昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
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旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

長崎旅行-5 長崎県島原市「武家屋敷」

2012年12月28日 | 九州の旅
2012年9月11日長崎旅行1日目、長崎県諫早市から南下、島原半島の東岸、島原市の「武家屋敷」を見学しました。

島原市内で、国道251号の西を並行して走る県道202号沿いの島原市立第一中学校の前に無料駐車場があり、利用させて頂きました。



駐車場のすぐそばに「御用御清水[ごようおしみず]」がありました。

石碑に「史跡 御用御清水」と刻まれ、木戸を入っていくと、石垣に囲まれた井戸がありました。(写真右下)

案内板では今でも清水が湧いていると書かれていますが、見えるのは石の井戸枠とフタのみで、流れ出る湧水も見えず、よく理解できない案内板にちょっと失望です。

■御用御清水の案内板です。
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島原市指定史跡 御用御清水
 寛文九年(一六六九)丹波国(京都府)福知山から入府した藩主松平忠房公は、武家屋敷一帯の生活用水として水道の設置を行いました。
 この御用御清水も城主の居館があった三の丸(現、県立島原高等学校および市立第一小学校敷地)の用水として建設されたことが松平文庫の古文書に記されています。
 武田流軍書候?(土己)師神之巻の「方角を以て水を用うべきの事」の条に「酉の方よりの出水をば智水と言う也、才智名にして自然に富貴到来の家となる。合戦するときは大いに切り勝相也」とあり、三の丸御殿の真西に当るこの湧水を、特に大切にしたことはたいへん興味のあることです。
 建設以来三百年以上、どのような干ばつにも涸れることなく豊かな清水が湧き出ています。
  昭和五七年十二月二十六日指定
    島原市教育委員会
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駐車場の脇にあった武家屋敷の案内地図です。(図に向かって左が北)

現在地の「駐車場」の上側に「第一中学校」、左に「御用御清水」、赤い点線で囲まれた町筋「下ノ丁」にある三軒の武家屋敷が紹介されています。

町筋「下ノ丁」の下の路地が「中ノ丁」、その下に「古丁」「上新丁」と、今も江戸時代からの路地と、名称が残されているようです。

■武家屋敷街の案内板です。
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武家屋敷街
この附近一帯を鉄砲丁といい町筋が七つ、西(図下)から上新丁、下新丁、古丁、中ノ丁、下ノ丁、江戸丁、新建と碁盤の目のようにできています。    
ここには扶持取り七十石以下の徒士[かち]屋敷その他が、柏野の新屋敷を加えて六百九十戸ありました。
島原城ができた当時から一軒一軒の屋敷には境界の塀がなく、隣家の奥までまる見えで鉄砲の筒の中を覗いたようだというので鉄砲丁という名称が起ったといわれています。
鉄砲組すなわち歩兵の往居地帯であったからでもあります。しかし、安永四年(一七七五年)藩主の命により今日見るような石垣が各戸に築かれました。
町筋の中央を流れる清水は、昔飲料水として使用されていたものです。
  島原市
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広くゆったりとした通りの中央を清水が流れる町筋「下ノ丁」の風景です。

左手に見える武家屋敷「山本邸」は、町筋「下ノ丁」の北端にあり、石垣の塀が続く通りで唯一、白壁の長屋門がある屋敷でした。

このような門は、質素な中・下級武士の屋敷では珍しく、藩主が特別に許した時期が幕末であることから砲術師範山本家の重要性が増した時代背景があったと思われます。

各地で公開されている個別の屋敷と違い、ここでは中・下級武士の屋敷の通り全体がよく残されており、江戸時代を彷彿とします。

■山本邸の案内板です。
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山本邸(明治元年建設)
 山本家の初代左五左衛門は、忠房公の先代三河(愛知県)の吉田城主忠利公時代から家臣となり、寛延2年(1749)、5代忠祇公の宇都宮移封、安永3年(1774)、6代忠恕公の島原への所管の所替に際して随行し、その後幕末まで前後13代の城主に仕えました。
山本家は城主からの信任が厚く明治以後は悟郎氏秀武氏と合わせ10代続いております。
5代茂親氏は寛政2年(1790)に一刀流の免許、文化元年(1804)には荻野流鉄砲術師範、文化8年(1811)大銃術の免許皆伝を得て、代々重職を務めました。
17石2人扶持で、門構えは最後の城主忠和公から特別に許されたものであります。
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「山本邸」の続き間の奥に武士の人形が座る風景です。

四畳半の部屋から6畳の「座敷」、8畳の「奥座敷」と三部屋が続いており、公開されている他の屋敷と比べ格式を感じさせる間取りです。



「山本邸」で印象的だった透彫欄間の写真を並べてみました。

一番上は、「奥座敷」の床の間横にあった欄間です。

大きな水鳥のいる水辺の風景で、頭の後ろに伸びる飾り羽を見ると、「アオサギ」だったのでしょうか。

上から二番目のウサギが彫られた可愛らしい欄間は「座敷」にあったものです。

下二つの欄間は、「奥座敷」と「座敷」の間に左右に並んでいたもので、梅、蘭、竹、菊、の四種類の草木を描いて「四君子」と呼ばれる図です。

冬の梅、春の蘭、夏の竹、秋の菊と四季の優れた草木を君子に例えて「四君子」としたとされ、何気ない透彫の図にも伝統的な文化が息づいていたようです。



「山本邸」の斜向かい「篠塚邸」の入口です。

生垣のようにも見えますが、統一された石垣の塀にツル性の植物が茂っているように思われます。

奥に見える建物は、公開された他の武家屋敷と同様に茅葺屋根でした。

通りが広く、中央に清水が流されていたのは燃えやすい茅葺屋根を考慮した防火対策でもあったと考えられます。

■篠塚邸の案内板です。
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篠塚邸
 この屋敷に住んでいた人は姓を篠塚と言い、代々順右衛門を称し祖先は三河(愛知県)深溝であるが、寛文9(1669)年、松平主殿頭忠房が丹波福知山5万石から7万石島原城主として移されたときに従ってきて、明治初期まで11代、8石から13石2人扶持を給され、主として郡方祐筆(書記)や代官などを勤めた。屋敷坪数はこのあたりすべて3畝(90坪)である。
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入口が二つ並ぶ「篠塚邸」の玄関風景です。

