昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

トルコ旅行 9 ヒッタイト帝国の都「ハットゥシャ」-1

2014年12月28日 | 海外旅行
トルコ旅行3日目(10/1 )、ヒッタイト帝国の聖地「ヤズルカヤ遺跡」の次は、帝国の都「ハットゥシャ(トルコ語でハットゥシャシュ)遺跡」の見学です。

ヒッタイトの歴史は、古代メソポタミアから伝わった楔形文字を記した粘土板の発見から解り始めたようです。

この地に文字を伝えたのはメソポタミア北部のアッシリア商人によるもので、ヒッタイト時代以前の紀元前1950〜1750年頃、金・銀・銅などの入手を目的にやってくるようになり、各地に植民商館を造って活動拠点としていたようです。

植民商館のひとつ「カネシュ(現キュルテペ)」1925年から「カッパドキア文書」と呼ばれる大量の粘土板(アッシリア商人の商取引記録)が発掘され、ヒッタイト以前の時代が歴史時代となったようです。

ヒッタイト王国の歴史は、ここハットゥシャ遺跡の「大城塞」にあった王室文書館から1万枚に及ぶ粘土板が発見されたことで解明が始まったようです。

ハットウシャの中核施設と思われる「大城塞」の見学は、残念ながら見学は出来ませんでした。



ヒッタイト帝国時代のオリエントの地図で、「ハットウシャ」は赤丸印の場所です。

「世界歴史の旅 トルコ」(大村幸弘著 山川出版社)に掲載されていた地図「ヒッタイト帝国時代のオリエント」を参考に現代の国境(破線)の描かれた白地図をベースに自作したものです。

「ハットゥシャ」は、ヒッタイト古王国が建国された紀元前1680頃からヒッタイト帝国終焉した紀元前1200年まで約480年間続いた都の地で、ヒッタイト帝国の最盛期の領土は、現代のトルコ共和国からシリアにまたがっていたようです。

特に「ヒッタイト帝国主要部」は、大きく湾曲したクズルウルマック川(赤い川)に囲まれたエリアで、帝国が拡大する過程に川を防衛や、国境として利用していたなごりかもしれません。



「ハットゥシャ」の概略地図です。

現地の案内板や、複数の観光案内の地図を参考に自作したもので、東西を谷で挟まれた地形に造られた城壁に囲まれたエリアをピンク色に塗っています。

又、大神殿や、大城塞のある「下市」と表示した北のエリアは、建国頃からの市街地で、南のエリアは「上市」は、紀元前14世紀に外敵に備えて拡張されたとされます。

ヒッタイトの歴史は、紀元前1680年頃建国された古王国時代、紀元前1430年頃再建された新王国(帝国)時代に分けられ、その間の紀元前1500年頃から70年間を中王国時代とされているようです。

ハットゥシャは、中王国がミタン二(オリエント地図参照)の侵攻により崩壊したとされ、現在の遺跡の大部分は、新王国(帝国)時代に造られた施設と思われます。

周囲6Kmにおよぶ城壁跡は、紀元前の規模としては最大級と思われ、当時の繁栄ぶりがうかがえます。

見学は、大神殿、ライオン門、スフィンクス門、王の門と左回りで進んで行きました。



上段は、「大神殿」の復元イメージ図、下段は、その平面図で、遺跡の案内板に展示されていたものです。

この神殿は、天候神「テシュプ」と、配偶神「へパト」に捧げられたものだそうで、日乾レンガの巨大な建物(短辺130×長辺165)があったようです。

神殿の北西には復元された城壁があり、神殿との間に倉庫群の基礎石が並んでいました。

■古代アナトリアの遺産(立田洋司著、近藤出版社)より
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たった一人の守衛が見守る入口から少し行くと、右手にまず大神殿跡が見える。この大神殿跡はまことに大きな遺構である。まず中庭状の大神域があり、その周りを40以上の部屋が囲み、さらに少しの間隔をおいて外側を80余りの細長い部屋がとり巻いている。どうやらこれらの部屋は、さまざまな物資を貯蔵するのに使用されたらしい。現在は土台の石灰石しか残っていないが、当時はこの上に粘土を乾燥させたいわゆる日乾レンガ【この地は夏の太陽光線が強いので、これでもかなりの強度を持った建材となり得る】で厚い壁が造られ、さらにその上には木で支えられながら同じ日乾レンガ製の屋根が載っていた。この大神殿、長さを測れば、短辺で130メートル、長辺で165メートルもあるという。
大神殿跡のすぐ南側には、ごく近年の発掘(1967~1968年)で地上にその姿をあらわした古代の道路(幅8メートル)があり、さらにその向うには、貯蔵用や住居用と目される大きな建物の跡がある。
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上段は、大神殿の駐車場近くにあった石の遺物で、下段は、案内板にあったその復元イメージ図と思われるものです。

