昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

遠野市博物館の特別展「ザシキワラシ」

2008年02月25日 | 東北地方の旅

特別展「ザシキワラシ」のパンフレットです。
遠野市博物館の玄関や、最初の展示コーナーにも同じ内容のポスターが掲示されていました。
「民話のふるさと」といわれる遠野には、たくさんの民話が残されて、「ザシキワラシ」もその一つのようです。

「ザシキワラシ」は、「座敷童子」と書き、岩手県を中心とした地方に伝わる子供の姿をした神様・精霊・妖怪のような存在と考えられているようです。
髪はオカッパで、赤い着物を着た女の子が「ザシキワラシ」のイメージとされていますが、他にも様々な説があるようです。



「佐々木喜善(きぜん)」の写真です。
「佐々木喜善」は、明治19年(1886)土淵村(遠野市土淵)に生まれ、文学を志し、早稲田大学文学科に学んでいました。
早稲田在学の時、まだ無名だった前田夕暮・水野葉舟・三木露風・石川啄木・北原白秋たちと交流がありました。
その頃、水野葉舟の紹介で柳田国男と知り合ったようです。
佐々木喜善が語った遠野地方の民話や、昔話を柳田国男の筆により「遠野物語」発表されました。

■「佐々木喜善(きぜん)」の写真の横にあった説明パネルを転記します。
「ザシキワラシの発見」
--小説「舘の家」から--
ザシキワラシという言葉が、初めて文字となって現れたのは、明治40年(1907)3月の「芸苑」に掲載された佐々木喜善(きぜん)の短編小説「舘の家」である。
この小説でザシキワラシは、二人の子供の会話に登場する。子供達は、外で自分の家にザシキワラシがいるという噂を聞き、しきりにおびえている。そして文中でザシキワラシは、真夜中に奥座敷で遊び、9・10歳くらいの子供のようなものだと紹介されている。
小説の後半は、この家が実は呪われた家で、家の主人が長生きできない伝統があることが明らかになる。ザシキワラシの恐怖は、あくまでも子供たちの抱く幻想にすぎず、真の恐怖は、当主の男性が早世するという呪われた血筋の恐怖であったということになる。
佐々木喜善によって、「ザシキワラシ」が、初めて世の中に登場したことは、あらためて評価されていいだろう。



「宮沢賢治」の宮沢賢治の写真パネルがありました。

又、その横に「宮沢賢治とザシキワラシ」のタイトルのパネルがありました。
宮沢賢治は、花巻地方の4話のザシキワラシの話を「ざしき童子のはなし」として雑誌に掲載し、それが「佐々木喜善」との出会いのきっかけとなったようです。



写真上中央にあるイラストで、女の子の頭に「黄金の玉」が描かれています。

■説明文を転記します。
「ザシキワラシの正体は「黄金の玉」か!?」
青森県五戸町地方では、家に付いている「黄金の玉」の精が凝ると子供の姿になって、時たま屋内や座敷に出るものだといい、そのワラシが、家の敷居をまたぐと家運が傾くとされている。黄金の玉なのでザシキワラシは「家の福神」であるという考え方がある。

写真に向かって右上に早池峯神社の「座敷児童祈願祭」の祭壇が展示され、その下に女の子の姿をしたザシキワラシの人形が飾られていました。

■ザシキワラシの人形の前に展示されていた説明文を転記します。
「座敷児童祈願祭の由来」
早池峯神社では、昭和63年(1988)から「座敷児童祈願祭」が行われている。昭和58年(1983)新潟の事業家が早池峯神社に参詣し、帰り道の途中で自動車の後部が重くなり、不思議に思って、家に帰って宗教的職能者に祈祷をお願いしたところ、そばのミコにザシキワラシが憑依し自らの由来を語ったという。自分は早池峯神社のザシキワラシで、当分の間この家に住まわせてもらうため車に乗ってきたという。また自分には、たくさんの仲間がおり、大神の使いとして各地で活躍していると語ったという。
この事業家の会社は次第に繁盛するようになった。その後、早池峯神社でも社殿の大改修が行われ、その完成を機に毎年4月(現在は4月29日)に「座敷児童祈願祭」を催し、希望者にザシキワラシの「お姿」の人形を授与するようになった。神事の内容には「入魂の儀」という儀式がある。この日は、過去に授与された人も、ザシキワラシの「お里帰り」といって人形を持ち寄り、祭事に参加する。現在ではその評判から全国から多くの参拝者が訪れている。