左の勝手口を進むと右に台所があり、その奥に6畳の「茶の間」、6畳の「女座」と続いています。

右の玄関を入ると右に2畳の間があり、その奥に6畳の「次の間」、その右奥に8畳の「男座」が続いています。

「女座」「男座」と名付けられた部屋は、他の屋敷でも見られず、篠塚家独特の名称だったのでしょうか。



「男座」からその奥の「次の間」、更に奥の「女座」と部屋が続く「篠塚邸」の風景です。

行燈や、火鉢に当時の生活が偲ばれます。

「男座」では息子を前に座らせ、お父さんが何かを教えている場面のようです。

藩でのお役目を代々伝えていくことは、武家にとって最も重要なことだったと思われます。

案内板に「郡方祐筆(書記)や代官などを勤めた」とあり、藩内での転勤や、大名の国替えなどを考えると、これらの屋敷は現代の社宅のようなものだったのかも知れません。



通りを南に進むと左手に「鳥田邸」があります。

石垣の塀は、江戸時代中期の1775年、藩主の命で築かれたとされ、この風景はそれ以来残されているものと思われます。

茅葺屋根の下に突き出た瓦屋根は、当初からのものではないようで、後の時代に増築されたかも知れません。

■鳥田邸の案内板です。
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鳥田邸
 鳥田家は藩主松平氏の草創以来の古い家柄で、藩主の転封にともなって三河国吉田、丹波国福知山と転じ、寛文9(1669)年、ここ島原に入った。
歴代地方代官・郡方物書などを勤めたが、幕末には御目見獨禮格で7石2人扶持を受け、材木奉行・宗門方加役・船津往来番などの重職についた。このあたり一帯は中・下級武士の屋敷で、一戸当たりの敷地は3畝(90坪)ずつに区切られ、家ごとに枇杷、柿、柑橘類などの果樹を植えていた。道路の中央を流れる清流は、往時の生活用水路である。
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上段の写真は「鳥田邸」の茅葺屋根の棟がのL字のように曲がっている風景です。

下段の写真は、玄関の右手に角を挟んで二つの部屋がある風景です。

茅葺屋根の棟がL字型になっているのは上記の「山本邸」や、「篠塚邸」も同様で、大和から国替えで来た松倉氏以降の屋敷であることから地方の伝統的家屋の特徴ではないようです。

通りから入ると建物が左側にあるのが「鳥田邸」と「山本邸」で、「篠塚邸」は右側にありました。

武家屋敷街の案内板に「島原城ができた当時から一軒一軒の屋敷には境界の塀がなく、隣家の奥までまる見えで・・・」とあり、上山藩(山形県)武家屋敷にも見られるように左右対称のL字型二軒が庭を挟んで建てられていたのかも知れません。

新たに造られた城下町で、当初は石垣の塀がなく、通りの敵を鉄砲で攻撃したり、家の前の庭に侵入した敵を左右から攻撃出来る工夫がされていたのではと想像が湧いてきます。



「篠塚邸」の前に掲示されていた江戸時代の「島原藩士屋敷図」で、現代の地図と対比させるため、北が上になるよう図を回転させています。

島原城は、太い線で囲まれた範囲で、鉄砲町と呼ばれた中・下級藩士の屋敷街は城の西側に広がっていたことが分かります。

島原城内には堀に囲まれた「本丸」と、「二の丸」、その北に藩主の居館などがあった「三の丸」と続き、城壁で囲まれたその他の場所には上級武士の屋敷が並んでいました。

本丸へは城壁の南東部の大手門を入り、二の丸の北に架かる橋を渡り、更に本丸の北の橋を橋を渡る厳重な構えだったようです。



上段の「島原藩士屋敷図」とほぼおなじ範囲を国土地理院の地形図で見たものです。(中・下級藩士の屋敷街だったと思われるエリアに水色、城郭だったと思われるエリアに薄緑色を塗っています)

観光案内の武家屋敷街のパンフレットにあった地名と、詳細地図の地名を眺めてみると、ほとんど変わりなく残っていることに驚き、「青雲寺」から南に伸びる武家屋敷街の町筋の名称を地図に記してみました。

パンフレットによると江戸初期の松倉氏時代の町筋は、下の丁・中の丁・古丁の東側三筋だったものが、1669年からの松平氏時代には上新丁・下新丁・新建の三筋が西に広がり、幕末になって城に近い東南端の江戸丁が造られたことが伝えられています。

又、パンフレットでは三河出身の松平氏家臣団が使う三河弁が「家中言葉」で使われていたとするのは私の住む福山市(家康の従弟水野勝成が開いた城下町)でも似ており、どこか親しみを感じる城下町です。

■武家屋敷街の観光案内のパンフレットの説明文です。
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武家屋敷(鉄砲町)の由来
 島原城の築城のとき、外郭の西に接して扶持取70石以下の武士たちの住宅団地が建設されました。戦いのときには鉄砲を主力とする徒士(歩兵)部隊の住居であったので、鉄砲町とも呼ばれています。街路の中央の水路は豊かな湧水を引いたもので、生活用水として大切に守られてきました。
 島原城が竣工した1624(寛永元)年ごろ、藩主松倉氏は知行四万石で、鉄砲町も下の丁・中の丁・古丁の三筋だけでしたが、1669(寛文9)年松平忠房が知行七万石で入封してから、新たに上新丁・下新丁・新建の三筋が作られ、さらに幕末に江戸詰めの藩士が帰国することになって、最後に江戸丁が作られました。徒士たちの平常の勤務は、各役所の物書(書記)、各村々の代官、検察や警察、城門の警備などでしたが、1868(明治元)年の「戊辰戦争」には260人ほどの徒士たちが官軍に属して奥州へ出陣、4人が戦死するという戦歴も残しています。
 南北に通じる各丁の道路の中央には水路を設け、清水を流して生活用水としていましたが、この当時、水源は主に2キロほど北にある杉山権現熊野神社の豊かな湧き水を引いたものでした。藩主松平氏は三河国の深溝(愛知県幸田町)の出身で、家臣団も多くが三河者であったため、独特な「家中言葉」が使われていました。
住宅は25坪ほどの藁葺き、屋敷内には藩命で梅・柿・密柑類・枇杷などの果樹を植えさせ、四季の果物は自給できるようになっていた。
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長崎旅行-4 長崎県諫早市「諫早の眼鏡橋」

2012年12月18日 | 九州の旅
2012年9月11日長崎旅行1日目、長崎県大村市の「玖島城跡」を後にして島原半島へ向かう途中、諫早[いさはや]市の「諫早の眼鏡橋」へ立寄りました。



