昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

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金屏風と交換された泉「嘉手志川(カデシガー)」

2008年08月28日 | 沖縄の旅
南山城跡のすぐそばに「嘉手志川(カデシガー)」という泉があります。
三山分立時代(14~15世紀)の伝説にも登場し、古くからこの一帯の人々の生活を潤す大切な水源となっていたようです。



向って右側の道は、南山城跡から県道を横切ってきた道で、左に折れると「嘉手志川(カデシガー)」があります。
たくさんの根を下ろしたガジュマルの木が広く枝を張って、やさしい木陰をつくっています。

カデシガーに下る道は、少し先にもありました。



坂道の向こうに見える水辺が「カデシガー」です。
この辺りでは最も低い場所になっているようです。



坂道の右手に「嘉手志川」と刻まれた石碑が立っていました。

石碑の台石にある銅板を見ると「手づくり郷土賞」と書かれてあり、国土交通大表彰を受賞した記念に平成3年3月に建立された石碑ようです。

国土交通省の「手づくり郷土(ふるさと)賞」のサイトをのぞいてみると、平成2年度「生活を支える自然の水 30選」の一か所として受賞していました。
その他に「街灯のある街角 30選」「花と緑の手づくりふるさと 30選」「ふるさとの坂道 30選」と全部で4部門があり、平成2年度には実に120カ所が「手づくり郷土賞」で表彰されていました。
現在も毎年数十か所が表彰され続けているようです。
国が膨大な借金で苦しみ、国の予算が深刻な不足と言われている割には、こんな予算が使われており、まだまだムダが多いようです。



「嘉手志川」の石碑の横にこんな小屋がありました。

小屋の下からパイプが出て、電気メーターがあることから、小屋の中にポンプがあり、どこかに水を送っているのかも知れません。(かっての簡易水道の設備だったのでしょうか?)



小屋の前に大きな木があり、根元には小さな穴と、コンクリートの台があります。
何やらお供えの台に見え、拝所のようにも見えます。

沖縄の信仰で、井戸や、泉などのそばにこのような場所があるのを見かけたことがあり、古くからの信仰の場所だったものと思われます。



坂道を下ったあたりの景色です。
向って右のコンクリートの下には、カデシガーの湧水が出ています。

その向こうの白い乗用車の前に下段の写真の石碑が見えます。



カデシガーの水辺のそばに古い石碑がありました。

石碑の表には「灌漑設備記念」と刻まれているようですが、「設」の字の部分が剥がれています。
石碑の裏には「起工 昭和五年午庚八月五日、竣工 昭和六年未辛一月十三日」とあり、満州事変のあった1931年に周辺整備が完成したようです。



下ってきた坂道が向こうに見えます。
「カデシガー」の水辺の周辺には木や、花が育ちとても気持ちの良い場所です。

この「カデシガー」には、三山分立時代の終り頃の伝説があります。
南山王「他魯毎王(たるみい)」が中山王「尚巴志(ショウハシ)」が持つ金屏風を欲しがり、「カデシガー」と交換したそうです。
民衆は、大切な泉を交換した南山王に失望し、遂に南山城は、「尚巴志」により陥落したと伝えられています。



2本目の坂道から県道や、「南山城跡」方向を見た景色です。
コンクリートの壁の上は、県道で、その向こうの林が、「南山城跡」です。



石垣と、コンクリートの屋根で囲われている場所から豊かな水が湧き出ています。

この湧水は、透水性が低い「島尻層群泥岩」の上を「琉球石灰岩層」が覆ってい、二つの地層の境界付近から水が湧くと言われています。



地下からきれいな水がこんこんと湧いています。

この泉は、干ばつの時でも枯れることがないと言われ、もう一つの伝説が残っています。
昔、干ばつが続き、人々は雨乞いをしたが、雨は降りませんでした。
ある日、老婆のもとへ、びしょ濡になった飼い犬が帰ってきたそうです。
不思議に思った老婆は、犬の後を付けて行くと、この場所にコンコンと水が湧く泉があったという話です。

