昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

油絵「田尻の春」

2013年05月25日 | 妻の油絵

妻の油絵「田尻の春」です。

3月下旬に「杏の里」福山市田尻町の風景です。

少し霞んだ海を背景に、菜の花、杏、紅梅、早咲きの桜などが咲き乱れ、春爛漫の風景の中でウグイスの声を聴きながら描いた作品です。



福山市田尻町周辺の地形図です。
(福山市の芦田川河口から鞆の浦に挟まれた田尻町の位置を示す図と、右上は田尻町の拡大図です。)

写生地(赤丸印)は、田尻町の南で、作品の中央に建つ建物が老人施設「エクセル鞆の浦」です。

沖の二つの峰が並ぶ島は、鞆の浦の「仙酔島」、その左には霞んで見える「走島」や、笠岡諸島が続いています。

写生した場所は、海岸の山裾に続く杏畑を見下ろす山道で、その脇に植えられた花も地元の人々の手作りだそうです。

杏畑を散策する細い道ばたにも様々な春の花が植えられ、見物に訪れる多くの人を和ませています。

毎年3月下旬の「田尻杏まつり」は、素晴らしいふる里つくりに取り組む地元の人々の晴れの舞台でもあるようです。

長崎旅行-19 佐世保市「展海峰」九十九島の絶景

2013年05月19日 | 九州の旅
2012年9月13日長崎旅行5日目最終日、朝早く佐世保市のホテルを出発、佐世保市の西岸一帯に多くの小島が広がる「九十九島」を望む「展海峰」へ向かいました。



「展海峰」の展望台から見下ろした九十九島の絶景です。

眼下の小さな港から突き出た半島の向こうには、静かな海に数多くの島が点在する雄大な風景が広がっていました。

7:40頃、展望台へ登り、しばらく薄曇りの風景を眺めていましたが、8:00頃から朝日が当り始め、すばらしい絶景となってきました。

沖に浮かぶ大きな島は「松浦島[まつらじま]」で、その右にカキ養殖のイカダが浮かんでいます。

■「九十九島」の案内板です。
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九十九島(西海国立公園)
佐世保港外から北へ25キロ、平戸瀬戸まで208の島々が連なる多島美は九十九島と呼ばれ、日本最西端の国立公園に指定されています。九十九島の中でも佐世保近海の島々は「南九十九島」と呼ばれ、とりわけ美しい島々が集まっています。
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「展海峰」から見下ろす「南九十九島」の地形図です。

