昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

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油絵「侘助」

2012年04月28日 | 妻の油絵

妻の油絵「侘助[わびすけ]」です。

まだ寒い日が続いていた3月の作品です。

どっしりとした備前焼の花瓶に元気に咲く「侘助」の花が差されています。

椿の一種「侘助」は、花びらの開いた角度が少し狭く、小ぶりなためか、開き始めた花のように見えます。

「侘助」の名には、茶室に飾られた一輪差しの花が思い浮んできますが、この花の姿は、どう見ても素朴で可憐な庶民の娘を連想してしまいます。



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「草戸山」ツツジが咲く散策道 と「中山城跡」

2012年04月23日 | 山歩き
4/21(土)10時頃、うららかな天気に誘われて妻と、福山市街地の西にそびえる草戸山付近を散策しました。

葉桜の季節になりましたが、昨年、草戸山付近の山道に、たくさんのツツジが咲いていたのを思い出して来たものです。



標高120mの草戸山に建つ展望台です。

らせん状の通路を上った屋上が展望台ですが、「明王台配水池」と呼ばれる水道関係のタンクを利用した展望台です。



草戸山付近の地図です。

展望台までは、国道2号の神島橋西岸の少し南から住宅団地「明王台」へ入り(赤い矢印の道)、公園の無料駐車場[P]へ車を置き、長い階段を登ってきました。

散歩は、駐車場から赤丸印の3地点を往復するコースです。

「三叉路」「中山城跡」の場所はデジカメで記録された誤差のある位置情報から推定して記したものです。

展望台から歩道を示す破線が南東に伸び、「半坂」地区まで続いていますが、「竈神社」や「番神社」へ続く道も案内表示されています。

「竈神社」は、山道の案内標識に「半坂カマド」と不思議な名前で案内された先にある神社で、半坂地区にある竈[かまど]神社を示す通称だと思われます。



フェンスで囲まれた展望台の内側の壁に福山市の観光イベント「鞆の鯛網」の風景が描かれていました。

らせん状の通路を登ると雪景色の明王院の絵に始まり、季節の順で阿伏兎観音、桜の咲く福山城、5月から始まる鞆の鯛網、お盆の花火大会、名勝鞆の浦、紅葉の猿鳴峡と福山市の名所が紹介されています。



展望台から北東方向、福山駅周辺の風景です。(空気が澄んでいた今年1月の写真です)

地図にもあるように眼下には芦田川、写真左端には福山城がありますが、よく見えていません。

写真左側にそびえる「蔵王山」からも福山市街地を見下ろす風景が見えますが、太陽を背にして見るこちらからの風景が美しく見えるようです。



南方向、新緑に染まる芦田川の河口方向の風景です。

河口の一番先に「河口堰」、その手前に「芦田川大橋」がありますが、春の霞で見えません。

散策の道は、左手の林の中を進んで行きます。



展望台から住宅団地の端を通る山道を進んで行きました。

花びらを散らしながらも遅咲きの桜がまだ咲いていました。

右手の住宅を過ぎると道は左にカーブし、林の中を進んで行きます。



散策道の各所に満開の美しいツツジ花が見られました。

花の色には、薄いピンクと、やや濃いピンクの2種類があるようです。



山道を進み、最初の坂を上りきった中に三叉路があり、直進「番神社」、右「半坂」の標識の下に新しく「草戸山城跡」の標識が右斜め手前方向を指しています。(写真右下は標識を拡大したものです)

又、白いプラスチック板の標識に「 ⇔中山城跡 福山山岳会」とあり、今年1月にここを歩いた時には無かった城跡の標識がありました。

確か、最近の新聞で城跡を見つけた記事があり、ここかも知れないと思い、行ってみることにしました。

山道を右折すると数メートルで道は二股に分かれ、「中山城跡」は右方向に行きます。(そこにも福山山岳会の白い標識あり)