人々は、泉の発見で、カデシ!、カデシ!と喜んだそうです。
その後、この泉は「カデシガー」※と呼ばれるようになったそうです。

※「カデシ」は沖縄の方言で、「すばらしい」「めでたい」の意味だそうです。[かりゆし(嘉例吉)と同じような言葉のようです]
又、沖縄の方言で、井戸や、泉のことを「カー・ガー」と言うようで、二つの言葉をあわせて「カデシガー」となったようです。
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糸満市で「ポンポンおじさん」に遭遇した写真です

2008年08月25日 | 沖縄の旅
2008年4月11日15:30頃
糸満市字大里の「南山城跡」前で、「ポンポンおじさん」に遭遇しました!



「南山城跡」から東側の「カデシガー(嘉手志川)」に行く信号を渡った時でした。
妻が、「ホラ! あの人有名人よ」と教えてくれました。

何と、いま歩いてきた「南山城跡」側の信号のたもとに派手な花飾りを頭に付けた変なおじさんが子供たちと話しているではありませんか。

「ポンポンおじさん?」、私、知りませんでした。

妻の説明では、「探偵!ナイトスクープ」で見たおじさんで、交通安全のために全国を歩いているようです。


「ポンポンおじさん」の後ろには「高嶺小学校」の校門が見えます。



ここには高嶺小学校の他、「高嶺中学校」や、「幼稚園」があります。
「ポンポンおじさん」が話しているのは中学生のようです。

迷彩服の上下にバイク、それだけだと「さすが行動派のおじさん」とおもうのですが、バイクには竹竿や、傘、カッパなどが積まれ、何か入った買い物袋がぶら下がっています。
「ポンポンおじさん」は、目立ちたがり屋ではあるが、決してカッコ良さを追い求めている人ではないと確信しました。



「ポンポンおじさん」の横顔です。
ヘルメットの上に結びつけた花はとても綺麗です。

しかし、「ポンポンおじさん」には似合っていません。
とてもお気の毒です。



「ポンポンおじさん」は、道路を挟んで写真を撮っている私に気が付いたようで、こちらを向いてくれました。
さすが、テレビに出演して、積極的になっているようです。
子供達もいっしょにカメラ目線してくれました。



「カデシガー(嘉手志川)」の見物を終え、交差点に戻ると「ポンポンおじさん」は、行き交う自動車に向かってピンク色のポンポンを振っていました。

注目されていない時、ふと哀愁が漂う「ポンポンおじさん」の横顔が印象的でした。
これからも元気で続けてくださいね。
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尚巴志の時代の「南山城」を想う

2008年08月23日 | 沖縄の旅
糸満ロータリーから約2.5Km東にある糸満市字大里の「南山城」に行きました。
「南山城」は、14世紀頃の沖縄では「三山分立時代」といわれ、北山(今帰仁城)、中山(浦添城)、南山(大里城)に王が分立していたようです。
この南山城は、別名「島尻大里城」といわれ、琉球王朝の正史「中山世譜」によると、1429年に尚巴志によって三山が統一される過程で最後に攻略されたといわれる城です。



