昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
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旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

北海道旅行No.43 間宮林蔵樺太探検の記録「北夷分界余話」の世界

2010年10月31日 | 北海道の旅
7/17 北海道旅行4日目、「北方記念館」の見学の続きで、いよいよ中心的な間宮林蔵の展示の見学です。

間宮林蔵の探検は、樺太島の他、対岸のアムール川下流域まで及んでいます。

樺太は「北夷分界余話」、大陸側は「東韃地方紀行」にまとめられ、幕府に報告されたようです。

この探検記録の2冊の作成は、間宮林蔵・述、村上貞助・編とされており、挿絵や文書は村上貞助のものと思われます。

今回は樺太の記録がまとめられた「北夷分界余話」の展示は、林蔵の旅を少し実感できた見学でした。



「北方記念館」を入ると間宮林蔵の実物大の像があり、林蔵の生きた時代の大きな年表が展示されていました。

■「北方記念館」のパンフレットにあった間宮林蔵の樺太探検の説明文です。
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 間宮林蔵が地図測量の師である伊能忠敬と函館近郊で出合い、その進歩した知識・技術に傾倒し、親しく教えを受けたのは寛政12年(1800年)のこと、忠敬55歳、林蔵21歳でした。
 この時代、日本に通商を求めるロシアの軍船が威圧的行動を繰り返して蝦夷地周辺を騒がせていました。
 間宮林蔵の樺太から大陸に及ぶ探検はここに始まります。
 文化5年(1808年)4月13日(新暦5月8日)宗谷から上司、松田伝十郎と共に奥蝦夷地(樺太)の自主(シラヌシ)を目指して出発しました。
 自主に着いた2人は相談し、林蔵は東海岸、伝十郎は西海岸を調べ、進むことができなくなれば、後を追い合流することを決めて出発します。東海岸へ進んだ林蔵はオホーツク海の荒波に阻まれ、伝十郎を追い西海岸へと向いますが、林蔵と伝十郎は遠く大陸を見て帰ります。
 宗谷に帰った林蔵は、その秋、再び樺太に渡り越冬します。林蔵は春が来るのも待たず、翌年の文化6年(1809年)正月には出発し、樺太北端のナニオーまで進みました。その結果、樺太は海峡で大陸と隔てられた島であることを確認します。さらに、樺太の人々と共に大陸に渡り清国の役人と会談し、ロシアや清国の動き、周辺の地理情報を得て帰ります。
 200年がたった今も、私たちは間宮林蔵の著作から学ぶことが多いです。
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間宮林蔵が探検した樺太島と、対岸の大陸の地図です。

向って右の地図には第1回目の探検ルートを赤い線、第2回目を青い線で描かれています。

左手の地図は地名と、その地域に住む北方民族の名が書かれています。

この展示で、間宮林蔵が大陸まで探検したことを初めて知り、驚きました。

又、林蔵が幕府の隠密だったようで、鎖国の中でロシアの活動が顕著になった時代、命令に従った北方の諜報活動だったことがうかがえます。



「北夷分界余話」に「トッショカウッシリ図」とある挿絵で、写真下の地図に赤丸印の場所です。

間宮林蔵が探検した場所の景色の絵が展示されているコーナーの最初にあったものです。

■挿絵の説明文です。
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トッショカウッシリ
樺太東海岸にある山で、別名を「ホロノホリ」(大山)という。
麓より山頂まで、岩石が続き登ることはできない。西海岸の「キトウシノホリ」(ギョウジャニンニクの群生する山)とこの山だけが樺太の名山である。(「北夷分界余話」巻1)
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■展示コーナーの案内文です。
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その先にあるものを求めて
林蔵の歩いた道宗谷から 樺太・シラヌイ(白主)、間宮海峡を経て大陸デレン、黒竜江下流へ「北夷分界余話[ほくいぶんかいよわ]」「東韃地方紀行[とうだつちほうきこう]」に描かれた林蔵の踏査記録をパネルで紹介します。
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■原典となった「北夷分界余話」の紹介パネルの説明文です。
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「北夷分界余話」(複製)間宮林蔵・述、村上貞助・編
全9巻と附録1巻からなる間宮林蔵の樺太探検の記録で、1810年(文化7年)に初稿が完成、翌年、浄書されて幕府に献上されました。
第1巻:北蝦夷地 島名
第2巻:地勢 産物
第3巻:南方初島 居家 器機
第4巻:便犬
帯5巻:漁猟 交易
第6巻:鍛冶 冠婚葬祭
第7巻:ヲロッコ夷
第8巻:スメレンクル夷上
第9巻:スメレンクル夷下
附 録:ハラタ・カーシンタ満洲入貢 大尾
(つくばみらい市・間宮林蔵記念館蔵。原本:国立公文書館蔵)
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以下、樺太島三ヶ所の絵は、「北夷分界余話 巻之二 地勢」の中に掲載されています。



間宮海峡の最も狭い場所の景色と思われます。

■挿絵の説明文です。
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ワゲー
ラッカから6里(24Km)ほどのところで、大陸「ヲッタカバーハ」に渡る場所。距離は1里(4Km)ほどで、海上はおだやかだが、海峡の中ほどに早い潮流があり、風向きによっては逆さ波で舟が転覆する事もある。(「北夷分界余話」巻1)
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間宮林蔵が、2回目の探検で行った樺太最北の踏査地点「ナニヲー」のようです。

海峡を北に抜けたこの辺りから海が広がっているのを確認し、樺太が島であることが分かったようです。

■挿絵の説明文です。
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ナニヲー
西海岸の最北の踏査地点。ここからは大陸の「ラガタ」に渡る。海路はおよそ8里(32Km)、北海の激しい波が入りこんで、海峡の潮流は急流となり、大波が襲い、渡海は困難を極める、とニブフの人々が話している。(「北夷分界余話」巻1)
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館内を進むと「間宮林蔵の見た樺太」と書かれたコーナーがあり、樺太の挿絵27点が展示されていました。

この二つの絵は「男夷」「女夷」のタイトルが付けられ、原本の「北夷分界余話」には樺太アイヌの身だしなみが紹介されていました。

■「北夷分界余話 巻之三 南方初島人物」の挿絵の説明文です。(平凡社発行「東韃地方紀行他」より)
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此島の人物南方凡百五、六十里の間は大抵 蝦夷島(北海道)に異なる事なしといへども、其眉毛連続せざる者も有りて髭も亦薄きに似たり。
頭髪の剃去せる処多く、其垂髪の状も亦蝦夷島に比しては長しとす。其他耳飾の環の如きは蝦夷島に異なる事なし。

女夷
女夷の文身、蝦夷島(北海道)のごとく濃点する者なくして甚薄し。漸々奥地に至るにしたがつて文身せざる者多し。其垂髪の状 蝦夷島より長黠して肩をおゝふ。共容貌蝦夷島に比しては艶色の者多し。
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上の絵の男性の額が広く、ハゲているようにも見えますが、髪を剃る慣習があったとは、驚きです。

女性の文身(入墨)も北海道アイヌより薄いものの、慣習はあったようです。

魏志倭人伝の「鯨面分身」や、沖縄の「ハジチ」を連想します。



樺太アイヌの住居「穴居」の絵が展示されていました。

北海道アイヌと同じものと紹介され、冬専用の住居とされています。

竪穴住居のようで、1~1.2mの深さに掘り、ハシゴで出入していたようです。

本には室内の挿絵があり、ハシゴや、かまどが描かれていました。

■「北夷分界余話 巻之三 居家」の説明文です。(平凡社発行「東韃地方紀行他」より)
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穴居
此島南方五、六十里の地は居家の造法総て蝦夷島に異なる事なし。奥地に至ては異俗スメレンクルの居家に類する者ありといへども、十にして一、二ある而己[のみ]。
此島の夷、冬月に至て穴居する者あり。然も其地の寒暖によつて是をなす事にして、島夷すべて是をなすにあらず。其穴居する者も実に寒威堪がたく、やむ事を得ずして是をなすなり。故に九、十月の比[ころ]既に積雪の時に至て是を造り其内に入り、春二、三月の頃積雪いまだ解[とけ]ざる前に穴を出て生平の家に居す。如レ期[かくのごとく]せざる時は其身疾病をうくと云。   
穴居を製するの法、先[まづ]山に添ふて地をえらみ、土を掘る事凡三、四尺許[ばかり]、其内に図のごとく柱を建て、屋を覆ふに雑草を以てし、其上に重ぬるに穴中を穿[うがち]たる土を以てす。戸口の上に庇[ひさし]をて、内に入る処に階子をかけ、其の側竃[かまど]を造り、り、竃中より穴を穿て家外の廡下[のきした]に掘りぬき、炊烟の屋中に鎖[とざ]すを忌[いみ]て、此穴より家外に出し去しむ。
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「男夷ヲロッコ・女夷ヲロッコ」と紹介された民族の絵です。

「ヲロッコ」は、上段の地図、カラフトの中部に「ウイルタ」と記された民族の別名で、同行した北海道アイヌが呼んでいた民族名のようです。

「ヲロッコ」は、アイヌと比べて毛深くないようで、頭髪を剃る慣習もなかったようです。

絵にはトナカイが描かれ、衣服も毛皮が中心のようです。

定住せず、一定のエリアの中で仮屋を造って移動して生活していたとあり、トナカイ等の牧畜をしていたのでしょうか。

冬の家屋は、「ヘボ」と呼ぶ樺木皮と、魚皮で作ったシート状のもので建物を覆っていたようで、本にはその二種類のシートの挿絵がありました。

■「北夷分界余話 巻之七 ヲロッコ夷」の説明文です。(平凡社発行「東韃地方紀行他」より)
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男夷ヲロッコ・女夷ヲロッコ
一、東海岸シー(敷香、北緯四九度一二分)・タライカ(多来加、北緯四九度一八分。シーとともにタライカ湾奥)より奥地にヲロッコと称する異俗の夷あり。其人物大に蝦夷島に殊にして、眉毛連続せる者なく、其鬚髪[ひげかみ]また少しく赤色を帯び、且つ髭[ひげ]なき者多し。其言語も亦ひとしからず。且其理髪総て剃刀[かみそり]の事なく、男夷は一組にして背に垂れ、或は図のごとく束ねて頸垂る(其情態・俗習は、唯に一時の応接する処、詳なる事をしらずといへども、其顔色・容貌下品にして、暴戻無暫[ぼうれいむざん]を表せりと云。
一、女夷亦髪を乱垂せず、大抵両耳の後に束ね或は図の如く分組て背に垂れ、又は男夷のごとく頸上に束ねたる者ありて共状一ならず。其容貌・顔色、蝦夷島に比しては美艶にして且人に媚[こび]るの妖態[えうたい]多く、浴湯・施粉の事はなす事なしといへども、日々其面を水濯し其頭を梳[くしけづ]りて粧飾をなす者多し。
一、耳飾の環[くわん]亦南方と異にして、男夷は小環をつけ、女夷は大環にして図の如く数環をかけ玉を飾る。
且其酋長[しうちやう]たる者は男女とも鼻また小環をつくる事、図の如し。
一、衣服大抵水豹皮・魚皮其他、何によらず獣皮を以て是を製す。木綿衣のごときは皆山且夷と交易する処の物にして、布帛の類たへて自製する所の者なし。        
一、此夷も亦獣魚皮を以て製したる脚絆[きやはん]の類を着る事南方の如し。
一、男夷被服の下、襣子の上、白布を以て製せる揮垂の如き者を著し、其端貝歯をつけて飾となす事、図の如し。其被服の状南方と大に異にして、衣服の長[たけ]殊に短く稍腰を下るのみにして、襣子・脚絆を著たるさま実に競々として其業をなす者と知るべし。
一、女夷は肌膚を出す事を恥とすれば、其衣長くして踵[くびす]に及び、内猶襣子・脚絆を著[つ]け裳末飾銅をつくる事図の如し。