諫早公園の池に架かる「諫早の眼鏡橋」の南東方向からの風景です。

諫早の眼鏡橋は、石橋として全国初の指定を受けた重要文化財で、姿の美しさや、大きさは、長崎の眼鏡橋をしのぐものでした。

この風景の向うを流れる「本明川」から諫早公園へ移設され、歴史的建造物として大切に保存されているようです。

■橋の南のたもとに眼鏡橋の詳細が刻まれた石碑がありました。
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重要文化財 眼鏡橋移築復元記
事業概要
 移築復元工事
 工 期 解体工事 着 工 昭和三十四年二月
          竣 功 昭和三十四年四月
     復元工事 着 工 昭和三十五年七月
          竣 功 昭和三十六年九月
 工事費 解体工事     二百九十四万三千百円
      収入内訳
       国庫補助   百九十五万八千七百円
       長崎県費補助 四十五万円
       諫早市負担  五十三万四千四百円
     復元工事     二千六百二十万円
      収入内訳
       国庫補助    千八百三十四万円
       長崎県費補助  三百九十三万円
       諫早市負担   三百九十三万円
 事業者   諫早市

眼鏡橋の由来
 郷土諫早の象徴として市民に親しまれてきた眼鏡橋は、今を去る百二十二年前、第十二代諫早領主茂洪により天保十年(一八三九年)八月、本明川(復元の現在地より下流四百五十メートルの地点)に架せられたものである。
 史によれば、文化七年(一八一〇年)の本明川の大洪水によって橋のすべてが流失してからは、川を渡るにも飛石づたいか、下町の裏手から土井にかかる粗末な板橋を利用するほかなく、住民は約三十年も渡河に困難を感じていた。ところが、たまたま佐嘉藩より上使の下向、公領巡検使の巡察が伝えられ、本明川に橋がないことは領の面目にかかわると、新たに橋を架けることが議せられた。
 最初柱立式石橋のもくろみ書が作られたが、この際永久不壊のものを造りたいと各地の橋の資料を集めて熟慮考案の結果、長崎の眼鏡橋にならうことをきめ、設計をたてて領主の裁決を仰いで構築に着手した。時に天保九年二月。修理方は公文四郎右衛門と中嶋十郎兵衛である。
 修理方は領内の優秀な石工を集めて実施の計画を推進する一方、経費についてはその一部を領民負担と一般の喜捨によることゝし、篤志の僧侶は托鉢に回るなど、当時における領民の協力ぶりは今なお語り伝えられている。
 かくて一年有半の歳月と銀三千貫の浄財を費し、苦心の末、近隣にその比をみない拱式石橋の完成をとげたのである。
 爾来、幾星霜、時移り人変ったが、眼鏡橋は本明川の流れにその優美な影を宿しながら、ただ平和な街の変遷を眺めてきた。

昭和三十二年大水害による被害
 然るに、昭和三十二年(一九五七年)七月二十五日、未曾有の大洪水は諫早全域をおそい、上流の家屋を押流し、木橋を破壊し、おびただしい流木は眼鏡橋に激突した。このため、上流側の欄は流失し、とくに右岸側は堤防の決潰により被害は甚だしく、壁石、橋面石等の相当量が流失した。しかしこうした大破損にもかかわらず、アーチ橋自体は全然緩むことなく不壊の石橋として、その名を全うしたのである。

重要文化財指定と移築復元
 水害による本明川の改修工事が、国の直轄工事として実施され、川幅の拡張(四十メートルを六十メートル)と両岸のかさ上げとに伴い、眼鏡橋は撤去の止むなきに至つたのであるが、芸術的にも土木工学上にも極めて価値のいこの歴史的大石橋を失なうことは、まことに遺憾であると考え、諫早市は文化財保護委員会にその保存方を懇請したところ、同委員会は直ちに専門審議員の諮問に付し、国の文化財として保存することに決め、昭和三十三年十一月二十九日、石橋としては全国最初の重要文化財として告示された。同年十二月諫早公園広場に移築復元することに方針を決め、翌二月よりその解体工事に着手したが、解体に先だっては精密な実測調査を行ない、また各部石材には基準線や記号番号を記入付する等旧状を忠実に再現できるような考慮を払った。これら解体時の調査資料により、昭和三十五年組立てに着手、基礎はもと軟弱泥土層で中央部は杭打、角材を敷き並べてあったのを今回コンクリート基礎に変更したほかは全く架設当初の原型にもとづき移築を完了したのである。
 補足石は旧材と同質の市内小川町産の砂岩を用いた。
  昭和三十六年九月三十日
   諫早市長 野村義平
   技術指導 文化財保存委員会
   施行者  解体工事 株式会社梅林土木
        復元工事 大成建設株式会社
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諫早公園付近の国土地理院航空写真です。

本明川南岸に高城跡を中心とした諫早公園があり、道路脇の駐車場に車を停めて眼鏡橋を見物しました。



北東側から見た眼鏡橋の北詰の風景です。

中国伝来の技術を基に造られたと考えられ、外観にも中国的な雰囲気が漂っているようです。

■橋の横にある案内板です。
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国指定重要文化財 眼鏡橋
  昭和三十三年十一月二十九日指定
 この眼鏡橋は、後方を流れる本明川の、ここから約四百m下流(現在、歩行専用橋があります)に架かっていました。
 市の中心部を流れる本明川は古くから何度も大水害に襲われ、川に架けられた木の橋はそのたびに流されていました。このため昔の人たちは、飛び石(後方付近にあります)を利用して川を渡っていました。
 そこで、水害でも流されない橋を造ろうと、天保九年(一八三八)に石橋の建設がはじまり、翌十年(一八三九)に念願の眼鏡橋が完成しました。
  いさはやの眼鏡橋 いきもどりすれば おもしろかなり
と数え歌にされるほど愛されていましたが、昭和三十二年の諫早大水害では橋の造りがあまりにも頑丈であったため激流でも壊れず、水の流れをせき止める堤防の形となって、死者行方不明者五百三十九名の大きな犠牲者を出す原因となりました。
 大水害のあと、本明川の川幅を広げることとなり、ダイナマイトで壊す計画がありましたが、眼鏡橋を残したいという市民の願いによって、昭和三十三年に石橋としては全国で初めて国の重要文化財に指定されました。
 そして、昭和三十六年にこの諫早公園へ移され、いつまでも美しい姿を見ることができるようになりました。

