昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

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油絵 「お雛さま」

2007年02月28日 | 妻の油絵
妻の油絵 「お雛さま」です。

昨年も描きましたが、今年の絵が少し出来が良いようです。

昨年の「お雛さま」の絵は妻の母がお世話になっている市内のグループホームに飾って頂いています。

「桃の節句」とは云いますが、桃の花のない「桃の節句」です。
新暦になって季節感のない行事になってしまいました。

最近、全国的に古い町並みの各商家にお雛さまを飾り、イベントとなっています。

せめて古い町並みでは、旧暦の桃の花が咲く季節感のある時期にもやってもらいたいものです。
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備後国深津郡「須佐能袁能神社」は何処

2007年02月27日 | 山陽地方の旅
前回の「天神社」に関連し、延喜式にある深津郡「須佐能袁能神社」(すさのおじんじゃ)について調べて見ました。

新市町戸手の「素盞鳴神社」(すさのおじんじゃ)が比定されている資料が多いものの、比定理由があいまいで、調べることにしたものです。

資料として、1809(文化6)年、福山藩主阿部正精(江戸幕府老中)が菅茶山(儒学者・漢詩人)に命じて編纂させた備後国の歴史書「福山志料」があります。

その中では延喜式の深津郡「須佐能袁能神社」の場所がよく分からないとし、昔から郡境が変化していることを理由にしています。

又、別の書籍(延喜式神明帳関係)には現存する新市町戸手の「素盞鳴神社」の場所が、かって深津郡だった可能性を挙げて比定している記載があり、疑問をもった訳です。

上段の地図は600~700年前(南北朝時代)のものと言われており、郡を色分けしてみました。
(赤い○で「須佐能袁能神社」があったと思われる場所を3ヶ所印しています)

福山市から府中市までの芦田川沿いに「備後穴海」と云われた大きな深い入り江があり、入り江の上に沿って東西に古代の山陽道がのびていました。

延喜式の出来た奈良時代には、右下の深津郡[ピンク色]と、左上の品治(ほんち)郡[緑色]は、穴海や、安那(やすな)郡[ベージュ色]を挟んで分かれています。

新市町戸手の「素盞鳴神社」(赤○A)は、品治(ほんち)郡にあります。

又、新市町戸手の「素盞鳴神社」より少し東の安那郡に近い駅家町には古代の駅舎「品治駅」があったと伝えられています。

そのことからも、古代の新市町戸手はあきらかに品治郡であったことが考えられます。

従って延喜式にある深津郡「須佐能袁能神社」は、記載された当時、新市町戸手の「素盞鳴神社」(下の地図かみとで駅付近)を指したものではなかったと考えています。

<参考>
 赤○Cは蔵王町「天神社」付近です。
 現在の芦品郡は芦田郡+品治郡、深安郡は深津郡+安那郡と合併した名前です。

下段の地図は、現代のもので、上段の地図とほぼ同じ地域の地図です。

干拓が進んだ近世以降、地形が大きく変わっていることが分かります。
「備後穴海」が干拓され、湾の上に位置する「上岩成」(下の地図まなぐら駅の東付近)、その南の下岩成は深津郡の一部で、右下の深津郡から伸びていったことが考えられます。

菅茶山の「福山志料」には「天神社」の説明で「烏帽子(えぼし)石ト云フ所ニアリ」と記載されています。

「烏帽子石」も今後の検討のヒントになるかもしれません。

全国の延喜式式内社に関する他の書籍には、福山市王子町辺りとする説(赤○B)もあり、現地調査や、「備陽六郡誌」などの資料と合わせて調べて見る予定です。

ややこしい文章をお読み頂き、どうもご退屈さまでした。
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気になる山、蔵王町の「天神山」

2007年02月25日 | 山陽地方の旅
写真下2段は、福山市蔵王町の「天神山」です。

「天神山」の名前や、頂上のやや下の岩が、古代の神山信仰の磐座(いわくら)のようであり、気になっていました。

又、「天神山」の麓をよく見ると、小さな「天神社」があり、地元の人の話では以前に神社の土地から古銭が出てきたらしいと情報を得ました。

調べてみると延喜式神名帳(式内社)に備後国深津郡一座(小)「須佐能袁能神社」があり、「天神社」を比定する説がありました。

これまで深津郡の式内社は、福山市新市町戸手の「素盞嗚神社」が比定されていると思っていましたが、考えてみると「素盞嗚神社」かっての品治郡にあり、明らかに場所が違います。