仮屋
一、其居家一処に永住する事なく水草・魚獣の利を追ふて時々諸方に遷移し、至る処図のごとくなる仮屋を営み、其内に群居して業をなす。然れども其遷移する処、大抵地界ありて妄[みだり]に転移するにあらず。若し冬月に至て漁猟其獲物なき時は、百里の外に遷移する事ありといへども、其平生は漸[やうやく]四、五十里の間に遷移・往還す。故に其居家と称すべきものなし。
一、仮屋の製、初夏より仲秋の頃までは雑木の皮を剥ぎ来て屋をおゝひ、秋末より暮春(三月)の頃に至るの間、木皮枯燥して剥[はぐ]べからざる時に至ては、其貯る処の樺木皮・魚皮の類を以て製したる本邦の桐油[とうゆ]の如き物を以て屋をおゝふ。
是を名付てへポと称す。
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「男夷・女夷スメレンクル」と紹介された民族の絵です。

「スメレンクル」は、上段の地図、カラフトの北部に「ニブフ」と記された民族の別名で、「ウイルタ」と同様に同行した北海道アイヌが呼んでいた民族名と思われます。

「スメレンクル」は、海峡を渡る交易によって樺太島中部の「ヲロッコ」と比較して明らかに文化的な生活をしていたようです。

衣服には毛皮を使っておらず、女性の裁縫は重要な嫁ぐ条件だったようです。

住居は、「穴居(竪穴)」と、挿絵にある「木造住居」の家があったようで、この面でも強い大陸の文化の影響がうかがわれます。

■「北夷分界余話 巻之八 スメレンクル夷」の説明文です。(平凡社発行「東韃地方紀行他」より)
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男夷
一、シラヌシより西海岸凡[およそ]百五、六十里なる処に、キトウシ(北緯五〇皮一〇分)と称する処あり。
此処よりして奥地は満洲附属の夷、スメレンクルと称せる異俗の者住居す。其人物は理髪・耳飾ともにヲロッコ夷に異なる事なしといへども、容貌何となく少しく上品なり。其言語またまた悉く異にして弁知しがたき者多し。其衣服も亦獣魚を用る者少からずといへども、満州に至て交易をなす事屡々[しばしば]なれば、木綿衣の類、満洲製の物を用ゆる事多し。

女夷
一、女夷も亦ヲロッコ夷に小異ある事なしといへども、其容貌嫩艶[どんえん]なる者多く、浴湯・成粧の事は見聞する事なしといへども、漱[そう]口・拭面する事は日毎に是をなす。故に顔色いつも瀟洒として醜穢の色ある事なし。且其情、蝦夷島女夷と大に異にして、相識ならざる人といへどもよく馴昵し、言語通ぜざれば其云処瞭然ならずといへども時気寒暖の応接など有て、いかにも婉[ゑん]情妖[えう]態多く、男子に接するのさま親意殊に探しと云。
一、女夷裁縫の事に疎[うと]きものは、其顔色美艶なりといへども、衆夷是を賤して帰嫁に遠し。故に女夷裁縫の事を練熟する事殊に精勤なり。
一、此夷種よりしてサンタン・コルデッケ其他韃地の諸夷に至るまで、女夷はいかなる過失ありといへども殺す事なきを法とす。其女を貴ぶの情をしるべし。

不穴居者居家
一、此夷種も亦其地の寒暖によつて穴居する者あり、せざる者あり。其穴居せざる者の居家は大抵五、六間四面乃至七、八間四面許〔或は縦長く横短き者あり〕に方木を以て組み製し、家の四方戸口ありて明[あかり]をとり、又出入す。屋は木皮を以て是をおゝひ、其上におゝふに雑草を以てす。風の吹去ん事を恐れて、縦横に木を伏せ置こと、図の如し。
一、家の中、牀を四方に設て其表面石を畳て是を築き、其内を空虚にし、其両端戸口の処に至て側と上面を穿[うがち]て竃[かまど]となす。故に其炊煙竃外に出ずして、悉く牀中を廻り家の四隅に達して後、家外に建し簡木中より発し去りぬ。是を以て厳冬積雪の時といへども家内温暖にして、穴居せずといへども可なり。
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間宮林蔵の探検記録、平凡社発行の「東韃地方紀行他」も古く読みづらい文体ですが、読んでいると何となく意味がわかり、当時を実感した気になります。

参考資料:平凡社発行「東韃地方紀行他」(複製)間宮林蔵・述、村上貞助・編

北海道旅行No.42 間宮海峡を犬ゾリで渡った冒険者

2010年10月29日 | 北海道の旅
7/17 北海道旅行4日目、「北方記念館」の見学の続きです。


玄関のすぐ近くに、「間宮海峡を渡った冒険者」のタイトルで写真展のコーナーがありました。

昨年(2009年)は、間宮林蔵が間宮海峡を発見して200年だそうで、その記念行事としてこの写真展が開催されているようです。

写真展の説明パネルによると、前回このブログで紹介した「宗谷の寝棺」を復元・寄贈されたのも阿部勇さんと知り、続けて掲載させて頂くことにしました。

阿部勇さんは、その他にも樺太犬保存会を設立する等、稚内で活躍をされているようです。

この冒険は、約10年前とのことで、たくさんの興味深い写真が展示されていましたが、冒険の様子が伝わる範囲でピックアップさせて頂きました。

■以下、「間宮海峡を渡った冒険者」のポスターの説明文です。
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阿部勇 犬ぞり横断300キロの軌跡~
冒険家としても知られる、阿部勇が2000年(平成12年)に日本人としてはじめて成し遂げた間宮海峡横断の際の貴重な写真を展示します。
阿部さんの冒険とともに、19世紀初頭に海峡を発見した間宮林蔵にも思いをはせてみてください。
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阿部勇(あべいさみ)
1951年(昭和26年)1月8日、9人兄弟の7男として稚内市上勇知の農家に生まれる。上勇知小中学校を卒業後、兄の経営する阿部建具製作所に入社。修行のため19まから21歳まで神奈川県で建築大工として学んだ後、株式会社阿部工務店に戻り、現在代表取締社長。
1989年(平成元年)から犬ぞりをはじめ、1998年(平成8年)、樺太犬保存会を設立。1999年(平成11年)にサハリン州ネフラスカ村のセルゲイ・リュービフ氏から樺太犬の子犬を譲り受けたのがきっかけとなり、翌年2000年(平成12年)には日本人としてはじめて犬ぞりで間宮海峡横断に成功している。同年、稚内市間宮林蔵顕彰会理事に就任。
 北海道教育委員会講師バンク登録講師として活躍するとともに、「日本のてつぺん最北端宗谷 始まりの鐘」鍾付堂上屋の寄贈をはじめ本業を活かして地域文化の振興に貢献している。間宮海峡発見200年を迎えた2009年(平成21年)には、江戸時代の越冬武士たちが厳寒の宗谷をすごすために用いたと伝えられる「寝棺」を復元し、稚内市北方記念館に寄贈。
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写真の説明文に「いよいよ横断出発(28日)」とあり、間宮海峡の横断に出発する場面と思われます。

赤いコートと、サングラスの人が阿部勇さん、その隣の黒いコートの人が一緒に犬ぞりで走ったセルゲイ・リュービフさんようです。



「阿部勇 犬ぞり横断300キロの軌跡~」のタイトルのパネルが展示されていました。

樺太から氷でつながった間宮海峡を大陸へ渡り、再び樺太へ帰る行程だったようです。

■パネルの説明文です。
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2000年(平成12年)3月22日~4月3日
間宮海峡横断達成の13日間
3月22日(水)稚内市出発_
  23日(木)函館市→サハリン州ユジノサハリンススク市 (空路)
  24日(金)鉄道(夜汽車)で移動
  25白(土)ノグリキ町→オハ市→ネフラスカ村へ
  26日(日)ネフラスカ出発が、吹雪のため断念(一泊)
  27日(月)犬ぞりで朝出発、夕方、ルギー村到着(一泊)
  28日(火)ルギー村出発 リブノスク村を経て「間宮海峡横断」、→プーイル村到着(一泊)
  29白(水)プーイル村より帰途につく。再び海峡横断。リプノスク村を経てリプノスエ村に夕方到着。
  30日(木)リブノスエ村→ネフラスカ村→オハ市。
  31日(金)ユジノサハリンスク市に向け鉄道(夜汽車〉で移動。
4月1日(土)朝、ユシノサハリンスク市に到着
  2日(日)ユジノサハリンスク市を市内観光。
  3日(月〉ユジノサハリンスク市→函館市(空路)→札幌市→稚内市着
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空路で着いたサハリン州ユジノサハリンススク市の風景のようです。

上の建物は、「旧 拓銀(現 サハリン州立美術館)」と書かれ、日本領だった頃のものと思われます。

向かって左手は、レーニン広場のレーニン像、その横は、カニやミルクを売る町の人だそうです。

この2日後、ロシア人セルゲイ・リュービフさんと、犬ぞりでスタートする「ネフラスカ村」へ着いたようです。



「海峡横断用に、新調した「犬ぞり」~」と書かれたパネルです。

車の少なかった昔の稚内では犬ぞりが普及していたそうで、阿部さんも子供の頃から家の手伝いなどで慣れ親しんでいたようです。

樺太犬12頭で出発したそうですが、多くの犬を整然と走らせることはなかなか難しいことだそうです。



パネルの説明文には3月27日、北方民族ニブフ(ギリヤーク)の4家族10人が住むルギー村へ到着、セルゲイさんの家で宿泊とあります。

この家は、セルゲイ・リュービフさんの家だったのでしょうか。(説明文が読み取れず曖昧です)

