昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

「備中国分寺」花盛りの風景

2012年04月17日 | 山陽地方の旅
4月15日、岡山県総社市の「備中国分寺」へ行きました。

暖かい季節になり、久しぶりのお出かけです。



駐車場近くから見た「備中国分寺」の風景です。

畑に咲く菜の花の向こうに、何となく懐かしさを感じさせる五重塔が見えてきました。



桜が咲く参道の先に山門、左手に鐘楼、右手には本堂の大きな屋根が見えています。

好天の日曜日、散り始めた桜を惜しむように参拝者が続いています。



五重塔を少し西側(向かって左側)から見た風景です。

この辺りからは「備中国分寺」の主要な建物がほとんどが見える場所でした。



上段の風景を見た場所に「平山郁夫画伯取材場所」と刻まれた石碑がありました。

絵の達人でもやはり風景をよく選んで描くことを教えられます。



山門前の参道から見た五重塔です。

幾度となく訪れた「備中国分寺」ですが、この季節の美しい風景は初めてです。

満開の桜の木の下で家族連れが楽しそうにお弁当を広げていました。



山門の前にあった「備中国分寺伽藍配置略図」の案内板です。

かつての伽藍配置では下から南門、中門があったとされ、現在の山門は三番目の門だったようです。

現在の建物は、ほぼ略図に描かれている通りですが、築地塀や、付属建物の多くは無くなっているようです。



本堂の前付近から見た五重塔です。

山門をくぐった庭には、見事な枝振りの松の木が配置され、五重塔と共に寺の歴史と風格を演出しています。



山門を出て東側へ歩いた風景です。

道の先の小高い丘には桃の畑が見え、ここも満開のようです。



東側から見た風景です。

菜の花畑が広がり、すぐ先には小さな桃の畑、五重塔を囲む桜と、三つの花盛りに彩られた風景でした。



上段の風景を見た場所にも「平山郁夫画伯取材場所」と刻まれた石碑がありました。

この場所の取材で、平成三年七月に画題「国分寺 桃の花咲く頃 吉備路」の作品ができたようです。

「平山郁夫画伯取材場所」は、さらに東に進んだ辺りや、山門をくぐった付近にもあり、いつか作品にめぐり合いたいものです。


日本の滝百選、三次市作木町の「常清滝」

2010年06月02日 | 山陽地方の旅
5/29、広島県三次市作木町下作木の「常清滝[じょうせいだき]」へ行ってきました。

「日本の滝百選」のリストを見ていたら広島県で唯一選ばれていることを知り、思い立ったものです。

広島県の滝で思い浮かぶのは「三段峡」や、福山市の「龍頭の滝」ですが、落差126mでは「常清滝」が群を抜き、中国地方でも№1のようです。



県道62号から、レンガ色の建物、三次市役所作木支所の裏手に「常清滝」が見えています。

「常清滝」は、県道から東南東方向に入った谷の奥にあり、午後の陽を受けて白く光っていました。



「常清滝」付近の地図です。

三次市街地から国道54号北上、左折して県道62号へ入ると長い「便坂トンネル」があります。

県道62号を約7Km走ると左手に作木中学、三次市役所作木支所があり、その裏手の谷の奥に「常清滝」があります。



三次市役所作木支所の後方に専用の駐車場があり、横の階段を上り「常清滝」へ向います。

案内標識には「常清滝へ500m」とあり、約10分で到着します。

階段の途中に未熟な赤いサクランボがたくさん落ちていました。



階段を上り、車道に沿って進むと道が分かれ、鳥居方向に直進すると「常清滝」です。

鳥居の扁額には「権現神社」と書かれ、鳥居から先は車の侵入が止められています。

右手に進むと「高丸農園」の標識と看板があり、梨の品種名「新水・幸水・豊水」から梨園があるようです。

何の花か、道の脇に続く草に直径約1cmのツボミがたくさん見られ、もうすぐ花が楽しめそうです。



道が大きく左に曲がるとベンチや、休憩所のある広場で、その先に「常清滝」へ向う細い道が続いていました。

標識には「常清滝 0.4Km」とあります。

広場の一段上には「権現神社」があるようです。



谷川に沿った道をせせらぎの音を聞きながら歩いていきます。

心地の良い風が谷を流れ、時折聞こえてくる小鳥の声に癒されます。

しかし、「マムシ注意」の案内標識が2~3ヶ所にあり、道の先をよく注意して歩きました。



滝の音が聞こえ始め、目の前に「常清滝」の全体が見えて来ました。

陽ざしに輝く緑の間に岩の断崖がそびえ、はるか上から細く白い滝の流れが続いています。

落差126mの「常清滝」の姿を目の前にした感動は、この写真からでは無理のようです。

■滝の下付近に「常清滝」の石碑がありました。
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広島県名勝 常清滝
指定年月日 昭和35年8月25日
指定地   広島県三次市作木町下作木字天楽371-1
説明    
この滝は中生代白亜紀の中期(今から約1億年前)に噴出した
流紋岩の断崖にかかり、三段に分かれている。高さ126米
に及び古くから名瀑として知られた日光の華厳滝や熊野の那
智の滝の高さにも匹敵する。周囲の埴生は深山性の要素に
富み、トチノキ、ヤマモミジ、チドリノキ、ケグワなどの樹木か
らなるみごとな林相にかこまれた滝の姿は一段と美しい
昭和57年10月1日
広島県教育委員会
三次市教育委員会
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「常清滝」の滝つぼの様子です。

水量が少ないためか、岩が固いためか、余りに小さく浅そうな滝つぼです。



展望台から撮った「常清滝」の全体です。

「常清滝」前に上り坂があり、数十メートル上ると丸木で造られた滝の展望台です。

このブログでも紹介した岡山県真庭市の「神庭の滝」を思い出しました。

「神庭の滝」は、落差110mでこの滝よりやや低いものの、水量が多く力強い滝でした。

名のある滝にはそれぞれに素晴らしい個性があるようです。



展望台から撮った「常清滝」の上部です。

「常清滝」三段の内、上二段の部分と思われます。

駐車場にあった観光案内の看板で、「常清滝」の説明文に「瀑水は三段にわかれ、上が荒波(36m)、中を白糸(69m)、下を玉水(21m)と名付けられている。」とありました。

展望台で一眼レフを三脚に取付けて撮影している方に出会いました。

お話を聞くと「常清滝」は、雨の多いこれからの季節が見頃で、紅葉の時期より美しいと感じられているようです。



展望台から撮った「常清滝」の下部です。

水が勢いよく落ちる様を見ると、何となく「玉水」と名付けられているのが分かります。

数日前の雨で、少し水量が増え、より美しい姿が見られたものと思われます。



展望台の坂道に祠がありました。

滝や、泉のそばには神仏が祀られていることが多く、ここでも滝にまつわる信仰が続いているものと思われます。

帰りには「江の川」沿いの「川の駅 常清」に立寄りました。


因島村上水軍の海関「美可崎城跡」

2010年05月25日 | 山陽地方の旅
尾道市因島三庄町三ヶ崎の「鼻の地蔵さん」へ参拝後、地蔵鼻の山頂にある「美可崎城跡」[みかさき じょうし]へ行きました。

「美可崎城跡」をめぐった往復時間は10分弱で、村上水軍の歴史に触れることが出来るミニスポットでした。



正面の山が「美可崎城跡」で、駐車場のすぐ横に道がありました。

道の両側は、柑橘類の畑で、道の左側に荷物を運ぶモノラックのレールが続いています。

■駐車場付近にあった案内板です。
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美可崎(土岐)城
三庄湾の南を扼する標高五十六.七米の三ケ崎の先端部に位置し、海の関所として古くからあり、宝亀二年(七七一)安芸国に中衛府を設け 中部瀬戸内海を守る海関がおかれた。
 郭は最高所を中心に南から北へ二段の削平地があり、その二つを包むように南から東へ帯郭がのびている。岬の南側にある入江を「船隠し」と云う。
 城の築かれたのは、室町中期と思われ因島村上氏の将南彦四郎泰統が備後灘を行く船から 帆別餞、駄別餞などの通行税を徴収する奉行として、金山亦兵衛康時を城代としておいていた。
 城の北端にある地蔵岩は、城に関係する伝説を伝えている。
  教育委員会
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駐車場から少し進むと右手に弓削島が見え、この間の海を「弓削瀬戸」と呼ぶようです。

この美しい海も、昔ここを通行した船にとっては、「鼻の地蔵さん」の伝説のように一つ間違えば生命の危険がある緊張する海域だったものと思われます。



次第に急な坂道になり、「美可崎城跡」への道は、石灯籠の先で右に折れます。

右手の白い標識や、石灯籠に「美可崎城跡」の名が見えました。



階段を上り、頂上が見えてきました。

すぐ先に「三十八番札所 金剛福寺 因島八十八ヶ所霊場」と書かれた案内板が立っています。



頂上に上がるとすぐ左手の「金剛福寺」で、本尊は千手観世音だそうです。

四国八十八ヶ所の「金剛福寺」は、高知県南西の足摺岬にあります。

下に掲載した因島の地図を右に90度回転させ、徳島の一番札所「霊山寺」を因島大橋のたもと「大浜」に見て、足摺岬を「地蔵鼻」に見ると何となく因島が四国に見えてきました。