■ザシキワラシの様々な説がパネルに展示されていましたので以下に転記しました。

「佐々木喜善のザシキワラシのカード」
「奥州のザシキワラシの話」によって佐々木喜善は、いちやく有名になったが、それでザシキワラシの採集が終わったわけではない。いつの頃からか、喜善は膨大になっていく資料をカードで整理することを始めていた。
こうとたかたちで、遠野はもちろん、東北地方以外にザシキワラシの採集を広げようとしたのである。
大正13年(1924)3月の「郷土趣味」に、「ザシキワラシの話」を書いている。ザシキワラシの起源について、河童説に始まり、童形の人形や黄金の玉とする説を述べ、若葉の霊魂の例を引き、猿説も挙げて、諸説まちまちだとしたうえで、秋田の三吉さんの話に転じてゆくというザシキワラシの起源について追究した論考になっている。
続いて、同年6月の「人類学雑誌」に、「ザシキワラシの話」を発表する。これは、82話をザシキワラシの出現の仕方に注目した分類で紹介し、ザシキワラシのカードが多く利用されていることが確認できる。作成されたカードは、この報告に集約されたことがわかる。


「ザシキワラシとキジムナー」
キジムナー(キジムン)は、沖縄本島及び周辺の諸島で伝承されてきた樹木の精霊。樹木は、ガジュマルの古木であることが多い。体中が真っ赤な、赤髪の子どもの姿で現れると言われている。魚が好きで特に目玉を好む。夕食時にはかまどの火を借りに来るなど、人間とは近しい存在である。しかし、住みかの古木を切ったりするなど、ひとたび恨みを買えば、徹底的に祟られると伝えられる。
キジムナーに気に入られた家は栄え、反対に嫌われた家は滅びるとも伝えられる。
「奥州のザシキワラシの話」や「南島説話」でもキジムナーとザシキワラシの類似が指摘されている。


「ザシキワラシの仲間達」
ザシキワラシに似た形のもの、似た動作をするもの、性質が似ているもの、関連があるものについて、佐々木喜善は下記のものを紹介している。
・朝鮮半島のタイジュ(幼女の精霊)
・北海道アイヌ民族のアイヌカイセイ
(ボロボロになったアットウシという着物をまとい、就寝中にいたずらをする家屋の妖怪)
・ロシアのドウモイ(老人の姿の家屋の妖怪)
・ヨーロッパのアルプス地方のセルバン
・青森県八戸地方のアカテコなどの樹木の精
・沖縄県の樹木の精霊「キジムナー」
・秋田県の三吉神(童形で剛力な神)
・静岡県、愛知県のザシキボウズ・ザシキコゾウ
・石川県の枕返し
・徳島県のアカシヤグマ
他にオクナイサマやオシラサマなど家の神、カッパなどがある。

説明文がたくさんありましたが、読めば読むほど分らなくなるほど多くの説があります。

遠野市の縄文遺跡「綾織新田遺跡」「張山遺跡」

2008年02月23日 | 東北地方の旅
昨年10月7日の東北旅行の続きです。
遠野市博物館で縄文時代の遺跡が紹介されていました。



博物館で、遠野にある遺跡地図のパネルが展示されていました。
向って一番左が「新田遺跡」、一番上が「張山遺跡」です。

遺跡地図の範囲外ですが、遠野市には国内最古の遺跡が発掘されています。

遠野市に合併された旧宮守村達曽部金取にある「金取遺跡」で、中期旧石器時代の8万5000年前の阿蘇山の火山灰層から石斧、掻器など7点の旧石器が発掘されたそうです。
阿蘇山の火山灰層とは、8万5000年前、九州の阿蘇山の巨大噴火によるもので、朝鮮半島から北海道までを火山灰が覆い尽くしたそうです。
旧石器が発掘された「金取遺跡」の火山灰層には木炭片、焼けた礫(れき=石ころ)が多く見られたそうで、旧人がキャンプをした場所と考えられています。