家は、150年を超える古いログハウスだったとも書かれています。



写真の雰囲気から、海峡を横断して目的地「プーイル村」へ到着した28日の場面と思われます。



「大陸からの帰途に就く(29日)」とあり、上の写真は、日本・ロシアの国旗を立てた犬ぞりが走っています。

「プーイル村をあとに(29日 13時頃)」とあり、水平線のかなたに村があるのでしょうか。



上の写真は、旅を終えた時の記念写真と思われます。

果てしない水平線が続く氷原を犬ぞりで踏破し、300Kmの旅を成功させた満足感が伝わってくるようです。

下の写真は、沈む夕日に照らされ、犬ぞりは、ひたすら走っています。

3月でも夜には零下20℃以下となる厳寒の地、大好きな樺太犬のそりで走る阿部勇さんを励ますような美しい夕焼けです。

南極観測隊の犬ぞりをひく樺太犬が、稚内周辺から集められ、稚内公園で訓練されたことと、間宮林蔵に関わるこの冒険の写真展は、稚内の印象深い想い出になりました。

北海道旅行No.41 日本初の実用ストーブ、宗谷の寝棺、、コーヒー豆の石碑

2010年10月27日 | 北海道の旅
7/17 北海道旅行4日目16時頃、「稚内市開基百年記念塔」の展望台で雄大なパノラマを見た後は、エレベーターを降りた「北方記念館」の見学です。



「北方記念館」の入口近くに置かれた大きなヒグマのはく製が出迎えてくれました。

そばで見る巨大な熊は、実に迫力があります。

今年の秋、熊や、猪の被害のニュースが多く伝えられていますが、熊の多かった昔の時代、人間はどう対処していたのでしょうか。

もっと昔に学ぶことがないのでしょうか。

■説明文です。
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ひぐま
昭和56年4月21日
宗谷管内猿払で射止められたもの。
推定年齢 12~13才
性  別 オス
体  長 2.3m
体  重 250Kg
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「蝦夷地実用ストーブ」と書かれた一見平凡なストーブが展示されていました。

説明文によると江戸時代末期、この地で作られた日本初のストーブの復元品だったことには驚きでした。

「カッヘル」、オランダ語で、ストーブのことだそうです。

■ストーブの説明文です。
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蝦夷地実用ストーブ(カッヘル)
1856年(安政3年)、宗谷に赴任した梨本弥五郎は、景蔵という名のアイヌにストーブを造らせました。
箱館奉行の許可を得て、赴任前に箱館で製作を依頼したストーブ「カッヘル」が、冬までに間に合わないことがわかったからでした。
 日本初の西洋式ストーブとして箱館で完成したストーブは鋳物でしたが、鋳鉄が手に入らない宗谷では鍛鉄[たんてつ]で造りました。その結果、重さが約53kg(14貫300匁)と鋳鉄製よりはるかに軽く、耐久力があり、価格も3分の1で仕上がりました。
 完成した第1号は、お産を控えた大塚良輔の役宅で「蝦夷地実用ストーブ」として赤々と燃え、煙をあげました。その後も現地で生産され、各地に配備されたと記録に残されています。
 この復元「カッヘル」は「稚内歴史・まち研究会」が鋳物製ストーブの設計図を参考に、宗谷では、素材が手造りの鍛鉄に変わったことを考慮検討して復元したものです。
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ストーブの説明文に添えられていた「鋳物製ストーブの設計図」です。

説明文に「箱館奉行の許可を得て、赴任前に箱館で製作を依頼した」とあり、これはその設計図と思われます。

北方防衛のため、極寒の地、宗谷などので越冬の際に多くの犠牲者を出しており、オランダなどから暖房対策の情報を得たことによるものでしょうか。

それにしてもこの設計図で、日本初めての鍛鉄のストーブを作ったアイヌ「景蔵」の腕と、努力は、驚くべきものです。



2009年8月2日函館旅行の時、「箱館高田屋嘉兵衛資料館」で見た、「日本初のストーブ復元品」です。

頂いたパンフレットに印刷されていた写真で、梨本弥五郎が宗谷へ赴任する前に製作を依頼した鋳物製ストーブの復元品と思われます。

函館で展示されていたストーブにこのような史話があったとは知りませんでした。



棺桶を少し大きくしたような木製の箱「寝棺」が展示されていました。

極寒の地で考えられた寝具で、「寝棺」には蒲団が詰められ、すぐ横に箱のフタもあります。

地元のアイヌや、間宮林蔵が探検した樺太などの北方民族は、どの様な防寒寝具だったのか興味が湧いてきます。

江戸時代末期、東北の諸藩が極寒の北海道で、越冬に失敗して多くの犠牲者を出した歴史を思うと、この「寝棺」は死と隣り合わせで生きた人々の切実な対策だったことを教えられました。

■「宗谷の寝棺」説明文です。
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宗谷の寝棺
 1792年(寛政4年)に宗谷を訪れた幕府の串原右仲(正峯)は、『夷諺俗話』のなかで宗谷の寝棺について記録しています。
「ソウヤで越年する時は、寒気をしのぐ「キツ」という厚い板で、一人前一畳敷ほど、高さ三尺ほどの箱をこしらえ、その中に笹の葉を厚く敷き、上へ熊、その上にフトンを敷き、夜具にくるまって横になり、箱に蓋をして寝る」と書かれています。考えてみれば、恐ろしいほどの切実な知恵です。
 来る夜も来る夜も、寝棺で寝なければ、冬の夜の寒さを防ぐことができない。このまま死ぬのではないか。口にこそ出さないまでも、そんな恐怖を武士たちは毎夜、感じていたことでしょう。
 ここに展示している寝棺は、当時を想像して再現したものです。実際に横になって、当時の武士たちに思いをはせてください。
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宗谷岬から約1Km西の稚内市宗谷村の「宗谷歴史公園」にある「津軽藩兵詰合の記念碑」で、「北方記念館」で頂いた資料に印刷されていたものです。

徳川幕府の命令で防衛のために宗谷に派遣された津軽藩士が越冬で水腫病となり、多くの死者を出したようです。

その後、水腫病の予防となるコーヒーが飲まれるようになったことから郷土「津軽」の人々によってコーヒー豆の形の石碑がこの地に建てられたようです。

「日本初のストーブ」、「宗谷の寝棺」」、幕末のコーヒーなどは、寒い東北地方の人々が、この宗谷地方にやって来た頃の驚きの物語でした。

■「北方記念館」で頂いた資料です。
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梨本弥五郎と宗谷警備
 梨本弥五郎は、1856年(安政3年)6月、妻子を伴って宗谷に赴任した最初の人です。当時、日本海に面した神威岬[かむいみさき](積丹半島突端)以北への婦女通行は禁止されていました。女性を乗せた船が神威岬の沖を通ると神の怒りに触れて必ず沈むとアイヌが信じていたからです。梨本は、幕府に願い出て、妻子とともに舟に乗り込み、無事宗谷に着きました。これがきっかけとなって、幕府は女性の航海を解禁しました。
 梨本弥五郎は、厳寒の地ですごす武士やその家族のために、ブランケット(毛布)やストーブ(カッヘル)も導入しました。それらによって妻子といっしょに赴任する武士も増えていきました。
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コーヒーと宗谷警備
 この時代の越冬に用いられたものにコーヒーがあります。
 水腫病予防薬として「和蘭コーヒー豆」が配給されたのです。当時コーヒーは-般に出回っておらず、庶民が口にしたのはこの頃がはじめてではないかといわれています。
 「黒くなるまでよく煎り、細かくたらりとなるまでつき砕き、二さじほどを麻の袋に入れ、熱い湯で番茶のような色にふり出し、土瓶に入れて置き、冷めたら温め、砂糖を入れて用いるべし」と飲み方も記録されています。
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北海道旅行No.40 「稚内市開基百年記念塔」の眺望

2010年10月25日 | 北海道の旅
7/17 北海道旅行4日目午後、礼文島から稚内へ戻り、「稚内公園」に並ぶモニュメントの見物を終え、次は「稚内市開基百年記念塔」です。



坂道を上ると「稚内市開基百年記念塔」の建物がそびえていました。(建物の上が写っていません)

塔の上の展望台にはエレベーターで上がって行きます。

1・2階は、様々な歴史資料が展示されている「北方記念館」です。



稚内市の市街地を中心とした地図です。

稚内公園の西の一角に「開基百年記念塔」(赤い下線)があります。

塔からは、東に「稚内港」、西に「利尻島」「礼文島」、北には「ノシャップ岬」、更に北東の沖には「サハリン」が眺望できます。

緑の「稚内公園」の北部分は、前回まで掲載の「氷雪の門」や、「南極観測樺太犬訓練記念碑」などがあるエリアです。



記念に持ち帰った「開基百年記念塔・北方記念館」の入場券の半券です。

高くそびえる建物が美しく撮影されています。

稚内市のサイトでは、1879年(明治12)に「宗谷に郡役所と戸長役場が置かれる」とあり、稚内の開基としています。

又、開基百年の前年1978年(昭和53)に「開基百年記念塔、北方記念館、北方植物園完成」とあり、この施設が完成したようです。

稚内市では開基百年の様々な記念事業が行われたようで、この施設の整備もその中核となるものだったと思われます。

又、「市のあゆみ」の冒頭で「1685年(貞亨2)宗谷場所開設」とあり、江戸時代初期のアイヌとの交易段階から次第に統治の体制へ移行した歴史が見られます。



エレベーターを上がった塔の上の展望台です。

四隅が東西南北の方角で、まわり廊下のような展望台で、前方に東の隅が見えます。

内側の壁には稚内周辺の美しい風景写真も展示され、楽しませて頂きました。



展望台から東側に広がる稚内港や、宗谷湾の景色です。

眼下には塔の影が映り、上って来た道路も見えています。

「開基百年記念塔」の塔頂高は80mで、展望台の床の高さは70mだそうです。

標高約170mの場所に立つこの展望台は、海から約240mの高さで、眺望は実に雄大です。



上段の写真よりやや北側の景色です。

写真左手の森の海側には「稚内公園」のモニュメントの並ぶ広場、右手には風力発電の風車も見えています。

はるか沖に「宗谷岬」がかすかに見えていました。



展望台の内側の壁に宗谷丘陵の航空写真の大きなポスターが掲示されていました。

宗谷岬の南に広がる「宗谷丘陵」を東側の上空から撮った写真で、向こうに利尻富士も見える何とも素晴らしい眺望です。

「宗谷丘陵」は、地上から見ても実に雄大で、このブログ<2010年08月14日 北海道旅行No.9 雄大だった宗谷丘陵>にも掲載しています。



南東方向の眺望です。

左手には稚内港を囲む町並みが広がっています。

ガラス窓の上にはここからの眺望の絵が描かれ、天気次第では北海道の屋根「大雪連峰」が見えるようです。

向って右の道路の先に鉄塔が見え、その向こうの海は利尻富士を望む半島西側の海岸です。



展望台の内側の壁に素敵な風景写真が展示されていました。(窓枠が写真に映ってしまいました)