尾道市因島周辺の地図で、「美可崎城跡」は島の南東「地蔵鼻」にあります。

「美可崎城跡」からは北東方向に「横島」、南方向に「弓削島」などが見えます。



「金剛福寺」の前から左手に石段があり、一段高い展望台に進んで行きます。

「金剛福寺」の付近は、こじんまりした日本庭園風になって参拝者をなごませてくれます。



「美可崎城」の本丸があった場所で、中央に休憩所の建物があります。

かつては、村上水軍が海関を置き、本丸の建物から周囲の監視を続けていたものと思われます。



休憩所の右側を進むと正面に「弓削島」の北端「馬立ノ鼻」が見えます。

写真には見えませんがその左手に豆粒のような「百貫島」が浮かんでいます。

右手の柵に沿って進むと「地蔵鼻」の南岸や、西方向の景色が見え、次の写真で紹介します。



右手の断崖は、「地蔵鼻」の南岸です。

「美可崎城跡」の説明書きにある「船隠し」と呼ばれる入江は、柵の越し見える断崖の下辺りでしょうか。

断崖の先に見える大きな建物がある付近は、因島の南端「家老渡港」や、造船所のようです。

左手の島は、弓削瀬戸の南西にある「佐島」で、その対岸の「生名島」との間に建設中の「生名橋」が見えます。

「生名橋」は、弓削大橋で結ばれている「佐島」「弓削島」と、「生名島」を結ぶものですが、完成が遅れているようです。



向こうに「横島」が見える北東方向の景色です。

一段下の平地は、案内板の地形図に「二の丸」と説明されていた場所です。

小さな見張りの砦をイメージしていましたが、小規模の城の規模でした。

今は柑橘類の木が植えられ、下から続くモノラックのレールは、すぐ前の小屋付近まで続いているようです。



帰りの坂道から見えた駐車場付近の景色です。

大きな二本の桐の木に薄紫の花が美しく輝いていました。

道路わきの石灯籠は、「鼻の地蔵さん」へ下る歩道の入口です。

前回掲載の「鼻の地蔵」の伝説で、浜で切り捨てられたとされる周防の商人の娘は、この辺りを歩いて浜に連れて行かれたのでしょうか。



これで因島の記事は終了ですが、まだ訪れていないスポットもあり、いつか再訪したいと思っています。

因島三庄町「鼻の地蔵さん」と、参道に並ぶ石地蔵

2010年05月23日 | 山陽地方の旅
5/1に行った因島観光の続きです。



海岸に下る坂道の途中から大きな丸い岩「鼻の地蔵」が見えてきます。

岩に彫られたお地蔵さんに不思議な物語が伝えられていることを知り、いつか来たいと思っていました。

沖に浮かぶ島に高い三角の山が見え、とても印象的です。

方角から沼隈半島の南にある「横島」の山「王城」と思われます。



「鼻の地蔵」周辺の地図で、後で行く「美可崎城跡」も同じ駐車場から歩きます。

「鼻の地蔵」は、因島の南端から東側を数キロ北上すると半島があり、その先端です。

因島三庄町から「鼻の地蔵」の標識に従って右折し、半島の北の道をしばらく走ると道の両側に駐車場がありました。

赤い線で描いた歩道に沿って海岸に下りて行くと、徒歩10分程度で「鼻の地蔵」です。



灯篭の場所に「瀬戸内海国立公園 地蔵鼻」の看板があり「鼻の地蔵」へ下る歩道が始まっています。

向こうには薄紫の桐の花が満開でした。

今年は何故か、桐の花をよく目にしますが、平年より花が多く目立つ為でしょうか。

■石灯籠の横に地蔵鼻の案内板がありました。
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地蔵鼻の由来
 昔、美可崎の城主、金山亦兵衛は、琴の修行のため船で都へ向かう周防の高橋蔵人の娘を関所破りの罪でとらえましたが、娘の美しさと娘のひく絶妙な琴の調べにすっかり心を奪われ、島にとどまり自分につかえるよう命じたところ娘には、周防に思いを寄せる若者がいたため応じませんでした。すると康時は腹を立て娘を浜で切り捨ててしまいました。
 それから間もなく夜になると、娘のすすり泣く声とともに琴の音が聞こえはじめ、康時は夜ごと悩まされ続けました。
 そこで渚の自然石に地蔵尊を彫り娘の霊を手厚く供養したところ亡霊に悩まされなくなったということです。
 その後、その話を聞いた周防の若者が地蔵鼻で娘の後を追い海に身を沈めました。すると地蔵の目からはボロポロと涙がこぼれ落ちそれは、みるみる内に小石になって辺りに散らばったということです。
 この鼻の地蔵さんに祈願し、娘の思いが込められた小石を特ち帰ると、恋が成就すると言われて、縁結びの額いを込めて多くの若い女性が訪れています。
 その他、子授け、安産、女性の額いごとがかなえられると言われております。
 祈額がかなうと石地蔵を作ってお礼参りをする習慣があります。
 毎月旧暦の二十四日は命日とされており、地元の人々はもちろん、近隣の島々や遠く県外からの参拝者で、賑わいます。
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坂道の途中におびただしい数の小さな石仏が並んでいました。

よく見ると石仏の姿は、一体ずつ違い、色が塗られたものもあります。

案内板「地蔵鼻の由来」に書かれていた女性達が、お礼参りで奉納した石地蔵と思われます。

屋根の下に水道の蛇口と手水鉢があり、その上の二段の棚にもたくさんの石仏が奉納されてあります。

隣の石碑には、
「鼻の地蔵さん四百年祭を記念して清めの水を出しています 大切に使って下さい 平成十年八月廿八日建之」
と刻まれており、地元の方々の善意で造られたようです。



坂道を下ると前方の東方向に美しい海岸の道が続いています。

「鼻の地蔵」までの道の雰囲気は、天気にも恵まれ、実に気持の良いものでした。



坂道を下りた辺りから西方向(後方)に見える海岸です。

潮が引き、緑の海藻が付いた平らな岩が現れ、その先に小さな砂浜があります。

左手の先の海は三庄湾で、向こうの海岸には因島三庄町の家並みが続いています。

参拝の帰りには、石灯籠の辺りから海岸に下り、潮の香りを楽しみました。



海岸の道脇にも多くの石地蔵が置かれた場所がありました。

感謝の気持ちがよほど大きかったのか、1mを超える大きな石地蔵もありました。

どの地蔵を見ても素朴で、個性的な作品です。



「鼻の地蔵」は、高さ2mを超える大きな岩でした。

岩の手前に見えるお供え台の真裏に地蔵さんが彫られています。

岩の左側に黒っぽい模様が見えますが、これにも伝説があるのでしょうか。

模様を見た時、昔、雑誌などで見たソ連のゴルバチョフ書記長の額が思い浮かびました。



女性の願いをかなえてくれると言われる「鼻の地蔵」です。

すぐ前の細いコンクリートの道から撮ったので、画像が歪んでいます。

■「備後の歴史散歩」森本繁著に以下の記載がありました。
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・・地蔵尊像の左右の岩面には、つぎのような文言が刻み込まれている。
「慶長四年八月二十四日 春心道妙善禅定尼 三十一歳阿摩□奉造備後因島金山□□□松室河可造修」
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慶長四年(1599年)は、関ヶ原の戦いの前年で、村上水軍は毛利の傘下で瀬戸内海に強い勢力を誇る時代だったと思われます。

四百年以上、波しぶきや、風雨にさらされ、今日までよく残っているものだと感心します。

岩の上部に表面が剥げ落ちた段差が見られますが、これからも壊れず、永く女性の願いをかなえて欲しいものです。



「鼻の地蔵」を陸の側から見た様子です。

何と、岩を一周する歩道の東側(右側)部分が壊れ、痛々しい状態でした。

満潮にはこの岩の足元まで潮が満ちるようで、海側からの参拝は干潮の時間帯に限られます。

この日の干潮は17時頃、訪れたのが干潮2時間前の15時頃でした。

「鼻の地蔵」の正面の歩道には引き潮の小さな波が、時々かかっていましたが、早いタイミングで参拝出来たものです。

尾道港の潮位を調べて来ましたが、因島観光協会のサイトでも参拝時間帯の案内が見られます。



斜面に白く丸い岩が見られ、因島観光協会のサイトで紹介されていた不思議な岩「玉葱状風化花崗岩」のようです。

玉ねぎの皮が剥けるように表面が風化しているのでしょうか。

伝説の「鼻の地蔵」の前から見上げ、後方の山の斜面にあることで、想像が掻き立てられます。



「鼻の地蔵」を背にした、帰りの海岸の風景です。

最初、海を見下ろす高い道路から長い山の坂道を下り始めた時、どんな場所かと不安でした。

この潮の香りのする海辺の道があり、伝説の「鼻の地蔵」は期待以上のスポットでした。

白滝山の石仏を造った人々

2010年05月19日 | 山陽地方の旅
5月1日、尾道市因島の白滝山へ登った続きです。

今回は、頂上の境内で管理人さんに石仏の興味深いお話を聞くことが出来ました。

又、白滝山の伝承をよくご存じの方から見せて頂いた本※「宗教界の偉人 柏原傳六の話」を参考に、二度目の石仏拝観をまとめてみました。


※ 参考書籍「宗教界の偉人 柏原傳六の話」中島忠由著 昭和廿五年十月二十日 重井中学校発行 非売品
以下、「柏原傳六の話」と省略します。


表参道を登り、山門をくぐると目の前に多宝塔がそびえています。
(写真右下は多宝塔の先端部分です。)

