、若狭旅行で見た、小浜市の「若狭歴史民俗資料館」に「産小屋」についての展示です。若狭地方では昭和30年頃まで「産小屋」が利用されていたそうで、今でも敦賀市色浜や、京都府福知山市三和町に建物が残されています。
「産小屋」はお産が不浄のものと考えられ、隔離したと言われていますが、昔のきつい家事労働から開放し、お産から産後までを「産小屋」で過ごすことでその後の生活に必要な体力を回復させるやさしい知恵とも考えられます。
敦賀半島の先端に近い場所に県の指定文化財になっている「色浜の産小屋」がありますが、見つかりませんでした。(標識がほしい)
色浜の沖に明神崎の先に白砂に囲まれた三日月形の水島が見えます。
沖縄のエメラルドグリーンのような海の色と、白砂が素敵でした。

「豊玉姫神社」に参拝

2007年01月23日 | 九州の旅
写真(上)は鹿児島県川辺郡知覧町にある豊玉姫神社です。
祭神は、豊玉姫命、彦火々出見命(豊玉姫の夫)、豊玉彦(大綿津見神で豊玉姫の父)、玉依姫命(豊玉姫の妹)です。
豊玉姫命は、鵜葺草葺不合命(神武天皇の父)を産む時、「産屋」を鵜の羽で屋根を葺き終わる前に産気付いて出産したことから「ウガヤフキアエズ」と名づけたそうです。
「産屋」は、昨年11月の若狭旅行で調べたことがあり、次の掲載とします。
写真(中・下)は、豊玉姫神社水車からくり屋形で、毎年7月9日・10日、六月灯(夏祭り)に人形芝居が奉納されるそうです。神社前の小川の上にからくり人形の屋形があり、約30cmの人形が水車で動くもので、江戸時代から始まったそうです。屋台の中を覗いたら2006年の「那須与一 屋島の戦い 扇の的の場面」の人形がありました。

油絵「フリージア」

2007年01月22日 | 妻の油絵
写真は、2年前妻が描いた油絵「フリージア」で、気に入った作品のようです。
フリージアは、2~4月に咲く花で、日本名を浅黄水仙(あさぎずいせん)と言うそうです。
南アフリカのケープ地方が原産のアヤメ科の植物だそうで、改めてたくさんの植物が世界中から輸入されていることを感じます。
最近の新聞で東京に外国人が増え、生まれる子供も混血児の比率が急増していると報道されています。いったい日本はどうなるのででしょうかね。
もっとも人の細胞中にあるミトコンジリアのDNA研究の結果、人類は1人のアフリカ女性がルーツだったことで、各民族に分かれたものが再び混ざっているだけだとも言えます。
縄文時代の後の弥生時代に、大陸から多くの人が渡来して現在の日本人になったと言われていますが、同じようなことになるのでしょうか。
あまり気にせず生きている現代の日本人が好むこの「黄色いフリージア」の花言葉は「無邪気」だそうです。

川辺町の「飯倉神社」

2007年01月20日 | 九州の旅
写真は、「川辺の大クス」のある飯倉神社です。
710年頃(和銅年間)の創建と伝えられ、祭神は、玉依姫命(たまよりひめのみこと)・大綿津見神(おおわだつみのかみ)・食飯魂命(うがたまのみこと)です。
食飯魂命とは稲作の神様です。大綿津見神は玉依姫命や、豊玉姫命のお父さんです。玉依姫命は、古事記では姉の豊玉姫命(彦穗穗出見尊の后)が鵜葺草葺不合尊を産んだ直後、八尋和邇(やひろわに=サメ)(日本書記では龍)の姿を見られて去ったため、残って養育した後、その鵜葺草葺不合尊(うがやふきあえず)の后となったとされています。又、玉依姫命が后になって生んだ子が神武天皇です。
神話は、時に非現実的なストーリーを展開させますが、何代にもわたって伝えられた結果、徐々にとんでもない内容に変化したのではないかと推察しています。
初代の神武天皇の母は、サメの妹(=サメ)であったことが権威付けになるとは思われません。地神である大綿津見神の血筋がサメ(又は龍)で、「高天原」から天下った天孫にその血筋が2代にわたって混ざっていると説明することにあまり意味があるとは思えません。
毎年7月10日には「御田植え祭り」があり、近くの御神田の田植え神事や、棒踊りが奉納されるそうです。
下の写真は、拝殿の両脇にあった狛犬ですが、かなり古そうで表面が崩れていました。なんだか振り返って後ろを見ているようで、本当ならちょっと珍しい狛犬ですね。

落雷に耐えてそびえる「川辺の大クス」

2007年01月20日 | 九州の旅
写真は、鹿児島県知覧町の西に約5Kmの川辺町にある「川辺の大クス」です。
飯倉神社境内の境内入り口の鳥居の横に大クスがあり、幹周16m・高さ25m・根回り22mで、樹齢は推定1200年と言われています。
1,200年もの間に何度か落雷にあったようで、幹が三つに裂け、その一つが枯れて悲惨にも二本の木のようになっています。
幹の周囲は、痛々しくたくさんの柱で支えられていますが、離れて見ると頑張って葉を茂らせ、風雪に耐えてきた風格を感じます。
各地で巨木を見てきましたが、心に残る木の一つになりました。

志風頭遺跡の「隆帯文土器」を見た!

2007年01月19日 | 九州の旅
写真(上)は、鹿児島県南さつま市加世田内山田の志風頭遺跡(しかぜがしら)から発掘された12,000年前の「隆帯文土器」です。写真(下)は、出土状況の展示写真で、燻製施設と思われる連穴土抗の穴に据えられた状態で土器の大半が残っていました。直径42cm・高さ26.5cmで、発掘当時は世界最古・最大級の土器と言われていました。(現在、世界最古の土器は更に数千年前のものが発掘されています)
隆帯文土器(りゅうたいもん)は、粘土のヒモを土器の表面に付けた後、指やヘラなどで押し付けて模様を付けたもので、鹿児島縄文土器のタイプは、無紋土器→隆帯文土器→貝文土器の順で続くようです。
土器としては驚くほど大きな鉢で、縄文時代草創期から人々が定住していたことが推測できます。しかし、一体この土器を何に使っていたのでしょうね。

「丸ノミ形石斧」世界最古の丸木舟を造る道具

2007年01月19日 | 九州の旅
写真は、12,000年前(縄文時代草創期)の世界最古の「丸ノミ形石斧」で、南さつま市加世田栫ノ原(かこいのはら)遺跡から発掘され、郷土資料館に展示されているものです。円筒形の片方を斜めに切って丸みを付けた形状で、現代のノミと比較して「ノミ?」と疑う形ですが、丸木舟を作る道具と考えられています。
鹿児島県掃除山遺跡でも同時代のものが発掘され、時代は下りますが、種子島、高知、和歌山、八丈島など黒潮に沿った地方でも発掘されているようです。
丸木舟は福井県鳥浜貝塚など、日本海側でたくさん発掘されていますが、その作り方は、焼いた石を木に置き、焦がしては削る根気のいる作業だったようです。
昨年10/8 鹿児島旅行2日目の記録で、「丸ノミ形石斧」を見ることはこの旅行目的でもありました。