この時代の人類は、「旧人」の段階で、類人猿→原人→旧人と進化し、現代の「新人(ホモ・サピエンス)」に代わる前の時代です。



縄文時代前期の「綾織新田遺跡」の展示パネルがありました。
向って右の図は住居跡・広場跡・道路跡で、向って左の写真は3号住居跡の写真です。

「綾織新田遺跡」は、ほとんどが長方形の大型竪穴住居で、縄文時代前期の集落の様子が分かる貴重な遺跡だそうです。

■展示パネルの説明文を転記します。
「国指定史跡 綾織新田遺跡」
綾織町新田地区にあり、長方形の大型のたて穴式住居がならぶ縄文前期(約5500年前)のムラである。
はば約5m、長さ約8~14mの巨大な住居には、使い方がわからない小さなたて穴式建物がついていた。ムラの中には広場があり、そのまわりに住居がならんでいて、食べ物をたくわえる穴やお墓、道路などがあった。
ほかに、土器や石器、けつ状耳かざり、牙状装飾品、異形石器、カツオブシ型石製品などが発見された。
このようなムラの遺跡は、当時の社会の様子を知るうえで、非常に重要な発見として平成14年(2002年)国指定史跡となった。



展示されていた土器の写真です。
縄文時代前期から中期にかけて東北地方の土器は、秋田・盛岡・宮古を結ぶ線を挟んで北が「筒式土器」、南が「大木式(だいぎしき)土器」が出土し、二つの文化圏があったようです。
「綾織新田遺跡」からは「大木式土器」の中でもあまり例のない「大木三式土器」が出土しています。
写真の土器について個別に分りませんが、「大木三式土器」は、縁が波打っているのが特徴と思われます。



■この土器のの後ろに「張山遺跡」の説明書きがパネル展示されていましたので転記します。
「張山遺跡」
附馬牛町張山地区にあり、縄文時代の中ごろ(約5000年~4000年前)の集落の様子をよく伝える遺跡である。集落の中心には広場があり、そのまわりを約40の墓穴が囲んでいる。
その外側に住居の跡や食料をたくわえる穴、柱穴のある地域がある。
また、集落からやや離れたところにも数棟の住居の跡がある。
住居の中には、8mを超す大型のものも見られる。
遺跡からは土器や石器、土製品、石製品のほか、墓穴からはヒスイの大珠や赤色の顔料が発見された。



■「張山遺跡」の出土品の説明書きを転記します。
「お墓から出たヒスイ大珠」
石を立てたお墓からヒスイとベンガラ(赤い顔料)が出てきました。
ヒスイは新潟県糸魚川付近でとれるめずらしい宝石です。
ムラのまとめ役など特別な人のお墓だったのでしょうか。
 張山遺跡(附馬牛町)出土



「張山遺跡」で発掘された「石製有孔装飾品」です。

「張山遺跡」は、遠野市附馬牛町張山で発掘された縄文時代中期から後期の遺跡です。
遺跡では、集落中央の広場の周囲に48基の墓があり、又その周囲を竪穴住居が取り囲む環状集落跡が発掘されたようです。
「張山遺跡」は、「遠野市博物館」の後行く「遠野ふるさと村」の近くです。

備後穴海があった頃の「蛙岩の伝説」

2008年02月18日 | 日記

病院への見舞いの帰り、福山市港町1丁目付近の公園で、岩と、小さな祠と、案内板があり、立ち寄ってみました。
案内板によるとこの岩は、「蛙岩(かえるいわ)」だそうです。
写真は、南から撮ったものです。

■写真に見える案内板の説明書きを転記します。
「蛙岩の伝説」
西浜の沖の蛙岩というは、この処に年経たる大蛙ありしが、或時大蛇来りて呑まんとす。
蛙逃げ廻り詮方なく恐ろしさの一念こって岩となる。大蛇は喰はんと見れども岩となりければ呑むこと出来ず大いに気を落とし一念こって、島となり、現在の深津高地となれり。
(江戸時代の作、西備名区より)
深津史跡顕彰会

福山市にこのような伝説があることを初めて知りました。
大蛇に襲われ石になった大蛙がこの岩のようです。
又、大蛙を喰えず気を落して石になった大蛇が「深津高地」と書かれています。



地図の上部は、福山市王子町周辺で、下部は港町1丁目周辺です。
地図の下部にある赤丸が、「港町児童公園」です。

江戸時代に干拓が行われる前、この辺り一帯は海だったようです。
「深津高地」は、この地図上部にある緑部分の暁の星周辺で、王子神社辺りまでが万葉集にも詠われた「深津島」だったようです。

