昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

因島村上水軍の海関「美可崎城跡」

2010年05月25日 | 山陽地方の旅
尾道市因島三庄町三ヶ崎の「鼻の地蔵さん」へ参拝後、地蔵鼻の山頂にある「美可崎城跡」[みかさき じょうし]へ行きました。

「美可崎城跡」をめぐった往復時間は10分弱で、村上水軍の歴史に触れることが出来るミニスポットでした。



正面の山が「美可崎城跡」で、駐車場のすぐ横に道がありました。

道の両側は、柑橘類の畑で、道の左側に荷物を運ぶモノラックのレールが続いています。

■駐車場付近にあった案内板です。
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美可崎(土岐)城
三庄湾の南を扼する標高五十六.七米の三ケ崎の先端部に位置し、海の関所として古くからあり、宝亀二年(七七一)安芸国に中衛府を設け 中部瀬戸内海を守る海関がおかれた。
 郭は最高所を中心に南から北へ二段の削平地があり、その二つを包むように南から東へ帯郭がのびている。岬の南側にある入江を「船隠し」と云う。
 城の築かれたのは、室町中期と思われ因島村上氏の将南彦四郎泰統が備後灘を行く船から 帆別餞、駄別餞などの通行税を徴収する奉行として、金山亦兵衛康時を城代としておいていた。
 城の北端にある地蔵岩は、城に関係する伝説を伝えている。
  教育委員会
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駐車場から少し進むと右手に弓削島が見え、この間の海を「弓削瀬戸」と呼ぶようです。

この美しい海も、昔ここを通行した船にとっては、「鼻の地蔵さん」の伝説のように一つ間違えば生命の危険がある緊張する海域だったものと思われます。



次第に急な坂道になり、「美可崎城跡」への道は、石灯籠の先で右に折れます。

右手の白い標識や、石灯籠に「美可崎城跡」の名が見えました。



階段を上り、頂上が見えてきました。

すぐ先に「三十八番札所 金剛福寺 因島八十八ヶ所霊場」と書かれた案内板が立っています。



頂上に上がるとすぐ左手の「金剛福寺」で、本尊は千手観世音だそうです。

四国八十八ヶ所の「金剛福寺」は、高知県南西の足摺岬にあります。

下に掲載した因島の地図を右に90度回転させ、徳島の一番札所「霊山寺」を因島大橋のたもと「大浜」に見て、足摺岬を「地蔵鼻」に見ると何となく因島が四国に見えてきました。