■写真の題名と、説明文です。
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「宗谷丘陵に立ち並ぶ風車」(上の写真)
1万年前の氷河に削られた地形が
今に残る宗谷丘陵、広大な牧場と
57基の風車が立ち並ぶエコな場所
 場所 稚内市宗谷丘陵
 Photo by Masayoshi Saito
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「貝殻で埋め尽くされた海岸」(下の写真)
打ち上げられたホッキ貝の殻が
無数にある豊かな海に
利尻富士がくっきりと姿をみせた
 場所 稚内市西海岸
 Photo by Masayoshi Saito
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これも展望台の内側の壁に展示されていた風景写真です。

こんなにも美しい写真を見せられると、冬に又来たくなってしまいます。

■写真の題名と、説明文です。
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「笠雲とエゾシカの親子」(上の写真)
早春の海岸に親子のエゾシカが
姿を見せた。見事な笠雲を冠した
利尻富士がくっきりと見えている
 場所 稚内市西海岸
 Photo by Masayoshi Saito
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「稚内市西海岸の落日」(下の写真)
日本海に浮く利尻と礼文の島
水平線に夕陽が落ちてゆく
感動の瞬間である
 場所 稚内市西海岸
 Photo by Masayoshi Saito
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北方向に小さく見えた「ノシャップ岬」をズームで撮った写真です。

二日前、初めて「ノシャップ岬」にたどりつき、高くそびえる「稚内灯台」を見上げた時、最果ての地に来た感慨がこみ上げて来たのを思い出します。

又、利尻・礼文のフェリーから見た長い岬の先端に薄く霧に覆われた「稚内灯台」の姿は、どこか郷愁を感じるものでした。

稚内市は既に開基130年を越え、樺太への定期航路を見守り続けていたこの「稚内灯台」も1900年(明治33)の初点灯から110年を越えたようです。



「稚内市開基百年記念塔」の建物前に「北方植物園」がありました。

入場券の写真にも描かれていましたが、多くの植物が建物の周辺に植えられ、ボランティアの人達の世話で維持されているようです。

利尻島や、礼文島でも多くの高山植物が咲き、天国の様な美しい風景を見せてくれました。

地球温暖化が進行する今日、この北方の植物たちの生きる環境を何としても守り抜かなくてはなりません。

北海道旅行No.39 「稚内公園」のモニュメント

2010年10月24日 | 北海道の旅
前回に続き、「稚内公園」に多くあった石碑見物です。



「稚内公園」周辺の地図です。

北に突き出た半島の東側にあり、向かって左(西側)が高い地形になっています。

地図右上の信号近くから西に折れ、曲がりくねった坂道を上り、「稚内公園」の駐車場まで来ました。

公園の西にある「南極観測樺太犬訓練記念碑」付近が今回の見物エリアです。

前回掲載の「氷雪の門」、「九人の乙女の碑」は公園北のエリアでした。

「稚内公園」の道を地図左下の道を進んだ一段高い場所に「稚内市開基百年記念塔」があります。



「稚内公園」に樺太犬の銅像がありました。

碑文によるとこの稚内公園で樺太犬の訓練を行っていたようで、その記念モニュメントのようです。

写真後方の山の上に、「稚内市開基百年記念塔」がそびえています。

■銅像の横にあった案内文です。
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南極観測樺太犬訓練記念碑
 昭和32年、国際地球観測年を機に、日本が初めて南極観測に参加するにあたって、極地での物資輸送を目的に"犬ぞり隊"が編成されました。
この"犬ぞり隊"の主役が、稚内周辺から集められた樺太犬たちです。
南極へ出発する前に、"犬ぞり隊"は稚内公園で8ケ月間、厳しい訓練を受け、その中から選び抜かれた22頭の樺太犬は、南極観測船『宗谷』で白い大陸に渡り、任務をまっとうしました。
 しかし、南極の悪天候を克服できず、樺太犬15頭が現地に置き去りにされて死ぬという悲劇を被りました。
そして、昭和34年1月、第3次越冬隊がタロ・ジロの奇跡的な生存を確認し、当時世界の人々を感動させたことは今日でもよく知られています。
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南極で犬ゾリを引くたくましい樺太犬の像です。

稚内市のサイトでは南極から採取した石を台座に埋め込んであるとされ、写真左下の白い石と思われます。

上段の写真で、台座の下の脇にある多孔質の石も何かわけありのようですが、調べてもよく分かりませんでした。



「南極観測樺太犬訓練記念碑」の横に三角錐の「樺太犬供養塔」がありました。

石の囲いにも趣向を凝らしてあるようです。

■モニュメントの横にあった説明文です。
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樺太犬供養塔
白い南極の大陸で命を落とした15頭の“犬ぞり隊”の霊を慰めるための慰霊碑で、稚内公園の犬ぞり訓練所跡地に、昭和36年10月、建立されたものです。
観測隊がケルンをつくり、それを道標として雪原を前進したことから、慰霊碑は、三角のケルンに秩父硬石が張りめぐらされています。
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を拡大した写真です。

モニュメントは、自然石を組み合わせた親しみのあるもので、プレートから正式名称は、「南極地域学術観測隊 樺太犬 供養塔」のようです。

このレリーフの犬は、南極で奇跡的に生き残っていた「タロ」か「ジロ」でしょうか。

かつて樺太犬「タロ・ジロ」は、南極からの奇跡的な生還で、全国を湧かせて映画にもなりました。

その樺太犬が、稚内で育ち、訓練を終えて南極に向かったことを知り、樺太と稚内との深いつながりをここでも感じさせられました。



「樺太犬供養塔」の近くに円形のモニュメントがありました。

碑文には「測量の碑」とあり、このモニュメントの正確な位置が表示されています。

稚内市のサイトにも案内が見当たらず、見る者にとって謎のモニュメントでした。

■モニュメントの碑文です。
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測量の碑
【標石の位置と高さ】
北緯 45度25分14.9563秒
東経 141度40分03.1685秒
標高 101.607メートル
改測 平成20年10月15日
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モニュメントの上面に色々な都市への方角と距離が表示されていました。

北極点までの距離と、南極点までの距離の比率は、ほぼ1:3で、二つの距離を足すと地球半周の距離、約2万キロメートルになるようです。

サハリン南端のクリリオン岬から、このモニュメントまでの距離は、62Kmとありますが、最北の地「宗谷岬」までの距離は43kmと極めて近距離です。

■モニュメントの上面にある主な表示です。
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北極点 4,870Km
南極点 15,044Km 
サハリン クリリオン岬 62Km
沖縄県石垣市 2,813Km
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モニュメントの前に石板に描かれたカラフルな絵がありました。

「氷雪の門」、稚内市の花「ハマナス」と、沖に浮かぶ「利尻富士」が描かれています。

この謎のモニュメントには、稚内市の地理的な場所と特徴が表現されています。

地理的な最北の地「宗谷岬」は、よく知られていますが、ここ稚内港は北の地サハリンと人がつながる最北の地だったことを教えられたようです。

油絵「秋の実り」

2010年10月23日 | 妻の油絵

久しぶりの静物画「秋の実り」です。 F4号

時候の挨拶「秋冷の候」を実感する季節となり、旬の果物もよく目にするようになりました。

今年の記録的な猛暑に耐え、おいしそうに育ってくれた果物に感謝し、出来るだけ活き活きと、みずみずしく表現するよう気を付けたそうです。

絵に描いて楽しみ、見て楽しみ、最後に食べて、飲んで秋の実りを楽しませて頂きます。

北海道旅行No.38 「稚内公園」で知った樺太の歴史

2010年10月22日 | 北海道の旅
7/17 北海道旅行4日目 礼文島の観光を終え、14:30頃稚内港へ着きました。

稚内のホテルに駐車させて頂いていたレンタカーで、稚内市内の観光に出かけました。



高台にある「稚内公園」から見おろした「稚内港」の景色です。

向って左の海岸に「北防波堤ドーム」、右端に利尻島や、礼文島へのフェリーが停泊しています。



「稚内港」や、「稚内公園」周辺の地図です。

稚内港の北に「北防波堤ドーム」、その南に「稚内港FT(フェリーターミナル)」があります。

地図の緑色のエリア「稚内公園」の北の端にある「氷雪の門」周辺と、西側の坂道を上った「開基百年記念塔」を見て回りました。

沖に見えるロシアのサハリン(樺太)への航路もあり、稚内は静かな国境の港町でした。



礼文島から到着する時の「稚内港」周辺の景色です。

高台にひと際高い「開基百年記念塔」、その下に風力発電の白い風車も見えます。

氷雪の門がある広場は、写真の右端から少しはみ出た場所にあります。



モニユメントの並ぶ丘の上の「稚内公園」の景色です。

銅像が二本の柱に挟まれた「氷雪の門」の向こうに、宗谷湾を航行するフェリーが見えます。

遠くが霞んで北東方向のサハリンはよく見えませんでした。



正面から見る「氷雪の門」です。

銅像の前の小さな黒い石碑に「樺太慰霊碑」と刻まれ、樺太で亡くなった多くの人々を慰霊する碑と思われます。

高い二本の柱「望郷の門」の間からサハリンが望めるそうです。

かつてサハリンの南半分が日本領「樺太」だった時代、約40万人の人々が住んでいました。

この「望郷の門」は、「樺太」にゆかりの深い人々の望郷の思いを象徴するモニュメントのようです。

■「氷雪の門」の碑文です。
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氷雪の門
人々はこの地から樺太に渡り樺太からこゝに帰った
戦後はその門もかたく鎖された
それから十八年望郷の念止みがたく樺太で亡くなった多くの同胞の霊を慰めるぺく肉眼で樺太の見えるゆかりの地の丘に木原豊治郎氏 笹井安一氏の熱意と全国樺太引揚連盟の賛同並びに
全国からの心あたゝまる協力によってこゝに記念碑を造る
氷と雪の中できびしく生き抜いた人々を象徴する女人像、望郷の門、霊石を三位一体とする彫刻家本郷新先生の力作がこゝに出来上った
この記念碑氷雪の門と命名した
  昭和三十八年八月十五日
    稚内市長 浜森辰雄
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「氷雪の門」の女性像です。

手のひらに現れた強い感情が、体の全体に伝わり、叫び声が響いてくる様な像でした。

深い絶望の中から立ち上がろうとする、すざましい意思を感じます。



「氷雪の門」の隣にある「教学之碑」で、樺太南部の中核都市「豊原市」にあった「樺太師範学校」の記念碑です。

ここでも樺太への強い望郷の思いが伝わってきました。

■向って右の碑文です。
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至誠一貫
 樺太師範學校
 「郭公や 樺太島は 遠い夢
    純煌
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※郭公(カッコー・野鳥)
 純煌(上田校長の俳号か?)