又、「天神社」を挟んで「天神山」の反対側には「蔵王山」もあることから古代に大きな神社があった可能性がないとはいえません。

「天神社」が、かっての「素盞嗚神社」であれば、他の式内社の例から「天神山」が神山がある可能性もあります。

2006/7/30撮影に行きました。

写真上2コマは、「天神社」(てんじんじゃ)で、床のない拝殿でした。

参拝する方角は、ほぼ「天神山」に向いており、周囲にはなだらかな地形が広がっていました。

神社の周辺の字は金原(かなはら)で、「神の原」にも通じる可能性もあります。

写真下2段コマは、「天神山」で、磐座のような岩があります。
両脇の岩が左右対象にあり、その間にも少し背の低い岩があるように見えます。

見る限り、岩の場所や、形がいかにも人為的に思えます。
古代人が古墳などを巨大な岩で造ったことを考えると、人為的に置かれた岩である可能性も否定できないと思っています。

いつか岩の場所まで確認に行きたいと思っています。
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おむすび形の「八国見山」

2007年02月24日 | 山陽地方の旅
<写真上段>は、「八国見山」(やくにみやま)です。(2007/1/21撮影)
広島県庄原市口和町宮内にあり、麓から南1Km付近から撮ったものです。

庄原市の市街から口和町へ入る峠から見え始めますが、見つけたときはその形に思わず見とれてしまいました。

標高884mの山で、山頂からは八国 [備後、安芸、出雲、隠岐、石見、備中、伊予、伯耆] が見渡せると言われています。

和銅年間(708~714年・平城京が出来た頃)「八国見山」の山頂には「多加意加美神社」(たかおかみじんじゃ)があり、八国見山大明神が祀られていました。
備後国恵蘇郡(比婆郡の北西部)では唯一、延喜式神名帳に記載されている神社で、現在は「八国見山」から約5~6Km南の口和町向泉に移っています。

「八国見山」から現在の神社までの途中には同じ「多加意加美神」を祀った「本宮神社」があり、神社が移設される歴史過程を残しているようです。

明治時代の合併以前「八国見山」周辺は、「宮内村」と呼ばれ、昔は「多加意加美神社」のちょっとした門前町ではなかったかと推察しています。

<写真中段>は、麓から「八国見山」を撮ったものです。

山の中央の下に小さい山があり、神山に見られる特徴の一つです。

左右対称で形の良い山に祖霊を祀る信仰は沖縄を含む全国に見受けられますが、古墳時代から信仰の形式を変え、神社で祀る現在の形に変化してきたようです。
「八国見山」への信仰は、弥生時代以前から続いてきたものと推察しています。

「多加意加美」(たかおかみ)は、日本書紀でイザナキ ・イザナミの神産み神話に登場する「高龗神」(たかおかみのかみ)です。
火の神「軻遇突智」(かぐつち)を産んでイザナミが死んだことにイザナギが怒り、「軻遇突智」を剣で切った後に産まれた神の一人です。

「多加意加美」は、「高龗」とも書き、「高」は山頂、「龗」は龍の意味で、「龍」は雨乞いなど農耕に必要な水に関わる神様と言われています。

<写真下段>は、「手洗滝」です。
「八国見山」の南麓の東側に見える滝で、道路脇に案内板があり、以下はその記載内容です。

「手洗滝」[ちょうずがたき]
高さ約20.7m、二段に分かれた町内最大の滝である。この滝の西北の国に客人神社があり、その神社に参拝する人たちが手を洗った滝として、この名がついたと言われている。
また一説には、後鳥羽上皇が隠岐の島へ配流される時、庄原本郷黒木谷より高野山岡大内に至る途中、宮内村でしばらく休息され、この滝で手をお洗いになったので後の世までその名が残ったとも言い伝えられている。
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本郷町の「宮川神社」へ参拝