尾道市因島周辺の地図で、「美可崎城跡」は島の南東「地蔵鼻」にあります。

「美可崎城跡」からは北東方向に「横島」、南方向に「弓削島」などが見えます。



「金剛福寺」の前から左手に石段があり、一段高い展望台に進んで行きます。

「金剛福寺」の付近は、こじんまりした日本庭園風になって参拝者をなごませてくれます。



「美可崎城」の本丸があった場所で、中央に休憩所の建物があります。

かつては、村上水軍が海関を置き、本丸の建物から周囲の監視を続けていたものと思われます。



休憩所の右側を進むと正面に「弓削島」の北端「馬立ノ鼻」が見えます。

写真には見えませんがその左手に豆粒のような「百貫島」が浮かんでいます。

右手の柵に沿って進むと「地蔵鼻」の南岸や、西方向の景色が見え、次の写真で紹介します。



右手の断崖は、「地蔵鼻」の南岸です。

「美可崎城跡」の説明書きにある「船隠し」と呼ばれる入江は、柵の越し見える断崖の下辺りでしょうか。

断崖の先に見える大きな建物がある付近は、因島の南端「家老渡港」や、造船所のようです。

左手の島は、弓削瀬戸の南西にある「佐島」で、その対岸の「生名島」との間に建設中の「生名橋」が見えます。

「生名橋」は、弓削大橋で結ばれている「佐島」「弓削島」と、「生名島」を結ぶものですが、完成が遅れているようです。



向こうに「横島」が見える北東方向の景色です。

一段下の平地は、案内板の地形図に「二の丸」と説明されていた場所です。

小さな見張りの砦をイメージしていましたが、小規模の城の規模でした。

今は柑橘類の木が植えられ、下から続くモノラックのレールは、すぐ前の小屋付近まで続いているようです。



帰りの坂道から見えた駐車場付近の景色です。

大きな二本の桐の木に薄紫の花が美しく輝いていました。

道路わきの石灯籠は、「鼻の地蔵さん」へ下る歩道の入口です。

前回掲載の「鼻の地蔵」の伝説で、浜で切り捨てられたとされる周防の商人の娘は、この辺りを歩いて浜に連れて行かれたのでしょうか。



これで因島の記事は終了ですが、まだ訪れていないスポットもあり、いつか再訪したいと思っています。

因島三庄町「鼻の地蔵さん」と、参道に並ぶ石地蔵

2010年05月23日 | 山陽地方の旅
5/1に行った因島観光の続きです。



海岸に下る坂道の途中から大きな丸い岩「鼻の地蔵」が見えてきます。

岩に彫られたお地蔵さんに不思議な物語が伝えられていることを知り、いつか来たいと思っていました。

沖に浮かぶ島に高い三角の山が見え、とても印象的です。

方角から沼隈半島の南にある「横島」の山「王城」と思われます。



「鼻の地蔵」周辺の地図で、後で行く「美可崎城跡」も同じ駐車場から歩きます。

「鼻の地蔵」は、因島の南端から東側を数キロ北上すると半島があり、その先端です。

因島三庄町から「鼻の地蔵」の標識に従って右折し、半島の北の道をしばらく走ると道の両側に駐車場がありました。

赤い線で描いた歩道に沿って海岸に下りて行くと、徒歩10分程度で「鼻の地蔵」です。



灯篭の場所に「瀬戸内海国立公園 地蔵鼻」の看板があり「鼻の地蔵」へ下る歩道が始まっています。

向こうには薄紫の桐の花が満開でした。

今年は何故か、桐の花をよく目にしますが、平年より花が多く目立つ為でしょうか。

■石灯籠の横に地蔵鼻の案内板がありました。
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地蔵鼻の由来
 昔、美可崎の城主、金山亦兵衛は、琴の修行のため船で都へ向かう周防の高橋蔵人の娘を関所破りの罪でとらえましたが、娘の美しさと娘のひく絶妙な琴の調べにすっかり心を奪われ、島にとどまり自分につかえるよう命じたところ娘には、周防に思いを寄せる若者がいたため応じませんでした。すると康時は腹を立て娘を浜で切り捨ててしまいました。
 それから間もなく夜になると、娘のすすり泣く声とともに琴の音が聞こえはじめ、康時は夜ごと悩まされ続けました。
 そこで渚の自然石に地蔵尊を彫り娘の霊を手厚く供養したところ亡霊に悩まされなくなったということです。
 その後、その話を聞いた周防の若者が地蔵鼻で娘の後を追い海に身を沈めました。すると地蔵の目からはボロポロと涙がこぼれ落ちそれは、みるみる内に小石になって辺りに散らばったということです。
 この鼻の地蔵さんに祈願し、娘の思いが込められた小石を特ち帰ると、恋が成就すると言われて、縁結びの額いを込めて多くの若い女性が訪れています。
 その他、子授け、安産、女性の額いごとがかなえられると言われております。
 祈額がかなうと石地蔵を作ってお礼参りをする習慣があります。
 毎月旧暦の二十四日は命日とされており、地元の人々はもちろん、近隣の島々や遠く県外からの参拝者で、賑わいます。
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坂道の途中におびただしい数の小さな石仏が並んでいました。

よく見ると石仏の姿は、一体ずつ違い、色が塗られたものもあります。

案内板「地蔵鼻の由来」に書かれていた女性達が、お礼参りで奉納した石地蔵と思われます。

屋根の下に水道の蛇口と手水鉢があり、その上の二段の棚にもたくさんの石仏が奉納されてあります。

隣の石碑には、
「鼻の地蔵さん四百年祭を記念して清めの水を出しています 大切に使って下さい 平成十年八月廿八日建之」
と刻まれており、地元の方々の善意で造られたようです。



坂道を下ると前方の東方向に美しい海岸の道が続いています。

「鼻の地蔵」までの道の雰囲気は、天気にも恵まれ、実に気持の良いものでした。



坂道を下りた辺りから西方向(後方)に見える海岸です。

潮が引き、緑の海藻が付いた平らな岩が現れ、その先に小さな砂浜があります。

左手の先の海は三庄湾で、向こうの海岸には因島三庄町の家並みが続いています。

参拝の帰りには、石灯籠の辺りから海岸に下り、潮の香りを楽しみました。



海岸の道脇にも多くの石地蔵が置かれた場所がありました。

感謝の気持ちがよほど大きかったのか、1mを超える大きな石地蔵もありました。

どの地蔵を見ても素朴で、個性的な作品です。



「鼻の地蔵」は、高さ2mを超える大きな岩でした。

岩の手前に見えるお供え台の真裏に地蔵さんが彫られています。

岩の左側に黒っぽい模様が見えますが、これにも伝説があるのでしょうか。

模様を見た時、昔、雑誌などで見たソ連のゴルバチョフ書記長の額が思い浮かびました。



女性の願いをかなえてくれると言われる「鼻の地蔵」です。

すぐ前の細いコンクリートの道から撮ったので、画像が歪んでいます。

■「備後の歴史散歩」森本繁著に以下の記載がありました。
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・・地蔵尊像の左右の岩面には、つぎのような文言が刻み込まれている。
「慶長四年八月二十四日 春心道妙善禅定尼 三十一歳阿摩□奉造備後因島金山□□□松室河可造修」
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慶長四年(1599年)は、関ヶ原の戦いの前年で、村上水軍は毛利の傘下で瀬戸内海に強い勢力を誇る時代だったと思われます。