このブログ 2007-03-08「深津島」を眼下に眺望するで掲載した地図があり、昔の陸地と思われる部分を緑で表示しています。



西から見た「蛙岩」です。

「蛙岩」を調べたらもう一つ「神功皇后」にまつわる伝説がありました。
「神功皇后」は、暗い夜にこの辺りを航海していました。
その時、行く手から大きな蛙の鳴き声が聞こえてきました。
不思議に思い調べてみると暗礁が見つかり、舵を切って難を逃れることが出来たそうです。
その暗礁は、蛙に似た形で、「蛙岩」と名付けられたそうです。
又、昔この港町辺りの地名は、「座床」と呼んでいたようで、船が「座礁」するにも通じるような名前だったようです。

このブログ2007-10-12 下関市長府の「忌宮神社」でも掲載しましたが、「神功皇后」は、第14代仲哀天皇の皇后で、広島県三原市「糸崎神社」の井戸にまつわる伝説や、福山市鞆町に鞆の地名の伝説も残っています。

「神功皇后」の時代は、弥生時代の終わり頃のようです。



北から見た「蛙岩」です。
この岩の下は、土に埋まっていますが、かなり大きな岩だった可能性があります。

向かって右上の岩のふくらみは、カエルがこちらに向いている様にも見えますが、1800年前の話なので、地中に埋もれた部分を掘り出して見ないと分かりませんね。



この岩を挟むように大小二つの祠があります。
祭神は、不明です。



奥にある大きな祠です。
しめ縄が祠を巻くように取り付けられて、夏の日差しを避けるスダレのようにも見える変わったものです。
小さな祠のしめ縄とは様子がまったく違います。



「港町児童公園」を東から撮った景色です。
子供達がボール遊びを楽しんでいました。

油絵「白とピンクのバラ」

2008年02月15日 | 妻の油絵
先月の「深紅のバラ」に続くバラの絵です。
大輪の白いバラと、その両脇のピンクのバラのやさしそうな配色に心が和みます。

昨日はバレンタインデー、妻からチョコレートケーキをプレゼントされ、早速たいらげました。
近年、義理チョコももらえない身の上になり、妻のありがたみを感じた昨日でした。

遠野と早池峰山信仰

2008年02月12日 | 東北地方の旅

遠野市博物館の見学で、「早池峰山信仰」のパネルがありました。
パネルの写真には壊れた鳥居の間から早池峰山が見えています。

■パネルの説明文を転記します。
「遠野と早池峰信仰」
遠野の信仰・学問・文化の中心は早池峰山妙泉寺でした。平安時代初期に創設され、絶えず上方との交流を保ち、近世に入っては長谷寺・御室御所・嵯峨御所等の学問寺や門跡寺院への留学などで、京都から持ちかえった文化を積み重ねてきました。
また、遠野盆地の人びとは早池峰から流れ出る水のおかげで生産ができ、死ぬとこの山にいくのだと信じていました。
この山岳信仰と高い文化は、遠野の歴史や伝統を貫き、「遠野物語」を生む背景となりました。



早池峰神社を中心とした、早池峰山付近の図です。
伝説では、大同元年(806)来内村(現遠野市)の猟師「四角藤蔵」がクマを追って早池峰山の山頂で十一面観音に出合い、早池峰山頂にほこらを建立したのが始まりだそうです。
斉衡年間(854~857)慈覚大師が、早池峰山持福院妙泉寺建立し、明治の神仏分離令により、「早池峰神社」と改称したようです。

このブログ「角磐山 大山寺」で、鳥取県の大山寺縁起でも似た話がありました。
猟師が金色の狼を見つけ、大山まで追いつめたところ地蔵菩薩が現れたという話です。
しかも「慈覚大師」により天台宗の寺とされた点も共通しています。

又、平泉で「中尊寺」と並ぶ大きな寺院「毛越寺」でも同じような「白鹿伝説」がありました。
「慈覚大師」がその地を旅で歩いていた時、霧の中で白鹿と遭遇、やがて「薬師如来」の化身である老人が現れ、堂宇を建立するよう告げられ、寺を建立した話しです。
この類似した伝説に「慈覚大師」による布教目的の意図的なにおいも感じます。