かっての「南山城」だったと思われる辺りには、高嶺小学校や、高嶺中学校が出来て、ごく一部の城(グスク)跡が残っているようです。

写真は、高嶺小学校と、高嶺中学校の間の道に面した「南山城」の石垣です。
3カ所の石段があり、向って左に中学校、右奥に小学校があります。



一番奥の石段を上がると鳥居があり、その奥に「南山神社」の拝殿が見えてきます。

■石段を上がるとすぐ右手に「南山城跡」の案内板があり、転記します。
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南山城跡(なんざんじょうせき)
 糸満市教育委員会  平成十三年三月
南山城は琉球三山分立時代(14世紀頃)に栄えたグスクです。南山は明国と交易を盛んに行い、財源を得たり、明文化を移入したりして城を中心に南山文化を築いていました。
15世紀になって中山王尚巴志に滅ぼされるまでの朝貢回数は22回を数えます。
1984年、発掘調査が市教育委員会によって行われ、中国製陶磁器やグスク系土器の他、備前(びぜん)焼きスリ鉢、鉄鏃(てつぞく)、ガラス製勾玉(まがたま)などが出土しています。これらの遺物から南山城は13世紀頃に築かれ、14~15世紀前半が特に栄えていたことが分かりました。
 南山の東方には水豊富な「カデシガー」、北方には源為朝と王の妹との逢引場所だと伝わる「和解森(わだきなー)」があります。
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向って左に「南山神社」の拝殿、その右に神殿があります。
金網のフェンスで囲われていますが、子供たちのイタズラを警戒しているのでしょうか。
フェンスに囲われた神社は、初めてです。



「南山神社」の奥、高嶺小学校に隣接した場所に石垣で造られた小高い場所があり、本土の墓石のような石碑には「南山城跡」と書かれていました。

高嶺小学校の校庭がすぐ隣にあり、沖縄の歴史に登場する「南山城」の雄大さや、重厚なイメージは感じられませんでした。
期待が大きかったためでしょうか?

石段上り口に石で造られた拝所のような場所が見えます。



「南山城跡」と書かれた石碑の奥に気になるいくつかの石があります。
向って左の三つの石や、中央に四角に整えられた石が転がっているのは拝所と思われます。



一段上の写真にある石を拡大したものです。
何やら文字が彫られています。
何とか読める文字は、「奉納 南山?ノ主御? 西銘」ですが、文字が右から左に書かれており、昭和初期以前に彫られたものと思われます。



「南山城跡」の石碑がある場所の横に石で造られた長い施設がありました。
案内板もなく、長い石の箱のようで、前にお供えの台があることからお墓かも知れません。
とにかく初めて見るものですがよく分かりません。



一段上の写真の施設の横に石段があり、上っていきました。



石段を登った辺りの景色で、正面にガジュマルの木が見えます。
この一段高い場所が「一の郭」だったのでしょうか?

写真に向かって左下に道が見えますが、城としては高くなく、小規模です。
この城(グスク)が、堅固で、大型の「浦添城」(中山)、「今帰仁城」(北山)と対抗した「南山城」と言われてもまったく信じられません。



「南山城跡」付近の地図で、等高線は太線の標高50m、その周囲に標高40mの等高線しかなく、周辺の標高差はせいぜい20m程度と思われます。
やはり地形としてはなだらかで、急峻な断崖の上に立つ今帰仁城、浦添城と比較し格が違い過ぎます。

凸型に似た城跡のマークが「南山城跡」で、隣に高嶺小学校(上)、南側に高嶺中学校(下)があります。
赤い丸印は、「嘉手志川(カデシガー)」と呼ばれる泉です。
沖縄の城(グスク)には、井戸がありますが、この泉の水量は桁違いに豊かでした。



沖縄が三山分立時代と言われた時代の勢力分布の地図です。
ここ「南山城」は、別名「島尻大里城」と言われ、最も南にあります。
又、南山エリア(黄色)には東側にもう一つ「島添大里城」があり、大きな勢力をもち、この南山城と勢力を二分していた時代もあったと言われています。

琉球初の正史「中山世鑑」(1650年羽地朝秀編纂)や、次に編纂された「中山世譜」(1701年察鐸が編纂)では、佐敷城の按司(豪族)尚巴志が、最初に①南山を破って南山王となり、その後②中山③北山と攻略したとしています。
後年1725年に察温が編纂した「中山世譜」で、三山の攻略の順が①中山②北山③南山と変えられ、この順が通説となっています。

この資料を確認し、「やはり、ここは本当の南山城ではない!」と感じました。

沖縄最強の強固な城「浦添城」を攻略した佐敷按司「尚巴志」が、その後に今帰仁を居城とする北山王を破り、最後に、本拠地に近く、最も弱そうな南山を攻略する順は常識では考えられないことです。