四百年以上、波しぶきや、風雨にさらされ、今日までよく残っているものだと感心します。

岩の上部に表面が剥げ落ちた段差が見られますが、これからも壊れず、永く女性の願いをかなえて欲しいものです。



「鼻の地蔵」を陸の側から見た様子です。

何と、岩を一周する歩道の東側(右側)部分が壊れ、痛々しい状態でした。

満潮にはこの岩の足元まで潮が満ちるようで、海側からの参拝は干潮の時間帯に限られます。

この日の干潮は17時頃、訪れたのが干潮2時間前の15時頃でした。

「鼻の地蔵」の正面の歩道には引き潮の小さな波が、時々かかっていましたが、早いタイミングで参拝出来たものです。

尾道港の潮位を調べて来ましたが、因島観光協会のサイトでも参拝時間帯の案内が見られます。



斜面に白く丸い岩が見られ、因島観光協会のサイトで紹介されていた不思議な岩「玉葱状風化花崗岩」のようです。

玉ねぎの皮が剥けるように表面が風化しているのでしょうか。

伝説の「鼻の地蔵」の前から見上げ、後方の山の斜面にあることで、想像が掻き立てられます。



「鼻の地蔵」を背にした、帰りの海岸の風景です。

最初、海を見下ろす高い道路から長い山の坂道を下り始めた時、どんな場所かと不安でした。

この潮の香りのする海辺の道があり、伝説の「鼻の地蔵」は期待以上のスポットでした。

油絵「5月のばら」と、「ばら祭り」見物

2010年05月21日 | 妻の油絵
妻の油絵と、5/15~16、恒例の福山市「ばら祭り」の様子です。



妻の油絵「5月のばら」です。

久しぶりに大輪の美しいバラを目の前にして、意気込んで描いたそうです。

絵の出来にチョッピリ満足の妻でした。



5/12、「ばら祭り」の3日前に夜7時前「ばら公園」へ散歩に行きました。

歩道の両脇の植え込みに電灯がつけられています。

園内にもたくさんの電灯が並んで点灯していました。

今年は、開花が遅く、電灯で開花を促進していたようです。



夜7時頃、うす暗くなった「ばら公園」の中で、試しに撮った写真です。

開花促進の照明のお陰か、案外にきれいに撮れていました。



卜部俊孝先生の油絵「ばら」です。(額のガラスに白いものが映ってしまいました)

同じばらの絵でも素晴らしいセンスと、風格を感じます。

福山中央図書館のロビーで開催の「ばらの絵展」に展示されていたものです。



「ばら祭り」当日の「ばら公園」です。

係の方の努力のお陰で、予想以上に開花していました。



天気にめぐまれた「ばら祭り」当日の「ばら公園」の様子です。

例年より少ない開花ですが、咲き始めの美しい花に感嘆の声が聞こえていました。



中央公園の野外ステージで「ぷからす三線クラブ」が出演していました。

楽しい沖縄民謡で、観客も大喜びでした。

5/8~10、妻と沖縄本島の旅行へ行ってきましたが、ぼつぼつ旅行の想い出を掲載したいと思っています。



福山駅でばらの花が美しく展示されていました。

ばら祭りの関連イベント「ブリザードフラワー講習会」の案内の展示でした。

旅の二人連れの女の子から後方のアーチの前で記念写真のシャッターをたのまれました。

旅行中でもよく頼まれますが、人畜無害と見られるのかも知れません。

妻と、福山駅周辺の商店街のあちこちで大道芸を見たり、緑町公園のバラ園など見て回り楽しい2日間でした。


白滝山の石仏を造った人々

2010年05月19日 | 山陽地方の旅
5月1日、尾道市因島の白滝山へ登った続きです。

今回は、頂上の境内で管理人さんに石仏の興味深いお話を聞くことが出来ました。

又、白滝山の伝承をよくご存じの方から見せて頂いた本※「宗教界の偉人 柏原傳六の話」を参考に、二度目の石仏拝観をまとめてみました。


※ 参考書籍「宗教界の偉人 柏原傳六の話」中島忠由著 昭和廿五年十月二十日 重井中学校発行 非売品
以下、「柏原傳六の話」と省略します。


表参道を登り、山門をくぐると目の前に多宝塔がそびえています。
(写真右下は多宝塔の先端部分です。)