2007年02月22日 | 山陽地方の旅
三原市本郷町下北方の本郷中学校西側の道を入り突き当たると「宮川神社」があり、「梅木平古墳」の東側数十メートルの場所です。

神社の案内板によると、「宮川神社」は、以前山王社(山王権現神社)、通称宮地川山王さんともいわれているようです。
本殿には平安時代の作といわれる御神体の神像が五躯(たい)で、衣冠装束の伊邪那伎神・天照大神・大名牟遅神・武甕槌神の像、4躯と、僧形姿の日子穂々手見神の像が祀られていると書かれています。

鳥居から石段を見上げると姿の良い狛犬と、拝殿が見えます。(写真上段)

拝殿の壁に修復前に使用されていたと考えられる「慶長5年」(1600年)と書かれた「懸魚」(げぎょ)が飾ってありました。(写真中段)
「懸魚」は、切妻造り、入母屋造りの屋根の両端(破風)に、棟木や桁の先端を隠すように取り付けられた飾板のことで、神社や、お寺の屋根によく見られます。
各地で様々な形の懸魚が作られ、味気ない屋根の両端を飾る他、風雨から建物を守る役割もあるようです。
元は、中国で火災から建物を守るためのおまじないとして、魚の形をした飾りを屋根に取付けることから始まったようです。

拝殿の左奥に本殿があり、小さな神社ですが、天井がない拝殿の壁の上には奉納された武将の絵馬がたくさん掛けてありました。(写真下段)

又、石段を上がったすぐ左手に、石を組んでつくられた祠(ほこら)もあり、いかにも歴史を感じさせる神社でした。
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「梅木平古墳」に巨大な石室があった

2007年02月21日 | 山陽地方の旅
「東禅寺」続いて「梅木平古墳」[ばいきひらこふん]に行きました。
三原市本郷町の本郷中学校西側から北に入ると、突き当たりに「宮川神社」(山王社)があります。(車ではここまで)
そこから細い道を左に歩くとすぐに上り坂になり古墳の横穴が見えてきます。

写真上段は、古墳の横穴式石室の入口と案内板で、道を右上に登ると墳丘の上に続いています。

この古墳は、6世紀末から7世紀始め(古墳時代末期から飛鳥時代初期)に造られ、この辺りを治めていた有力者の家族墓と推定されています。

写真中段は、横穴入口から羨道(せんどう)を撮ったものです。
写真下段左は、玄室の奥を撮ったものです。
横穴入口から羨道(せんどう)はさほどでもありませんが、玄室に入ると驚くほど高い石の室になっています。よくもこんな大きな石を運んできて積み上げたものだと感動しました。
入口から奥まで13.25m、玄室の幅3.2m、高さ4.21mで、玄室の大きさは広島県最大といわれています。

写真下段右は、墳丘にあるお堂です。
案内板によると「上北方寺社井名所古蹟改帖」にお堂の名は「梅慶庵」と記されているとのことです。
[ちなみに古墳の名は「梅慶庵塚」と記されています]
又、堂の中には横見廃寺にあったと思われる朽ち果てた平安前期の仏像ニ体が祀られているそうです。

本郷中学校を挟んで東に約200mの場所に、広島県最古の寺跡といわれる「横見廃寺跡」(よこみはいじあと)があり、「梅木平古墳」にに葬られた一族の氏寺と推定されているようです。
すぐ東隣の「宮川神社」との関係もはっきりとしませんが、気になるところです。
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行基が開山した本郷町「東禅寺」

2007年02月20日 | 山陽地方の旅
楽音寺から県道59号を南に約3Kmの場所に楽音寺の末寺、東禅寺(とうぜんじ)があります。(広島県三原市本郷町南方89)

真言宗御室派、蟇沼山補陀落院東禅寺が正式名で、南北朝時代に蟇沼寺(ひきぬまでら)から改称したようです。

奈良時代、行基が建立したと寺と伝えられ、かっては蟇沼(住所の字)一帯が境内で、多くの伽藍と、広い寺領があったようです。現在は、雷火により伽藍が消失し、本堂だけになっています。
そのすぐ西に「蟇沼神社」があり、明治の神仏分離によるものと推察しています。