この南山城が最後まで残っていたとしたら、名目的に残されたものと推察されます。
当時、中国明皇帝から王と認められ臣下となって朝貢(見返りの大きい)ができるのは、王で、その実務を支えるのは那覇の久米村に住む中国人の集団だったと言われています。
南山王となった尚巴志が、中山を攻略した後、父思招を王としたのも三山分立の朝貢貿易体制の維持が、必要だったのではないかと推察しています。

沖縄の英雄「尚巴志(しょうはし)」の生きた時代には疑問や、想像が次々と湧いてきます。



南城市大里にある「大里城」、別名「島添大里城」の地図です。
この城は、太平洋を望む標高約150mの山に造られた城です。
頂上辺りにグスク跡があり、北西の斜面は断崖や、急斜面が続いているようです。
城の面積は、約2万㎡で、4万㎡クラスの今帰仁城、浦添城には及ばないものの周辺の城を威圧する強固な城だったと思われます。

三山分立時代に南山の按司達を従え、最大勢力の中山王に対抗した「南山王」は、こちらの「島添大里按司」だったものと考えられます。

又、この「島添大里城」に隣接する「佐敷城」の按司「尚巴志」が、周辺按司達を巻き込み南山王「島添大里按司」を倒し、南山全域を制圧して南山王となった説には大いに納得するものです。
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「喜屋武岬」の断崖に咲く白百合

2008年08月16日 | 沖縄の旅

喜屋武(きやん)岬にあった公園の案内板です。
「沖縄戦跡国定公園」「喜屋武岬園地」とあります。

看板の後ろの植物は、沖縄の海岸でよく見かける「アダン」のようです。



喜屋武岬の広場にひと際目立つ「平和の塔」がありました。
沖縄の美しい海の色の塔には小さな白い花が供えられていました。

「平和の塔」に刻まれていた碑文を転記します。
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平和の塔
 第六二師団管下部隊は喜屋武複廓陣地において摩文仁の第三二軍司令部向け進攻を続ける米軍に対し最後の迎撃を続けしが善戦空しく昭和二十年六月二十日玉砕せり
 昭和二十七年十月地元民は将兵並びに戦斗に協力散華せる住民の遺骨併せて一万柱を奉納し平和の塔と名づけしがこのたび南方同胞援護会の助成を得て新たに塔を建てその遺烈を伝う
昭和四十四年三月
財団法人 沖縄遺族連合会
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碑文によると沖縄戦の最後、島の南端に追い詰められた1万人もの人々がこの付近で亡くなられたことが書かれていました。
想像することも躊躇するような、壮絶な出来事がここであったことを知りました。



公園の塀から西の方向を見た景色です。
向こうに波立っているのは、具志川城の沖辺りでしょうか?