案内板の撮影で、ガイドさんの説明を聞きもらし、何か分かりませんが、前後4頭のライオンが守るデザインから王の棺桶にも思えます。



写真上段は、大神殿の門にガイドさんが立つ風景です。

建物の復元イメージ図にあるようにここから建物に入って行ったようです。

ガイドさんの足元に遺跡調査の人が置いた測量器具のようなものが見られ、付近では今も発掘調査が続けられている風景が見られました。

写真下段は、石段を上がった門の地面の風景です。

ガイドさんの話では、ここには二つの秘密の井戸(赤い矢印の場所)があったそうで、昼間の開門時間帯は、石で蓋をされ、夜間の閉門時間帯には蓋が外され、外部からの侵入を防ぐ落とし穴としていたようです。



門から神殿内を進み、振り返った風景です。

通路には石が敷かれていますが、盛り上がっていびつになっている部分は地震などの影響でしょうか。

向こうに門や、駐車場が見えますが、遺跡内はバスで移動して行きます。



門を直進した辺りにあった石で、ガイドさんが建物の基礎石に開けられた穴の説明をしている場面です。

ガイドさんの分かりづらい日本語を私なりに解釈すると、いち早く鉄器を利用していたヒッタイトは、鉄の棒と、石に開けた穴を門の開閉に利用していた意味の説明でした。(この石が何に利用されていたのは理解できていませんが・・・)

付近に散らばっていた建物の基礎と思われる四角柱の石にも等間隔で同様の穴が見られ、基礎の石をつなぎ合わせていた可能性も考えられます。



穴の開いた石の少し南につやのある緑色の石がありました。

冗談なのか、ガイドさんから「宇宙から落ちた石」で、石に手を置き、石を左回りすると願い事がかなうと紹介されていました。

座るのにちょうど良い高さだったように記憶していますが、上部が平らで、神殿にあったことから祭礼などで使われていたものかもしれません。

廃墟のように殺風景な遺跡の中で、美しく磨かれた緑の石には不思議な存在感がありました。



穴の開いた石の近くに、ガイドさんからヒッタイトの王が入った風呂と紹介された水槽のようなものがありました。

深さは確か1.5メートル位で、お湯を沸かして入れるには、大き過ぎるようにも思われます。

「世界の歴史2 古代のオリエント」(小川英雄著、講談社)によると、様々な民族を統治していたヒッタイトは、それぞれの伝統宗教を許容し、自分達の信仰に受け入れて多くの神を信仰していたとされます。

そして、メソポタミアの影響もあり、神を人のように考える擬人神観を持ち、神々は、住居である神殿で、食事、入浴、娯楽の供養まで受けていたとされます。

この風呂も神様が入浴するためのもので、井戸から水を汲み、神様の体を洗う儀式をしていたのかも知れません。

大神殿の外観の再現イメージ図をながめ、更に建物内部の様子や、当時行われていた様々な儀式を私が想像するには余りに情報が足りないようです。

中庭のある神殿、倉庫群、再現された城壁などは、次回とさせて頂きます。

油絵「里芋」

2014年12月20日 | 妻の油絵

妻の油絵「里芋」です。

先月11月の作品で、まだ元気な葉を残し、芋のまわりの土を洗い流した姿です。

里芋の絵は、初めてですが、収穫された姿にたくさんの芋を育て上げた里芋の安堵感を感じるようです。

里芋と言えば、皮ムキを素手でしていると、ひどいかゆみに襲われます。

里芋の皮のすぐ下に含まれるシュウ酸カルシウムが原因で、その針状結晶が皮膚を突く痛みだそうです。

沖縄を初めて旅した時、道端や、林の中に里芋に似た「クワズイモ」が生い茂っているのを見て、とっさに食べられるのではとの思いが頭をよぎったのを思い出します。

自生する「クワズイモ」は、里芋と間違えて食べると、ひどい食中毒になることで知られ、ヤギも食べないそうです。

恐らく、たくさんのシュウ酸カルシウムが芋の深い場所まで含まれているものと考えられ、しかもシュウ酸カルシウムの針状結晶は、加熱しても変化しないことにより、口の中や、内臓の粘膜までひどい中毒症状になるものと思われます。