「展海峰」は、佐世保湾の西を囲む「俵ケ浦半島」の山上にあり、北西方向に広がる「南九十九島」の一番の絶景を望む地とされています。

北西方向に見下ろす岬の形は、ワカメのようにも見え、その沖の「松浦島」の形は、驚くほど複雑なものです。

地形図で見る「南九十九島」の地形は、「展海峰」から見るよりはるかに複雑なものでした。



広い駐車場から坂道を登って行くと展望台が見えてきました。

坂道の途中、広い花畑があり、まだ咲いていないコスモスが植えられており、秋には色とりどりのコスモスが咲き乱れる風景が見られるようです。

「展海峰」の案内板によると3月中旬からは菜の花が咲くとされ、春秋の観光客を楽しませているようです。



下段の写真は、展望台から見た風景で、上段の写真は、展望台から撮ったパノラマ写真です。

展望台の階段を登るに連れて、感動の風景が広がってきました。

遠くが霞む天候で、見えない島も多かったと思われますが、多島美で知られる瀬戸内海でもこれだけの島数は見られません。



「展海峰」の案内板にあった「南九十九島」の展望地の案内図です。

「南九十九島」の展望地は、「展海峰」の他、「船越展望所」、「石岳展望台」があるようです。

「展海峰」の案内図にA・B・C・D四方向の矢印を加えているのは、以下に掲載した展望風景の写真の方向と記号です。



「展海峰」から北東方向(案内図矢印A)の風景です。

「俵ケ浦半島」の向うに佐世保の市街地が広がり、右手に烏帽子岳がそびえる雄大な風景です。

「展海峰」の案内図にあるように「俵ケ浦半島」のこの辺りは、幅が約300mと細くなり、「船越」の地名が付けられています。

石垣島の北部、伊原間にも同じように島が細くなった「船越[フナクヤ]」と呼ばれる場所があり、旅行で立ち寄ったことを覚えています。

そこではお祭りの中で、船をかついで反対側の海に越えていく神事もあるようで、「船越」の地名は昔の交通の名残と思われます。



「展海峰」から北方向(案内図矢印B)の風景です。

向かって右の峰は「赤崎岳」、少し低い左の峰は展望台のある「石岳」です。

「石岳」の左に富士山の形に似た小さな山になぜか気を引かれました。

地形図を見ると、この辺りの海に浮かぶイカダには「養魚場」と表示されており、タイ・フグなどの養殖だったのでしょうか。



「石岳」の左の山をズームで撮った写真です。

火山とも思えない小さな山なのに何故このような美しい形をしているのでしょうか。

地図で調べると標高約260mの「愛宕山」(別名「飯盛山」)と呼ばれ、山頂に鳥居のマークがあることから信仰の山のようです。



「展海峰」から北西方向(案内図矢印C)の風景です。

雲間から射す朝日がスポットライトのように眼下の港付近を照らしているため、沖に浮かぶたくさんの島が余計霞んで見えているようです。

冒頭の写真は、この風景の中央部をズームで撮ったもので、「展海峰」から見る最も美しいと感じた「南九十九島」の風景でした。



「展海峰」から西方向(案内図矢印C)の風景です。

左手の沖に「黒小島」が横たわり、この辺りの海を一層波静かにしているようです。

地形図を見ると左手前の深い入江に「真珠養殖場」と表示されており、三重県志摩市の英虞湾や、愛媛県南部の宇和海に広がる「真珠養殖場」が思い浮かびます。

「真珠養殖場」の多くは、驚くほど複雑なリアス式海岸の海で見られますが、規模は小さいもののここでも真珠養殖が行われるのは納得できます。



展望台の下に「田中穂積像」(作曲家)が建っていました。

知らない人でしたが、案内板を見ると昔のサーカスで聞かれた「美しき天然」を作曲した方でした。

哀愁を帯びたメロディーですが、美しい自然の風景を歌った曲だったとは意外でした。

■田中穂積像の案内板です。
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田中穂積と美しき天然
「美しき天然」は佐世保で生まれた曲です。独特のヨナ抜き(4、7番目のレ、ソの音がない)短音階を用いた日本初のワルツ曲「美しき天然」は、明治35年(1902)、佐世保市制施行の年に創設された私立佐世保女学校(後の市立成徳高等女学校-現佐世保北高等学校)で、音楽を指導した佐世保海兵団楽隊第三代軍楽長田中穂積によって、女学校のための音楽教材として作られたものです。
 鳥帽子岳や弓張岳から望む九十九島の風景をこよなく愛し、その想いを武島羽衣の詩に仮託して作曲したといわれています。田中穂積より直接口授された当時の女学生の愛唱歌となり、また校歌の代わりとして歌われました。
 田中穂積が没した翌年(1905)に楽譜が出版されるや、いろいろな場で演奏されるようになり、サーカスのジンタとしても親しまれて、全国に広まっていきました。
 現在、この哀愁を帯びた美しいメロディーは、国境を越えて中央アジアでも演奏されています。

田中穂積 経歴
1855(安政2)年11月4日 現在の山口県岩国市に生まれる。
1899(明治32)年 佐世保海兵団楽隊第三代目軍楽長として着任。
1902(明治35)年 「美しき天然」を作曲。
1904(明治37)年 永眠。享年49。佐世保市東公園(旧海軍墓地)に眠る。

◎田中穂積像は西海国立公園指定50周年を記念して、成徳高等女学校同窓会から寄贈されたものです。
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展望台の下から見渡す九十九島の風景です。