写真には三叉路の先にもツツジが咲いていますが、この後に紹介する珍しいキノコが生えていたのはそのすぐ先にある松の木でした。



山道を1~2分歩いた「中山城跡」とされる場所です。

山頂一帯を平坦に整地してあるようですが、その広さは100坪位でしょうか。

途中の道や、この城跡には所々に細い木の切り株が見られ、新たに切り開かれたことがうかがえます。



城跡の西側にあった看板です。

「2012年(平成24年) 草戸山 城跡」とあり、やはり今年に作られたようです。

城跡の周囲は、立木で視界が遮られていますが、地形的には360度の展望が出来るものと思われます。

市街地から見上げると「草戸大橋」と、その上流の「法恩寺橋」の中間にそびえる山頂と思われます。

「中山城」に関する知識はまったくありませんが、中世に栄えた芦田川河畔の草戸千軒遺跡から見上げる場所にあり、興味がわいてきます。



道を引き返し、三叉路を少し進んだ道のすぐ脇にある松の木に珍しいキノコが生えていました。

直径約3センチの小さな栗饅頭のようなキノコで、初めて見る種類です。

キノコは、松の木の根元から這い上がるように、かなり上まで続いています。

ツヤのある栗色に食欲がそそられ、思わず手が出そうになりましたが、毒キノコかも知れないと思い自重した場面です。



芦田川を見下ろす尾根に沿った山道を進むと「番神社」にたどり着きます。

神社境内は、草戸大橋を見下ろす高い場所にあり、下の集落から長い階段が続いています。

小さな社殿内には「三十番神」と書かれた札や、「妙宗 三十番神 略縁起」の文章が書かれた額が掛けられていました。

この「妙宗」の文字から南の山にそびえる「妙見神社」との関連も想像されます。

かつて「中山城」は、「妙見神社」の場所が比定されていたようですが、次第に解明される中世の福山の歴史にも興味が湧いてきます。
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「備中国分寺」花盛りの風景

2012年04月17日 | 山陽地方の旅
4月15日、岡山県総社市の「備中国分寺」へ行きました。

暖かい季節になり、久しぶりのお出かけです。



駐車場近くから見た「備中国分寺」の風景です。

畑に咲く菜の花の向こうに、何となく懐かしさを感じさせる五重塔が見えてきました。



桜が咲く参道の先に山門、左手に鐘楼、右手には本堂の大きな屋根が見えています。

好天の日曜日、散り始めた桜を惜しむように参拝者が続いています。



五重塔を少し西側(向かって左側)から見た風景です。

この辺りからは「備中国分寺」の主要な建物がほとんどが見える場所でした。



上段の風景を見た場所に「平山郁夫画伯取材場所」と刻まれた石碑がありました。

絵の達人でもやはり風景をよく選んで描くことを教えられます。



山門前の参道から見た五重塔です。

幾度となく訪れた「備中国分寺」ですが、この季節の美しい風景は初めてです。

満開の桜の木の下で家族連れが楽しそうにお弁当を広げていました。



山門の前にあった「備中国分寺伽藍配置略図」の案内板です。

かつての伽藍配置では下から南門、中門があったとされ、現在の山門は三番目の門だったようです。

現在の建物は、ほぼ略図に描かれている通りですが、築地塀や、付属建物の多くは無くなっているようです。



本堂の前付近から見た五重塔です。

山門をくぐった庭には、見事な枝振りの松の木が配置され、五重塔と共に寺の歴史と風格を演出しています。



山門を出て東側へ歩いた風景です。

道の先の小高い丘には桃の畑が見え、ここも満開のようです。



東側から見た風景です。

菜の花畑が広がり、すぐ先には小さな桃の畑、五重塔を囲む桜と、三つの花盛りに彩られた風景でした。



上段の風景を見た場所にも「平山郁夫画伯取材場所」と刻まれた石碑がありました。

この場所の取材で、平成三年七月に画題「国分寺 桃の花咲く頃 吉備路」の作品ができたようです。

「平山郁夫画伯取材場所」は、さらに東に進んだ辺りや、山門をくぐった付近にもあり、いつか作品にめぐり合いたいものです。

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油絵「パンジー」

2012年04月07日 | 妻の油絵

妻の油絵「パンジー」(F3号)です。

つやのあるこげ茶色の地に青緑色の模様が美しい沖縄の焼物に挿されたパンジーは素敵でした。

小さなキャンパスにイメージ通りに描け、久々のお気に入り作品となったようです。



我が家のテラスで咲き続けているパンジーです。

とりわけ寒かった冬を過ぎてもなかなか暖かくならない春でしたが、テラスに並べた6種類の色のパンジーは、随分心を和ませてくれました。

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三次市歴史民俗資料館の三次人形

2012年04月01日 | 日記
先日、墓参りのついでに、広島県「三次市歴史民俗資料館」へ立ち寄りました。



本通りに面した「三次市歴史民俗資料館」の建物です。

昔にぎわった本通りも今では歩く人も少なく、面影は薄れています。

建物の右端に「卯建[うだつ]のにあう町」と書かれた案内板がありました。

「うだつ」は、二階建ての庇の下に隣家とさえぎる装飾された壁(防火壁)で、閉店が目立つ通りにはうだつが見られます。

石造りの建物だと思っていましたが、館内の案内文では鉄筋コンクリートと紹介されていました。

■館内に建物の案内文がありました。
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三次市歴史民資俗料館の建物の概要
三次市歴史民俗資料館(旧三次銀行)は洋風の石積建築を模した、シンプルで力強いイメージを持つ鉄筋コンクリート造二階建の建物です。正面の柱の上部には、楕円形を中心に曲線模様のレリーフ装飾が施されており、直線が強調された建物のアクセントになつています。玄関部分が前面に1mほど張り出され、それを中心に左右対称の外観デザインになつています。

三次市歴史民俗資料館の沿革
昭和2年(1927年) 三次銀行本店として建築
 
昭和20年(1945年)芸備銀行と合併、同行三次中央支店となる
        (戦後 広島銀行三次中町支店)