左手の建物は観音堂の管理室で、多宝塔の後方には裏参道口があります。

山門近くで管理人さんにお会いし、この4面の多宝塔には白滝山の石仏を作った8人の石工たちが、各々の代表作とも言える石仏を1体ずつ彫っていると教えられました。

多宝塔の周りに色とりどりの草花が咲いています。

正月に訪れた時には葉牡丹が植えられていたのを思い出し、植替えられた季節の花に参拝者への温かい気遣いを感じました。



白滝山の頂上付近の案内地図で、現地の案内文を基に作ってみました。

図の右上に「表参道」、「山門」、その下に「多宝塔」、「裏参道」が図の下にあります。

図の左が白滝山の頂上で、「柏原伝六夫婦像」、その下に不思議な巨岩施設「日本大小神祇」があります。

前回の記事で紹介した「柏原林蔵像」「番外札所 白瀧観音堂」は、山門をくぐり、右手の石段を上がった左手にあります。



多宝塔の石仏で、尾道の石工の棟梁「太兵衛」が彫ったとされる不動明王像です。

下部には四角に囲まれた「石工太兵衛」の文字も見えます。

この迫力ある不動明王像は、四面の多宝塔の管理室側(東側)全面に彫られており、裏参道から入ると正面右手にそびえて見えます。

昔の表参道は、現在の裏参道だったそうで、参拝者に最もよく見えるこの東面が名工「太兵衛」の作品の場所となったようです。

現在の表参道がいつ頃造られたのか分かりませんが、頂上の山門から表参道を少し下った場所にある「慈母観音」には「昭和」の文字が見え、その隣の「塩神」の石碑も明治以降に作られたそうです。



多宝塔の南側に彫られている石仏で、裏参道から進むと右手に見えます。

作者や、仏像名は不明ですが、南側全面を使って彫られており、「太兵衛」に次ぐ石工の作品と考えられます。

前回の拝観では見過ごしていた多宝塔の石仏ですが、管理人さんのお話しで当時の石工達の存在感が強く浮かんできました。



多宝塔の山門側(西側)に彫られた三体の石仏で、向って右側は、上段で紹介した南側の石仏です。

石工達の息遣いが感じられる精魂が籠った作品が並んでいます。

白滝山でひたすらノミを打ち続けた3年3ヶ月、腕を上げた石工達の最後の仕事だったのでしょうか。



多宝塔の観音堂側(北側)に彫られた三体の石仏で、左手には最初に紹介した「太兵衛」の不動明王像も見えます。

多宝塔の石仏も様々な姿に彫られており、三体並ぶ左の仏像は、赤ん坊を抱いた姿にも見えます。

白滝山の独創性にあふれた、数百体の石仏を彫る仕事は、尾道の石工達にとって大きな苦労の反面、石工冥利に尽きるものだったのではないでしょうか。

この他、管理人さんからは十字架のある数体の石仏や、女性的な立て膝の石仏、それを覗き込む石仏、その横で怒っている石仏などを教えて頂き、とても楽しい拝観が出来ました。



多宝塔の南側の塀のそばに、裏参道口に向かってひっそりと建てられた石造がありました。

管理人さんのお話では、伝六のお弟子さん「伊藤五兵衛」の石造だそうです。

「伊藤五兵衛」は、地元の方ではないようですが、当時の表参道口で参拝者を迎える位置にあり、「一観教」を支えた重要なお弟子さんの一人と思われます。

書籍「柏原傳六の話」では石仏造営の場面で、伝六が「弟子の林蔵、軽右ヱ門、亀太郎(土生の人河上氏)初五郎等とはかり」とあり、中核のお弟子さんは「伊藤五兵衛」以外にも数名いたようです。



多宝塔から頂上方向へ進む石段を上がると正面中央に三体の「釈迦三尊像」が安置されています。

管理人さんの説明では基壇の石積みは、城の石垣を築く技術が使われ、ノミと金づちで、石垣のカーブを精巧に合わせるには石工の高い技術が必要だそうです。

後方のその他の石仏の基壇とは比較にならない美しい石積みで、地震にも非常に強いそうです。

書籍「柏原傳六の話」によると白滝山の観音堂は、明治4年、ふもと重井町の善興寺(曹洞宗)に合併してその奥院となったとされています。

又、この石仏も当初「大石佛三尊像」とされていたものが、合併時からは「釈迦三尊像」として釈迦、文殊、普賢を現わすものに変えられたと書かれています。

現在の石仏名は、造営当時から続いているものばかりではないようです。



向って左の普賢菩薩の台座に、振り返った姿のゾウが彫られています。

管理人さんから聞いて分かりましたが、顔、鼻、耳はゾウらしいものですが、お尻は牛、尾は馬、足は虎のようで、当時見たこともない動物を彫る石工たちの苦労がうかがわれます。

しかし、全体としては違和感のない動物の姿に見えており、石工の創作力の素晴らしさを感じます。



前回も紹介した石仏造営の指揮をとった「柏原林蔵」の石像で、石仏が完成した頃(64才)の姿と思われます。

書籍「柏原傳六の話」では「伝六は始め尾道の浄土寺山上を選んで、浄土境をつくろうと計画していた・・・柏原林蔵のすゝめによって郷土白滝山上にそれを現わすこととなり・・」と書かれ、重要な聖地の選定に伝六は、林蔵の意見を採用しています。

伝六は、文政10年(1827)石仏造営の発願し、柏原林蔵を責任者として1月から工事が着手されています。

聖地の意見採用や、石仏造営をまかせた伝六の決断には林蔵に対する大きな信頼感がうかがわれます。

ところが翌文政11年(1828)3月、広島藩の取り調べを受けた伝六が48才で他界する大事件がありましたが、その後も石仏造営は続けられ、文政13年(1830)3月、遂に完成したそうです。

林蔵は、教祖伝六の死という絶望的な悲しみや、様々な困難に遭遇したと思われますが、完成までの3年3ヶ月、一度も山を下りず石仏造営に打ち込んだそうです。

伝六の死に耐え、伝六が描いた浄土の世界が白滝山に完成した時、造営に関わった林蔵をはじめとする人々の感慨は、いったいどんなものだったのでしょうか。



頂上に近い場所に立つ伝六夫婦像で、右に空席があります。

管理人さんのお話では空席には後継者の石像を予定していたと考えられているそうです。

又、伝六は、広島に数か月拘束され、釈放された直後に亡くなったそうで、毒殺のうわさはこの状況からささやかれたものと思われます。

書籍「柏原傳六の話」によれば伝六の家は、農業の他、木綿や紫紺等の問屋を営む裕福な家だったようです。

子供が出来ない両親は西国三十三所観音巡礼に行き、授かった子が生まれながらにして額に白毫星を持つ伝六だったそうです。

(このことから考えると、代々秘かに伝えられる隠れキリシタンとは違うようです。)

柏原家の遠祖は、武蔵国入間郡の武士で、鎌倉時代に西国に移り、戦国時代は村上水軍の一翼を担った一族のようです。

その後、伝六が悟りを開いた様子は、2010年01月29日掲載の<江戸末期 因島の宗教家「一観」の書>をご覧下さい。



頂上の展望台の東側にある「日本大小神祇」です。

私は、てっきり古代祭祀の施設かと思っていました。

管理人さんの説明では儒・仏・神・基の四宗教の統合体としたのがこの施設で、一観(伝六)さんはこれを象徴として拝んでいたそうです。

江戸末期、信者が続々と増えていた一観の語る「一観教」の教えとはどんなものだったのでしょうか。

因島「白滝山」参道3 八栗寺・くぐり岩コース

2010年05月16日 | 山陽地方の旅
前回に続いて尾道市因島「白滝山」の参道の記録です。

参道は、「フラワーセンター」付近から頂上まで約30分のコースですが、帰りは途中の区間にある別コースを歩いてみました。



前回も掲載した「白滝山」参道の地図です。

今回は、頂上近くの地図⑪の地点から⑩「八栗寺」、⑨「くぐり岩」を経由して⑦「六地蔵」近くの合流地点までのコースです。

地図では⑪の地点から上方向の「フラワーライン駐車場」へ下る分岐が、八栗寺・くぐり岩コースの分岐より山頂側になっていますが、逆のようです。

「大日如来」を通るコースと比較して急な坂道の部分が多いようでした。

途中、⑩「八栗寺」の近くに「奥の院」がありますが、気が付かず通り過ぎてしまいました。



頂上の山門を下り、なだらかな尾根の道を下っていると、左手に「八栗寺」へ下る道が分岐しています。

標識には左に曲がると「参道」、直進は「フラワーセンター」と書かれています。

「八栗寺」は、因島八十八ヶ所霊場の一つです。

白滝山頂上の観音堂前で、係の方に因島八十八ヶ所霊場の由来を教えて頂きました。



白滝山の頂上の「伝六像」の後方で、背を向けて立つ「弘法大師像」です。

係の方のお話では、因島に八十八ヶ所霊場(明治末期)をつくる最初にこの弘法大師の石像を建立し、大師に霊場を開くお許しを祈った後、札所の整備が進められたそうです。

「弘法大師像」が「伝六像」に背を向けて立っている理由は、八十八か所の四国に向いているためと聞きました。

2010年01月20日掲載の「白滝山頂上の石仏群と柏原伝六」(8番目の写真)で、「伝六像」の隣が空席であることと、「弘法大師像」が背を向けて立つことが謎と書きましたが、一つ解けたようです。