本尊の「十一面観音像」は、33年に一度の御開帳と、17年に一度の半開帳の時に公開される秘仏です。当初は立ち木に彫られたものでしたが、火災の時、根元近くから切って助け出されたため、上半身が黒く焦げた状態で残っているようです。

住職不在のお寺のようで、閑散としていました。
四天王立像はぜひ拝観したいものです。

<本堂の前の説明板>
広島県重要文化財 木造四天王立像 四躯
東禅寺は旧名、蟇沼(ひきぬま)山補陀落院と称し、小早川氏の氏寺であったが、雷火によって伽藍が消失し現在は一堂のみとなっている。
由緒によると、行基がこの地に巡錫(じゅんしゃく)された時に榛(はん)の巨木に十一面観音を彫刻したのが、この寺の本尊と伝えられ、脇仏である多聞天立像の内部から「元徳2年(1300)6月17日源信成(源信成は沼田庄梨羽郷弁海名の名主であった)寄進の書銘が発見された。また、多聞天の首柄及び玉眼の押え木などに銘が記されている。
持国天・多聞天・広目天・増長天の雄渾(ゆうこん)な四天王立像の顔面の表情や姿態の量感の豊かさは鎌倉彫刻の特徴が遺された歴史的・美術的価値の高いものである。
東禅寺にはその他、町重要文化財として、古文書・十一面観音菩薩像がある。
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油絵「ポピーの花」

2007年02月19日 | 妻の油絵
昨年5月の妻の作品です。
6号の小さな作品ですが、少し動きのある感じを出したかったようです。

ポピーは、「アイスランドポピー」が正式のなまえのようで、花言葉は「思いやり」「いたわり」の他、白い花は、「忘却」「眠り」だそうです。

ユーラシアや、北アメリカなどの亜北極圏が原産の多年草で、植物の分類ではケシ科 ケシ属ですが、麻薬にはなりません。
厚さに弱いため日本では一年草で扱われているようです。

季節ごとに何気なく見ている花も世界各地から来ていることが分かり、改めて感心します。
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「楽音寺縁起絵巻」第6場面

2007年02月18日 | 山陽地方の旅
藤原倫実(ともざね)は、藤原純友の頸(くび)を取り、天皇に献上してご覧に入れました。
倫実は、天皇から褒められ、「左馬允(さまのじょう)」[朝廷の馬の管理をする役]に任じられると共に、「安芸国沼田七郷」を賜りました。

倫実は、釜が島の宿願を果し遂げるため、当寺に一堂を建立させ、髪の中の像をその中に安置しました。
一寸二分(約3.65cm)の像は小さいため、丈六(4.84m)の像をお造りし、その中に籠(こ)めたのがご本尊です。

いわゆる「薬師如来丈六の像」が一体、「日光月光、二菩薩の像」「多聞持国等八天の像」「金剛力士二天の像」があります。

第10画は、倫実が誇らしげに馬に乗り、先頭には捕虜を追いたて、薙刀(なぎなた)に純友の頸をぶら下げて京を凱旋する場面です。

第11画は、建物の中はお坊さんが多く、楽音寺の建立の落成式の場面のようです。
又、第12画の左の門は楽音寺の「仁王門」のようでもあり、絵の上に赤い布を持った人物がおり、倫実のようにも思えます。

第13画は、倫実が屋敷に帰った場面です。

以上が「楽音寺縁起絵巻」の物語です。

前にも書きましたが、この物語は「藤原純友の乱」の史実とは違います。
しかし、楽音寺が、その後長い時代にわたりこの地方で強い影響力を持ち続けたことは「楽音寺文書」からもうかがえます。
下記の資料は、福山市中央図書館にもあります。

参考資料 広島県立歴史博物館展示図録第十六冊
     「安芸国 楽音寺 楽音寺縁起絵巻と楽音寺文書の全貌」
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「楽音寺縁起絵巻」第5場面