ここは、夕日が美しいスポットでもあるようです。


「喜屋武岬」の断崖の下は、とても美しい海でした。
小さな船が見えますが、釣りでもしているのでしょうか。



「喜屋武岬」から東南東方向の海岸の景色です。
地図で見ると、岬の先端の地名は、沖縄本島最南端「荒崎」のようです。

荒々しい岩場、きれいな海に白い波が続く絶景でした。



広場から東の方向に灯台が見えます。
向って右のブロック塀は、南側の断崖に沿って作られているものです。



灯台に向う道が始まる所にこんなお店がありました。
沖縄そば、ラーメン、うどん、タコス、ホットドック、アイスクリーム等々、けっこう繁盛していました。

小さな黒板に、「(カメラ)シャッター押します お気軽にどうぞ パーラーひまわり」と書かれてあります。
なかなかサービス精神にあふれ、商売熱心のようです。



ちょっと歩くと灯台に着きました。
正面からは塀に囲まれたように見えますが、正面以外はオープンでした。
門まで閉まっていて、ちょっと笑ってしまいました。

灯台のすぐ下は、白い塀で小さく囲われ、カギもかかっているようです。

■門の脇にあった案内板を転記します。
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喜屋武埼灯台(きやんさきとうだい)
当地の東方約百二十メートルの位置に、さきの大戦後、米国によって建設された「新崎灯台」がありましたが、沖合を航行する船舶から「光力が弱くて遠方から見えない」との苦情が出ておりました。
海上保安庁は、利用者の要望にこたえ、沖を通る船舶の重要な標識としてここに本土復帰後の昭和四十七年六月に県内初の大型灯台を設置しました。
光源にキセノンランプを使ったことにより、旧灯台の千五百倍の明るさと、二倍の光達距離を有する灯台へと機能を向上し、航行する船舶の安全を守っています。
灯台の状況は、電話回線でいつも把握し、事務所からも定期的に職員が巡回し機能の保全に努めています。

施設の概要
位置 北緯 26度04分31秒
東経 127度40分18秒
塗色及び構造 白色 塔形 コンクリート造
等級及び灯質 無等 単閃白光 毎5秒に1閃光
光度 90万カンデラ
光達距離 18.5海里(約34km)
光達距離 18.5海里(約34km)
高さ 地上~頂部 15m
   水面~灯火 47m
管理事務所 第十一管区海上保安本部(灯台運用課)

灯台は船舶が安全に航行するための大切な施設です。
航海の安全のためみんなで大切にしましょう。

社団法人 燈光会
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灯台から海岸方向にみちがあり、断崖に面した突当りから西の展望広場を見た景色です。
平和の塔、赤瓦の休憩所が見えます。

下の海岸を見ると断崖絶壁は、相当な高さです。
ここから1万人程の人々が命を絶ったのか・・・と改めて絶句。

断崖に白いゆりの花が一輪咲いていました。



一段上の写真と同じ場所をズームで撮りました。
改めて断崖絶壁の迫力を感じます。

数人の人が思い思いに景色を楽しんでいます。
この美しい景色をおだやかな気持ちで眺められる平和のありがたさを痛感しました。



足もとの草むらにも白いゆりの花がひっそりと咲いていました。
なぜか、鎮魂の花にも思えます。


東側の景色です。
とにかく美しい海岸でした。
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東シナ海の断崖に建つ「具志川城」からの眺望

2008年08月14日 | 沖縄の旅
「白銀堂」から海岸沿いに南に進み糸満市喜屋武具志川原にある「具志川城(ぐしかわぐすく)」へ行きました。



沖縄本島の南西端に近い「喜屋武岬(きやんみさき)」付近の地図です。
「具志川城」は、「喜屋武岬」のすぐ西の海岸にあります。
断崖の海岸が海に張り出した場所で、北側以外の東西南の三方は自然の断崖に守られる構造になっているようです。



具志川城の入口で、車は、付近の道端に駐車して行きました。
「史跡 具志川城跡」と刻まれた石碑があり、向って左奥に向かう道を進むとすぐに「具志川城」の城門跡が見えてきます。

■写真に向かって右端にある「具志川城跡」の案内板を転記します。
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史跡 具志川城跡
昭和47年5月15日 国指定
この城は、断崖の付け根のところに城門があり、そこから一段下がって二の丸、さらに一段下がって本丸が海に突き出ています。石垣は珊瑚性石灰岩の野面積みですが、門の部分には、切石を用いた痕跡が残っています。城の規模は、長さが東西82~3メートル、南北の巾は二の丸で33メートル、本丸で16~7メートルです。二の丸には穴(俗に「火吹き穴」)があって海に通じています。
久米島の伝説によれば、この城は久米島の具志川城主真金声(まかねくい)按司が伊敷索(いしきなわ)按司の二男真仁古樽(まにくたる)に攻められて落城し、島を脱出して本島に逃れ、故郷と同じ名の具志川城を築いたといわれます。その真偽は不明ですが双方の立地や規模、構造はよく似ています。
沖縄県教育委員会
昭和53年3月31日
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この説明文に「城門があり、そこから一段下がって二の丸、さらに一段下がって本丸」とありますが、一般的な解説では「城門 → 一の郭 → 二の郭」と奥に進む説明がされて一、二が逆になっています。
「丸」と「郭」の違いのためでしょうか?