早池峰山、薬師岳、早池峰神社が、一直線でつながるようです。
更に、この下の地図で確認できますが、遠野市役所が、この線上にあります。
二つの山を結ぶ線上に神社と、街を造ったかも知れません。
しかし、そうであったとしてもなぜ直線で結んだのかは謎です。



■山伏についてのパネルがありましたので転記します。
「人の一生と山伏」
山伏は修行をつみ、霊感による呪力を身につけ、村びとの依頼に応じてその病苦や災難を解くための祈祷をしました。
出産のさいは安産を、病気がちの子には取り子名をつけて無事を祈り、15歳になった男子の遠野三山へのお山がけの先達をつとめ、女子の帯解きの日には息災の祈祷、結婚にあたっては夫婦和合の符を与えるなど、病気・厄年・死後のお祓いと、人の一生の通過儀礼や年中行事と深いかかわりあいをもっていました。

「山伏の宇宙観」
密教では宇宙と自分は同一で、その宇宙に自分がなりきったとき行者は仏になるのだと教えています。山伏が超人的な力を出すいわれもこれにもとづいています。
広大な宇宙を、地・水・火・風・空の5つの要素に単純化し、これを手で5つの印に象徴化して結び、真言をとなえ、心に念じると、山伏は仏になり、宇宙になりきったおのれを駆使し、祈祷を通じて人びとの災いをなくして利益をもたらすことができると信じ、つとめてきました。


遠野三山は、地図に赤い山の印をしています。
遠野をはさむように早池峰山(標高1914m)、六角牛山(標高1294m)、石上山(標高1038m)と三つの山がそびえています。

「遠野物語 神の始」に次の物語がありました。
大昔に女神あり、三人の娘を伴ひて此高原(遠野)に来り、今の来内(らいない)村の伊豆権現の社ある処に宿りし夜、今夜よき夢を見たらん娘によき山を与ふべしと母の神の語りて寝たりしに、夜深く天より霊華(れいか)降りて姉の姫の胸の上に止りしを、末の姫眼覚めて窃(ひそか)に之を取り、我胸の上に載せたりしかば、終に最も美しき早地峰の山を得、姉たちは六角牛(ろっこうし)と石神(いしがみ)とを得たり。若き三人の女神各(おのおの)三の山に住し今も之を領したまふ故に、遠野の女どもは其妬(そのねたみ)を畏(おそ)れて今も此山には遊ばずと云へり。

遠野には本当に沢山の物語が語り継がれ、訪れる者を不思議な世界に誘ってくれます。

「遠野市立博物館」玄関前の「獅子踊り」の銅像

2008年02月08日 | 東北地方の旅

岩手県遠野市へ到着し、早速「遠野市立博物館」へ行きました。
玄関の前に奇妙な銅像がありました。

銅像の向こうには黒い石碑があり、「元衆議院議員 泉国三郎住居跡」と書かれていました。
「泉国三郎」は、戦後の社会党の政治家で、宮沢賢治とも交流があったようです。



台座に「獅子踊り」「制作 照井栄」と書かれています。
一般的な一人の獅子舞が原型のようですが、獅子の顔、タテガミ、後ろに突き出た二本のシッポ(?)が非常に変わっています。
又、頭の上には戦国時代の兜のような二本のツノと丸い飾りがあります。



別の方向から撮った姿です。
獅子にしては顔が細く、不思議に思い、獅子踊りについて調べてみました。

宮城県・岩手県では、「獅子」ではなく「鹿(シシ)」の踊りの郷土芸能のようです。どうりで細面の顔になっている訳です。
又、「鹿(シシ)踊り」は、二つに分類され、銅像のように幕を掛けて踊る「幕踊系」、体(お腹)の前の小さな太鼓をたたいて踊る「太鼓踊系」に分類されるようです。

又、頭の上に大きな丸の周囲に八つの丸がある「九曜紋」と言われる飾りがあります。
江戸時代の岩手県は、北中部を南部藩、南部を伊達藩が治めていました。
「獅子踊り」との関連は分りませんが、両藩とも複数の家紋を使用しており、その中に「九曜紋」が共通してあったようです。