写真左上は、赤紫のクズの花で、展望台の周囲に咲き乱れていました。

何気なく見られる花ですが、間近に見たクズの花に意外な美しさがあることを知りました。

駐車場からの広い花畑に植えられたコスモスの花は見られませんでしたが、クズの花に「美しき天然」を見つけた9月の「展海峰」の見物でした。

長崎旅行-18 平戸市「田平天主堂」そびえるレンガ造りの鐘塔

2013年05月10日 | 九州の旅
2012年9月13日長崎旅行4日目、「平戸市生月町博物館・島の館」の見学の後、平戸市街地の散策を始めた直後あいにく小雨、あきらめて宿泊予定地の佐世保方面へ向かう途中、偶然、教会の案内標識を見て立ち寄ったものです。



正門に上る石段の下から見た「田平天主堂」の風景です。

突然、石段の上に建物が出現し、十字架を戴くドームの緑や、高くそびえる鐘塔のレンガ色の配色の美しさに感動した一瞬です。

幸い、雨が止み、建物の外観を見学をさせて頂くことが出来ました。



「田平天主堂」周辺の地図です。

左上の生月島から生月大橋、平戸大橋と渡り、国道204号から県道221号へ右折、しばらくすると右手にレンガ造りの鐘楼が見えてきます。

県道沿いにある生垣の駐車場に車を停め、道路に背を向けて建つ建物の正面に通じる路地を探し、たどりついたものです。



石段を上り、門柱の間から見えてきた「田平天主堂」(瀬戸山天主堂)の正面全景です。

下記の資料の一節にもあるように建物の設計・施工は、鉄川与助氏によるもので、レンガ造の教会堂作品としては最晩期のものとされるようです。

又、ここに天主堂が建設されたのはフランス、ノルマンディ地方の貴族出身「ド・ロ神父(1840~1914年)」が私財を投じてこの一帯に土地を買い、土地の無い多くの信者を移住させたことが元となったとされ、カトリックの布教活動が多くの信者の生活向上まで取り組んでいたことを知り、感心しました。

■書籍「長崎県の歴史散歩」の一節です。
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田平天主堂(国重文)は、長崎県内をはじめ、九州北部で数多くの教会堂建築を手がけた鉄川与助の設計・施工によるもので、1917(大正6)年に竣工、翌年5月14日に献堂式が行われた。レンガ造りおよび木造のロマネスク様式、正面中央に八角形のドームを戴く鐘塔をつけた重層屋根が特徴的で、多彩なレンガ積み手法を駆使した細部のつくりも、外観の表情に彩りを加え、全体的に均整のとれた構成になっている。静寂に包まれた天主堂内部には、ステンドグラスから陽光が差し込む。天主堂のかたわらには、信者らの眠る墓地があり、司祭館をはじめ、門柱・石段・石垣など周囲の歴史的環境もよく保有されている。

天主堂のある高台一帯は、西彼杵半島の外海地方で布教にあたっていたド・ロ神父が、明治中期、私財で土地を買い求めて外海地方の信者らを移住させた土地である。その後、黒島や五島からも信者の移住があり.1888(明治21)年にはこの地に仮御堂がたてられた。信者らは天主堂の建築にもかかわった。

「長崎県の歴史散歩」長崎県高等学校教育研究会地歴公民部会歴史分科会(編)、山川出版社(出版)
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玄関付近の風景です。