左手の建物は観音堂の管理室で、多宝塔の後方には裏参道口があります。

山門近くで管理人さんにお会いし、この4面の多宝塔には白滝山の石仏を作った8人の石工たちが、各々の代表作とも言える石仏を1体ずつ彫っていると教えられました。

多宝塔の周りに色とりどりの草花が咲いています。

正月に訪れた時には葉牡丹が植えられていたのを思い出し、植替えられた季節の花に参拝者への温かい気遣いを感じました。



白滝山の頂上付近の案内地図で、現地の案内文を基に作ってみました。

図の右上に「表参道」、「山門」、その下に「多宝塔」、「裏参道」が図の下にあります。

図の左が白滝山の頂上で、「柏原伝六夫婦像」、その下に不思議な巨岩施設「日本大小神祇」があります。

前回の記事で紹介した「柏原林蔵像」「番外札所 白瀧観音堂」は、山門をくぐり、右手の石段を上がった左手にあります。



多宝塔の石仏で、尾道の石工の棟梁「太兵衛」が彫ったとされる不動明王像です。

下部には四角に囲まれた「石工太兵衛」の文字も見えます。

この迫力ある不動明王像は、四面の多宝塔の管理室側(東側)全面に彫られており、裏参道から入ると正面右手にそびえて見えます。

昔の表参道は、現在の裏参道だったそうで、参拝者に最もよく見えるこの東面が名工「太兵衛」の作品の場所となったようです。

現在の表参道がいつ頃造られたのか分かりませんが、頂上の山門から表参道を少し下った場所にある「慈母観音」には「昭和」の文字が見え、その隣の「塩神」の石碑も明治以降に作られたそうです。



多宝塔の南側に彫られている石仏で、裏参道から進むと右手に見えます。

作者や、仏像名は不明ですが、南側全面を使って彫られており、「太兵衛」に次ぐ石工の作品と考えられます。

前回の拝観では見過ごしていた多宝塔の石仏ですが、管理人さんのお話しで当時の石工達の存在感が強く浮かんできました。



多宝塔の山門側(西側)に彫られた三体の石仏で、向って右側は、上段で紹介した南側の石仏です。

石工達の息遣いが感じられる精魂が籠った作品が並んでいます。

白滝山でひたすらノミを打ち続けた3年3ヶ月、腕を上げた石工達の最後の仕事だったのでしょうか。



多宝塔の観音堂側(北側)に彫られた三体の石仏で、左手には最初に紹介した「太兵衛」の不動明王像も見えます。

多宝塔の石仏も様々な姿に彫られており、三体並ぶ左の仏像は、赤ん坊を抱いた姿にも見えます。

白滝山の独創性にあふれた、数百体の石仏を彫る仕事は、尾道の石工達にとって大きな苦労の反面、石工冥利に尽きるものだったのではないでしょうか。

この他、管理人さんからは十字架のある数体の石仏や、女性的な立て膝の石仏、それを覗き込む石仏、その横で怒っている石仏などを教えて頂き、とても楽しい拝観が出来ました。



多宝塔の南側の塀のそばに、裏参道口に向かってひっそりと建てられた石造がありました。

管理人さんのお話では、伝六のお弟子さん「伊藤五兵衛」の石造だそうです。

「伊藤五兵衛」は、地元の方ではないようですが、当時の表参道口で参拝者を迎える位置にあり、「一観教」を支えた重要なお弟子さんの一人と思われます。

書籍「柏原傳六の話」では石仏造営の場面で、伝六が「弟子の林蔵、軽右ヱ門、亀太郎(土生の人河上氏)初五郎等とはかり」とあり、中核のお弟子さんは「伊藤五兵衛」以外にも数名いたようです。



多宝塔から頂上方向へ進む石段を上がると正面中央に三体の「釈迦三尊像」が安置されています。

管理人さんの説明では基壇の石積みは、城の石垣を築く技術が使われ、ノミと金づちで、石垣のカーブを精巧に合わせるには石工の高い技術が必要だそうです。

後方のその他の石仏の基壇とは比較にならない美しい石積みで、地震にも非常に強いそうです。

書籍「柏原傳六の話」によると白滝山の観音堂は、明治4年、ふもと重井町の善興寺(曹洞宗)に合併してその奥院となったとされています。

又、この石仏も当初「大石佛三尊像」とされていたものが、合併時からは「釈迦三尊像」として釈迦、文殊、普賢を現わすものに変えられたと書かれています。

現在の石仏名は、造営当時から続いているものばかりではないようです。



向って左の普賢菩薩の台座に、振り返った姿のゾウが彫られています。

管理人さんから聞いて分かりましたが、顔、鼻、耳はゾウらしいものですが、お尻は牛、尾は馬、足は虎のようで、当時見たこともない動物を彫る石工たちの苦労がうかがわれます。

しかし、全体としては違和感のない動物の姿に見えており、石工の創作力の素晴らしさを感じます。



前回も紹介した石仏造営の指揮をとった「柏原林蔵」の石像で、石仏が完成した頃(64才)の姿と思われます。

書籍「柏原傳六の話」では「伝六は始め尾道の浄土寺山上を選んで、浄土境をつくろうと計画していた・・・柏原林蔵のすゝめによって郷土白滝山上にそれを現わすこととなり・・」と書かれ、重要な聖地の選定に伝六は、林蔵の意見を採用しています。