■向って左の碑文です。
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建 立 誌
 我が母校、樺太師範学校は昭和十四年四月、四十五万島民の文化の向上と教育振興の重責を担う教員養成機関として、豊原市に開校したが、男女共学という専門学校教育の実施は我が国最初の画期的な試みで、上田光曦校長(純煌)の卓越した教育理念によるものてあった。
 爾来、至誠一貫を本義とする教学綱要のもと品格の洗練・知性の向上・情操の醇化・体軀の鍛練に励み、樺太開拓に貢献する教育者としての資質の琢磨錬成に努め、師弟一如の人間性豊かな校風を築き樺太師範学校の盛名を高めつつあったが、昭和二十年終戦により、その歴史を閉じることとなった。
 然し、樺太師範学校の教育精神は同窓生の教育実践に生かされ、戦後、我が国の復興と平和文化国家建設に大きな役割を果すと共に、多くの教え子に継承されている。
母校は既にないが教学の精神と共に我々の胸中に厳然として存続している。茲に全国に居住する同窓生九百余名開校五十周年を記念し、樺太島を望むこの地に母校永遠に不滅なりの思いをこめて、郷土樺太の石を台座に嵌め込み教学の碑を建立する。
  平成元年七月八日
   樺太師範学校同窓
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「皆さん、これが最後です。さようなら、さようなら」と刻まれた「九人の乙女の碑」です。

若い女性のレリーフがある石碑は、鮮やかなピンク色の「ハマカンザシ」の花に囲まれていました。

■石碑の左手には殉職九人の乙女の名前と、以下の碑文が刻まれていました。
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戦いは終わった。それから五日昭和二十年八月二十日、ソ連軍が樺太真岡上陸を開始しようとした。その時 突如日本軍との戦いが始まった。
戦火と化した真岡の町、その中で交換台に向かった九人の乙女等は死を以って己の職場を守った。
窓越しにみる砲弾のさく裂、刻々迫る身の危険、今はこれまでと死の交換台に向かい「皆さんこれが最後です さようなら さようなら」の言葉を残して静かに青酸苛里をのみ、夢多き若き尊き花の命を絶ち職に殉じた。
戦争は再びくりかえすまじ、平和の祈りをこめて尊き九人の乙女の霊を慰む。
  昭和三十八年八月十五日
    稚内市長 浜森 辰雄
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「稚内市北方記念館」に展示されていたサハリン周辺の地図と、日本領だった頃の「樺太」の地図です。

北緯50度を境に南が日本領で、中核都市の②豊原市の西、①真岡市で「九人の乙女の殉職」事件は、起きたようです。

③「大泊」は、現在、稚内港と定期航路で結ばれる「コルサコフ」と呼ばれる都市になっています。

■地図の横に展示されていた事件の説明文です。
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真岡1945年8月20日
「九人の乙女」の自決
 樺太が、突然、戦火に見舞われたのは戦争も最末期になつてからのことでした。1945年(昭和20年)8月9日、国境を越えたソ連軍が日の丸監視哨を襲撃し進軍を開始、古屯など、国境地帯周辺で激しい戦闘がおこりました。
 8月15日の終戦を迎えても、ソ連軍の進撃は止むことなく、16日に、東海岸の恵須取、塔路に上陸。20日早朝、真岡にソ連軍が押し寄せてきたのです。
 この朝、港に近い真岡郵便局には若い女性電話交換手たちが宿直していました。電話交換はもっとも大事な仕事と緊急疎開に応じずに残留を決めていた女性たちです。
 午前5時40分、「ソ連軍艦が真岡に向かった」との連結が入ると、全員に非常呼集がかかりました。しかし、ソ連軍の攻撃は激しくなるばかりで郵便局周辺は戦火に巻き込まれました。交換室にも弾丸が飛び込んでくる中で孤立した9人の女性たちは、ついに精根尽きて服毒自決をしました。
 真岡の町では、無差別攻撃により1000名以上の民間人が死傷。白旗を掲げて停戦協定に来た日本軍の将校も射殺して、ソ連は戦闘を継続。熊笹峠、宝台などで戦闘が行なわれ、樺太で停戦協定が成立したのは22日のことでした。
 真岡郵便局での出来事は、戦争の悲劇を象徴するひとつとして、「九人の乙女」と題されて語りつがれることになりました。
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「稚内市北方記念館」に「九人の乙女」が殉職した「真岡郵便局」(終戦前)の写真が展示されていました。

「九人の乙女の殉職」の話の記憶がありますが、漠然としたイメージでした。

「九人の乙女」以外にもこの真岡市で多くの人々が逃げまどい、亡くなった様子が少しずつ分かってきました。



「真岡郵便局」の建物の写真の横に展示されていました女性電話交換手の写真です。

この写真の横に「九人の乙女」の顔写真も並んでおり、胸がしめつけられる想いでした。



「稚内市北方記念館」に展示されていた「樺太鳥瞰図」の一部です。

「九人の乙女」達が生活をおくった昭和10年代の「真岡」の町の様子が描かれ、山の向こうには樺太の中心都市「豊原」の町が見えます。

稚内から利尻島へ渡るフェリーの壁に「フェリー航路 サハリンへの道」と書かれたポスターが貼られており、稚内と、樺太を結ぶ定期航路が復活していました。

ポスターにはレーニンの銅像や、教会の写真と共に「海峡を越えるとそこには歴史がある美しい島だった。」とあり、町の雰囲気は大きく変わったようです。

約65年前のこの「樺太鳥瞰図」の町へ望郷の念を抱く人々の複雑な想いは、歴史の中に消えてしまうのでしょうか。

■「樺太鳥瞰図」の説明文です。
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「カラフト」の語源は、アイヌの人たちがこの島を「カラプト」とよんでいたことに由来します。
漢字では、「加良太」「唐太」「唐戸」などとかかれました。
公的には、1809年(文化6年)に徳川幕府が「北蝦夷地」と命名し、1869年(明治2年)からは「樺太」とよぶようになりました。
 右の鳥瞰図は、吉田初三郎(1884年~1955年)が描いた樺太の観光絵図で、昭和10年代の樺太の姿が描かれています。
初三郎は、京都に生まれ友禅図案師に奉公した後、洋画を学んで商業美術の世界に入りました。
大正から昭和初期の観光ブームが訪れると全国から鳥瞰図作成の依頼が相次ぎ、3000点以上の鳥瞰図をつくりました。
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「瓶ヶ森」紅葉の絶景を歩く

2010年10月19日 | 山歩き
「瓶ヶ森林道」の紅葉に感激した後、往復約2時間の「瓶ヶ森」(標高1896.2m)の山歩きです。

「瓶ヶ森」は、昨年7月18日に初めて歩き、今回は2回目です。

北海道旅行の記事は、次回再開します。



「瓶ヶ森」の下山途中に見た「石鎚山」です。

下り坂の道脇にモミジが、燃えるような色に紅葉していました。

「瓶ヶ森」一帯の紅葉も美しく、山歩きを一層楽しいものにしてくれます。



「瓶ヶ森林道」からの登山口から少し進むと道が分かれ、「男山」方向へ登って行きました。

下山は、左回りで下の道から帰りました。

鉄板のサビが気になった昨年の案内板が、真新しくなっています。



「瓶ヶ森」最初のピーク「男山」への稜線の道から雄大な景色が見えます。

東方向に「瓶ヶ森林道」が通る稜線が続いています。

彼方に見えるギザギザ頭の山は「伊予富士」、その右の三角山は「東黒森」のようです。

昨年の7月に来た時、この稜線の道沿いにピンクの「イブキトラノオ」が咲いていました。



「男山」のピークに近づくに従い、斜面の紅葉が鮮やかになってきます。

上段の写真とほぼ同じ東方向に見えた景色です。

向こうに「西黒森」が見え、やはり「瓶ヶ森林道」から上に紅葉が目立つ感じです。

ご覧の通り「瓶ヶ森」の東側の斜面は、とても急な断崖ですが、稜線の道は比較的なだらかです。



「男山」のピークに建つ祠の横から見下ろすと、駐車場や、瓶ヶ森林道が真下にあるように見え、更に深い谷が続いています。

駐車場の向こうに二つの三角山が見え、向って右は、標高1677mの「子持権現山」のようです。

左手の山は、標高1709.7mで「子持権現山」より標高が高いものの地図に名称が見当たりません。

駐車場から30~40mの標高差しかなく、「瓶ヶ森」に付属したピークとみなされているのでしょうか。



「瓶ヶ森」の頂上「女山」に近づいた辺りから見下ろした「男山」方向の景色です。

頂上までの景色では最もインパクトのある紅葉でしたが、写真では表現出来ていないようです。

頂上付近の笹の原から少し下に見える低木地帯の紅葉もまた格別です。



14:10頃、頂上に到着しました。

「瓶ヶ森」の頂上は、「女山」の名称の通りなだらかで、登山者をやさしく迎えてくれます。

しかし、頂上にある祠の中には恐ろしい形相の仏像が安置されており、これが「男山」を見下ろす「女山」の真の姿なのでしようか。

13:00頃に登山口を出発、立ち止って景色を見たり、写真を撮る時間をたっぷり使いました。



雄大な「石鎚山」を正面に見ながら下山しました。

下山は、一旦西へ向かい、瓶ヶ森ヒュッテ付近から南の駐車場へ帰るルートです。

手前に見える茶色の低木は、「ツルギミツバツツジ」でしょうか。



瓶ヶ森ヒュッテ付近から、南に進む道で、美しく咲いたキキョウを見つけました。

「瓶ヶ森」一帯で見かけたキキョウは、笹の原に挟まれた登山道の端の踏まれそうな場所で育っていました。

笹の原の中に咲く花は見当たらず、人が作った登山道の端が、キキョウの生き延びる限られた適地なのでしようか。



「男山」のピークを西側の道から見上げた景色です。

稜線には、山小屋が見えます。

紅葉と、「ウラジロモミ」の濃い緑がとても鮮やかでした。



登山口近くまで帰ってきました。

左手に登山口や、トイレのある建物、「瓶ヶ森林道」を挟み右下に駐車場が見えます。

15:00過ぎに登山口に到着、往復で約2時間の素敵な山歩きでした。

「瓶ヶ森林道」に続く紅葉の絶景

2010年10月18日 | 四国の旅
10月16日、四国愛媛県西条市の南「瓶ヶ森林道」の紅葉を見物、標高1896.2mの「瓶ヶ森[かめがもり]」へ登ってきました。