里芋は、縄文時代から栽培されているとされ、その原種とされる東南アジアの「タロイモ」も「クワズイモ」のような自然種から品種改良されたものと考えられます。

しかし、ひどい痛みを伴う試食をしながら食べられる品種に改良するのも至難の業と思われ、考えてみると太古の人々のあなどれない知恵を感じます。

祖先が里芋に積み重ねた苦労に感謝し、掘りたてのやわらかな煮物に舌鼓を打つのもこの季節の醍醐味です。

トルコ旅行 8 ヒッタイト帝国の祭祀場遺跡「ヤズルカヤ」-2

2014年12月15日 | 海外旅行
トルコ旅行3日目(10/1 )、ヒッタイト帝国の都「ハットゥシャシュ遺跡」に近い、聖地「ヤズルカヤ遺跡」の見学の続きです。

前回は、ヤズルカヤ遺跡の岩山の壁面に彫られた神々のレリーフの内、大ギャラリーのものを紹介しましたが、今回は、小ギャラリーの紹介です。



「ヤズルカヤ遺跡」の小ギャラリー入口の風景です。

左右の石段が合流した先が小ギャラリーの入口で、切り立った二つの岩山の狭い間の通路を進んで行きます。



前回も掲載した遺跡の再現平面図で、案内板にあったものを加工編集したものです。

建物1が門、建物2が王の葬祭殿、Aのエリアが大ギャラリーで、Bのエリアが今回紹介する小ギャラリーです。

岩に彫られたレリーフの場所に番号を付けており、(8)~(11)の順で見ていきます。



入口の階段左手にあったレリーフ(8)です。

長い尾をまっすぐに上げ、仁王立ちになった守り神の顔は、野獣のようにも見えます。

この奥の小ギャラリーに戦いの神「シャルマ」のレリーフがあり、前回紹介した大ギャラリーのレリーフ(5)にもパンサー(豹)の上に立つシャルマ神の像があることからシャルマ神にちなんだパンサー(豹)を守り神としたものと考えられます。

この後、見学する「ハットゥシャシュ遺跡」の城門にもライオン像、スフィンクス像などが門の脇に見られ、聖なる動物を守り神とする信仰があったことがうかがわれます。

しかし、それらの守り神は、門の両脇にあり、左に一体だけあるこの守り神には不自然さを感じます。

「世界神話大事典(編者 イヴ・ボンヌフォワ、訳者代表 金光仁三郎、発行大修館書店)」によると、「厄除けの2体の怪物に守られた岩の狭い通路を通って、「付属」の部屋に達する」として第二の小ギャラリーの説明が始まっており、右手にも1体あったのかも知れません。

又、このレリーフの写真をよく見ると、風化が見られず、レプリカをコンクリートで貼り付けた形跡にも見えます。

ひどく風化したレリーフを保護する目的でレプリカに変えるなら右にも付けるはずで、片方しかない守り神にはやはり疑問は残ります。



ガイドさんを先頭に狭い岩の通路を進んで行く風景です。

右側の岩壁に削られような跡が見られ、人為的に広げられた通路と思われます。



小ギャラリーで、ツアーの一同がガイドさんの説明を聞いている風景です。

右手(東側)の壁にレリーフ「12神の行進」(9)があり、その先に二つの不思議な穴が見えます。

高く切り立った左右の岩壁の間には、人がすれ違う程度の幅で、ロープが張られており、すぐ先は、行き止まりです。

周囲を岩壁で囲まれたこの地形は、ほとんど天然のものと思われますが、不思議に気持ちが落ち着く空間でした。



右手(東側)の岩壁に「12人の黄泉の国の神々が行進するレリーフ」(9)(地球の歩き方-ダイヤモンド社)と案内されたレリーフがありました。

写真右上は、レリーフの一部を拡大したもので、トンガリ帽子をかぶり、三日月型の剣をかかげて進んで行く姿からは「黄泉の国」のイメージは浮かんできません。

三千年以上の歳月を経たレリーフですが、くっきりと像が残っていることに驚きます。

大ギャラリーの男神の列の最後尾にも同じような姿をした12神が並んでいましたが、関連はあったのでしょうか。



写真左は、回廊左手(西側)奥にある「シャルマ神に抱きかかえられたトゥドハリヤ4世」とされるレリーフ(10)で、写真右は、そのレリーフの線画で、案内板にあったものです。