眼鏡橋の概要
(1)長さ四十五m・高さ六m・幅五m。使用石材(砂岩)は約二千八百個で、裏山や正林から切り出され、川沿いに並べられた石材の様子は壮観だったそうです。
(2)石橋では国の重要文化財指定第一号。
(3)「ダボ鉄」により石材を固定しており極めて頑丈です。
(4)アーチ中央の基礎石の下に有明海の潟が深さ一mほど入っていました。潟がクッションの役割をし、地震の揺れに併せて橋自体が多少揺れることで、揺れる力を吸収し、橋を衝撃から守るためと思われます。(現在はコンクリート基礎に変更されています)
(5)橋の両側の階段は、上に行くほど段差が低くなっています。これは橋を登る際に、段差が同じである場合よりも疲れにくくするためと考えられます。
(6)欄干や擬宝珠のデザインは美術的に優れており、アーチの形状も半円ではなく三分の一円を採用していることから優美な印象を与えてくれます。
  平成十七年三月
   諫早市教育委員会
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案内板に「本明川に架かっていた頃の眼鏡橋」と紹介されていた写真です。

大洪水のあった1957年(昭和32)以前の風景と思われますが、1839年(天保10)に造られて100年以上経た風格のある姿です。

橋の姿が川面にくっきりと映っていることから本明川の流れは極めてゆったりとしており、当時の土手が低く、狭かった様子から幾度も洪水被害を受けてきた歴史がうなづけます。



案内板にあった眼鏡橋の「平面・側面図」(全長49.25m、長さ45.4m、幅5.5m、幅員5m)です。(赤字は加筆)

「橋」(小山田了三著、法政大学出版発行)によれば、基礎杭について、「最下端の軟弱地盤(泥の下の砂層)に五列一〇行の計五〇本の杭打地形[じぎよう]を整然と行ない、その上端を地上に少し出している。これは「営造法式」の工法と一致している。」とあり、中国北宋(960~1127年)の建築技術書「営造法式」に学び、国内では最も正統に取り入れた橋とされています。

基礎の杭は、固い岩盤に支えられるものと思っていましたが、下層土との摩擦で支える技術によるもとされ、技術水準の高さに驚きました。



欄干や、擬宝珠に飾られた眼鏡橋を北詰めの風景です。

橋の両端には12段の階段が見られ、諫早の眼鏡橋は荷車などが通れない人馬の橋だったようです。



中央の橋脚付近の風景です。

上段の説明文に、軟弱地盤に50本の杭が打たれていたとあったのはこの下で、両岸の基礎には杭が省略されていたようです。

全て石材で造られたヨーロッパの石橋と違い、肉厚部分の内部には土砂が詰められているようです。

中央橋脚付近にも5段づつの階段がありましたが、石橋にはあまり例のないものだそうで、美しいシルエットと、軽量化への配慮なのかも知れません。



美しい水面にメガネのシルエットがくっきりと映る南東方向から見た眼鏡橋です。

各地には様々な眼鏡橋がありますが、こんなオシャレな眼鏡は初めてです。



諫早の眼鏡橋のお手本にされた「長崎の眼鏡橋」(長さ22m、幅3.65m)です。

1634年(寛永11)に中国から来日した僧侶「黙子如定[もくす にょじょう]禅師」によって造られた我が国最古(沖縄を除く)の石造りアーチ橋で、洪水などで橋の損壊が多発していた時代、その後の日本の道路整備に大きな影響を与えた橋です。

欄干の模様や、擬宝珠などに諫早との類似点もありますが、半円形のアーチや、中央の反った姿など違う点も多くあり、諫早の眼鏡橋が単純な模造ではなかったことが分ります。

諫早の眼鏡橋が造られたのはこの眼鏡橋が出来て約200年後のことで、1100年頃の中国で編修された建築技術書「営造法式」が日本の諫早で活用されたのが700年以上経った時代でした。

現代、先進国と自負する日本ですが、約200年前のこの歴史を知る時、謙虚に海外との交流を進めることの大切さを感じます。

油絵「ぶどう」

2012年12月13日 | 妻の油絵

妻の油絵「ぶどう」です。

農家から葉のついたブドウを頂き、白い椅子の上に飾り付けています。

ブドウを盛り付けたコンポートの緑の輝きに魅せられながら描いたそうです。

ブドウは、福山市沼隈町産のピオーネだそうで、甘い大粒の実には種がなく、ペロリと食べられます。

何気なく食べているブドウですが、最近、房の先端から根元に向けて食べるとおいしいことを教えられました。

根元の粒の甘さが強く、逆の順だとおいしさが半減するのだそうですが、おいしいものは先に食べる主義の私にはいささか抵抗を感じるものです。

しかし、このピオーネ、「(絵も味も)違いの分らない男」の私にはどこから食べても旨いブドウでした。

長崎旅行-3 玖島城の海の玄関「大村藩お船蔵跡」

2012年12月11日 | 九州の旅
2012年9月11日長崎旅行1日目、大村藩の居城「玖島城跡」の次は、大手門近くの海岸にある「お船蔵跡」です。

「玖島城本丸跡」から駐車場に戻り、海岸沿いの道を「大村藩お船蔵跡」へ向かいました。



大きな木の下に「大村藩お船蔵跡」が見えてきました。

「大村藩お船蔵跡」は、かつて三方を海に囲まれた玖島城の海岸にあり、大村湾岸に広がる領地をつなぐ重要な海上交通の施設でした。

向うの海岸に建つ建物は、大村藩の藩校に由来する大村高校の「艇庫」だそうで、伝統を継ぐかのようにボートクラブの活動が行われているようです。

■現地の案内板より
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県指定史跡 大村藩お船蔵跡
「この船蔵は、玖島城に附属した施設で、四代藩主大村純長が元禄年間(1688~1703年頃)に築造したものです。ここには、殿様の使用した御座船をはじめ、藩の船が格納されました。
 江戸時代、船は貴重な交通手段でしたが、領地が海を取り囲む形の大村藩にとっては特に重要な乗物でした。藩主が長崎をはじめ、領内各地に赴く時には、船が多く使われました。このほか、兵員輸送や各種物資の運搬にも使われるなど、大いに活用されました。したがって、船蔵は、藩にとって重要な藩船を格納する場所であり、軍事面の備えのみでなく、交通産業面でも藩を支えた施設でした。
 この船蔵は、もとは外浦小路の入り口にあったことが記録に出ており、元禄年間に板敷浦(現在の場所)に移ったとされています。また、板敷櫓下の発掘調査で船蔵跡が発見されています。
 このお船蔵の後ろ(現在の教育センター付近)には、米蔵や硝煙小屋があり、海を挟んで正面には船役所がありました。
 当時は、風雨を避けるため、石垣の上に柱を建て、屋根で覆っていたと思われ、柱穴の跡が石垣に残っています。旧城郭の一部として古い石組と船渠(ドック)など昔の面影をそのまま残しており、このような船蔵遺構の例は数少なく、海城としての玖島城の特徴をよく表しています。海と密接な関係のあった大村藩の性格を伝える極めて貴重な文化財として県指定史跡となっています。」
  平成10年3月
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大村藩の領地を国土地理院の白地図に大ざっぱに描いてみました。