伝六は、文政10年(1827)石仏造営の発願し、柏原林蔵を責任者として1月から工事が着手されています。

聖地の意見採用や、石仏造営をまかせた伝六の決断には林蔵に対する大きな信頼感がうかがわれます。

ところが翌文政11年(1828)3月、広島藩の取り調べを受けた伝六が48才で他界する大事件がありましたが、その後も石仏造営は続けられ、文政13年(1830)3月、遂に完成したそうです。

林蔵は、教祖伝六の死という絶望的な悲しみや、様々な困難に遭遇したと思われますが、完成までの3年3ヶ月、一度も山を下りず石仏造営に打ち込んだそうです。

伝六の死に耐え、伝六が描いた浄土の世界が白滝山に完成した時、造営に関わった林蔵をはじめとする人々の感慨は、いったいどんなものだったのでしょうか。



頂上に近い場所に立つ伝六夫婦像で、右に空席があります。

管理人さんのお話では空席には後継者の石像を予定していたと考えられているそうです。

又、伝六は、広島に数か月拘束され、釈放された直後に亡くなったそうで、毒殺のうわさはこの状況からささやかれたものと思われます。

書籍「柏原傳六の話」によれば伝六の家は、農業の他、木綿や紫紺等の問屋を営む裕福な家だったようです。

子供が出来ない両親は西国三十三所観音巡礼に行き、授かった子が生まれながらにして額に白毫星を持つ伝六だったそうです。

(このことから考えると、代々秘かに伝えられる隠れキリシタンとは違うようです。)

柏原家の遠祖は、武蔵国入間郡の武士で、鎌倉時代に西国に移り、戦国時代は村上水軍の一翼を担った一族のようです。

その後、伝六が悟りを開いた様子は、2010年01月29日掲載の<江戸末期 因島の宗教家「一観」の書>をご覧下さい。



頂上の展望台の東側にある「日本大小神祇」です。

私は、てっきり古代祭祀の施設かと思っていました。

管理人さんの説明では儒・仏・神・基の四宗教の統合体としたのがこの施設で、一観(伝六)さんはこれを象徴として拝んでいたそうです。

江戸末期、信者が続々と増えていた一観の語る「一観教」の教えとはどんなものだったのでしょうか。

因島「白滝山」参道3 八栗寺・くぐり岩コース

2010年05月16日 | 山陽地方の旅
前回に続いて尾道市因島「白滝山」の参道の記録です。

参道は、「フラワーセンター」付近から頂上まで約30分のコースですが、帰りは途中の区間にある別コースを歩いてみました。



前回も掲載した「白滝山」参道の地図です。

今回は、頂上近くの地図⑪の地点から⑩「八栗寺」、⑨「くぐり岩」を経由して⑦「六地蔵」近くの合流地点までのコースです。

地図では⑪の地点から上方向の「フラワーライン駐車場」へ下る分岐が、八栗寺・くぐり岩コースの分岐より山頂側になっていますが、逆のようです。

「大日如来」を通るコースと比較して急な坂道の部分が多いようでした。

途中、⑩「八栗寺」の近くに「奥の院」がありますが、気が付かず通り過ぎてしまいました。



頂上の山門を下り、なだらかな尾根の道を下っていると、左手に「八栗寺」へ下る道が分岐しています。

標識には左に曲がると「参道」、直進は「フラワーセンター」と書かれています。

「八栗寺」は、因島八十八ヶ所霊場の一つです。

白滝山頂上の観音堂前で、係の方に因島八十八ヶ所霊場の由来を教えて頂きました。



白滝山の頂上の「伝六像」の後方で、背を向けて立つ「弘法大師像」です。

係の方のお話では、因島に八十八ヶ所霊場(明治末期)をつくる最初にこの弘法大師の石像を建立し、大師に霊場を開くお許しを祈った後、札所の整備が進められたそうです。

「弘法大師像」が「伝六像」に背を向けて立っている理由は、八十八か所の四国に向いているためと聞きました。

2010年01月20日掲載の「白滝山頂上の石仏群と柏原伝六」(8番目の写真)で、「伝六像」の隣が空席であることと、「弘法大師像」が背を向けて立つことが謎と書きましたが、一つ解けたようです。



白滝山の頂上に因島八十八ヶ所霊場、番外札所「白瀧観音寺」があります。

観音堂から、石仏が並ぶ一段上のエリアに上がると、すぐの左隅にあります。

第一番札所は、因島大浜町の大浜崎灯台近くにある「霊山寺」ですが、「弘法大師像」に参拝後、すぐそばの「白瀧観音寺」への参拝を考えると、ゼロ番札所とも言える寺だそうです。