「シャルマ神」と、「トゥドハリヤ4世」は、共に大ギャラリーでも登場し、主神「テシュプ」と、配偶神「へバト(アリンナ)」の子神「シャルマ(戦いの神)」とあり、この三神はハットゥシリス三世とその妃プドゥへパ、彼らの子トゥドハリヤ四世を表すとされていました。

トゥドハリヤ四世を表すとされるシャルマ神に抱きかかえられているこのレリーフの意味を考えると、シャルマ神を守護神として崇め、加護を願うものだったのかも知れません。



写真左は、回廊左手(西側)にある「剣の神ネルガル」とされるレリーフ(11)です。

この遺跡のレリーフでは最も大きな像で、写真では上の三角帽子の部分が欠けています。

写真右は、レリーフの線画で、両肩と、両足のひざに顔のあるライオンが見られ、ガイドさんの説明によると足元は剣を表すようです。

「ネルガル」は、メソポタミアの神話で、冥界の王とされ、ヒッタイトにも受け継がれていたようです。

前回の大ギャラリーの諸資料で、記事では聖地ヤズルカヤは、ハットゥシリ3世と、その息子トゥドハリヤ4世の代に造られたとされていましたが、ガイドブック「地球の歩き方」(地球の歩き方編集室 著、ダイヤモンド社 )では「~トウタルヤ4世の息子にしてヒッタイト最後の王、シュピルリウマ2世が父トウタルヤ4世(トゥドハリヤ4世)を祀るために造った~」あり、資料により違う説が採用されているようです。

大ギャラリーの右の列最後尾のトゥドハリヤ四世のレリーフや、小ギャラリーのシャルマ神に抱きかかえられたトゥドハリヤ4世のレリーフを生前に自身が造らせたとしたら不自然にも思われます。

シュピルリウマ2世が亡くなった父トゥドハリヤ4世のため、冥界の王「ネルガル」を崇め、シャルマ神の加護を受けるよう冥福を祈ったのかも知れません。

鉄器時代のさきがけとなったヒッタイト時代、鉄器時代の始まりは、ヒッタイト帝国の滅亡から始まったとされますが、製鉄は、ヒッタイト以前に始まったとされています。

鉄器、しかも高度な鋼鉄製にまつわる興味深い歴史がこのレリーフにあったようです。

■「世界の歴史2 古代のオリエント」(小川英雄著、講談社)より
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ヤズルカヤの磨崖に彫られた「短剣神」この浮彫りと同じ様式化した獅子を装飾している鋼鉄製の刃をもった斧が、ウガリット※から出土しているので、この短剣の刃も鉄であったと思われる。これはヒッタイト帝国とウガリットの密接な関係を示す史料でもある。
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※地中海東岸の町、現在のシリア領。



「12神の行進」のレリーフの奥にある不思議な二つの穴です。

写真下段は、大きさを確認するため、左の穴に手先を添えて撮ったものです。

確か、ガイドさんの説明は、お供えのための場所だったように記憶しています。

当時、祭祀には動物のいけにえが捧げられたようで、そのための穴と考えれば不自然な大きさとは思われません。



大ギャラリー左手奥を妻が撮った写真で、逆光によるものだったのでしょうか、数ヶ所に青く光る模様が写っていました。

左の岩壁に一つの穴が見え、その左に「シャルマ神に抱きかかえられたトゥドハリヤ4世」の像、更に左に「冥界の王ネルガル」のレリーフが見えます。

遺跡の平面図に描かれていた小ギャラリーの穴がを見ると、この穴の向いに上の写真の二つの穴があることが分かります。

お供えは、目の前にすることが普遍的と考えると、岩壁の両側にお供えの穴が向かい合っていると考えるのは不自然に思われます。

右手に12人の黄泉の国の神々と、左手に冥界の王「ネルガル」のレリーフが迎えるこの小ギャラリーがトゥドハリヤ4世の祭礼と、その後の祭祀の場所と考えると、この穴がトゥドハリヤ4世の埋葬の穴だったと考えるられなくもありません。