白滝山の頂上に因島八十八ヶ所霊場、番外札所「白瀧観音寺」があります。

観音堂から、石仏が並ぶ一段上のエリアに上がると、すぐの左隅にあります。

第一番札所は、因島大浜町の大浜崎灯台近くにある「霊山寺」ですが、「弘法大師像」に参拝後、すぐそばの「白瀧観音寺」への参拝を考えると、ゼロ番札所とも言える寺だそうです。

写真左の石像は、白滝山の石仏造りを指揮した「柏原林蔵像」で、「白瀧観音寺」はその背後に建てられています。

「柏原伝六像」の背後に南向きで建つ「弘法大師像」と類似した位置関係です。

「弘法大師像」は四国のある南に向くと教えて頂きましたが、北向きの石仏群と逆の南向きで、宗教的な摩擦を避ける配慮もあったのではないでしょうか。



道を下り始めてしばらくすると、眼下に「八栗寺」の屋根が見え、ふもとの景色が開けてきます。

下に見える広場は、「フラワーセンター」です。

5月1日、イベントの音楽が聞こえて来ました。



ふもとの「フラワーセンター」の入場口前から「白滝山」を見上げた写真です。

向って左の山腹に岩の上に建つ「八栗寺」が見え、山際中央には観音堂前の展望台の屋根、右上には鐘楼が見えます。

山の斜面には、たくさんの巨岩がそびえ、壮観な山の景色です。

昔から岩の断崖を「タキ」と呼ぶようで、「白滝山」の名称にある「滝」は、この巨岩から名付けられたのかも知れません。

昨年10月、愛媛県の「四国カルスト」へ行った帰り、愛媛県久万高原町の「上黒岩岩陰遺跡資料館」へ立ち寄った時、案内係の方が、遺跡のある高い岩の断崖を「タキ」と呼ばれていたのを思い出しました。

久万高原町の景勝「御三戸嶽[みみとだけ]」も岩の断崖で、「タキ」は、ごく自然に付けられた名称にも思えます。



急な参道が、次第に緩やかになり、因島八十八ヶ所霊場八十五番「八栗寺」へ着きました。

寺とは言え、小さなお堂で、周囲には三つの石の祠がありました。

因島をめぐると、このような大きさのお堂が各所に見られ、地元の方々のお接待もあるようです。

岩場の上に建つことから周囲の景色を遮るものがなく、絶景が楽しめます。



「八栗寺」のお堂の奥に安置されている「聖観世音菩薩」の石像です。

ヨーロッパの王様のような顔にも見えます。

日本酒が2本供えられ、どうも因島の観音様はお酒好きのようです。

■上の横の壁に歌が書かれた額が掛けてありました。
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 煩悩を胸の智火にて
    八栗をば
 修行者ならで
    誰か知るべき
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大日如来コースから見た「八栗寺」です。

後方の山の斜面に巨岩がそそり立ち、帰りには必ず立寄りたいと思った魅力的な景色です。

地図では巨岩の辺りが「奥の院」のある場所のようです。



「八栗寺」を過ぎ、急な坂道を下りていくと道が、右に折れて、「くぐり岩」がありました。

道の左に突き出た岩と、右手の斜面に平らな大岩が載ってトンネルになっているようです。

「くぐり岩」は、どう見ても人工的なトンネルのようで、いつの時代の物でしょうか。



下から見た「くぐり岩」です。

手摺のある石段を下り、大岩をくぐり抜けます。

トンネルをくぐる時、山側の上を見ると、大岩の下に不動明王と思われる石仏が安置されていました。



「くぐり岩」を抜けて進んで行くと参道は、直進する下山道と、右手からの「大日如来コース」と合流します。

白滝山の参道は、眼下に広がる景色や、そびえる巨岩、石仏などが楽しめ、思い出深い山歩きになりました。

ふもとからの参拝ルートは、歩きやすさや、景観を楽しむ点でもやはり「大日如来コース」を登り、「八栗寺コース」を下るのがお奨めです。

次回は、白滝山に関係する方々から教えて頂いたことを交えて、頂上の石仏観賞を掲載したいと思っています。

因島「白滝山」参道2、大日如来から頂上まで

2010年05月12日 | 山陽地方の旅
因島の白滝山の参道を登った記録の続きです。

前回は、「①フラワーセンター」前からスタート、「⑦六地蔵」まででした。

今回は、中腹の石仏群「⑧大日如来」前を通り、⑪頂上付近までの記録です。



山頂に近い参道から見下ろした「⑥山門」と、「⑦六地蔵」です。

五月のうららかな日、新緑に囲まれた参道をゆっくりと登って行きました。



前回にも掲載した白滝山頂上の観音堂、石仏群までの参道地図です。

今回は、⑦「六地蔵」から⑧大日如来を通り、⑪付近までのコースです。

帰りは、⑪の分岐から⑩八栗寺や、⑨くぐり岩を通るコースでしたが、次回の掲載とします。

又、⑪から山頂までは、2010年01月13日に<しまなみ海道 因島「白滝山」から見た絶景>で掲載しています。



「六地蔵」を過ぎて少し歩くと、向こうに道案内の標識が見え、道が分岐しています。

分岐した参道は、頂上付近で再び合流します。



分岐点にあった道案内の標識です。

左に分岐する「参道」の方向は、「大日如来」を通るコース、直進する「遊歩道」の方向は、因島八十八ヶ所めぐりの85番札所「八栗寺」を通るコースです。



参道を登ると、目の前に突如、巨岩が現れて一段高い岩の上にそびえる「大日如来像」が見えて来ました。

周囲の巨岩の上にも約二十体の石仏が並んでいます。

石仏は、一体づつ特徴があり、一休みしながら拝観しました。



向って左側の石仏です。

赤ちゃんを高く抱き上げ、あやしている様にも見えます。

隣の石仏は、一見「おばあさん」にも見えます。

一つ一つの石仏にはそれぞれに意味があると思われますが、残念ながら伝わっていないようです。



大日如来の下付近にあった石仏です。

右の石仏は、経典の巻物を読んでいるのでしょうか。

左の石仏は、帽子のようなものをかぶり、右手に袋のような物を持っています。

とにかく、白滝山には他では見られないユニークな石仏が並んでいます。



八栗寺のコースから見た「大日如来像」です。

左の島は「小細島」、右に続く島は「細島」です。

向こうには三原市の街が見えています。

仏教では「如来」は、「明王」「菩薩」を超える最高ランクの仏様で、その中でも「大日如来」は宇宙を司る最高の「如来」だそうです。

眼下に広がる素晴らしい瀬戸内海の景色を宇宙に見たて、宇宙を見渡す「大日如来」を表現しようとしたのでしょうか。



「大日如来」を少し登った辺りから頂上の「観音堂前」の展望台、中腹の「八栗寺」を見上げた景色です。

山の急斜面の所々には霊山にふさわしい巨岩がそびえています。



「白滝山」頂上に近い尾根まで登って見下ろした景色です。

向こうに見える島は三原市「佐木島」で、中央の半島の左斜面には除虫菊の畑が広がっているようです。

この参道のコースは、景色をさえぎる高い木立も少なく、北西方向を中心とした景色は、本当に素晴らしいものでした。



山頂に近い尾根の道を歩いて行くと、正面に「観音堂」の屋根が見えて来ます。

向って左に見える緑の幟の辺りには1月に登って来た道があり、これが短時間で登れるコースです。

向って右の奥に見える緑の幟の辺りには「八栗寺のコース」へ下る道が始まっていました。

次回は、帰りに通った「八栗寺のコース」の様子を掲載させて頂きます。

因島「白滝山」参道、百華園から六地蔵まで

2010年05月05日 | 山陽地方の旅
5月1日、尾道市因島の白滝山へ再訪しました。

前回は、今年1月2日に山頂に近い駐車場から登りましたが、今回は麓からの参道をゆっくりと歩くことにしました。

前回の因島観光の数回にわたるブログ記事は、幸いにも因島観光協会様の観光案内ページにリンクを貼って頂き、毎日のようにリンクからの来訪者もあり、感謝しています。

更に、白滝山の石仏造営当時の伝承を知る方から、記事へのご指摘を頂き、更に貴重な歴史資料を見せて頂く機会を得て、因島への親しみと、白滝山への興味を一層強くしました。