写真左の石像は、白滝山の石仏造りを指揮した「柏原林蔵像」で、「白瀧観音寺」はその背後に建てられています。

「柏原伝六像」の背後に南向きで建つ「弘法大師像」と類似した位置関係です。

「弘法大師像」は四国のある南に向くと教えて頂きましたが、北向きの石仏群と逆の南向きで、宗教的な摩擦を避ける配慮もあったのではないでしょうか。



道を下り始めてしばらくすると、眼下に「八栗寺」の屋根が見え、ふもとの景色が開けてきます。

下に見える広場は、「フラワーセンター」です。

5月1日、イベントの音楽が聞こえて来ました。



ふもとの「フラワーセンター」の入場口前から「白滝山」を見上げた写真です。

向って左の山腹に岩の上に建つ「八栗寺」が見え、山際中央には観音堂前の展望台の屋根、右上には鐘楼が見えます。

山の斜面には、たくさんの巨岩がそびえ、壮観な山の景色です。

昔から岩の断崖を「タキ」と呼ぶようで、「白滝山」の名称にある「滝」は、この巨岩から名付けられたのかも知れません。

昨年10月、愛媛県の「四国カルスト」へ行った帰り、愛媛県久万高原町の「上黒岩岩陰遺跡資料館」へ立ち寄った時、案内係の方が、遺跡のある高い岩の断崖を「タキ」と呼ばれていたのを思い出しました。

久万高原町の景勝「御三戸嶽[みみとだけ]」も岩の断崖で、「タキ」は、ごく自然に付けられた名称にも思えます。



急な参道が、次第に緩やかになり、因島八十八ヶ所霊場八十五番「八栗寺」へ着きました。

寺とは言え、小さなお堂で、周囲には三つの石の祠がありました。

因島をめぐると、このような大きさのお堂が各所に見られ、地元の方々のお接待もあるようです。

岩場の上に建つことから周囲の景色を遮るものがなく、絶景が楽しめます。



「八栗寺」のお堂の奥に安置されている「聖観世音菩薩」の石像です。

ヨーロッパの王様のような顔にも見えます。

日本酒が2本供えられ、どうも因島の観音様はお酒好きのようです。

■上の横の壁に歌が書かれた額が掛けてありました。
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 煩悩を胸の智火にて
    八栗をば
 修行者ならで
    誰か知るべき
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大日如来コースから見た「八栗寺」です。