狭い岩の通路を過ぎて小ギャラリーを出た風景です。

前の広場には「王の葬祭殿」の建物跡が見られます。



ヤズルカヤ遺跡の駐車場北側に並ぶ土産物屋の風景です。

二列に並んだ小さな小屋にたくさんのお土産が陳列され、ツアーの人たちが見て歩いています。

写真中段は、トルコ名物の魔除け「青い目玉(ナザール・ボンジュウ)」が並ぶ風景で、トルコ各地で見られました。

写真下段は、石の置き物のお土産で、「ヤズルカヤ遺跡」や、「ハットゥシャシュ遺跡」などヒッタイトにちなむ遺物のコピーのようです。



写真上段は、「ハットゥシャシュ遺跡」の最も高いスフィンクス門から北東方向を見下ろした風景です。

眼下には城塞や、神殿跡が見られ、写真右端の山の中腹にはヤズルカヤ遺跡のある岩山も遠望できます。

写真下段は、ヤズルカヤ遺跡付近を拡大した風景で、向かって右にいくつかの岩山が集まっている場所です。

ヒッタイトの祭祀文化は、メソポタミアなど、周辺民族の信仰を広く受け継ぎ、帝国滅亡後は古代ギリシアへも大きな影響をもたらしたとされています。

メソポタミアに発した文明は、アナトリアのヒッタイト王国へ伝わり、更にエーゲ海を渡りギリシア、ローマへと続いていったようです。

トルコ旅行 7 ヒッタイト帝国の祭祀場遺跡「ヤズルカヤ」-1

2014年12月08日 | 海外旅行
10/1 、トルコ旅行3日目、アンカラのホテルを出発して東へ約3時間、小さな村ボアズカレにあるヒッタイト帝国の都「ハットゥシャシュ遺跡」と、その聖地「ヤズルカヤ遺跡」の見学です。

「ヤズルカヤ遺跡」の見学は、午後の日差しでは岩に彫られたレリーフが見づらくなるとのことで、最初のスポットとされました。

ヒッタイトは、BC1680頃に王国を築き、曲折はあったものの、この地を都としてアナトリアの大半を版図とする帝国に発展させた民族で、BC1200年までの約480年間続きました。

高度な製鉄技術で鋼[はがね]までも作っていたとされ、二頭の馬が曳く三人乗りの二輪戦車(チャリオット)などで周辺国を圧倒した華々しい歴史があります。

ヤズルカヤは、ヒッタイト帝国末期のハットゥシリ3世(在位 BC1275~BC1250)と、その息子トゥドハリヤ4世(在位 BC1250~BC1220)の代に造られたとされ、帝国が滅んだBC1200年から数十年前のことだったようです。



「ヤズルカヤ遺跡」の駐車場から遺跡の方向を見た風景です。

「ヤズルカヤ」は、トルコ語で「碑文のある岩場」の意味だそうで、正面の岩山の中には神々のレリーフが彫られた祭祀場の遺跡があります。



ヒッタイト帝国時代のオリエントの地図です。

「世界歴史の旅 トルコ」(大村幸弘著 山川出版社)に掲載されていた地図「ヒッタイト帝国時代のオリエント」を参考に現代の国境(破線)の描かれた白地図をベースに自作したものです。

ヒッタイト帝国は、現代のトルコ共和国からシリアにまたがり、大きく曲がったクズルウルマック川に囲まれたエリアが帝国の主要部だったとされ、「ハットゥシャシュ(ヒッタイト語でハットゥシャ)」を都としていました。

イスタンブールのあるボスフォラス海峡から東側は、ギリシア語で「日の出の国」を意味する「アナトリア」と呼ばれる半島です。

又、アナトリアの北西岸にあった「アスワ」と呼ばれる小国の名が転じて「アシア(アジア)」の呼称となり、その後アナトリア全域を指す名称となり、更に東洋全域が「アジア」と呼ばれるようになると、アナトリアは「小アジア」の名に変わって行ったようです。