又、その方から除虫菊の咲く季節の再訪を勧められ、この時期を心待ちにしていたものです。



「百華園」から重井東港を見下ろした景色です。

今回、「白滝山」への道は、フラワーセンター横の道から裏手の「百華園」を通り抜け、白滝山の参道に合流するコースを歩きました。

「百華園」は、白滝山のふもと近くの斜面に造られた公園(?)で、桜で親しまれているようです。

晴天に恵まれ、見晴らしの良い「百華園」からの景色は、海の色、山の緑、花が美しく輝いていました。



この地図は、ふもとから白滝山頂上の観音堂、五百羅漢への参道地図で、前回、観音堂で頂いた参道地図をアレンジしたものです。

今回は地図下部の①「フラワーセンター」前の駐車場から出発、⑦「六地蔵」までを記載し、残りは次回とします。

「フラワーセンター」の右上に見える③「表参道駐車場」には「山頂まで520m 25分」の標識があり、「フラワーセンター」からのコースは山頂まで約35分でしょうか。



「フラワーセンター」の後方斜面にある「百華園」の入口です。

入口付近の黄色の実は八朔でしょうか、白滝山を背景に、赤い屋根のペンション「白滝山荘」が映えて見えます。

「白滝山荘」は、米国人建築家ヴォーリズが昭和初期に建てた洋館だそうです。

ヴォーリズの名は、滋賀県近江八幡市の旅行の下調べで知り、日本に帰化されて多方面にすばらしい活躍をされた方です。

下山の途中、前を通りましたが、赤い柱に白い壁が美しく映え、花の咲く玄関へのアプローチなどを見るとペンションの方の暖かい気持ちが伝わってくるようです。

桜が終わった新緑の園内の坂道を山頂を目指して登って行きました。



帰りに立ち寄った表参道駐車場(地図③)です。

白滝山荘の横の道を進むと、車道はここで終わり、白滝山の参道が始まります。

少し手前にも駐車場や、桜並木がありました。

この道を少し進むと「百華園」からの道と合流(地図④)します。



参道を進むと右手に広場があり、柏原伝六の墓が立っていました。

1月にもこのブログで掲載しましたが、柏原伝六は、白滝山で新宗教「一観教」を開いた人です。

当時、山頂に造られた沢山の石仏に、各地から続々と信者が押し寄せたとされ、参道もかなり賑わったものと思われます。

■墓所を過ぎた辺りに「白瀧山」の案内板がありました。
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瀬戸内海国立公園 白瀧山
(由来)
白瀧山は、重井町善興寺の奥院で、古くは瀧山と称し、古代からの霊山として項上の岩揚を盤境と伝えています。
文政13年(1830年)柏原伝六が白瀧山 上の観音堂にこもり、儒教、仏教、神道の三大宗教に当時禁制のキリスト教を加え新宗教「一観教」を開き多くの弟子や信者と伴に約700体の石仏を造りました。
この石仏は石像美術としてもすぐれ中には弟子や信者、石工の名が刻まれ、尾道の名工太兵衛の名も見えます。
(現状)
白瀧山は標高227mで中腹から山頂にかけて、像高50㎝~2mの奇態万状の石造五百羅漢像、頂上には大石仏、三尊像(釈加如来、文殊菩薩、普賢菩薩)一観(柏原伝六「一観妻像等約700体が松林と岩石にかこまれ瀬戸内海の自然美の中にとけこんでいます。
 白瀧の山に登れば 眼路広し
 島あれば海 海あれば島
   寄贈 因島ライオンズクラブ
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伝六の墓の入口に石塔が並んでいます。

左の大きな墓の前に「歴代 堂守の墓」と案内されていました。

頂上の石仏や、この墓所を大切に守ってきた人達が眠る墓のようです。

一番左手に見える石仏には「七〇〇体の内 第一号観音」と書かれた案内板が立掛けられており、白滝山の石仏約700体の内の初めて出会う石仏のようです。



梅の木の横に立つ柏原伝六の墓です。

もの静かで、おだやかな表情でしたが、不思議な存在感がありました。

白滝山頂上の観音堂前で、案内の方から聞いた話では伝六さんは、藩の取り調べを終えて帰って来た直後に亡くなったそうです。

■墓の横に「伝六の一代記」の案内板がありました。
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五百羅漢創建者伝六の一代記
1 1780年重井町川口(旧宅小段)で生まれた。(約200年前)
2 1805年、25才の時、母から観音様の申し子であっと 聞かされて以来、17年間熱心な仏道修行者になった。
3 1822年42才霜月6日の暁に悟を開いた。
4 同年よリ48才までの6ヶ年間瀬戸内海の島々広島県東部 岡山 兵庫 烏取3県及び京都府下の一部にまで伝道し 信者はl万人を越えた。
5 1827年から石仏造りに着手したが工事の中途参拝者はこの山に蟻集した これを聞いた広島藩庁は百姓一揆を起すのではないかと心配して伝六を厳しく取調べた伝六は終始十分な申し開きができたようたが藩は彼に毒を飲ませて帰したとか伝六自信が毒死したとかその死因は定かでない。
6 1828年3月15落命 その年の9月下旬ここに埋葬される。
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急な参道が開け、広い石段の道の上に「仁王門」が見えて来ます。

門の入口の向こうには小さく「六地蔵」が見えています。



珍しく石で造られた仁王像です。

左右の仁王像の写真を結合しました。

手に玉を持ち、腹が出てずんぐりした体形に、他人とは思えない親しみを感じます。

■門の脇に「仁王門」の案内板がありました。
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仁王門
1834年(天保5年)重井八幡神社に守護神として安置されましたが、明治の初めの廃仏毀釈の際、この山腹に移されました。
当時は青天井でしたが、明治42年に門が建てられました。
筋骨たくましく眼は光り、鼻は太く、口はかみしめて力あふれ、よき守り役です。
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仁王門を抜けると両脇に六地蔵が立っています。

ここにあった案内標識では、「駐車場200m、頂上500m」とあり、下の参道駐車場にあった標識「山頂へ520m」と距離が違っているようです。

■すぐ横に「六地蔵」の案内板がありました。
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六地蔵
1.天道(幸福一杯であっても悩みつきない人を励ましたい)
2.人道(死苦から逃れられない人生の因縁を諦めさせたい)
3.しゅら道(家庭苦、社会苦、戦災に悩む人を助けたい)
4.畜生道(憎しみうにみを一杯もった人を導きたい)
5.がき道(飢えきった人を物心二方面から救いたい)
6.地獄道(つらい責苦のある人の聞き手となって慰めたい)
これら六道に悩む人を早く救いたいと、中腹に下りて人待ちしています。
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左手に立つ地蔵さんです。