遠野市博物館の中にも「獅子踊り」の衣装と、太鼓が展示されていました。
又、その下にはビデオで「獅子踊り」の様子が紹介されていました。

■展示の説明書きを転記します。
「しし踊り」
しし踊りは大別すると、太鼓を付けて自ら打ち、自ら歌って踊る太鼓踊り系と、身に太鼓をつけず、太鼓と笛の囃子(はやし)に応じて身に覆(おおう)う幕を内から揺り動かして踊る幕踊り系があります。遠野地方のしし踊りは、後者の踊りで単に「しし踊り」あるいはしし頭のたてがみから「カナガシラじし」とも呼ばれています。踊り組は種ふくべ、子踊り、中太鼓、太刀ふり、しし、太夫、笛で構成され、豊作を祈る農民の心をこめて勇壮に踊られます。



向って左の獅子で、表の銅像とほぼ同じ形のようです。


向って右の獅子で、頭の上に「九曜紋」とは違う紋が付いています。
又、前の幕にある紋も違うものです。




ビデオの「獅子踊り」の画面です。
刀を持った子供とペアーで踊っています。



ビデオで見た「獅子踊り」は、勇壮で、魅力のある郷土芸でした。



博物館内の別の場所にも獅子踊りの資料が展示されていました。

「気仙川」で見た北国の厳しい自然

2008年02月03日 | 東北地方の旅

■昨年10月7日の東北旅行の記録です。

大理石海岸を出発して海岸線の国道45号線を北上、陸前高田市から気仙川沿いの国道340号線を通り遠野を目指し走っていました。
気仙川の景色が良い場所があったので車を止めて休憩しました。

標識に「世田米」とありますが、岩手県気仙郡住田町世田米のようです。
この場所は、矢印もあり、「世田米」の手前のようです。



少し川上に橋が見えます。
水の流れがきれいで、どことなく北国の川といった感じがします。



橋に近づいて撮った風景です。
橋の向こうの山の中腹にある家がのどかに見えます。



気仙川の美しい対岸の景色です。



対岸の岸辺を拡大してみました。
川の流れに岸が洗われて木の根が、痛々しく露出しています。

このブログ2007-06-10「浦内川流域で知ったたくましい植物の生態」で掲載のマングローブの根を思い出しました。



のどかな川下の景色です。



対岸の大木と、その下の流れが、とても気持のよい景色でした。



川べりの大木の根元が異様に大きく曲がっていました。
根が川の流れに洗われて流されそうになりながらもしっかりと根を張っているようです。
北国の厳しい自然の中でたくましく生き延びた木の姿を見ました。