遺跡の入口付近の案内板に当時の聖地の再現イメージが描かれていました。

向かって左手が現在の駐車場がある方向で、岩山の前を塞ぐように建物が造られ、左が門、中央が王の葬祭殿だそうで、右手の小さな建物は、柵で囲まれていることから、ロバや、馬などをつなぐ施設だったのかも知れません。

一見、近代的なコンクリート造りのようにも見える建物ですが、世界最古の文明とされるメソポタミアや、古代エジプト、又ヒッタイト時代以前のアナトリアでも日乾レンガの建物が普及していたとされ、この建物も同様の工法による建物だったものと思われます。

■「世界の歴史2 古代のオリエント」(小川英雄著、講談社)より
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ボアズキョイの郊外ヤズルカヤの王室祭祀場所
 岩山の裂け目を通って中に入ると、狭い広場に出る。その周囲の磨崖下部に、ヒッタイト新王同時代の王室の神々(大多数は元来フり人とメソポタミアのもの)が行列をなしている。神々は男女のクループに分けられ、王権神授の場面がその中央に位置する。岩山の入り口付近には、王の葬祭殿の遺構がある。
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これも案内板にあった遺跡の再現平面図を加工編集したもので、岩に彫られたレリーフの場所に番号を付けています。

又、遺跡の見学順路を赤い矢印で記しましたが、図の下の駐車場から建物1・2を通り、岩場の祭祀場へ進む順路は、昔もほぼ同じようだったと思われます。

図にAと記され、レリーフ番号(1)~(7)のある場所は、「大ギャラリー」と呼ばれ、(1)から(4)が男神の列、(6)に女神の列が彫られ、奥のレリーフ(5)では男女の神々の行列が左右から向き合う場面となっています。

女神の行列の最後尾のレリーフ(7)は、トゥドハリヤ4世とされ、大きく彫られた姿が印象的でした。

「小ギャラリー」には神に抱かれたトゥドハリヤ4世のレリーフの他、2ヶ所のレリーフや、その横に不思議な穴も彫られており、次回の紹介とします。



写真上段は、岩山に向かう坂道をトルコ人ガイドギョクハンさんが先行して上って行く風景です。

案内板の平面図を見ると、この辺りから上の岩山付近までの約70mに建物群が続いていたようです。

写真下段は、坂道の途中から下の駐車場方向を振り返った風景で、石段や、道の脇に並ぶ石は建物遺構と思われ、三千数百年の歳月を経て残っていることに驚きます。



大ギャラリーの入口付近から奥の方向を見た風景です。

広く開いた岩山の間も奥に進むにつれて狭くなり、少し先から神のレリーフが始まります。

人影が見えない写真は、見学を終えた時に撮った写真です。



大ギャラリーを更に奥へ進み、行き止まりの岩が見えてきた風景です。

左手の神のレリーフの下に数十センチの高さの段が見られ、その場所は案内板の平面図でも確認できます。

岩山の斜面を削り、神のレリーフを彫る垂直の面を造り、その下を祭壇として利用していたのかも知れません。



行き止まりの岩壁の前に立つ私を妻が撮ってくれた写真です。

右隅の上に大きな岩が乗せられ、その下の隙間に石を詰め、土(漆喰?)で固めたような工事の跡が見られます。

正面のレリーフ(平面図-5)は、この大ギャラリーで最も神聖な場面が彫られており、神聖な場を演出するために塞がれたものと思われます。



写真上段は、大ギャラリーの奥にあるレリーフです。

写真下段は、そのレリーフを線画にしたもので、案内板にあったものです。

写真中央で向き合っているのは左が主神「テシュプ」(天候神・雷神)、右が配偶神「へパト(アリンナ)」(太陽の女神)だそうです。

配偶神へパトの後方(右)に立つのは子神「シャルマ」(男神・戦いの神)で、右手の女神の列に男神が加わっているのは子神は、母神に属す(化身?)ものとする当時の思想が反映されたものと考えられているようです。

これらの主要な神は、アナトリア南部のキズワトナや、メソポタミヤ北部のミタンニに住むフルリ人の神だったようです。

この祭祀場を造ったハットゥシリ3世の妃「ブドゥへパ」は、ヒッタイトの傘下で同盟関係にあったフルリ人の国「キズワトナ」から嫁いだとされ、フルリ人の神を祀り、信頼関係を強めることにより帝国の安定を図ろうとしたのかも知れません。