建物正面の中央部分が突出て、一階玄関と、鐘塔を兼ねた美しいファサードを構成しているようです。

又、壁面には玄関や、窓のアーチを中心に様々なレンガの模様が施され、重厚さの中にもおしゃれな雰囲気が感じられます。

玄関の前のマリア像の台座には「ルルドの聖母」とあり、敷地内に造られたルルドの洞窟のシーンと関連して造られたのかも知れません。



建物正面二階部分の外観です。

この辺りが建物正面の美しさを演出するポイントとなる部分に思えます。

三つ並ぶステンドグラスの窓周辺の装飾が素敵でした。



左の写真は、建物正面三階部分の外観です。

一見、時計かとも見間違える丸い飾り模様、ドーム型屋根の濃い緑色、その上にそびえる十字架と、目線が次第に建物のてっぺんに引き上げられていくようです。

左の写真は、北の県道沿いの駐車場から見た風景で、ドーム型屋根が球体に近い形に力強く盛り上がり、四角の建物の壁面がほぼおなじデザインで造られているようです。

屋根に使われた濃い緑色の一種に「鉄色」と言うのがありますが、設計・施工を手がけた建築家「鉄川与助」にちなんだ色なのでしょうか。



門を入り、玄関前から右手前方に木造の「司祭館」がありました。

下見板貼りの外壁にペンキが塗られた洋風の古い建物ですが、今でも使われているのでしょうか。



門を入り左手に石碑や、胸像が並んでいました。

向かって左の十字架が載せられた石碑は「聖堂修復記念碑」、中央の石碑は、「トマ大木勘次郎・パウロ浜口久衛門顕彰碑」と刻まれていますが、いずれも古いものと思われます。

右の胸像は、「イグナシオ中田藤吉神父像」とあり、この後に見る「貝殻焼き場」の案内板から「田平天主堂」建設時の神父の像でした。

この地域の信徒の力を結集し、素晴らしい聖堂を完成させた中田藤吉神父への尊敬と、感謝の気持ちが込められているようです。



石段を門の前を左に進み、レンガの建物の奥に「貝殻焼き場」の史跡が残されていました。

円形に石が積み上げられたシンプルな設備ですが、案内板には燃料のマキと、貝を交互に積み重ねて焼いていたと書かれていますが、煙突をどのように取り付けたのか、気になる疑問が残りました。

■案内板より
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貝殻焼き場
 田平教会はレンガの目づめにコンクリートではなくアマカワ(石灰と赤土をまぜたもの)を用いている。
 中田神父はこのアマカワに用いる石灰を自分たちで作った。
 信者たちは各家庭で食べた貝の穀を持ち寄り更に平戸や生月島からも貝殻を集めてこの窯で焼いた。
 まず下にマキを敷きその上に貝穀を置き更にマキ貝殻と交互に置き火をつけると取りつけた煙突からモクモクと煙を吐いて燃えたという。
 その火は夜も絶えることなく交代で火の番をした。
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貝殻焼き場から一段下ると「ルルド」と案内された場所があり、そばに「ルルド落成記念碑 1990年8月15日」と刻まれた石碑がありました。

岩の洞窟に聖母マリアが立ち、少女が見上げている場面で、右端のマリア像は、玄関正面の「ルルドの聖母」です。

1858年、フランス南西部のルルドで、薪拾いをする少女が洞窟に現れた聖母マリアに出会い、泉で水を飲み、顔を洗うよう告げられ、指差された洞窟の下に泉が湧き出したのが「ルルドの泉」とされます。

その水により奇跡的に病が治ったことから広く信じられるようになったとされますが、この地域の開発を進めた「ド・ロ神父」は、1840年にフランスで生まれた人で、18才の時の出来事だったようです。

長崎旅行で訪れた数ヶ所の教会にも同様の施設があり、フランスで起きた奇蹟が、実感を持つ「ド・ロ神父」により伝えられたためだったかも知れません。



天主堂の北西に墓地が広がっていました。

十字架を載せた墓や、石柱だけの墓が入り混じっていましたが、多くの墓にカラフルな造花が供えられているのが印象的でした。

枯れた花が並ぶ墓地を思い浮かべると、造花もまんざら悪くないようです。



天主堂の北の駐車場から見た「田平天主堂」の全景です。

屋根の形状から察すると、建物中央に吹き抜けの高く長い「身廊」があり、その両側に天井が一段低い「側廊」がある構造と思われます。

道路の案内標識を見つけて訪れた教会で、ひっそりとした建物に入る気持ちになれず、外観の見学をさせて頂きましたが、再訪の機会を得てゆっくりと内部の見学をさせて頂きたいと思う教会でした。

油絵「グラスのパンジー」

2013年05月01日 | 妻の油絵

妻の油絵「グラスのパンジー」です。

カラフルなパンジーをグラスに飾って、小さなサムホール(SM)のキャンパスに描いた3月の作品です。

「私を思って下さい」、パンジーの花言葉の一つだそうです。

触ってみると柔らかいパンジーの花びらですが、まだ寒い春の風に耐え、エレガントに咲き続ける様にはどこか不思議な強さを感じます。