後方の山の斜面に巨岩がそそり立ち、帰りには必ず立寄りたいと思った魅力的な景色です。

地図では巨岩の辺りが「奥の院」のある場所のようです。



「八栗寺」を過ぎ、急な坂道を下りていくと道が、右に折れて、「くぐり岩」がありました。

道の左に突き出た岩と、右手の斜面に平らな大岩が載ってトンネルになっているようです。

「くぐり岩」は、どう見ても人工的なトンネルのようで、いつの時代の物でしょうか。



下から見た「くぐり岩」です。

手摺のある石段を下り、大岩をくぐり抜けます。

トンネルをくぐる時、山側の上を見ると、大岩の下に不動明王と思われる石仏が安置されていました。



「くぐり岩」を抜けて進んで行くと参道は、直進する下山道と、右手からの「大日如来コース」と合流します。

白滝山の参道は、眼下に広がる景色や、そびえる巨岩、石仏などが楽しめ、思い出深い山歩きになりました。

ふもとからの参拝ルートは、歩きやすさや、景観を楽しむ点でもやはり「大日如来コース」を登り、「八栗寺コース」を下るのがお奨めです。

次回は、白滝山に関係する方々から教えて頂いたことを交えて、頂上の石仏観賞を掲載したいと思っています。

因島「白滝山」参道2、大日如来から頂上まで

2010年05月12日 | 山陽地方の旅
因島の白滝山の参道を登った記録の続きです。

前回は、「①フラワーセンター」前からスタート、「⑦六地蔵」まででした。

今回は、中腹の石仏群「⑧大日如来」前を通り、⑪頂上付近までの記録です。



山頂に近い参道から見下ろした「⑥山門」と、「⑦六地蔵」です。

五月のうららかな日、新緑に囲まれた参道をゆっくりと登って行きました。



前回にも掲載した白滝山頂上の観音堂、石仏群までの参道地図です。

今回は、⑦「六地蔵」から⑧大日如来を通り、⑪付近までのコースです。

帰りは、⑪の分岐から⑩八栗寺や、⑨くぐり岩を通るコースでしたが、次回の掲載とします。

又、⑪から山頂までは、2010年01月13日に<しまなみ海道 因島「白滝山」から見た絶景>で掲載しています。



「六地蔵」を過ぎて少し歩くと、向こうに道案内の標識が見え、道が分岐しています。

分岐した参道は、頂上付近で再び合流します。



分岐点にあった道案内の標識です。

左に分岐する「参道」の方向は、「大日如来」を通るコース、直進する「遊歩道」の方向は、因島八十八ヶ所めぐりの85番札所「八栗寺」を通るコースです。



参道を登ると、目の前に突如、巨岩が現れて一段高い岩の上にそびえる「大日如来像」が見えて来ました。

周囲の巨岩の上にも約二十体の石仏が並んでいます。

石仏は、一体づつ特徴があり、一休みしながら拝観しました。



向って左側の石仏です。

赤ちゃんを高く抱き上げ、あやしている様にも見えます。

隣の石仏は、一見「おばあさん」にも見えます。

一つ一つの石仏にはそれぞれに意味があると思われますが、残念ながら伝わっていないようです。



大日如来の下付近にあった石仏です。

右の石仏は、経典の巻物を読んでいるのでしょうか。

左の石仏は、帽子のようなものをかぶり、右手に袋のような物を持っています。

とにかく、白滝山には他では見られないユニークな石仏が並んでいます。



八栗寺のコースから見た「大日如来像」です。

左の島は「小細島」、右に続く島は「細島」です。

向こうには三原市の街が見えています。

仏教では「如来」は、「明王」「菩薩」を超える最高ランクの仏様で、その中でも「大日如来」は宇宙を司る最高の「如来」だそうです。

眼下に広がる素晴らしい瀬戸内海の景色を宇宙に見たて、宇宙を見渡す「大日如来」を表現しようとしたのでしょうか。



「大日如来」を少し登った辺りから頂上の「観音堂前」の展望台、中腹の「八栗寺」を見上げた景色です。

山の急斜面の所々には霊山にふさわしい巨岩がそびえています。



「白滝山」頂上に近い尾根まで登って見下ろした景色です。

向こうに見える島は三原市「佐木島」で、中央の半島の左斜面には除虫菊の畑が広がっているようです。

この参道のコースは、景色をさえぎる高い木立も少なく、北西方向を中心とした景色は、本当に素晴らしいものでした。



山頂に近い尾根の道を歩いて行くと、正面に「観音堂」の屋根が見えて来ます。

向って左に見える緑の幟の辺りには1月に登って来た道があり、これが短時間で登れるコースです。

向って右の奥に見える緑の幟の辺りには「八栗寺のコース」へ下る道が始まっていました。

次回は、帰りに通った「八栗寺のコース」の様子を掲載させて頂きます。

因島「白滝山」参道、百華園から六地蔵まで

2010年05月05日 | 山陽地方の旅
5月1日、尾道市因島の白滝山へ再訪しました。

前回は、今年1月2日に山頂に近い駐車場から登りましたが、今回は麓からの参道をゆっくりと歩くことにしました。

前回の因島観光の数回にわたるブログ記事は、幸いにも因島観光協会様の観光案内ページにリンクを貼って頂き、毎日のようにリンクからの来訪者もあり、感謝しています。

更に、白滝山の石仏造営当時の伝承を知る方から、記事へのご指摘を頂き、更に貴重な歴史資料を見せて頂く機会を得て、因島への親しみと、白滝山への興味を一層強くしました。