「瓶ヶ森林道」は、愛媛県西条市と、高知県いの市に挟まれた四国山脈の尾根を縦断し、絶景が楽しめる道路です。

北海道旅行の記事を中断して掲載しました。



寒風山隧道の南から「瓶ヶ森林道」を進んだ最初のトンネルの上に紅葉が広がっていました。

少し広くなった路肩に駐車し、素晴らしい紅葉をしばし見物です。



四国愛媛県東部の地図で、瓶ヶ森林道への道は、①②③の順で走りました。

②西条市からは、国道194号を南下、寒風山トンネルを迂回するスピンカーブの旧道を通り、寒風山隧道を抜けると③瓶ヶ森林道入口の三叉路に至ります。

③寒風山トンネルからは、gooの地図で、「瓶ヶ森林道」付近の地図をご覧下さい。

地図右上には「瓶ヶ森林道」沿いにある主な山が確認できる地図です。



そそり立つ絶壁は、鮮やかに紅葉し、その向こうに「伊予富士」が見えてきました。

「伊予富士」の斜面を見ると、頂上付近の紅葉が次第に下に向って進んでいる様子が分かります。

(茶色に見える木は、濃いオレンジ色で、写真では表現出来ていません。)



「伊予富士」の下から見上げた景色です。

あまりにも鮮やかな紅葉に見とれていました。



「東黒森」が見えて来ました。

晴天に恵まれ、景色も一段と美しく、ゆっくりと走る「瓶ヶ森林道」のドライブは最高の気分です。

路肩の広くなった場所のほとんどで車を止めて美しい景色を堪能しました。



少し通り過ぎた「東黒森」を見上げた景色です。

見上げる絶壁のはるか上には笹に覆われた山頂が見え、その下に濃いオレンジの紅葉が広がっています。

ウラジロモミの濃い緑と、白く輝く白骨樹も間近に見上げると迫力のある景色でした。



「東黒森」を過ぎ、「自念子ノ頭[じねんごのかしら]」が見えて来ました。

深い谷を見おろす標高1701.5mの「自念子ノ頭」もここから見ると小さな丘のようです。

「瓶ヶ森林道」の最高地点の標高は、1690mで、この辺りは約1600m、すごい場所に来たものです。



「自念子ノ頭」を過ぎた辺りから「瓶ヶ森」周辺の山々が一望できます。

向って左に「石鎚山」、その右隣に「子持権現山」、右端には三角の「西黒森」が見え、中央付近が「瓶ヶ森」です。



「石鎚山」をズームで撮った写真です。

右手に丸い頂上の「子持権現山」、「石鎚山」の左手後方で三角にそびえるのは「二ノ森」でしょうか。



紅葉した「西黒森」です。

神鳴池[かんならしいけ]の石碑から少し東の道路脇に「自念子ノ頭」「西黒森」への登山口があり、「自念子ノ頭」方向へ少し登った辺りからの景色です。



「西黒森」を過ぎた辺りから見た「瓶ヶ森[かめがもり]」です。

南北に長い「瓶ヶ森」の頂上は、向って右の峰「女山」で、左の峰は「男山」です。

「瓶ヶ森」の斜面の紅葉も進んでいます。



林道から「瓶ヶ森」の斜面を見上げると鮮やかなオレンジ色の紅葉が輝いていました。

ウラジロモミの濃い緑が美しさを一層引き立てているようです。

北海道旅行No.37 旨かった礼文島土産「ぬかほっけ」

2010年10月17日 | 北海道の旅
7/17 北海道旅行4日目 礼文島の観光を終えて香深港へ着きました。


香深港のフェリー乗場の建物を出て左手の風景です。

向こうの道の右手にあるのがレンタカー会社で、港付近の様子が分からず不安でしたが、数十メートルの至近距離でした。

ここは地元の会社のようで、対応もよく、車でまわる観光スポットの情報も教えて頂き、とても満足でした。



香深港のフェリー乗場の建物を出て正面に数軒のお土産物店が並んでいます。

少し、待ち時間があったのでのぞいてみました。



ある土産物店の入口付近に「礼文名物ヌカホッケ」と案内された𩸽[ほっけ]の加工品がありました。

手書きの案内文には「ヌカホッケ」「ヌカほっけ」「ぬかほっけ」と、まったくこだわりのない表現です。

初めて見たもので、他のお土産には目もくれず、貼紙の説明を読んでみました。



「ぬかほっけ」が段ボールケースにバラで詰められ、隣に販売用の小袋詰めがあります。

販売用の小袋には「ぬかほっけ」の商品名があり、これが正式な商品名だろうとブログ記事のタイトルにしました。

見た目の悪さにも好奇心がくすぐられ、酒の肴にと購入させて頂きました。



糠[ぬか]に覆われた「ぬかほっけ」です。

小ぶりなホッケの加工品で、頭と腹を取り、丸のまま糠漬け、燻製されたようです。

数年前に福井県若狭地方の土産で買った「鯖のへしこ」を思い浮かべ、とても塩からいものと思いこんでいました。

しかし、この「ぬかほっけ」、貼紙の適当な品名の表現とは大違い、味はしっかりと特徴がある旨いものでした。



家で食べる時、お店で撮ってきたこの貼紙の写真を見て調理しました。

3~4cmの長さでぶつ切りし、皮を剥ぎ、身をほぐしてマヨネーズで食べました。

塩分控えめで燻製され、加熱しないでもホッケのうま味と、燻製の香りでおいしく頂けます。

ビーフジャーキーならぬ「ホッケジャーキー」といったところでしょうか。

■「ぬかほっけ」の貼紙の説明文です。
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食べ方
○ひれの部分を削いで、糠のついた皮を剥いて唐からしとマヨネーズでビールのおつまみには絶品です
○軟らかいものは、スライス玉ねぎ・お酢で一品料理(マリネ風)
○軽く炙ると、糠の風味が食欲を誘います
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12:10頃、フェリーが入港してきました。

利尻島から礼文島まで乗って来たピンク色の「サイプリア宗谷」です。

「サイプリア宗谷」は色で分かり、礼文島南部の桃岩コースからも航行する姿が見え、なじみの船に思えてきました。



乗船した「サイプリア宗谷」は、この香深港を予定通り12:35出航です。

長年の夢だった礼文島観光は、とうとう終わってしまいました。

天気にも恵まれ、桃岩展望台付近の天国のような景色は、一生忘れられない思い出でになりました。

北海道旅行No.36 礼文島「見内神社」と隠された伝説の岩

2010年10月15日 | 北海道の旅
7/17 北海道旅行4日目 礼文島北部の最後のスポット「高山植物園」から香深港へ帰る途中、香深井集落にある「見内神社[みないじんじゃ]」へ立寄りました。



海岸沿いの道路を走っていると、道路脇に赤い屋根と、鳥居の「見内神社」が目に飛び込んで来ます。

最初、神社の正面にカーブミラーがあるように思い、驚きましたが、よく見ると道路側は神社建物の裏側で、海側が建物正面になっていました。

鳥居と、それに続く参道が神殿の両脇にある珍しい神社です。

■道路脇に「見内神社」の白い案内板があり、不思議な伝説がありました。
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見ないカムイ(見内神社)伝
 カフカイ岬角の先端の岩の上に「見ないカムイ」と言われる小祠が祭られている。
 この島にアイヌが多く住んでいた頃、アイヌ達はこの岩を非常に恐れて、路を通るにもこの場所を避けて見ない振りをして通行していたので和人が「見ないカムイ」と名付けたものであつた。
 この恐れて通る岩に対してアイヌ達はニシンが多く獲れたとき、またはトドが沢山獲れたときなどは、トド松の枝を切ってこの場所に捧げたので、この枯枝で森のようになっていた。
 明治十四・五年頃の出来事であったが、その年のニシン漁が不漁で香深の山本久衛門の支配人某が腹を立てその枯枝に火をかけて焼いてしまった。
 ところが、この焼け跡に高さ二メートル程の岩が削立しているのが発見された。この岩が「見ないカムイ」の神であった。
 事件後に村には死産が多くなつたがアイヌ達はいかにも当然であるかのように話した。
 「安産の神の罰があたったのだ」と・・・。
 アイヌが、この岩を尊敬し信仰の対象としたのは昔、天塩のカフカという毒婦が悪事のために村人に憎まれ、トド松の木で作った檻の中に入れられて海に流されたが、この檻が波に流れ流れて漂着した所がカフカイの岩の下で妊娠していた彼女はこの場所で安産したことから、この岩がお産の神と祭られるようになり安産を祈る妊婦はトド松の枝を捧げて安産を祈ることになったと伝えられるようになった。
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礼文島全体の地図と、左手下は「見内神社」のある「香深井」集落付近の詳細地図です。