一体ずつ表情が違いますが、いずれも丸顔でやさしそうな表情です。

頭と胸に赤い布が付けられたものの、色が落ちて白くなっているようです。



六地蔵の付近から山頂を仰ぐと、左上に観音堂前の展望台の屋根が見えます。

山の斜面には巨岩が散在し、案内板の説明にあった旧名「瀧山」や、古代からの霊山を強く感じる景色が見えはじめて来ました。

倉敷で見た桃と、桜の素敵な風景

2010年04月12日 | 山陽地方の旅
4月3日、倉敷周辺の花見に行きました。



大原美術館前の満開の桜です。

妻が描く倉敷川の風景画のため、美観地区を訪れました。



すぐ下の川面をのぞいていると、錦鯉がゆっくりと集まってきました。

天気にも恵まれ、美しく咲いた桜に、とても気持ちの良い川辺の散策です。



旧大原邸と、美術館を結ぶ「今橋」の桜のある風景です。

龍の絵が彫られているこの石橋の上には次々と桜を楽しむ人が渡っていました。



「今橋」付近から倉敷川の美観地区入口方向を見た風景です。

川面に映る満開の桜が、風景を華やかにしてくれます。

川の向こうの小さな小屋は、川に住む白鳥のためのものと思われます。



美観地区の入口にある「倉敷物語館」に入るとお釈迦様の誕生を祝う「花まつり」の飾りがありました。

「花まつり」と染め抜かれた桃色の幟に誘われて入場し、案内の人に勧められて釈迦像に甘茶をかけて参拝しました。

「花まつり」は、4月8日で、5日早いイベントですが、地元の人達が配る甘茶パックを頂いて帰りました。



倉敷市玉島八島の桃畑の風景です。

新幹線の新倉敷駅の近く、山陽自動車道の北側の小高い山を切り開き、桃や、ブドウ畑が広がっています。

この季節、車や、新幹線からこの辺りの景色を眺め、いつか来たいと思っていました。



桃の花がほぼ満開で、桜の花とほぼ同じ時期となっていました。

この一帯の桃の木は、ゆったりとした間隔で植えられ、うららかな日和と合わせてのどかさを感じさせてくれます。



やっと低い枝を見つけて接写した桃の花です。

まっすぐに伸びた枝に桃花が並び、花の中心に可憐な赤みがさしています。

満開の桃の下で飲む花見の甘酒もおいしいでしょうね。



池のそばの桃畑に菜の花が咲いていました。

失礼して畑に入り、撮影させて頂きました。

とてものどかな景色に心が和みます。



お昼頃、倉敷市玉島の曹洞宗「補陀落山円通寺」の裏山にある「円通寺公園」に行きました。

この石像は、「円通寺公園」の山頂にある良寛像です。

大きな岩の台座で花に囲まれて立つ良寛さんは、若い頃に出家してこの寺で20年間修行したそうです。



桜の花の下で食事をする人たちで賑わう「円通寺公園」の山頂付近の様子です。

広い公園に桜の木も多く、芝生の上でゆったりと花見が出来るようです。



「円通寺公園」の頂上付近から見下ろした景色です。

ここから倉敷市南西部の町や、高梁川の河口一帯が見渡せます。

この景色を眺めながら私たちも頂上付近のベンチで、おいしくおにぎりを食べました。

尾道市「鳴滝城山」の散策

2010年03月18日 | 山陽地方の旅
3月3日に行った尾道市吉和町の鳴滝山周辺の散策の続きです。

鳴滝山展望台を下り、鳴滝城山を目指しました。



鳴滝山から東に見える「鳴滝城山」です。

戦国時代、頂上に城郭がそびた鳴滝城山は勇壮なものだったと想像されます。

向って右側(南)の斜面は岩だらけで、その向こうの麓には尾道市の街並みが広がっています。

山頂への道は、向かって左の斜面にありました。

■熊野神社にあった「鳴滝山城址」の案内板です。
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鳴滝山城址
元享年中(1321-1323)に宮地次政が築城、広義、広俊、恒躬と4代にわたって受け継がれたが、。100年後の応永30年(1423)美ノ郷に大平山城を構える。木頃経兼の奇襲にあい、恒躬は久山田の守武谷で戦死し、夫人鈴御前(木ノ庄木梨杉原氏の娘)も栗原門田まで逃れたが殺され、その子明光は幸わい落ちのび、因島の村上氏を頼って城の奪回を図るが事遂に成らず、三原市の佛通寺に入って?嶽と号した。しかし、群[?]山豪族の拠点となった山城の離合集散は激しく、まもなく宮地一族は鳴滝山に住みついた。
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「鳴滝城山」付近の地図です。

鳴滝山から車道を下り、鳥居のマークのある熊野神社の下を過ぎると登り口があり、赤い線で描いた細い山道を登って行きます。

①~⑤は、下に掲載する写真の説明で示す場所です。



上の地図①の場所で、車道から分かれる「鳴滝城山」への登り口です。

ここから山頂までゆっくりと歩いて10分程度です。



上の地図②の場所から山頂④を見上げた景色です。

「鳴滝城山」の頂上に近い西側の斜面には畑が広がっています。

畑のほとりの山道は日当たりも良く、黄色いタンホポの花や、赤・青の小さな雑草の花が元気に咲いていました。



上の地図③の場所から来た道を振りかえった景色です。

山の頂上に鳴滝山展望台が見えています。



上の地図③の場所から山頂を見上げた景色です。

山頂まであと少しです。

ここから急な上り坂になっています。



「鳴滝城山」の頂上に到着です。

南北に細長い山頂の北部分の景色です。

東西の幅は10m程度、南北に30~40mの長さもあったでしょうか、意外に狭い感じでした。



「鳴滝城山」の頂上南部分に円形の一段高くなった場所がありました。

この裏の南から見ると1m近い段差がありましたが、神様を祀る場所にも思えます。

山頂の所々に黒く焼け焦げた木の株があり、山火事になった痕跡です。

以前、尾道バイパスから、この辺りの山が丸焼けになったのを見付けて驚いたことを思い出しました。

火事は2002年12月だったようで、付近の家の人達は、さぞかし恐い思いをされたと思われます。

昔、鳴滝城が落城した時にも同じような無残な姿になったのでしょうか。



「鳴滝城山」から東方向の景色です。

眼下に尾道の街が広がり、尾道水道が東に伸びています。



向って左に岩子島、右に佐木島などが見えています。

国道2号は、このあたりから海岸沿いを走ります。



山頂から東北方向に10m程度下った斜面から細長く平坦な部分が突出していました。
(上の地図⑤の辺り)

平坦な部分の幅や、長さは頂上よりやや狭いようですが、ここにも郭が築かれていたものと思われます。



上の地図③の辺りの道の北側の石垣に囲まれた一段高い場所があり、基石だけ残った墓地の跡がありました。

山頂から20m程度下った辺りで、かってはここにも郭があったのでしょうか。

この付近を歩くと廃屋があり、山城が見捨てられた時代と同様、山の不便な家が顧みられなくなっているようです。


これで鳴滝山周辺の散策は終わりです。

因島の村上水軍の菩提寺「金蓮寺」で知った宮地氏から「鳴滝城」に興味を持ち、この地を訪れました。

鳴滝山展望台や、鳴滝城山から見る景色は、期待をはるかに超える素晴らしいものでした。

尾道市鳴滝山の散策 ②瀬戸内海の絶景

2010年03月14日 | 山陽地方の旅

これから目指す鳴滝山展望台辺りを鳴滝城山から眺めた景色です。

頂上左手に白い展望台の建物が見え、枯草の部分はパラグライダーのフライト場所になっていました。

写真に向って左下にU字カーブの先端が見えています。
(下段の地図では下部中央の道が大きく曲った辺りです)



熊野神社から鳴滝山展望台へ至る道順を記した地図です。

神社から山道を歩き、八注池駐車場の前で車道と合流します。

八注池[やつがいけ]から鳴滝山展望台への遊歩道が始まります。



熊野神社の横から裏手付近の道が珍しい階段になっていました。

階段の中央にコンクリートの細い斜面が作られ、初めて見るものです。

農作業などで使われる一輪車を通すためでしょうか???


山道の所々で、荒々しく土を掘った跡が見られ、イノシシの仕業と思われます。

山道で、熊に遭遇した場合の対応を本で読んだことを思い出しましたが、イノシシへの対応は完全に忘れていました。



車道に合流してすぐに車道の終点となる、八注池[やつがいけ]です。

葉の無い木が目立つ地味な山に囲まれ、深緑色の八注池は美しく輝いています。

案内板の前の石碑に「紅葉のひろば 鳴滝山植樹三十周年記念 平成十九年十一月二十二日」と刻まれていました。

この遊歩道に沿った森一帯には長い期間植樹が続けられているようです。

左の柵の入口を進むと池の土手で、土手の下に20台程度の駐車場があります。



「瀬戸内海国立公園 鳴滝山公園案内図」と書かれた案内板がありました。

図に向って右下の「現在地」から公園を一周する遊歩道が整備されているようです。

美しい景色を早く見ようと池の土手を通る時計回りのコースを進みました。

上段の地図に鳴滝山の三角点がありますが、この案内図には見られなく、場所が分かりませんでした。



「有名画家 写生地 小林和作画伯」と書かれた案内板がありました。

二本足の案内板の上部にある長方形の窓をのぞくと、小林和作画伯が描いた瀬戸内海の風景の構図が見えるようです。

元々、二本足の案内板には小林和作画伯の絵があったと思われますが、消えて見えなくなっていました。

小林和作画伯は、山口県の生まれで、46才に尾道の風景に魅せられて移住し、他界するまでの40年間、尾道の風景を愛して描き続けた洋画家だそうです。



長方形の窓から見える範囲と思われる写真です。(もう少し右手かも知れません)