大村湾の東岸、西岸、東シナ海沿岸と、島嶼部に広がっていた大村藩の領地の事情を知ると、他藩に比べて船の輸送は極めて重要なものだったことが分ります。

又、大村藩は、幕府より長崎港警備を任じられており、船で時津町(大村湾南西)まで船で行き、長崎へ向かう短縮コースがあったようです。



「大村藩お船蔵跡」のエリアを国土地理院の航空写真に黄色の破線で囲んでみました。

写真右上は「玖島城本丸跡」、写真下には1686年(貞享3)築造の「新蔵波止跡」も見えます。

「新蔵波止跡」の名称に「新」がついていますが、元禄年間(1688~1703年頃)築造の「お船蔵」より以前の施設になります。

写真右下は「お船蔵跡」と、縮尺50mを対比したもので、入江に伸びた2本の「物揚場」の長さは長い方で約40m、短い方で約30mのようです。



「お船蔵跡」の平面イメージ図を作ってみました。

入江に築かれた二本の「物揚場」により、三基の船渠(ドック)が造られており、各部分に仮の名称をつけて以下に説明します。



石垣で造られた三基の船渠(ドック)が並ぶ「お船蔵跡」の風景です。

自然石を積み上げた比較的簡易な石垣ですが、大村湾内の穏やかな入江に守られ、300年以上経過した現在も健在だったようです。

「物揚場-2」に「県指定史跡 大村藩お船蔵跡」と刻まれた石柱と、案内板が建ち、一番右手の「ドック-1」には水草が茂っています。

案内板に「海を挟んで正面に」と書かれた「船役所」は、右前方の茂み辺りにあったと思われます。



「ドック-C」の平面図下側の石垣です。

上段の写真にも見られますが、「ドック-C」の両側の石垣には上から約1m下に段が作られており、深い大村湾内の高い潮位差や、積荷による船べりの高さの変化に対応するための足場と思われます。

潮位は、ほぼ中間の時間帯でしたが、ドック内の水深が意外に浅く、土砂が堆積していたのかも知れません。



「物揚場-2」の風景です。

「物揚場-2」の両端には、柱穴の彫られた石が一定間隔で見られ、案内板に書かれているように建物があったことがうかがわれます。

こちらの石垣にも約1m下に段があり、低くなった「物揚場-2」の先端まで続いています。



写真上部は、「物揚場-2」の「ドックC」側の端に続く、柱穴が掘られた石ので、排水の溝も彫られています。

写真下部は、柱穴が掘られた石を対岸から見た風景で、柱穴に彫られた排水の溝がよく分かります。

柱穴の形状や、水抜きの溝は、様々な形に彫られており、整然とした設計の建物ではなかったことがうかがわれます。



「物揚場-2」の「ドックB」側の石垣の風景です。

「ドックC」側とは異なり、こちら側の柱穴に水が溜っており、排水の溝が見当たりません。

案内板に「風雨を避けるため、石垣の上に柱を建て、屋根で覆っていた」とあり、こちら側の石垣は、屋根で覆われて柱穴に雨が降込まない環境だったと思われます。



「ドックA」と、「ドックB」の間にある「物揚場-1」の風景です。

隣の「物揚場-2」と比べてだいぶ狭いようです。

左手の「ドックB」側の石垣の上には水の溜まった柱穴のある石が並び、「ドックA」側には柱の台石らしき物は見当たりません。

又、右側「ドックA」側の石垣の下部には「ドックC」と同様に段が見られますが、高さはだいぶ低いようで、船べりの高さに対応する設備としたら小さな舟が格納されていたことが考えられます。



「お船蔵跡」の見学をふり返り、平面図(概略)に柱の台石を描き加え、屋根で覆われていたと思われる範囲を赤い波線で囲ってみました。

「物揚場-1」の「ドックB」側だけにある柱は、「ドックB」を覆う屋根を支えるもので、排水溝のない柱台石から考えると、幅の狭い「物揚場-1」を覆うような長い軒が伸びた構造だったと考えられます。

「物揚場-2」の「ドックB」側の柱は、「物揚場-1」の柱と対で「ドックB」を覆う屋根を支え、更に「ドックC」側の柱との間にも屋根があったと考えれば、柱台石に排水溝が不要だったことが納得できます。

「物揚場-2」の「ドックC」側の柱は、幅の広い「物揚場-2」全体を覆う屋根を支えるもので、排水溝が彫られた柱台石から考えると、「ドックC」には壁がなかった可能性があります。

又、ドックの用途について、低い石垣段がある「ドックA」では、前述の通り小さな舟の格納が考えられ、やや高い石垣段がある「ドックC」では、少し大きめの船の格納が考えられます。

真ん中の屋根に覆われた「ドックB」には案内板に「殿様の使用した御座船」とあるように最も大切な藩主の「御座船」が格納されていたと考えられます。



「物揚場-2」から見た「お船蔵跡」後方の風景です。

道路の向こうの一段高い場所に教育センターの建物があり、案内板に書かれた「米蔵や硝煙小屋」はあの辺りだったのでしょうか。

初めて見る江戸時代の「お船蔵跡」だけに興味津々でしたが、どんな船で、どんな運営だったのか、又「硝煙小屋」とはどんなものだったのか等々、案内板だけでは分らないことが多く、物足りなさを感じる見学でした。

ほとんど例のない貴重な史跡だけにもう少し詳細の情報が欲しいものです。

長崎旅行-2 「玖島城跡」と大村藩を支えた人々

2012年12月05日 | 九州の旅
2012年9月11日長崎旅行1日目、「大村純忠史跡公園」の次は、大村藩の居城「玖島城跡」の観光です。



上段のマップは、観光案内所で頂いた「大村城下町まち歩きガイドマップ」「玖島城跡」の一部分です。

「玖島城跡」の散策順を、観光案内所横の駐車場(1)→駐車場横の池(2)→「玖島城跡」の北側の坂道(3)→搦手門(4)→城内(5)→虎口門跡(6)→城郭北西角(7)→駐車場(1)と回りました。(マップに印した各地点の番号をご参照下さい)