道を進むと二つの石垣の山があり、東北に向いて築かれていた「具志川城」の城門跡のようです。
城壁は、かなりの厚さがあり、立派な城門が築かれていたものと思われます。

案内板には「垣は珊瑚性石灰岩の野面積みですが、門の部分には、切石を用いた痕跡が残っています。」と書かれていましたが、切石の部分はよく分かりませんでした。

飛行機が北に向かっていました。
那覇空港へ到着するものと思われます。



具志川城の東側の城壁で、「一の郭」の東側の城壁を南から見た様子です。

奥の城壁で高くなっている所が城門跡で、その後ろに緑の岩壁が東に延びています。

城門以外で、断崖に沿って造られている城壁の高さは、他のグスクと比較にならない低さです。
落下防止や、海辺の風除け程度の機能があれば充分ということでしょうね。



城門を入ると「一の郭」で、中央付近に囲いがあり、その中に「火吹き穴(ヒーフチミー)」がありました。

断崖の下まで穴が続いているようですが、穴が作られた目的には諸説があるそうです。
陸地側から敵に囲まれて攻められた場合、外部ヘの連絡通路がなかったら全滅となる危険性を避けることではなかったかと推察しています。

写真の後ろに見える石垣は、門から西に延びた城壁の様子です。
陸地に面した城壁は約5mと高く作られ、防御を固めていたようです。



柵に挟まれた道から先が、海に突き出た城の先端「二の郭」で、西側の城壁が続いています。

「二の郭」は、先端に行くほど低くなっています。



一段上の写真とほぼ同じ場所から「二の郭」の東側を見た景色です。
断崖の縁に沿って石垣が蛇行し、上下に波打つように築かれています。

下の海までかなりの高さがあり、武器を持って攻め登ることなどとても無理のようです。



「二の郭」の東側の端に小さな石碑のようなものがありました。
向って左には「久米門中 具志川アンジ」、向って右には「久米門中 女ノ子」と刻まれています。
中央にはコンクリートでお供えを置くための台が作られています。

別の場所に同じような形の石碑があり、「久米門・・ ミチム・・」と刻まれ、文字の下部から石碑が折れて読めませんでした。
その前にコンクリートブロックが2個並べられていました。

ふと、3個のコンクリートブロックを三角形に並べて海の彼方の故郷を祈る那覇市の三重城での風習「ジュウルクニチー」を思い出しました。
久米島の出身者が西の彼方にある故郷の島に向って祈る場所ではないかとも推察出来ますが、記憶では祈る方角が東に向いていたようで、いま一つ分かりません。



「一の郭」から東の「喜屋武岬」方向を見た景色です。
断崖の下の海岸に巨大な岩が並び、とても雄大な景色でした。

海岸には2~3人の人が歩いているのが見えました。



「二の郭」から西の海岸を見た景色です。
断崖のすぐ西側には裾を波で削られた巨大な岩があります。

東西に長く伸びている海岸の景色はとにかく最高でした。

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海人(うみんちゅ)の町の御嶽「白銀堂」

2008年08月10日 | 沖縄の旅
那覇からレンタカーで、国道331号線を南に進み糸満市の「白銀堂(はくぎんどう)」へ行きました。
糸満市は、昔から「海人(うみんちゅ)」と呼ばれる漁師の町で、毎年旧暦の5月、航海安全と、大漁を祈願する海人の祭り「糸満ハーレー」が盛大に行われるそうです。



国道331号線に面した「白銀堂(はくぎんどう)」の入口です。
鳥居がありますが、本土で見られる神社ではなく御嶽(うたき)のようです。

鳥居の奥に境内に駐車した車が見えますが、写真に向って左手に進入路がありました。

埋め立てが行われる前、「白銀堂」の前は白い砂浜が広がっていたようです。
境内に入り左右に大きな岩山がありますが、昔、海岸で荒波に削られた大きな岩礁だったと思われます。