礼文島の北東部にある「高山植物園」から東海岸を南下、カフカイ[香深井]の「見内神社」まで走って来ました。

「見内神社」の案内板に書かれた「カフカイ岬角の先端の岩」の場所は、地図で見る限り現在の「見内神社」辺りと思われます。



道路脇の神社建物のそばに小さな石碑が立っていました。

石の上部には、円の中に半円形の様な模様が刻まれ、その下に2行の文字が並んでいるようです。

向かって右の行は、「■藤節」と読めますが、左の行は読み取れず、何が書かれているのかまったく分かりませんでした。

石碑の下部は、砂利に埋められた感じで、「二メートル程の岩が削立している」とする「見ないカムイ」の大岩の先端ではないようです。

石碑の不思議なマークや、読み取れない文字は、未だ謎です。

石の左下部分には皮がはがれるように石の風化が見られ、石碑の古さがうかがわれます。



「見内神社」建物の南側を道路の向いから撮った写真です。

右手の海岸近くに小さな赤い付属建物があり、左手道路脇から「神殿」「拝殿」と建物が続いています。

参拝は、道路脇の左右いづれかの鳥居から赤い手摺のある参道を通り、右手の拝殿正面に回り込むようです。

案内板に書かれた「見ないカムイ」の大岩は、どこにあるのでしょうか。



海を背にして見る「見内神社」拝殿建物の正面です。

防波堤が無かったらこの辺りまで荒波が押し寄せていたものと思われます。

最北の地の珍しい神社建物の形式と、不思議な大岩伝説に魅かれながら拝殿に進んで行きました。



「見内神社」拝殿の奥には一般的な神社の祭壇があり、参拝させて頂きました。

祭壇奥の神殿建物に通じる入口は、拝殿内や、外壁にも見当たりませんでした。

神殿建物の奥行きは、この拝殿の奥行きとほぼ同じようで、幅はだいぶ狭いようです。

■アイヌ伝説関係の本を調べた処、「見内神社」の案内板に無かった伝説がありました。*************************************************************************************
「アイヌ伝説集」より (1971年) 更科 源蔵著
昔、天塩アイヌと宗谷アイヌとの間に戦争が起こったとき、宗谷アイヌは主従関係にあった利尻と礼文に応援を求めた。そこで礼文香深の酋長オムシャイヌは、部下を集め宗谷へ応援に出陣させた。その中に一隊の長としてカルアンという勇猛なアイヌも遠征にのぼった。その時カルアンの妻は病気であって、俄[にわ]かな夫の出陣を悲しみ、海岸の岩にのぼって夫の乗った舟の行方を見まもっているうち、ついに岩になってしまったのであるという。
礼文島香深村のカフカイ地先に、現在見内神社が建っているが、その御神体の岩の上に人の形をしている部分がそれで、今は安産と流行病除け、鰊漁の神様になっていねが、昔は和人がここを通ってこの岩を見ると、何か不幸なことが起こるというので、囲いをめぐらしてかくし、往来するものは顔をそむけて通ったので、「見ないで通る」ということから、ミナイカムイというようになったのであるという。(奥野清介 輯「伝説と異談」)
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この本によると、「見ないカムイ」の岩は、勇士カルアンの妻が岩となったもので、「見内神社」の場所にあるとしています。

高さ2mの大岩は、今でも恐れられ、この祭壇奥の神殿の中に封印されているものと思われます。

道路脇の小さな神社に、このような伝説があろうとは思いもよりませんでした。



北海道の北端周辺の地図です。

前述の「アイヌ伝説集」に登場するアイヌ部族の場所を確認して下さい。

最北の地に住む「宗谷アイヌ」は間宮林蔵が樺太に出港する地として知られています。

「天塩アイヌ」は、宗谷から日本海沿いを南下した天塩川河口付近と思われ、天塩川は石狩川に次ぎ日本で4番目の長さで、水産資源にも恵まれた地域と思われます。

二つの部族の争いが、西に浮かぶ利尻島、礼文島のアイヌまでも巻き込んだことを考えると、対立はかなり激しかったものと思われます。



神社の前から岩の多い北の海岸を見た風景です。

すぐ先は、香深井港の防波堤で、向こうの岬は「駒谷ノ崎」です。

石となった妻が夫カルアンを見送ったのは、この海の景色だったのでしょうか。

ところで、コンクリートの防波堤に何か立てかけられています。



神社の北隣には、天日干された昆布が広がり、防波堤に木製の器具のようなものが立掛けられています。

おそらく一定の量の昆布を木枠に入れて束ねる器具のようですが、ずいぶん長いものです。



北の海岸には天日干しの昆布が延々と続いていました。

ここで干す昆布は、向こうの港から陸揚げされるのでしょうか。

インターネット販売のサイトで、「礼文島産利尻昆布」の商品名も見られ、この昆布もお隣の島のブランド「利尻昆布」で販売されるものと思われます。



北海道旅行2日目に見た稚内市抜海村にある奇岩「抜海岩[ばっかいいわ]」です。(北海道の北端周辺の地図に赤い字で記載)

前述の「アイヌ伝説集」にこの「抜海岩」の伝説が掲載され、しかも類似点があることから掲載しました。

道々106号を走っていた時、この異様な岩が目に入り、写真を撮りましたが、このような伝説があることは知りませんでした。

■「アイヌ伝説集」((1971年)更科 源蔵著)より「稚内の抜海岩」の一節です。
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稚内の抜海岩
最果ての町稚内から三里ほど離れた、利尻富士を目の前にした日本海岸に、抜海[ばっかい]というところがある。抜海は瀬棚の梅花都とおなじアイヌ語のパッカイで、子供を負うことを意味する語で、ここに子供を負うたようなパッカイシュマという岩がある。
昔、ここに非常に仲のよい若夫婦があったが、ふとしたことから夫婦喧嘩をし、夫は他の女と舟に乗って宗谷岬の方へ行こうとした。それを見ていた妻は、抜海岩に登って、天に向かって、海が荒れるよう嘆願した。
すると大暴風が起きて、二人の乗った船はたちまち波に呑まれて二人は死んでしまった。それ以来この岩に登ると宗谷海峡が荒れて犠牲者が出ると言われていた。(加藤彬 輯)
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災いをもたらす岩は、「見ないカムイ」の伝説と共通です。



「抜海岩」の北側と、その横にある赤い屋根の神社です。

「抜海岩」を検索で調べた処、「稚内サンホテル」さんのサイトに「抜海岩陰遺跡」の記事がありました。

■以下は、「稚内サンホテル」さんのサイトに紹介された伝説です。
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昔、天塩アイヌと宗谷アイヌの間に闘いがあり、劣勢となった天塩アイヌは、勇猛果敢な礼文アイヌに応援を求めたそうです。
その時、応援に来た礼文アイヌの男子ワカルパと天塩アイヌの少女モナシノウクとが恋に落ち、子供を授かりました。
その後、ワカルパは礼文が恋しくなり一人で礼文へ帰ってしまう。残された妻子は、ひたすら夫の帰りを待ちましたが、やがて悲しみのあまり大きな二つの重ね岩に化身したという伝説の舞台です。
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この伝説で、大岩の上に小岩が乗った「抜海岩」は、夫を待つ妻と、子が岩になったとされています。

又、天塩アイヌと宗谷アイヌとの戦いに礼文アイヌのワカルパは、天塩アイヌ側で戦ったとする点は「見ないカムイ」の伝説と逆ですが、非常に似ています。

女性が岩になった伝説は、沖縄の石垣島の北端、「平久保」にもありました。

このブログ<2007年05月24日 石垣島平久保の「アイナマ石伝説」>でも紹介していますが、花嫁が山の中で岩になった伝説です。

「アイナマ石伝説」では岩に災いは無いようですが、思いの通じない女性が岩になってしまった点では似ています。

岩の形と、印象的な事件が結び付き、このような伝説が各地にできたものと思われます。

油絵「コスモスの花」

2010年10月13日 | 妻の油絵

妻の油絵「コスモスの花」です。

猛暑の夏の後には、とても寒い冬が来ると予想を聞きますが、長雨の後の猛暑で野菜が高くなり、秋から早々と財布が寒々し始めました。

このコスモスの絵に、涼しそうな秋風の雰囲気を期待するむきもありますが、この絵には春を感じさせるような色彩にも思えます。

当分、景気が良くなる期待が持てない情勢、寒さに向かう秋ではなく心だけでも温かくなっていく春の気持ちで過ごして頂きたいものです。

北海道旅行No.35 「礼文町 高山植物園」の花々

2010年10月12日 | 北海道の旅
7/17 北海道旅行4日目 礼文島北東部の「礼文町高山植物園」のビジターセンターを見学後、屋外の見本園の見学です。



広々とした草原の丘陵地に囲まれた「礼文町高山植物園」の見本園の風景です。

礼文島の高山植物の大半の種類が、ここにに集められているようです。

園内には特に順路の案内も見当たらず、通路で仕切られたコーナーにも何が植えられているか案内も見当たらず、適当に歩いて見学しました。



「礼文町高山植物園」のビジターセンターの建物の中に掲示されていた「現在園内で開花している花」の案内板です。

前日散策した礼文島南部の「桃岩展望台コース」では美しい花々に感動し、改めて礼文島の高山植物をお勉強する気になった処です。

以下に「現在園内で開花している花」の案内板の順に従い、見つかった花の写真を掲載します。



説明板に「ハイキンポウゲ キンポウゲ科6月中旬~7月下旬」とあります。

日本名は、「這金鳳花」と書き、茎が地を這って広がるようすが名前に付けられています。

小さな黄色の花は、つやがあるためか、とても元気そうな印象でした。



「礼文町高山植物園」でいちばん目立ったのが絶滅危惧種に指定されているこの「レブンソウ」です。

説明板に「レブンソウ マメ科 6月上旬~8月下旬」とあり、「礼文草」と書くようです。

ツボミや、花の根元を見ると白い産毛に覆われ、ぼやけたように見えていました。



岩の横にとても可憐な花が咲いていました。

説明板に「チシママンテマ ナデシコ科 7月中旬~8月中旬」とあり、日本名で「千島まんてま」と書くようです。

「これがナデシコの仲間?!」と首をかしげたくなる姿で、花の形は「イソギンチャク」にも似ています。



園内の数か所に植えられ、礼文島の各地でもよく見かけた花です。

説明板に「タカネナデシコ ナデシコ科 6月下旬~8月下旬」とあり、日本名で「高嶺撫子」と書くようです。

「高嶺撫子」の名だけ見ると、日本女性「大和撫子」と、特別な美人の「高嶺の花」の言葉を合わせた大変美しい花を期待するのではないでしょうか。



園内ではあまり目立たないただの雑草のような花でした。

説明板に「ヨツバヒヨドリ キク科 7月下旬~8月下旬」とあり、日本名で「四葉鵯」と書くようです。

「四葉」の名は、一段に四枚の葉がつくことによるものと思われます。

「ヒヨドリ」は、野鳥の名で、そのムネに見られるクサビ形の模様が花に似ているようにも思われます。

ほんのりと赤紫色がさした花を見ていると、しだいに清楚な花に見えてきました。



向って左から「エゾノシシウド」「オオハナウド」「エゾノヨロイグサ」と、せり科の花を並べてみました。

「現在園内で開花している花」の案内板には「ハマエンドウ」、「マルバトウキ」「シラネニンジン」の名もありましたが、撮影できたのは「エゾノシシウド」「オオハナウド」の二種類でr