薄曇りの午前10時頃、南南東方向の景色で、逆光の暗い写真になってしまいました。

向こうの長い橋は、「因島大橋」で、向って左の島が「向島」、右手の島が「因島」です。

中央の島は「岩子島」で、左の「向島」との間に赤い橋「向島大橋」が見えています。

この印象的な「因島大橋」が開通したのは小林和作画伯が86才で他界された1974年から9年後のことで、残念ながら絵にはありません。

赤い「向島大橋」は画伯他界の6年前(1968年)の開通で、絵にあるかも知れません。



急な坂道を登りきると「鳴滝山展望台」の白い建物が見えてきました。

左手の柵の下には瀬戸内海の美しい絶景が広がり、ここから見える島々を描いた説明板も見えます。

展望台の周囲は広場の入口に石碑があり、「パラグライダー(フライト広場)・・・」と刻まれていました。

柵のクサリのすぐ先は急斜面で、クサリを外してパラグライダーで飛び出して行くことを想像するだけでも身震いがします。



展望台から眼下に広がる景色を写真4枚に撮り、その左手2枚をつないだ写真です。

左手前に鳴滝城山がそびえ、その麓に尾道の町並み、対岸に向島の海岸が伸びています。

写真に向って右端に岩子島の東端が見え、向島の向こうには加島、百島、横島、田島が見えています。

尾道水道の風景は、千光寺公園から左右に見渡しますが、鳴滝山から見る尾道水道には、一直線に伸びる構図で、雄大さが加わっています。



上段の写真の右に続く景色ですが、右端は南南西の方向で、西の三原市方向は見えていません。

眼下の尾道市吉和町町並みの対岸に岩子島の全景が見え、その沖に大きな因島があります。

右端の手前に細島、そのすぐ沖に小細島、右端の沖には生口島、その向こうには大三島の島影が見えています。

瀬戸内海のほぼ中央に位置するこの海域は、島が最も多いエリアです。



展望台を過ぎ、遊歩道の南端辺りから西を見ると鉢ヶ峰がそびえています。

鉢ヶ峰の沖には小さな「宿祢島」が浮び、その沖に「小佐木島」「佐木島」「生口島」などが見えます。

「宿祢島」は、新藤兼人監督の名を世界的にした映画「裸の島」のロケ地となった無人島です。

ここから鳴滝山の遊歩道を外れ、鉢ヶ峰へ至る縦走ルートの案内板がありました。

鉢ヶ峰の中腹に見える寺は、麓の観音寺の奥の院で、この山の開祖は「万慶上人」と言われています。

「万慶上人」は、このブログ01月17日掲載の<白滝山「観音堂」と、開山の由来>で観音堂の山門にあった「白滝山霊異記」の説明文で、インドから来日して白滝山を開山した「法道上人」の弟子とされています。

鉢ヶ峰の「万慶上人」は、沖の細島に住んだ「白道上人」と共に、この地で永く布教を続けたようです。



遊歩道が北の方向に変わると下り坂になり、道の両脇に植樹がされていました。

植えられた木には小学校の児童の名が書かれた札が2名づつ付けられています。

道の周辺の山にも沢山の植樹が見られ、この地域の人々が鳴滝山で熱心な活動をされていることが分かります。

鳴滝山の次は、車道を下り、鳴滝城山の頂上を目指しました。

鳴滝山近くでみつけた早咲きの桜

2010年03月10日 | 山陽地方の旅
鳴滝山付近の散策の続きです。

順序は違いますが、鳴滝山からの帰り道で桜の開花を見つけ、一足早い花見の話です。


鳴滝山から国道2号バイパスへ下る途中、道路脇に咲き始めたばかりの桜を見つけました。

大きく膨らんだツボミが垂れ下り、ほんの少し開花を始めているようです。

写真を撮らせてもらっていると、横のお家から奥さんが出て来られ、この桜は沖縄の「緋寒桜」[ヒカンザクラ]と教えて頂きました。

沖縄の「緋寒桜」は、1月下旬頃に咲き始めるようですが、まだ見たことがありません。



これも「緋寒桜」の横に並んでいた桜です。

同じように開花を始めたばかりで、ソメイヨシノと比べて花が小さいものの、美しいピンク色が特徴です。

品種名は、分かりませんがこの桜も苗木を買ってきて植えられたそうです。

向こうに見える岩だらけの山は、先程まで歩いていた「鳴滝城山」でしょうか。



頂いた桜の小枝の一部です。(緋寒桜ではありません)

帰った時はしおれていましたが、水に差すとすぐに元気に開花しました。

このお家の奥さんは、実に気前よく桜の枝を約40センチ切って下さいました。
(ご親切にありがとうございました)

あれから約一週間、小枝の花も満開で、一足早い花見酒を楽しんでいます。

尾道市鳴滝山の散策 ①熊野神社

2010年03月07日 | 山陽地方の旅
3月はじめ、尾道市吉和町の「鳴滝山」一帯を散策しました。

ここには「鳴滝山展望台」や、「鳴滝城」があります。

02月14日掲載の 因島村上水軍の菩提寺「金蓮寺」の記事で、「宮地妙光」と、子息大炊助資弘が願主となって金蓮寺を建立したことを書いています。

「宮地妙光」が、ここ「鳴滝城」の城主の嫡男で、「鳴滝城」が落城して因島に逃れ、再興した物語があることを知り、鳴滝山周辺の散策を思いついたものです。



「鳴滝山」の展望台から尾道水道を見下ろした景色です。

時々晴れの日で、少し霞んでいましたが絶景を楽しむことができました。

左手にそびえる山は「鳴滝城山」(山の名称は国土地理院の地図より)です。

「鳴滝城山」からもすばらしい眺めでした。

この一帯から東西には福山市から三原市、沖には四国の山並みまで見渡せ、瀬戸内海の眺望の中では最高ランクの展望台だと思います。



国道2号線から「鳴滝山」方面への地図です。

「鳴滝山」への道は、2号線パイパス吉和インターから北の側道を少し西に進み、北に進んで行きます。

地図の赤い矢印に沿って進むと「鳴滝山」や「鳴滝城跡」があります。



「鳴滝山」一帯の地図です。

当日、歩いた範囲を地図に記しています。

歩いた順は、9:26「P1」駐車→9:32「熊野神社」参拝→山道を北へ→9:50「P2」駐車場付近で車道に合流→10:13「鳴滝山展望台」→10:50「P2」→車道を下る→11:10「鳴滝城跡」登り口→11:25「鳴滝城跡」頂上11:45→11:55「P1」



道路脇の案内標識に従って「鳴滝山」へ向って行くと右手に「瀬戸内海国立公園 鳴滝山登山道 駐車場」と書かれた看板が見えてきます。(上の地図「P1」)

その下に「熊野神社」と墨で書かれた案内板も見えます。



右手は駐車場で、中央の上り坂の道が「熊野神社」を経由して「鳴滝山」へ進む道です。

左手の道は、「鳴滝山」へ進む車道ですが、左手の山には「鳴滝城跡」があり、登り口はすぐ先です。



坂道を歩いて行くと「熊野神社」がありました。

先は神様に参拝、ご挨拶です。

短い石段を登り切った所にイノシシ対策と思われる柵があり、ジクザグに進むと境内に入ります。

他にも境内に入る道がありましたが、柵で完全にふさがれていました。


■拝殿に登る石段の脇に「熊野神社」の案内板がありました。
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熊野神社
応永9年(1402)鳴滝山城の守神として鎮座されたと伝えられ、熊野三社神のほか、伊邪那美命が祀られている。
また同社に、僧覚峰が筑紫から紀州大峰山に神命をおび赴く途次、この沖合で船が動かなくなり、神のお告げをうけ、山上に勧請したといわれている。
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二つ目の石段を登ると「熊野神社」の拝殿がありました。

ここで拝礼です。



拝殿の壁に「熊野神社・西光寺旧蹟」の修造寄付者芳名が掲示されていました。

平成13年11月竣工とされ、神仏を合わせて建物を改修されたものと思われます。

掲示された寄付者芳名に、かっての城主「宮地」姓が数名書かれていました。



拝殿の裏の小さな本殿です。

拝殿と、本殿が離れてた素朴な建物です。



本殿の横に小さな祠[ほこら]がありました。

5つの連続した祠と、単独の祠が並んでいますが、その間に非常にちいさなコンクリート製の祠もありました。

どんな神様が祀られているのでしょうか?



拝殿を背に下段の鳥居方向を見た様子です。

鳥居をくぐって石段を降り、右手に進むと「鳴滝山」です。



「熊野神社」の鳥居から左手に進むとお堂があり、その横に石仏が並んでいます。

地図には「熊野神社」の隣に「西光寺」と表示されています。

■拝殿に登る石段の脇に「西光寺旧蹟」の案内板がありました。
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西光寺旧蹟
鳴滝山二代目城主宮地広義が嘉暦3年(1328)建立した。
この寺は頂上にあって当時72坊をそなえ近くの鉢が峯、弥次池を行場とする山伏たちの吹きならす法螺貝の音が、山や谷をゆすったものとみられ、応永30年(1423)鳴滝城の奇襲の際寺も灰燼にきし建てかえられた。
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参拝を済ませ、神社の前の山道を「鳴滝山展望台」をめざして登って行きました。