下段は、「玖島城跡」周辺の地形図です。

地形から見ると「玖島城」は、遠浅の海岸近くの島を利用して築城されたものと思われ、海にそびえる城では、小早川隆景が築城した「三原城(浮城)」を連想します。

かつての城は、東側に二本、南側に一本の道のみで東の海岸とつながっていたようで、城の北側は後世の埋め立てのようです。



観光案内所(マップ1)から城へ向かって歩くと広い「桜田の堀」が見えてきました。(マップ2)

中央に庭園らしい中島があるものの、海岸近くの海が堀として残されたものと思われます。

比較的小さな城でしたが、この広い「桜田の堀」を見ると堂々たる規模の城に見えたのかも知れません。



坂道を登ると城壁が見えてきました。(マップ3)

前方の城壁から左折、左手の城壁を手前に進み、搦手門跡から入って行きました。



搦手門跡を本丸内から見た風景です。(マップ4)

築城当初は北に向いたこの場所が大手門だったようですが、15年後の改築で搦手門に変更されたようです。

大村は、北から伸びる半島の西海岸にあり、大手門を北としたのは、北からの敵に備えるためだったのでしょうか。

南に変更された理由など知りたいものです。



搦手門跡の横の塀の下に長い雁木(石段の設備)が設けられ、塀には矢狭間、鉄砲狭間が見られます。

塀に空いた長方形の穴が矢狭間、三角の穴が鉄砲狭間で、城壁に沿った長い雁木は、大勢の兵士が機動的に行動するための設備と思われます。



案内板にあった「江戸後期の玖島城本丸」の絵図です。

本丸内には天守閣がなく、藩主居館や、政庁などがあったようで、西の「虎口門」を出ると「二の丸」、更に南の大手門に通じています。

本丸南の「台所門」は、東の藩主居館へ通じる門で、一般に藩主居館を「(御)台所」と呼ぶことから名付けられたようです。

■現地の案内板より
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玖島城[くしま]本丸跡
 ここは、大村藩二万七千石の居城である玖島城の本丸跡です。玖島城は、慶長四年(一五九九)に造られた城です。その後、慶長十九年(一六一四)に大改修を行い、それまで北側にあった大手を南側の大手に改修し、この時、虎口[こぐち]門、台所門、搦手[からめて]門の三つの入ロの形が定まったと伝えられよす。
 本丸の敷地の内、西半分にあたる大村神社本殿のある一帯には大広間など侍詰所(政庁)があり、東半分の玖島稲荷神社のある一帯には藩主の居館がありました。城に天守閤はなく、平屋の御殿でした。本丸を巡る石垣の上には塀を埋らし、矢狭間、鉄砲狭間、石火矢狭間が設けられ、護摩堂や多聞櫓があったと記録されています。
 左の絵図は江戸後期の玖島城本丸を描いたもので、政庁や藩主居館の位置や間取りを見ることができます。
 玖島城は、明治四年の廃藩置県で大村県庁が置かれましたが、すぐに長崎県に合併されたことにより不要となり、建物は取り壊されました。その後、明治十七年に旧藩家臣により大村家歴代を祀る大村神社が建立され、現在に至っています。
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本丸の中央に建つ「大村神社」です。(マップ5)

大村氏の祖霊を祀る神社ですが、戦国時代以前からこの地域を治める武家だけに土地の人々から広く親しまれているようです。

拝殿前の左右に柵に囲まれた「オオムラザクラ」は、九州の桜では2例しかない国指定天然記念物となっているようです。

又、その近くに県指定天然紀念物「クシマザクラ」もあり、「大村神社」は珍しい桜の品種が見られるスポットのようです。

■現地の案内板より
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大村神社由来
大村神社は藩祖遠江守直澄公以来歴代の神霊を奉齋した御社でありまして文化二年(1805)に時の大村家二十八代藩主)大村上総介純昌公が西大村池田山に御創建になり常盤神社と称し東、西彼杵郡内一町十四ヶ村の人々の崇敬が殊に深かったのであります。
明治に入り旧大村藩の総産土神として大村家累代の居城であり、風光明媚な玖島城址に御遷し申し上げる事になり、朗冶十七年(1884)には旧大村藩内崇敬者の御寄附と労力奉仕とにより現在地に新たに社殿を建て御遷座申し上げ大村神社と改称されたのであります。
明治十八年二月十九日には県社に昇格、神格としては薩摩、長州、土佐の三藩主と同様明治維新の功により当然別格官弊社に御昇格なさるべきでありましたが種々の事情に依って遂にその実現を見る事が出来ませんでした。昭和二十年大東亜戦争終結以後は神社法規の変革に伴って宗教法人として認められましたが昭和三十年秋には御遷座七十周年を期して大村家から境内地の御寄進があり、又近くは旧大村藩領を初め東京、京阪神地区の崇敬者各位の熱誠な御援助を受けて御神輿及び御神宝器具類の新調が出来まして記念の大祭を盛大に奉仕致しました。
かくして本社は由緒ある歴史と環境の美と共に御神徳いよいよ高く春秋の大祭には参詣者も多く奉納の催しものも年々賑わしく人々は郷土大村の大祭として心からお慕ひ申し上げて崇敬の誠を捧げております。
境内には中祖喜前公遺徳碑、幕末の名君純熈公銅像、大村神社紀功碑、貝吹石、御居間跡碑、大村桜、角館しだれ桜、等歴史の数々を物語るものが多く拝殿掲額は陸軍大将栖川宮熾仁親王の揮毫であります。
 祭 典 日
  例祭  四月七日、八日、九日
  季大祭 十月十六日
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■現地の案内板より
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国指定天然記念物
大村神社のオオムラザクラ
 オオムラザクラは、昭和十六年、当時、大村の女子師範学校の教官であった外山三郎(のち長崎大学名誉教授)によって学会に報告され、命名された大変珍しい品種で、八重桜の一種です。
 花は、八重桜を二つ重ねたような独特の.二段咲きで、下の花を外花、上の花を内花といい、外側にあるがく片は十救(桜の基本は五枚)、花弁の数が、多いものでは二〇〇枚にも達するなどの特徴があります。
 大村公園に多く見られますが、大村神社社殿前の二本が、昭和四十二年に国の天然記念物に指定されました。ソメイヨシノより少し遅く、四月の中旬以降にピンクの花をつけます。
 大村市の市花となっでいます。
 平成八年三月
         大村市教育委員会
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■現地の案内板より
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県指定天然紀念物
大村神社のクシマザクラ
 大村神社の同じ境内の中に、珍種として国の指定を受けたオオムラザクラがあります。これを発見した外心三紳氏は、オオムラザクラを研究しているうちに、この中にタイプの違った特異な品種を発見しました。これが学会に報告され、昭和ニ十二年にクシマザクラと命名されました。
 咲く花の内、約半数が花の中に花が咲くという二段咲きとなります。めしべは二枚の小さい葉に変わっており、二段咲きのものではこのめしべの中に小さい不完全な内花を包み込んでいます。花びらの数は、四〇~五〇枚とオオムラザクラよりやや少な目ですが、直径四・五cmのピンクの上品な花が四月後半に咲きます。
 昭和四十二年県の天然紀念物に指定されました。
平成九年三月
大村市教育委員会
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大村神社の横に初代藩主「大村喜前公」の石碑と、最後の藩主「大村純熈公」の銅像が建っていました。