又、その方から除虫菊の咲く季節の再訪を勧められ、この時期を心待ちにしていたものです。



「百華園」から重井東港を見下ろした景色です。

今回、「白滝山」への道は、フラワーセンター横の道から裏手の「百華園」を通り抜け、白滝山の参道に合流するコースを歩きました。

「百華園」は、白滝山のふもと近くの斜面に造られた公園(?)で、桜で親しまれているようです。

晴天に恵まれ、見晴らしの良い「百華園」からの景色は、海の色、山の緑、花が美しく輝いていました。



この地図は、ふもとから白滝山頂上の観音堂、五百羅漢への参道地図で、前回、観音堂で頂いた参道地図をアレンジしたものです。

今回は地図下部の①「フラワーセンター」前の駐車場から出発、⑦「六地蔵」までを記載し、残りは次回とします。

「フラワーセンター」の右上に見える③「表参道駐車場」には「山頂まで520m 25分」の標識があり、「フラワーセンター」からのコースは山頂まで約35分でしょうか。



「フラワーセンター」の後方斜面にある「百華園」の入口です。

入口付近の黄色の実は八朔でしょうか、白滝山を背景に、赤い屋根のペンション「白滝山荘」が映えて見えます。

「白滝山荘」は、米国人建築家ヴォーリズが昭和初期に建てた洋館だそうです。

ヴォーリズの名は、滋賀県近江八幡市の旅行の下調べで知り、日本に帰化されて多方面にすばらしい活躍をされた方です。

下山の途中、前を通りましたが、赤い柱に白い壁が美しく映え、花の咲く玄関へのアプローチなどを見るとペンションの方の暖かい気持ちが伝わってくるようです。

桜が終わった新緑の園内の坂道を山頂を目指して登って行きました。



帰りに立ち寄った表参道駐車場(地図③)です。

白滝山荘の横の道を進むと、車道はここで終わり、白滝山の参道が始まります。

少し手前にも駐車場や、桜並木がありました。

この道を少し進むと「百華園」からの道と合流(地図④)します。



参道を進むと右手に広場があり、柏原伝六の墓が立っていました。

1月にもこのブログで掲載しましたが、柏原伝六は、白滝山で新宗教「一観教」を開いた人です。

当時、山頂に造られた沢山の石仏に、各地から続々と信者が押し寄せたとされ、参道もかなり賑わったものと思われます。

■墓所を過ぎた辺りに「白瀧山」の案内板がありました。
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瀬戸内海国立公園 白瀧山
(由来)
白瀧山は、重井町善興寺の奥院で、古くは瀧山と称し、古代からの霊山として項上の岩揚を盤境と伝えています。
文政13年(1830年)柏原伝六が白瀧山 上の観音堂にこもり、儒教、仏教、神道の三大宗教に当時禁制のキリスト教を加え新宗教「一観教」を開き多くの弟子や信者と伴に約700体の石仏を造りました。
この石仏は石像美術としてもすぐれ中には弟子や信者、石工の名が刻まれ、尾道の名工太兵衛の名も見えます。
(現状)
白瀧山は標高227mで中腹から山頂にかけて、像高50㎝~2mの奇態万状の石造五百羅漢像、頂上には大石仏、三尊像(釈加如来、文殊菩薩、普賢菩薩)一観(柏原伝六「一観妻像等約700体が松林と岩石にかこまれ瀬戸内海の自然美の中にとけこんでいます。
 白瀧の山に登れば 眼路広し
 島あれば海 海あれば島
   寄贈 因島ライオンズクラブ
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伝六の墓の入口に石塔が並んでいます。

左の大きな墓の前に「歴代 堂守の墓」と案内されていました。

頂上の石仏や、この墓所を大切に守ってきた人達が眠る墓のようです。

一番左手に見える石仏には「七〇〇体の内 第一号観音」と書かれた案内板が立掛けられており、白滝山の石仏約700体の内の初めて出会う石仏のようです。



梅の木の横に立つ柏原伝六の墓です。

もの静かで、おだやかな表情でしたが、不思議な存在感がありました。

白滝山頂上の観音堂前で、案内の方から聞いた話では伝六さんは、藩の取り調べを終えて帰って来た直後に亡くなったそうです。

■墓の横に「伝六の一代記」の案内板がありました。
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五百羅漢創建者伝六の一代記
1 1780年重井町川口(旧宅小段)で生まれた。(約200年前)
2 1805年、25才の時、母から観音様の申し子であっと 聞かされて以来、17年間熱心な仏道修行者になった。
3 1822年42才霜月6日の暁に悟を開いた。
4 同年よリ48才までの6ヶ年間瀬戸内海の島々広島県東部 岡山 兵庫 烏取3県及び京都府下の一部にまで伝道し 信者はl万人を越えた。
5 1827年から石仏造りに着手したが工事の中途参拝者はこの山に蟻集した これを聞いた広島藩庁は百姓一揆を起すのではないかと心配して伝六を厳しく取調べた伝六は終始十分な申し開きができたようたが藩は彼に毒を飲ませて帰したとか伝六自信が毒死したとかその死因は定かでない。
6 1828年3月15落命 その年の9月下旬ここに埋葬される。
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急な参道が開け、広い石段の道の上に「仁王門」が見えて来ます。

門の入口の向こうには小さく「六地蔵」が見えています。



珍しく石で造られた仁王像です。

左右の仁王像の写真を結合しました。

手に玉を持ち、腹が出てずんぐりした体形に、他人とは思えない親しみを感じます。

■門の脇に「仁王門」の案内板がありました。
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仁王門
1834年(天保5年)重井八幡神社に守護神として安置されましたが、明治の初めの廃仏毀釈の際、この山腹に移されました。
当時は青天井でしたが、明治42年に門が建てられました。
筋骨たくましく眼は光り、鼻は太く、口はかみしめて力あふれ、よき守り役です。
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仁王門を抜けると両脇に六地蔵が立っています。

ここにあった案内標識では、「駐車場200m、頂上500m」とあり、下の参道駐車場にあった標識「山頂へ520m」と距離が違っているようです。

■すぐ横に「六地蔵」の案内板がありました。
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六地蔵
1.天道(幸福一杯であっても悩みつきない人を励ましたい)
2.人道(死苦から逃れられない人生の因縁を諦めさせたい)
3.しゅら道(家庭苦、社会苦、戦災に悩む人を助けたい)
4.畜生道(憎しみうにみを一杯もった人を導きたい)
5.がき道(飢えきった人を物心二方面から救いたい)
6.地獄道(つらい責苦のある人の聞き手となって慰めたい)
これら六道に悩む人を早く救いたいと、中腹に下りて人待ちしています。
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左手に立つ地蔵さんです。

一体ずつ表情が違いますが、いずれも丸顔でやさしそうな表情です。

頭と胸に赤い布が付けられたものの、色が落ちて白くなっているようです。



六地蔵の付近から山頂を仰ぐと、左上に観音堂前の展望台の屋根が見えます。

山の斜面には巨岩が散在し、案内板の説明にあった旧名「瀧山」や、古代からの霊山を強く感じる景色が見えはじめて来ました。