鳥居に向って右手にも大きな岩山があり、赤瓦の「白銀堂」の建物が見えます。

塀の上に観光案内地図が描かれた案内板がありました。
沖縄本島の南西端にある糸満市が描かれています。



鳥居を入ると左右にシーサーが置かれています。
焼き物で造られたシーサーが、高い台座の上で睨みをきかせていました。



「白銀堂」の建物が後ろの岩山にくいこむように建っています。
建物に向って左に岩山の裏に行く門が見えます。



岩に覆いかぶさるように建物が造られていますが、建物に岩が寄りかかっているようにも見えます。

なぜか感動してしまい、写真を撮りました。



建物の中に祭壇がありましたが、シャッターが締まっていました。
言い伝えでは建物の奥の洞窟に「白銀堂」の由来となった銀貨が埋められているようです。
この奥でしょうか?



「白銀堂」の建物のすぐ横に大きな岩の間に入る門がありました。



大岩が、左右の大きな岩山の間に挟まれています。

「白銀堂」の建物の裏手で撮った写真です。



一段上の写真の岩の下を撮った写真です。
ここは、トンネルのようになっています。

真ん中の岩がぶら下がっているのが分かります。
岩の下に祭壇のようなものが見えます。



「白銀堂」の奥から表の国道方向を見た写真です。
向って右の路地から車で入ってきました。

中央に大きな岩山があります。



一段上の写真で、中央にある岩山の下に石碑と、拝所がありました。

靴をぬぎ、地面に敷いた新聞紙に座った二人の女性が、祭壇にお供えをしてお祈りを続けていました。

■その横に石碑があり、碑文を転記します。
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<碑文>
意地ぬ出らあ手引き 手ぬ出らあ意地ひき 1992年8月吉日
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沖縄県教育委員会の道徳教育郷土資料の中に「意地ぬ出じらぁ手引き-白銀堂由来記」が掲載されています。
白銀堂の由来は、とても面白い物語で、人々に親しまれているようです。



白銀堂の横の道に「パーラー若松」の看板があるお店が見えています。
ブロック塀の上に「今川焼 んむがぁやーきー」と書かれた立札が見えます。

「んむがぁやーきー」と言う食べ物にとても興味をそそられました。
しかし、昼食直後で、妻の反対もあり、断念しました。
コメント

那覇港の城塞「三重城」

2008年08月03日 | 沖縄の旅
那覇市の那覇港にある「三重城(みーぐすく)」跡へ行きました。


19世紀頃の那覇港の様子がが描かれている「沖縄貿易図屏風」(滋賀大学蔵)の絵の
一部です。
江戸時代、那覇港にあった「三重城」で、岩礁の上の石垣で囲まれた場所です。
細長い堤防の先端部分が「三重城」だったようです。

当初は、港の防波堤の他、防衛のための砲台などの目的で造られたようです。
この屏風絵が描かれた時代には大砲もなく、旅立つ人を見送る場所で利用されているようです。

現在の「三重城」は、片方の海を残して埋め立てられ、陸の一部になっていました。


一段上の「三重城」の絵の根元部分の絵です。
陸地と、「三重城」の中間には「臨海寺」と言う寺院があったようで、堤防の途中にある小さな赤瓦の建物のようです。
このお寺も人々が、送迎をする場所だったようです。

中央に見える大きな帆船へ小舟で向かう様子が描かれています。
那覇港から南の先島(宮古島・八重山)、西の中国、北の大和(鹿児島)への航路があったようです。
海上保安庁のサイトには、現在の那覇港の出入り口にも南から「宮古口」「唐口」「倭口」と現在でも歴史的な呼び名が使われていました。