2007年02月17日 | 山陽地方の旅
第7画は、戦場に向かう場面のようです。
第8画は、決戦の場面です。
その下の絵は、決戦の場面を拡大したものです。

漢文の詞書を訳してみました。

重ねて勅命を賜った倫実は、淀河の津、河尻の浜(?)で大船・小船を選び、和泉国、河内国で多くの民(兵?)を集めた。
摂津国、播磨国で人夫を集めて小屋野で印南野で茅萱・荻・薄を刈り、たくさんの船に載せて運ばせた。

順風猛風を待って舟中の草に着火、釜が嶋にかじを廻した。
順風が吹き、千船万船の白浪を追って、千燈万燈の赤い炎が、かっかと燃え上がる嵐となった。
陸地からは千軍万軍を率いて鑣(くつわ)を烈し、蹄を並べる。(自分でも意味がわかりません)
千笑を発し、万笑を発し、甲(よろい)を傾け、冑(かぶと)を振う。(何のことやら、漢文はよく分かりません)

これにより純友の城郭釜嶋には、海上から吹きかかる火が、春の野焼きの炎のようにせまった。
陸地から放たれた矢は、夏の黒雲から降る雨のようであった。
純友の軍兵で、火から漏れる者は、矢から遁(のが)れられず、矢からのがれる者は、火から1人も漏れることなく、悉(ことごと)く終わってしまった。

船に柴やススキ等を積んで、順風に着火する事は、倫実が上洛の時、備前国の河を渡る時、ある神明が、人に変身して伝えたものである。

やれやれ、漢文を訳すのは、難しいですね。

第9画は、敵の大将「藤原純友」を捕らえて首を切る場面のようです。
戦いの敗者は、裸になっていますが、昔は物の価値が高かった時代で、着ている物は剥ぎ取られてしまったのでしょうね。
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「楽音寺縁起絵巻」第4場面

2007年02月17日 | 山陽地方の旅
倫実が、上洛して天皇へ戦の報告をしている場面です。(絵の上に地面に伏している人)

天皇から純友について問われ、「人にあらず、鬼人のごとし」と答えました。
天皇は、「鬼人のごとくならば、仏力をもって闘うべし」と言われました。

倫実は、ますます髪の中の薬師像を信心しました。

勅(みことのり)による故(ゆえ)に、当寺(楽音寺)を「一院御願所」と号すと注釈があります。

下の絵は、天皇からの勅(みことのり)を受ける場面を拡大したものです。

よく見ると倫実の服装がちょっと変わっています。
黒の装束に赤い服を左肩に掛けているようです。
いったい何なのでしょうか?
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「楽音寺縁起絵巻」第3場面

2007年02月17日 | 山陽地方の旅
第三場面は、この物語の重要部分です。
よく分からない漢文をなんとか要約してみました。

倫実は、純友を討つ勅宣を固辞したが、断りきれなかった。
数万騎の官兵をで純友の城郭がある釜嶋に出発した。
倫実と、純友は、お互いに命を惜しまず合戦したが、倫実は、敗れてしまった。
切られて海中に落ちた者、或いは舟底で殺されている者がいる中で、倫実は生き延びていた。
倫実は、死人の腹わたを自分の腹の上に置き死んだふりをしていた。
鳥や鷲が飛来し、倫実の肉を引き裂き、眼を突いたりしたので少し動いてしまった。鳥はすぐさま飛散した。

純友はこれを疑い、生存者がいると手下に命じて舟中の死人を手鉾(注1)で一々とどめを刺していった。
倫実は、元服の年に一寸二分(約3.65cm)の薬師像を造り、髻(注1)の中に入れて十二の本願(注2)掛けていた。
倫実は、涙を流し、薬師如来に一心に願って言った。
「私は、13歳から32歳まで日夜、薬師の本願を仰ぎ、医王(薬師)の効験をたのんでいました。
本願を誤らず私の命を助けて下されば、一棟の伽藍を建立して髪の中の霊像を安置させて頂きます。」
この祈りはすぐに現れ、まさに倫実が刺されようとした時、海中に出てきた亀を指差し、兵士があざけり笑ってしまったので、倫実は助かった。
(写真「第4画」の左下に舟と、亀が描かれている)