初代藩主「大村喜前[よしあき]公」(1569~1616年)は、龍造寺氏支配から脱却し、豊臣政権傘下への移行、キリスト教の棄教、徳川政権傘下への移行など激動の時代を見据え、その後の大村藩の基礎を築く決断をしています。

右の銅像、最後の藩主「大村純熈[すみひろ]公」(1831~1882年)は、佐幕派・尊皇派などに分裂する藩論をまとめ、尊王討幕の方針を決め、官軍として戊辰戦争へ従軍しています。

代々の大村家当主には時代の変化を読み、勝ち組を見抜くDNAでもあったのでしょうか。

■大村喜前公の石碑の説明板です。
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 中祖 大村喜前公遺徳碑
 大村喜前は、キリシタン大名太村純忠の長男として生まれ、幼くして洗礼を受け、霊名をドン・サンチョと称しました。その後、佐賀の龍造寺隆信のもとに送られ、人質として過ごしました。
 純忠についで大村家を相続し、大村家第十九代となり、秀吉の薩摩天草攻め。朝鮮出兵に従軍し、戦功をたてました。秀吉の死後、天下が乱れるのを恐れて、慶長四年(一五九九)玖島城を築いて、新しい城下町を造りました。徳川幕府が開かれると、本領を安堵され、初代藩主となります。一方、キリスト教の禁止が厳しくなることを察知し、領地を守るため、キリスト教を棄て日蓮宗に改宗し、本経寺など多くの社寺を建立しました。
 さらに朝鮮出兵の論功行賞を兼ね、ご一門払いという家臣団の改革を行い、藩主の権威を確立し、家臣団の結束を固くしました。また、二回にわたり、領内の総検地を行いました。
 このように、喜前は藩政の基礎固めを進めていきましたが、元和二年(一六一六)四十八歳で急逝しました。本経寺に葬られ、「中興の租」とあがめられています。この碑は大正四年に建立されたものです。
 昭和五十七年二月
   大村市教育委員会
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■「長崎県の歴史」(山川出版社発行)、藩主純熈が尊王討幕の方針決断の記述です。
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政局の緊迫化のなか、文久三年には、幕府から長崎奉行に任命されるという前例のない事態になったが、藩内では尊皇穣夷論がしだいに優勢となり、針尾九左衛門・長岡治三郎ら三七士が同志を糾合して血盟(十二月)をもって改革派を形成し、翌元治元(一人六四)年八月に純熈が長崎奉行を辞任するとともに、十月に藩内佐幕派を一掃する政変(元治政変)がおこった。この後、慶応三(一八六七)年に、改革派のうち針尾ら二人が反対派に暗殺されるなどの事件もおきたが、藩全体としては改革派を中心に尊王討幕へと方針が定まり、維新においても討幕軍の一翼をになうこととなった。
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大村神社の前方に珍しい「貝吹石」が置かれていました。

戦国時代、戦いの合図で、「法螺[ほら]貝」の代用品としたとされ、小さな穴を吹くと、大きな穴から音が出るようです。

大きな穴は、吹いた人の左耳辺りに響く位置にあり、吹く人は耳をふさで吹いていたのでしょうか。

「貝吹石」の近くに大村藩の重臣「大村彦右衛門純勝」の石碑があり、純勝が大村藩の存続に大きく寄与たことが刻まれています。(下に碑文を掲載)

「大村彦右衛門純勝」の碑文の最初頃に「御一門払い」とありますが、大村鈍忠が開港した長崎港と、その貿易権益を豊臣・徳川に没収され、大村藩の財政立て直しのためのリストラ政策だったようです。

■案内板より
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貝吹石(通称ほら石)
 円形の野石であって、上に大小二つの穴があり、小さな方を吹くと法螺貝の音を出すので此の名がある。萱瀬村から寄附されたもので昔天正年間竜造寺隆信が萱瀬村を襲撃の時、同村の郷士等が藩主純忠の命を奉じて菅無田の砦に立籠り隆信と戦うとき此石の穴を吹いて合図の陣具に代用し終に敵を追い退けたと云う伝説がある。
 大村市商工観光課
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■石碑の説明板です。
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大村彦右衛門純勝碑
 大村彦右衛門純勝は、大村鈍忠から鈍信までの四人の当主に仕えました。玖島城の築城や御一門払いといった重要な政策に関わるなど、大村家の発展に大きな役割を果たしました。その中でも有名なのが、三代藩主大村鈍信の跡目相続の時の話です。
 一六一九年(元和五)、二代藩主純頼が急死しますが、大村藩は当時二歳の松千代(後の鈍信)の誕生を幕府に届け出ておらず、大村藩は跡継ぎの断絶による取り潰しの危機に直面しました。そこで彦右衛門は、松千代と共に江戸へ行き、半年にあたって幕府と交渉し、ついに跡目相続を認めてもらいました。
 この碑は、そうした彦右衛門の忠節を称え、一九〇七年(明治四十)に大村出身の人びとによって建立されました。裏の「顕忠碑」の文章は、幕末の志士として活躍した渡辺昇によるものです。
平成二十四年二月
   大村市教育委員会
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■「長崎県の歴史」(山川出版社発行)より「御一門払い」関係の記述です。
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中世以来、戦国大名として続いてきた大村氏が、近世を迎え、その藩主権力の確立のために行ったのは、庶家一門の知行を取りあげ、追放をも辞さない形での「御一門払い」という名の一種のクーデタであった。慶長十二(一六〇七)年に、庶家一門二〇家のうち一三家の知行地をことごとく没収したそれは、長崎を失い、貿易利潤には期待できなくなった大村藩の財政的基盤をシフトしなおすとともに、藩主の主導権を確固としたものにした。
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本丸の西側にある「虎口門跡」です。(マップ6)