園内に開花していた「エゾノヨロイグサ」を加えて三種類を比較した処、違いは葉の形にありました。

中央の「オオハナウド」は、葉がつながっており、左手の「エゾノシシウド」は丸い葉、右手の「エゾノヨロイグサ」は細長い先のとがった葉です。



バラ科の「ハマナス」が美しく咲いていました。

見本園の端に植えられていましたが、派手さの少ない高山植物の中では、輝いて見えます。

7月の北海道旅行では各地の海岸で見られましたが、果てしない道道106号の直線道路が続く幌延町の海岸に咲く「ハマナス」は忘れられない風景です。



有名な「エーデルワイス」の仲間、白い「レブンウスユキソウ」を見つけました。

白い説明板に「レブンウスユキソウ キク科 6月中旬~8月中旬」とあり、日本名で「礼文薄雪草」と書くようです。

葉の表面は、ビロードのような細かい白い毛で覆われ、薄雪のイメージが名の由来となったようです。

すぐ隣にやはり透明感のある産毛のような毛で覆われた赤紫の「レブンソウ」も咲き始めています。

「レブンウスユキソウ」の星のように尖った花びらのような部分は、つぼみを包んでいた葉で、花は中心付近に数個ある小さな丸い部分だそうです。

妻は、宝石がちりばめられた指輪のようなイメージだと言っています。



ピンクの猫じゃらしとも云える可愛らしい 「イブキトラノオ」が咲いていました。

白い説明板に「イブキトラノオ タデ科 7月上旬~8月中旬」とあり、日本名で「伊吹虎尾」と書くようです。

09月25日掲載の礼文島南部の「桃岩コース」のトレッキングでは広い草原に咲き乱れた「イブキトラノオ」と、利尻山の素晴らしい景色に天国を歩くような気持ちになったことは忘れられない思い出です。

向こうに見える広大な草原を見ると、「高山植物園」がせせこましく見えて来ます。

北海道旅行No.34 「礼文町 高山植物園」とレブンアツモリソウ

2010年10月10日 | 北海道の旅
7/17 北海道旅行4日目 礼文島の「澄海岬」を後にして、10:20頃「高山植物園」へ到着しました。

香深港を12:35発のフェリーで稚内に向う予定で、礼文島で観光できる時間も少なくなってきました。



「礼文町高山植物園」ビジターセンターに展示されていた「レブンアツモリソウ[礼文敦盛草]」です。

初めて見る珍しい花の形と、清楚な美しさにしばらく見入っていました。

「レブンアツモリソウ」の開花時期は、5月下旬~6月中旬ですが、温度管理で時期外れに開花させることが出来るようで、数株が展示されていました。

■花の後方に書かれた説明文です。
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レブンアツモリソウ(無菌培養)
この花は、高山植物園培養センター
施設内で開花したものです。
*花には、手を触れないで下さい。
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礼文町のリーフレットに掲載されていた礼文島北部の地図です。

西の「澄海岬」から「レブンアツモリソウ群生地」などで寄り道しながら「高山植物園」までレンタカーで約30分でした。



「澄海岬」からレンタカーで数分の「レブンアツモリソウ群生地」です。

「レブンアツモリソウ群生地」には左手の木戸を入り、山の斜面を上る道を進むようです。

残念ながら花の季節は終わり、木戸にはチェーンが巻かれていました。

この辺りの山には、林が見られ、周囲の草の山とはあきらかに違っています。

絶滅種に指定されている「レブンアツモリソウ」の群生地は、この林に守られているようです。



「レブンアツモリソウ群生地」の前に案内板が並んでいます。

右手の案内板は、北海道の天然記念物として、14.1ヘクタールの土地が「レブンアツモリソウ群生地」として指定されている旨の案内板で、土地所有者が大蔵省・林野庁とあります。

■左手の大きな案内板の説明文です。*************************************************************************************
植物群落保護林
レブンアツモリソウ群生地
「レブンアツモリソウ」は、礼文島固有のラン科の植物で絶滅の恐れがある国内希少野生動植物種として政令で指定された貴重な植物です。
レブンアツモリソウの群生しているこの区域を林野庁は植物群落保護林として、また北海道は天然記念物として保護に努めておりますので、ご協力をお願いします。
 保護林面積:9.60ha(林野庁所管)
 設定年月日:平成4年4月30日  
  林野庁・宗谷森林管理署
  北海道・北海道教育委員会
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「礼文町高山植物園」に到着、駐車場からすぐ先に二つの建物が見えています。

右手はガラス張りの温室のような建物ですが、「レブンアツモリソウ」の開花時期の調整や、

育苗はこの二つの建物で行われているようです。

「ビジターセンター」は、この建物の向こうにあります。



「礼文町高山植物園」ビジターセンターの建物です。

「レブンアツモリソウ」の鉢植えや、礼文島の観光案内の資料などが展示されています。

右手の塀の向こうには高山植物の見本園があります。



ビジターセンターの建物の中央に展示されていた鉢植えの「レブンアツモリソウ」を横から見た写真です。

向こうには玄関と、受付カウンターが見えています。



鉢植えの「レブンアツモリソウ」を花の構造が分かりやすい斜めの方向から撮ってみました。

丸い袋状の唇弁の上に開いた小さな穴が見えます。

よく見ると穴の後方の壁に雄シベや、雌シベがついていました。

花が赤紫の「アツモリソウ」と違い、淡いクリーム色が「レブンアツモリソウ」の特徴のようです。

「アツモリソウ」の名称は、平安末期の平家の若武者「平敦盛」が戦場で着けた「母衣[ほろ]」の形を連想してつけられたようです。

「母衣[ほろ]」とは、騎馬武者が背にゆったりと着けた布のことで、戦場を駆けると風で袋のように膨らみ、後方からの流れ矢を防ぐ補助的な防具のようです。

「アツモリソウ」の赤紫の色で、赤旗の平家を連想したことにもよるものと思われます。

この「レブンアツモリソウ」の色は、源氏の白旗にも似ており、「平敦盛」と戦った「熊谷直実」や、「義経」の物語を思い浮かべます。

ところで、西部劇の幌馬車や、トラックの荷台をシートで覆ったホロもこの「母衣」が語源だったのでしょうか。



礼文町高山植物園の見本園に開花した「レブンアツモリソウ」が植えられ、その隣に「レブンウスユキソウ」の花も咲いていました。

見本園には礼文島に咲く多くの高山植物が植えられ、実物を見ながら名称・分類名などが確認できました。

ここで撮った写真で、礼文島各地で撮った花の写真を調べ、名称や概要を知ることができました。


北海道旅行No.33 礼文島「澄海岬」の絶景

2010年10月08日 | 北海道の旅
7/17 北海道旅行4日目 礼文島の北端「スコトン岬」から途中の集落「鮑古丹」「鉄府」や、「レブンアツモリ草群生地」など寄り道をしながら「澄海岬」へ到着したのが9:30頃でした。



「澄海岬」の展望台から東側の湾を見下ろした景色です。

曇り空でしたが、海の色は素晴らしく、しばらくの間眺めていました。

沖縄の海の色にも似て、見ていると心が癒されるようです。



澄海岬の入口にある案内板に描かれていた澄海岬付近の地図です。

右下部分は、礼文島全体の地図を加えたもので、島の北西に赤い四角で囲んだ部分が澄海岬岬のある全体地図です。

「現在地」や、「展望台」がある岬全体を「西上泊園地(澄海岬)」と表示していますが、Mapfanの地図では「岡田ノ崎」と表示されており、最初は戸惑ってしまいました。

複数のポータルサイトの地図を調べたところ、北に突き出た「展望台」部分のみが「澄海岬」、岩礁の突出た南部分を「岡田ノ崎」と表示されていました。



上段の地図に「現在地」とあった駐車場から展望台へ向かう途中の場所です。

道の脇に上段の地図が描かれた案内板があり、道の先には右手に上る坂道が続いています。

稜線に人影も見えますが、展望台のある頂上まで細い急な坂道が続いていました。

■案内板にあった「西上泊園地」の説明文です。
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西上泊園地
澄海岬(西上泊園地)は、島の西海岸に連なる断層を展望し、足元に透んだ海を見おろす絶景の地です。
島内でこの澄海岬や、北に見えるゴロタ岬、スコトン岬、トド島の周辺は、玄武岩という火成岩からできています。
一方、ここから南に続く海岸線は、礼文島の基盤の古い堆積岩が隆起したものです。
それぞれ石はかたく、波の浸食に強いため断崖絶壁となっています。
礼文島の豪快で可憐な自然を味わえる西海岸8時間コースは、スコトン岬を出発し、この岬を通り、宇遠内、元地へと続いています。
-君の心青く澄んで、僕の心がとりもどす海の青さ- (歌「僕の終わり」より)
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展望台へ上る途中で、美しい海が見え始め、東側の黒い断崖には柱状節理が見られます。

右手の斜面一帯には黄色い「トウゲブキ」の花が咲き乱れ、その間にピンク色の「イブキトラノオ」も見られました。



「トウゲブキ」の花です。

「ツワブキ」によく似ていますが、大きさはだいぶ小ぶりです。

澄海岬の斜面一帯に多く見られ、元気そうな葉のツヤ、緑の中にくっくりと映える黄色の花が印象的でした。



東の断崖の下に広がる湾の海底は、驚くほど透けて見えていました。

よく見ると海底に白い石が一面に敷詰められたようになって、空の色で変化する美しい海の色を演出しているようです。

沖縄などではサンゴ礁などで出来た白い砂の浅瀬が見られますが、白い石が散らばる浅瀬の海は初めてです。



「澄海岬」の展望台に上がった様子です。

「澄海岬」標識が立ち、右手には「稲穂ノ崎」の先端が見えます。

この展望台は、石のタイルが敷詰められていますが、手前(入口付近)に大きく傾斜した珍しい施設です。



北に突き出た「澄海岬」の沖には、岩山が続く「稲穂ノ崎」が見え、更にその向こうには「ゴロタ岬」が見えています。

上段の地図にもあるように「稲穂ノ崎」から北に伸びる海岸沿いに鉄府[てっぷ]漁港や、鉄府集落があります。

鉄府集落に立寄って見ましたが、礼文島では珍しく砂浜の海岸が続いていました。

その砂浜では穴のあいたアサリなどの貝殻が見つかるそうで、肉食の巻貝「ツメタ貝」に襲われ、穴を開けられるのだそうです。



「稲穂ノ崎」の先端をズームで撮った写真です。

大きな岩山の上に小さく赤い鳥居と、祠が見えます。

鉄府漁港のすぐ西にあり、漁の安全や、大漁を祈っているのでしょうか。

ちょっと登って参拝したくなる神社です。



「澄海岬」の展望台から西の海に見える岩礁です。

褐色の岩礁部分の一部を拡大した写真が右上にありますが、岩礁にはたくさんのカモメ(ウミネコ?)が飛び交っていました。

岩礁には斜めの模様が見えますが、これも柱状節理のように見えます。



澄海岬の展望台から南に突出た展望場所です。

上段の地図にもあるように南に続く断崖の海岸が見えます。

丸い柵の周囲は、「トウゲブキ」が咲く断崖でした。



澄海岬の展望台を下りていく途中で西上泊の漁港や、集落が見えます。

港に見慣れない高いフェンスがありますが、冬の風を弱める設備でしょうか?

駐車場は、左手の山の裏で、中央に付近に見える三角の山の右手から道路が続いています。