「三重城 (みえぐすく)」周辺の地図です。
赤丸の場所が「三重城」で、堤防が始まった現在の場所は東南方向にある「フェリー発着場」辺りだったようです。
「フェリー発着場」から「三重城」まで測ると約62mでした。



「ロワジールホテル」の裏が「三重城」で、一段高い場所に上る石段があります。
石段の横は、駐車場ですが、奥の方に「水神」と刻まれた石碑が見えます。

港から旅に出る人たちの無事を祈る信仰でしょうか?
すぐ前に車を駐車するのは少し躊躇します。

■石段を上がった右手に案内板があり、転記します。
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参拝者各位へ
三重城は、皆様の安らぎと祈りの聖地です。汚さず、キレイに致しましょう。
 第11管区海上保安本部
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三重城の入口の石段を上がった付近を内側から撮った景色です。
石段を上がった場所に鳥居がありました。

一段上の案内板に「安らぎと祈りの聖地」と書かれており、この鳥居も関連があるようです。

鳥居の向こうに見える建物が「ロワジールホテル」です。
地図でもあるように建物がカーブしています。



階段を上がり、「三重城」へ入るとこの建物があります。
朝7:40頃見学しましたが、ドアから人が出てきて緑の新聞受けから新聞を取り込んでいたのが見えました。
海上保安庁の宿直の人でしょうか。



「三重城」にある「第11管区海上保安本部那覇信号所」の全景です。
いったいどんな信号を扱っているのか分かりませんが、灯台のように施設案内がほしいところです。

■写真に向かって右手に白い案内板があり、転記します。
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利用者の皆様へのお願い
第11管区海上保安本部那覇信号所(三重城)
敷地内は、国有地となっております。当三重城を利用される方は、利用後、ゴミ等を残さず必ず持ち帰るよう御協力お願いします。
第11管区海上保安本部
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階段の付近にあった案内板同様、ゴミの注意が書かれています。
ゴミの投棄に困っているようです。



「第11管区海上保安本部那覇信号所」を過ぎると小さな神社のような建物がありました。
由緒の案内がなく、祀られている神様は分かりません。
那覇港から船出する人達の無事をお願いする神様でしょうか?



海岸の様子です。
コンクリートブロックが三個置かれて、何やらお祈りの場所になっているようでした。
調べてみると、沖縄では旧暦の1月16日に、後生(グソー)の正月「ジュウルクニチー」と言う行事があり、先祖の墓を掃除し、お参りするそうです。
しかし、久米島・宮古島・八重山などの出身者で、この日帰れなかった人達は、ここに来て、故郷の方角に向って祖先の霊を供養するようです。



三角形に並べたブロックにお供えを置き、線香を焚いて祈っているのでしょうか?
コンクリートでブロックを固定しています。
多くの人が競ってお祈りの場所を確保するためでしょうか、史跡が荒らされているようにも思えます。



海岸に近い別の場所にも下りていける石段がありました。
石垣の窪みに灰があり、たき火をしているような感じでした。
香炉も置いてあります。

「三重城」跡をめぐりましたが、石垣跡はあるものの昔の面影はほとんど想像できませんでした。

「三重城」は、「史跡」としての管理面では海上保安庁の管理では歴史的遺産をしっかりと管理する体制とは思えず、改善が期待されます。



南の対岸を見た景色です。
現在は、アメリカ軍の基地になっているようです。

この辺りにも「三重城」と対をなす「屋良座森城(やらざむいぐすく)」があったようですが、沖縄戦で破壊され、周辺も埋め立てられて面影は見当たりません。

1554年に造られたとされる「屋良座森城」は、南からの防波堤の先端にあり、「三重城」の「北砲台」に対して、「屋良座森城」は、「南砲台」と呼ばれていたようです。
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静物画

2008年08月01日 | 妻の油絵
久々に妻の油絵を掲載します。


新鮮野菜のある静物画(F6号)を描きました。
タイトルは「?検討中?」だそうです。

落ち着きのあるビワの色と、トマトの赤が、レタスをみずみずしい緑に引き立てているようです。
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