向かって右前方に進むと本丸へ上がる階段、左手前方に進むと本丸北西(マップ7)です。

「江戸後期の玖島城本丸」の絵図にある虎口門を見ると、門の外には三方の石垣からの攻撃が出来、門を入っても三方の石垣と、石段の上からの攻撃が出来るようにして守備を固めていたようです。



「虎口門跡」の前に石碑や、銅像が並んでいました。(マップ6)

自然石を積み上げた大きな石碑に「戊申戦役記念碑」とあり、その手前の説明板には官軍として出兵した人々を讃える内容が刻まれています。

写真左下は、石碑と並ぶ「少年鼓手浜田勤吾」の銅像の正面風景です。

東北秋田での戦いで浜田少年が戦死した時、内襟から見つかった涙する母の歌から、大村藩の戊辰戦争を象徴する物語となり、語り継がれているようです。

■「戊申戦役記念碑」の石碑の説明板です。
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 碑 文
明治二年六月わが大村藩「二万七千石」は戊辰戦役の勲功により薩長土につぎ「三万石」の賞典禄を給せられ且、優渥なる感状を賜わる。
これ偏に明治維新の大業成就のため藩主「純熈公」を中心とし藩論を一定し上下一致粉骨砕心以って勤王の誠を捧げたる所以なり。
この戦役に際し大村藩は京都に到りては禁裏を守護し大津に進む、その後東海道征討軍先鋒として箱根の関を越え江戸に進撃す。江戸に於ては上野彰義隊の討伐に参加する。
慶応四年六月奥羽の賊軍追討の命下るや吾が東征軍総督土屋善右衛門以下一一〇名は藩地よりの応援隊総司令大村弥門以下一一〇名を併せ一隊を編成し薩摩、佐土原と共に進んで会津の強敵を屠り大いに戦功を立つ。又北伐軍「吾往隊」は羽州舟川港に上陸以来角館刈和野神宮寺等に転戦し殊勲を立つ。
しかし悲しくもこの戦役に於いて少年鼓手浜田勤吾を初め戦死二十二名戦傷五十七名の犠牲者を出す。この秋往時を想い、ここに碑を建て勤王の志篤く名君なりし藩主「大村純熈公」の御遺徳を敬慕し併せて従軍将兵の勲功を称えんとする。
平成元年十一月吉日
     吾往会会長 中瀬正隆
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■銅像の説明板です。
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少年鼓手浜田勤吾
明治維新への夜明け慶応四年戊辰の役あり
大村藩早くより勤王に尽し薩長土州に伍して東征北伐の軍を進む秋田救援の北伐隊三百二十五名様式装備し精強たり二番小隊に鼓手浜田勤吾あり
紅頬十五才の美少年にして常に先頭に軍鼓を打ち隊の士気を鼓舞すること勇敢なり
九月十五日刈和野に激戦し雨霰する飛弾に倒るる者多く勤吾遂に二弾を浴び「お母さん」と絶叫し戦死す
鼓音消えて秋風索漠たり屍を角館常光院に納む
内襟に母チカ女の一首あり
 ふた葉より手くれ水くれ待つ花は
   君かためにそ咲けよこのとき
子を思い励ます門出の歌に万人みな涙せり
星霜移りてここに百十八年今や銅像故山に建つ
あゝ浜田勤吾鼓手の姿よ永久に香れかし
  昭和六十一年十一月吉日
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虎口門跡から北に進んだ突き当りの風景で、ここにも石碑がたっていました。(マップ7)

石碑の説明板を読むと、江戸時代初期の1628年に台湾と日本の貿易にオランダの権益拡大が絡んだ紛争「タイオワン事件」があり、勇敢に戦った貿易船船長「浜田弥兵衛」の石碑でした。

江戸幕府により外国との貿易が次々と制限される時代で、鎖国時代に貿易を続けたオランダとの間にこのような紛争があったことに驚き、映画を見るようなスリリングな事件の顛末は実に興味深いものでした。

大村の地は、キリシタン大名「大村純忠」しか知りませんでしたが、「玖島城跡」を巡り、純忠の後に大村藩を守った初代藩主「大村喜前」、重臣「大村純勝」、幕末の藩主「大村純熈」、戊辰戦争で戦った兵士など、小さな藩を懸命に支えた人々の物語を知りました。

■石碑の説明板です。
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浜田弥兵衛の碑
 浜田弥兵衛重武は、江戸初期の朱印船貿易家で長崎代官末次平蔵配下の船長です。朱印船とは、幕府の渡海許可証(朱印書)をもって貿易を行った船を指し、鎖国前の貿易の形態でした。
 寛永二年(一六二五)弥兵衛は台湾に渡り、商品を買い入れましたが、当時港を支配していたオランダ側の課税に抵抗したため、オランダの長官により押収され、弥兵衛らはやむなく帰国しました。
 三年後、弥兵衛は再び台湾へ渡りましたが、なお、長官ノイツにより、将軍から台湾住民への賜物を押収されたり、帰国の許可を出さないなど不法な処置を受けたため、長官を人質に立てこもり、前に押収された商品を全て取り返し、更にノイツの子ローレンツら五人の人質とオランダ船具を連れ帰り、長崎へ戻りました。このとき連れてこられたオランダ人たちは、末次平蔵の命により、大村と島原の牢に分けて拘留されました。この間題は、日本とオランダの貿易の中断という大きな問題となりましたが、末次平蔵の死とオランダ側が長官ノイツを日本へ引き渡したため、寛永十年(一六三三)ようやく解決しました。大村藩においてオランダ人を監禁した牢は、現在のバスターミナル付近で 「オランダ牢」として伝えられています。
 弥兵衛の起こしたこの事件は、台湾における貿易において日本を排除しようとしていたオランダに対して抵抗するものでしたが、その後の交渉により日本とオランダの貿易は存続されることとなりました。
 この碑は、語り継がれた称兵衛の活躍に対して大正十四年従五位を贈られた時に建立されたものです。弥兵衛の子孫は代々大村藩に仕えており、戊長の役で戦死した少年鼓手浜田勤吾少年もその一人です。墓は、下久原の多々良墓地の中にあります。
  平成九年三月
        大村市教育委員会
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