倉敷で見た屋根の上の「ゴイサギ」

2010年03月02日 | 山陽地方の旅
1月下旬、妻が描く風景画の景色を求めて、倉敷美観地区へ行きました。



美観地区を流れる朝の「倉敷川」です。

川の向こうにある高い塀の向こうは「旧大原家住宅」のようです。

川の両岸にある木々に沢山の小鳥が忙しく動き回っていました。



メジロの小さな群れを見つけました。

絶えず動き回るメジロをやっと撮った写真です。



メジロの写真を拡大したものです。

ずんぐり系の愛くるしい姿が好きです。

子供の頃、春にメジロの大群に遭遇したことを思い出しました。

おびただしい数のメジロの大群が飛来、すぐ近くを飛び回る光景に、ワクワクしたものです。



観光案内や、無料休憩場もある「倉敷館」と倉敷川に架かる「中橋」です。

よく晴れ、観光客もまばらな平日の朝、妻の絵の川辺の街並みの風景探しです。



「凸凹堂」の看板のある東向きの店の屋根に大きな鳥が止まっていました。

「ゴイサギ(五位鷺)」のようです。




「ゴイサギ」が、東に向って飛ぶ飛行機を見上げているようです。

上空に飛行機雲風が見えますが、風のためか短時間で消えてしまいました。



拡大した「ゴイサギ」の写真です。

胸の羽が風でそり返り、なかなかオシャレな姿です。

■平家物語(巻第五)に「ゴイサギ」の名の由来があります。
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平安時代中期、醍醐天皇(60代天皇・在位897年~930年)が内裏近くの池のほとりにいる鷺を見つけ、そばに仕える六位の蔵人(秘書官)に鷺を捕まえるよう命じられたました。
鷺に近づいた蔵人は、鷺が飛び立とうとした時、「宣旨(天皇の命令)である!」と叫ぶと鷺は固まり、おとなしく捕まったそうです。
天皇は、従順に宣旨に従った鷺を誉め、「五位」※の位を与えて「鷺の中の王である」という札を付けて開放されたと言うお話です。

天皇の気まぐれとも思える命令に従い、鷺を捕まえた蔵人は、自分より上の位を鷺に与えられ、さぞかし悔しかったと思われます。
しかし、天皇は、いやいやながら命令に従う蔵人を見抜かれ、「五位」の階位を判断されたとも考えられ、この命令や、階位には日頃のストレス解消が込められていたのかも知れません。
「五位鷺」の名に、遊び心あふれる醍醐天皇のお人柄を想うと親しみを感じます。
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※五位:古代から続く律令制で、個人の地位を定めた位階制度の30ランク(正一位~少初位下)の内、11~12番目の位階のようです。

■醍醐天皇の時代(脱線気味の補足です)
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醍醐天皇の治世34年間は、先帝宇田天皇に続き、摂政・関白を置かず、後世「延喜の治」と讃えられた天皇親政の時代です。
南北朝時代の後醍醐天皇も範とした治世としても知られています。
しかし、父である宇多上皇も政治的な影響力を持ち、政治の実務は左右大臣の藤原時平・菅原道真に任せて親政はある程度形式的なものだったようです。
藤原時平の讒言で、菅原道真を大宰府の権帥に失脚させ、道真が失意の中で亡くなったのも醍醐天皇の時代でした。
その後に天皇の長子保明親王や、その子が続いて亡くなり、藤原時平も39歳で亡くなったことが菅原道真の怨霊によるものと考えられたようです。
道真の名誉回復をし、慰霊したものの、遂に清涼殿に落雷があり、その後まもなく崩御されています。
大宰府天満宮や、各地の天満宮に菅原道真が天神様として祭られて慰霊されるようになったのもこの時代からのようです。
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南の橋を渡って向いの岸に歩いて行きましたが、まだ「ゴイサギ」は同じ場所にいました。

時々、小さく身体を動かしていましたが、移動はしていません。

「ゴイサギ」は夜行性と言われ、昼間はウトウトしているのでしょうか。



同じ日の午後、吉備津彦神社の池で「ゴイサギ」に会いました。

めったに出会わない「ゴイサギ」に1日に2度も出会うとは、奇遇です。

天皇から五位の階位を与えられた幸運な「ゴイサギ」にあやかりたいと、ささやかな願いを込めて撮った写真です。

尾道市因島の「因島水軍城」

2010年02月20日 | 山陽地方の旅
1月3日の尾道市因島観光の続きです。

今回の「因島水軍城」が、因島最後のスポットです。



「因島市史料館」の横に「因島水軍城」へ登る道があります。

カラフルな武将姿の記念撮影用の人形が置かれていました。

大きな貝の飾りの付いた兜の下には顔を出す穴があり、村上水軍の大将の気分で撮影出来ます。

そう言えば、山頂の水軍資料館にも大きな貝の飾りの付いた本物の兜が展示されていました。



記念撮影用の武将人形のそばに因島中庄地区の案内図がありました。

中央の山の上に「因島水軍城」があり、その山の中腹に「因島市史料館」「金蓮寺」があります。

かっては深い入江だったものが、埋立てられて耕地になったようです。

■案内図と並べて立てられた案内板の説明文です。
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中庄地域のうつりかわわり
今から約700年昔京都加茂神社の荘園で、中御荘と呼ばれた中庄は、古くから因島の中心として発達し、南北朝期から戦国期にかけて村上水軍の本拠地として広く海外に名をとどろかせました。
往時の中庄は入江が深く入っていて浜床(現在外浦)付近や地蔵鼻から宝大寺の石灯籠、山口の常夜灯あたりまで海岸であったといわれて。います(灯籠は他へ移動している)
関ヶ原の合戦後、村上氏が防長に移ってからは平和な一農村としての歩みを続けました。まず農村経営の基礎になる土地について、天正元年(1573年)土生新開を始め鼠功新開貞享2年、前新開元禄年間、油屋新開元禄年間、蘇功新開文政年間など次々海面を埋立て耕地を開拓して来ました。時代は移りその土地に学校や工場、民家ができ現在に至っております。
 尾道市教育委員会
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「因島水軍城」への坂道を登り始めた山の斜面に船の錨が展示され、植え木を刈り込んだ文字が造られていました。

植え木の文字は、丸の中に「上」、下段に「水」「軍」です。

中世のイメージの水軍城に「ストックアンカー」と案内された近代的な錨の展示には少し違和感があります。

水軍時代の錨の絵や、造船の島「因島」の説明が欲しいところです。

■中央の錨の説明板です。
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ストックアンカー 4,590Kg
船舶用(1万トンクラス)
タンカー・コンテナ船数隻に使用。
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■向かって左にある小さな錨の説明板です。
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ストックアンカーA型 2,000Kg
船舶用及び港湾用・作業船に使用(3,000トンクラス)
マストの高さ、●の重さなどにより、いかりの重さが違ってくる。
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坂道の途中に城門がありました。

水軍城に向う雰囲気が出てきます。



頂上に近い急な石段です。

丸に上の字のマークが付いた村上水軍の赤い幟がありました。



櫓の中は、船の資料館で、古代から近代までの世界の船の模型が展示されていました。

宇宙戦艦ヤマトや、美しい帆船などが印象的でした。



櫓の最上階から見た「因島水軍城」の本丸です。

山頂に建つ櫓の窓からは、周囲の中庄の集落や、周囲の山々の景色がよく見えます。

■本丸の入口付近に説明板がありました。
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因島水軍城
この水軍城は昭和五十八年十二月一日に築城された全国でただ一つの水軍城です。
水軍のふるきと因島にふさわしいものと歴史家奈良本辰也氏の監修により再現したものです。
二の丸(六十六平米)は展示室、隅櫓(一二四平米)は展望台、本丸(二七一平米)は水軍資料館として一般に公開されています。
水軍資料館には大塔宮令旨(重要美術品)村上家相伝の由緒ある台紫緋糸段縅巻、村上家伝来文書、金蓮寺在銘瓦、源平合戦屏風、水軍船の模型、相伝の太刀、水軍旗、甲等水軍に縁りのある品が展示してあります。
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頂いた「水軍資料館」のパンフレットにあった大阿武船[おおあたけぶね] の写真です。

水軍資料館の入口付近の中央に展示され、村上水軍が実際に使っていた船を再現、その1/12模型だそうです。

1997年に因島で再現された大阿武船は、全長25m、幅約10m、重量約100トンで、NHK大河ドラマ毛利元就でも登場して話題になったようですが、2006年には解体されています。



これも「水軍資料館」のパンフレットにあった因島村上氏の第6代当主「村上吉充[よしみつ]」の写真です。

「村上吉充」は、厳島の戦いで毛利元就に味方して勝利に導いた他、木津川口の戦いで織田信長の九鬼水軍と戦うなど村上水軍が天下に名を馳せた時代の当主です。

又、このブログ<白滝山「観音堂」と、開山の由来>でも書きましたが、因島の白滝山に観音堂を建立したのもこの「村上吉充」でした。

この他、「水軍資料館」には多くの展示物がありましたが、撮影禁止で、ほとんど記憶に残っていません。

文化財などを撮影禁止コーナーに切り分けて、その他は撮影を許可して欲しいものです。



「水軍資料館」の隣の建物を覗いてみると、座敷に5体の武士の人形がありました。
(後方に座る二体の人形がかくれています)

絵図面を見て、戦いの作戦を考えているようにも見えます。

建物を造り、特別に作った人形を展示していますが、説明書もなく、何の場面かまったく分からない謎の展示でした。



「因島水軍城」から山の尾根に沿って「金蓮寺」まで続く、のどかな遊歩道があり、歩いて行きました。

振りかえって撮った景色ですが、山の斜面にたくさん黄色いミカンが輝いています。

お正月休みの因島観光は、天気に恵まれて良い想い出になりました。