倫実は夜闇にまぎれて、櫓をこぎ、忍んで陸地に着いた。
(写真「第5画」の右下、なぜか従者がついて歩いている)

(注1)「手鉾」 てほこ 古代からの武器で、両刃の剣に長い柄をつけたもの
(注2)「髻」 もとどり 髪を頭上で束ねたもの
(注3)「十二の本願」 薬師如来に「一切衆生の苦悩を除き、一切の病患を除かん」と祈る
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「楽音寺縁起絵巻」第2場面

2007年02月15日 | 山陽地方の旅
第2画は、安芸国にいる藤原倫実(ともざね)の屋敷に天皇の使者が勅宣を届け、朝敵を鎮めるよう伝えた場面のようです。

漢文の詞書に「配流安芸国有藤原ノ倫実ト云者」とあり、「安芸国に配流」とは流罪・左遷などと解釈され、絵の屋敷を見るかぎり倫実は、(罪人ではなく)左遷されていた可能性もあると考えています。

第3画は、都か、国府で命令を受けている場面のようです。

<承平天慶の乱のはじまり>
末法思想が流行を始める天慶2年(939)12月26日、藤原純友が叛乱を起こし、朝廷に報告しようとした備前介藤原子高を、摂津国で耳を切り鼻をぎ、息子を殺害した事件が、朝廷に報告されました。
3日後の12月29日、平将門が上野・下野国府を占領した反乱の報告がされました。

東西の同時期の叛乱に対して朝廷は危機感をつのらせたようです。
純友には小野好古を山陽道追捕使、源経基を次官と体制を整えながら、従五位下を授ける懐柔策で純友との交渉で時間稼ぎをする策に出たようです。

2ヶ月後の翌天慶3年(940)2月平将門が藤原秀郷、平貞盛死に敗れ、鎮圧された後は純友へ兵力を注ぐこととなります。

純友の反乱は、海賊行為です。1,000隻の船を傘下にして各地で略奪しており、将門が「新皇」を宣言して朝廷から独立した行動と比較すると異質な反乱です。
しかし、この二つの大きな反乱の背景には共通点もあるようで、当時の政治・社会状況を確認したいと思っています。
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「楽音寺縁起絵巻」の概要と、第1場面

2007年02月14日 | 山陽地方の旅
<概要>
平安時代(794~1185年頃)の中期、藤原純友の乱(936~941年)の頃の物語です。

主人公の藤原倫実(ともざね)が、朱雀天皇の詔で、乱の平定に向かい、最初の戦いで敗れました。
その戦いで殺されかかった時、身に着けていた薬師如来像(約3.65cm)に願を掛け、九死に一生を得て逃げ延びることができました。
再度の戦いで、乱を平定し、本願に報いるために「楽音寺」を建立するに至ったことが漢文の詞書6章と、大和絵6図で描かれています。
(まさに、「苦しい時の神頼み」を絵に描いた物語ですね)

鎌倉時代の作といわれる原本は、江戸時代に広島藩主浅野光晟に召し上げられ、代替の模写を下付されたものとされています。
模写の絵師は、狩野派宗家探幽の実弟、狩野安信で、詞書は、浅野家家臣杉岡六太夫とされています。

<第一場面>
藤原純友が備前国釜島で年貢を略奪しているところです。
「藤原純友の乱」の勃発です。
ほぼ同時期に「平将門の乱」も勃発し、総称して「承平・天慶の乱」といいます。

釜島は、瀬戸大橋を下津井から渡り始めた辺りから東南に見える島の一つで、その手前に見える松島には「純友神社」もあります。
史実では、藤原純友は、愛媛県宇和島市の西にある日振島を本拠地としており、釜島は、東の重要拠点だったと推察しています。
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梅の開花です。

2007年02月12日 | 日記
今日、福山市園芸センター(金江町)の近くの道路脇に「梅の花」が咲いていました。

十数本ある梅の木で、なぜか4本だけが咲き始めていて、3分咲き程度です。
種類が早咲きなのでしょうか。

暖冬のためか、今年の開花は早いようです。
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