それぞれのに神は、前に伸ばした手の上に不思議な模様が描かれています。

これは、ヒッタイトの象形文字「ヒエログリフ」だそうで、この解読がなされ、これらの神々の名が分かったそうです。

又、それに加えて永年、粘土板に記録されたヒッタイト帝国の祭祀記録や、周辺民族の記録と併せて、神々の素性や、当時の状況が分かって来たようで、その内容は「世界神話大事典(編者 イヴ・ボンヌフォワ、訳者代表 金光仁三郎、発行大修館書店)」で見られます。

右端の二女神の足元を支えるのは最古の文明シュメールを起源とする「双頭の鷲」と思われ、東ローマ帝国や、ロシアなどでも使われている紋章がここで見られるとは意外でした。

二神の後方に描かれたツノのある牛(ヤギ?)や、足の下の人やパンサーなどを神聖とする宗教観に興味が湧きます。

しかし、地中海東岸の「カデシュ」で覇を競い、歴史上初めて成文化した平和条約を交わした古代エジプトの黄金の遺物などと比較すると、「ヒッタイト帝国」の聖地としては、驚くほど質素に思われます。

■「世界の歴史2 古代のオリエント」(小川英雄著、講談社)より
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向きあった2柱の神(擬人化された二つの山の上に立つ天候神と、パンサーの十二に立つつ妃、太陽の女神アリンナ)が中心てある。女神の背後には子神シャルマがいる。この3柱は三神一座をなすと同時に、この浮彫り群の奉納者ハットゥシリス三世とその妃プドゥへパ、彼らの子トゥドハリヤス四世を表すと考えられる、この2柱の背後には、男神たちと女神たちの行列がつつく。
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奥に向かって左側の岩壁に続く男神のレリーフの写真を奥から順に並べてみました。

左上の番号は、案内板の平面図に記したもので、メソポタミアや、メソポタミア北部のフルリ人、ヒッタイト以前からアナトリアに住むハッティー人など様々な民族の神を受け入れ、祀っていたとされます。

ヒッタイト帝国は、一定の自治が認めた小規模の都市国家をヒッタイトの王が直接統治する仕組みで、王は各地の都市国家を巡って統治していたようで、各地に伝わる神話や、宗教的儀式などを統合したものがこれらのレリーフではないかと思われます。

人を横から見た姿で連続的に描いたデザインは、古代エジプトのピラミッドなどで見られる絵と類似しているようです。

ヒッタイトが王国を築く前の時代、メソポタミア北部からアッシリア商人が訪れて盛んに交易が行われ、各地に拠点の町を造っていたようで、メソポタミアの文字や、様々な文化の影響を受けたとされます。

アッシリア商人は、商取引などを粘土板に記録し、模様を彫った「円筒印章」を転がして刻印したとされ、繰り返し連続する模様がこれらレリーフのデザインに影響しているものと思われます。

■「世界の歴史2 古代のオリエント」(小川英雄著、講談社)より
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ヤズルカヤの「神々の行列」の図像や葬祭殿遺跡を見ると、王たちが宗教混合と祭儀をきわめて重視していたことが明白である。彼らは首都では人工的な宗教の大祭司であったが、地方の神殿共同体は自治が認められ、王たちはときどきそれらの霊場に巡礼旅行に出て、一種の顔つなぎをした。
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奥に向かって右に続く女神の列のレリーフ(6)です。

この後方にもレリーフがあったようですが、不鮮明でよく見えませんでした。



奥に向かって右側、女神の列の最後尾に「トゥドハリヤ4世」の像とされる大きなレリーフ(7)がありました。

写真右は、案内板にあったレリーフを線画にしたもので、手に持つ物は、象形文字ヒエログリフが書かれているようです。

このレリーフ(7)を平面図で見ると、ただひとつ奥の方向を向いています。

この祭祀場を造り上げた王「トゥドハリヤ4世」が、最も神聖な場面を見つめるよう考えて造らせたのかも知れません。

半砂漠ともいえる広いアナトリア台地を版図とするヒッタイト帝国の末期、天候神に雨を祈り、関連する多くの民族の神々までも祀る祭祀場に帝国の繁栄を願うトゥドハリヤ4世の物語を見たようです。