「大理石海岸」の絶景

2008年02月02日 | 東北地方の旅

昨年10月7日の東北旅行の記録を再開します。
唐桑半島から海岸線を北上し、気仙沼市唐桑町の「大理石海岸」へ行きました。

「大理石海岸」までの道は、45号線から一旦西側に曲がり、45号線の下をくぐって東側の「大理石海岸」へ進みます。



「大理石海岸」の駐車場にあった案内地図で、図の右上に方角が示されています。
最初の地図にあった赤い鳥居は、八幡神社で、弁天島辺りの景色が見所です。

駐車場トイレの下に貝塚跡・土器出土跡が表示されています。
図の上には「石灰採掘跡」、その他「潮吹穴跡」「石切場」「ウミユリ等化石群跡」などが書かれています。

「大理石海岸」の駐車場にあった案内地図で、図の右上に方角が示されています。
最初の地図にあった赤い鳥居は、八幡神社で、弁天島辺りの景色が見所です。

駐車場トイレの下に貝塚跡・土器出土跡が表示されています。
図の上には「石灰採掘跡」、その他「潮吹穴跡」「石切場」「ウミユリ等化石群跡」などが書かれています。

■案内板の説明文を転記します。
過去見た観光地の案内板の中では飛びぬけて多い文字数でした。
<大理石海岸のご案内>
大理石海岸は、永い年月にわたる地殻の変動や海水の浸食によってできたリアス式沈降性海岸です。
岩質は大理石層、石灰岩層、黒色粘板岩層に分類された光輝く白亜の岩礁は湾内の景観をいっそう引き立たせております。
霧立山から流れ出る清流は植物性プランクトンを含み、やがて動物性プランクトンの繁殖によって小魚や海草、ウニ、鮑、牡蠣などの豊富な魚介類が自然繁殖しており、駐車場の北側には深さ三十メートルに及ぶ鍾乳洞があり、これまでの内部調査によって縄文土器や石斧など数点がはっけんされました。
また、駐車場南西側の斜面にはアサリや牡蠣・貝殻等の貝塚がはっけんされており縄文人達の足跡が今も色濃く残されています。
更にこの駐車場から徒歩五分程の南側大理石層(石切場)には沢山のウミユリ等の化石群が露出しており学術的な調査をする上では大変貴重な場所です。
明治四十年、浅野セメント創始者・浅野総一郎氏がアメリカ鉱山学博士、Rスミス氏と共にこの地を訪れ大理石の優れた性質を見て「イタリア産大理石を凌ぐ」と絶賛された事が伝えられております。
浅野セメントはその後約十年間に渡り採掘を続けましたが、岩石を積む船(運搬帆船)の接岸が容易ではなく、やむをえず採掘を中断してしまったと言われています。
また一説には東京三越本店正面玄関の左右のライオン台座の大理石礎石はこの場所から運ばれたと云われており、当時の積み残した大理石原石が今でも石切り場海岸のいたるところに残っており往時を忍ばせております。
陸中海岸は宮城県気仙沼市から岩手県久慈市まで180キロメートルにも及ぶ起伏にとんだ美しい海岸線で昭和三十年に一部国立公園指定を受けました。昭和四十四年、国道四十五号線仙台宮古間が開通すると同時に陸中海岸にも観光ブームが到来しその頃から、誰云うともなくこの海岸を「大理石海岸」と呼ぶようになりました。
この湾から見える左前方の岬、出山(石山)の石灰採掘跡が湾内の景観を損ねたと云う理由で昭和三十九年陸中海岸国立公園南部区域指定(大釜半造、大島等)の時、この大理石海岸だけ外されてしまいました。
閉山四十年後の今日、一部損なわれた自然も今は美しく蘇り、宮城県最北東端の海洋ロマンの町、唐桑半島の最も美しい景観を誇る名称地として見直されております。
「大理石海岸」の四季折々の自然が織り成す素晴らしい海・山・岩礁の色彩景観は、長旅でお疲れの皆様方のお身体とお心をきっと癒してくれると思います。



駐車場から弁天岩方向を見た景色です。
数隻の小さな漁船が砂浜に並んでいました。



駐車場から弁天岩方向への海岸沿いの道です。
道の横には白いツヤのある岩があり、大理石のようです。



海岸の道の脇にあった大理石の上に立って足元を撮ってみました。
この石を磨くと、白とグレーの大理石模様が浮かび上がるのでしょうか。


波打ち際に面白い形の岩がありました。
三角山のような小さな岩があり、手前の大理石の白と、向こう側の褐色(石灰岩?)の境目のようです。

案内板の説明にあったように、このあたりの岩は、大理石層、石灰岩層、黒色粘板岩層で構成されているそうです。
「大理石」は石灰岩がマグマの熱を受けて変成、再結晶したもの。
この辺りにウミユリの化石も出ており、生物が堆積して石灰岩が出来、更に火山活動の熱変成により大理石が出来たと思われます。
粘板岩とは堆積岩の一種で、砂や泥が強い圧力で固められた岩だそうです。
黒色粘板岩は、硯や碁石にも利用されており、磨くとつやが出るようです。




弁天岩を南西方向から見た景色です。



弁天岩を西方向から見た景色です。
海に並ぶ大きな岩礁に波が立ち、非常に特徴のある絶景です。



湾内の南東を見た景色です。
湾内の向こうに案内地図にもある堤防が見えます。



海岸に沿った道を歩いていると大きなカヤの木があり、足もとにたくさんのカヤの実が落ちていました。
カヤの実は、銀杏と同じような構造で、緑の外皮の内側に硬い内皮(殻)があり、その中にある実の表面に渋皮があります。

カヤの実は、縄文遺跡からも見つかっている木の実です。
案内板の説明によると駐車場周辺で縄文時代の遺物が見つかっているようです。
縄文人たちもこの大理石海岸の美しさに魅了され、この地に住んでいたものと思われます。



見上げると大きな「カヤの木」がそびえていました。

カヤの木は、イチイ科 カヤ属の常緑針葉高木です。
イチョウなどと同じ雌雄異株で、ちなみにこの木は実をつけているので雌の木のようです。



駐車場の横に見たことのない祠(ほこら)のようなものがありました。
屋根の上の飾りも初めて見るものです。
岩の上にある祠の四つの口の形も変わっています。
弥生時代や、古墳時代を思い浮かべるこの不思議なデザインの祠は、いったい何でしょうか。