昭和25年2月28日(1950年)三次中町支店廃止

昭和26年10月1日(1951年)三次郵便局庁舎となる

昭和52年9月19日(1977年)三次郵便局移転

昭和54年12月3日(1979年)三次市が払い下げ受け整備

昭和56年10月1日(1981年)歴史民俗資料館として開館

平成9年5月7日(1997年) 国の文化財建造物に登録
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三次市の市街地周辺の地図です。

「三次市歴史民資俗料館」は、赤丸の場所(三次市三次町)です。

市街地の中心「巴[ともえ]橋」付近で合流する三本の川が巴形に見えることから三次は「巴峡」とも呼ばれ、橋の名の由来ともなっています。



館内に入るとたくさんの「三次人形」(土人形)が展示されていました。

上段に最も代表的な天神様(菅原道真公)が展示され、その下にも武者人形や、女性の人形など様々な人形が並んでいます。

■三次人形の説明文です。
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初節句のお祝いに三次人形を贈る
 広島の県北一帯では、初節句に三次人形を贈るという風習があります。これは男の子、女の子を問わず、子どもが生まれた家には、旧暦の3月3日、現在では新暦の4月3日ごろに、親戚が三次人形を1~2個持ってお祝いに行くというもの。男の子の場合は天神または男物、女の子の場合は天神または女物を持参し、集まった人形を飾って節句をお祝いします。これは県北では春の恒例行事。これから畑仕事が始まるという春の訪れを告げる行事でもあるのです。
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現在も三次市十日市町で続く「三次人形」です。

古い人形のようですが、気品のある白い顔が印象的です。

「三次人形」の展示場には人形の歴史や、この近郷で作られてきた人形も紹介されていました。

■三次人形の説明文です。
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「光人形」と呼ばれる三次人形
 三次人形は別名「光人形」と呼ばれています。それは、にかわを塗ることによって艶やか(あで)やかな光沢があること。
特に顔に関しては、磨きだし手法によってその光沢を出しています。
 また、三次人形は八頭身の容姿端麗な人形としても有名。
ふつう、人形は六頭身が多いなかで、三次人形の八頭身の姿は群を抜いて美しいのです。

年間生産量
生産量は年間約1000体。5人(夏の作業は3人)で製作するには、これが手一杯だそうです。
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■現存する三次人形(十日市人形)の由来が書かれていました。
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十日市人形
大崎家の職人であった丸本義十郎(まるもとぎじゅうろう)が独立して原村(現十日市)に別の窯を造りました。義十郎は宮の峡窯元の伝統を受け継ぐと共に、各地の人形を収集して研究改良を加え、新機軸を生み出しました。このため人形は2か所で製造されることとなりました。戦時中、土人形生産は衰退し、休業をせざるを得なくりましたが、戦後(昭和30年代)に復活し現在は丸本垚(たかし)・尚志(ひさし)親子が制作中です。
※十日市人形の特徴
・人形の背・底の境目に職人の印(1センチ程度の丸いもの)があるものが確認されこいる
・衣装・顔立ちなど彫りが深く華やかである
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三次人形を創始した窯元の宮の峡人形だそうです。

現在の三次人形よりもっと古い窯元があったとは知りませんでした。

又、三次の町が「宮の峡」と呼ばれていたことも興味深いことでした。

ところで、人物画や、彫刻などで描かれた顔は作者に似ているように思われます。

左右の目の間が離れているこの人形も作者に似ていたのかも知れません。

■説明文です。
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宮の峡人形
宮の峡人形は、嘉永7年(1854)5月に石見国から大崎忠右衛門(おおさき ちゅうえもん)が妻と子供を連れて三次に来て、現山家町に良い土をみつけ、宮の峡(現三次町)に住み、かまどを築いて焼いたのが始まりだと言われています。一方、幕藩時代に三次藩祖浅野長治(あさのながはる)が江戸から帰途、四国の長宗我部氏の末流である森喜三郎を江戸浅草今戸の人形師として召し抱え、中心君子の像を造り、家臣に一男一女が生まれるごとに藩主自らがこの人形を贈って祝ったというもので、この説は尊王の心があった長治が家臣や藩民に大儀名分を明らかにするための手段であったとも言われています。
 大正5年(1916)頃、約60年の人形作りに終止符をうちました。
※宮の峡人形の特徴
・明治30年くらいから刻印(三次宮ノ峡人形本元)をいれた
・ステンシルと言われる技法を取り入れて文様をいれた
・顔の彫りが浅く、平面顔であることが多い
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「長浜人形」が展示されていました。

調べてみると「長浜」とは島根県浜田市長浜町のようで、「長浜人形」は昔から作られているようです。

三次人形の始まりとなった「宮ノ峡人形」も石見国の人によるもので、開始年代を比較しても三次人形のルーツだったように思われます。

■説明文です。
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長浜人形
長浜人形は、地元産の粘土を使った土人形。素焼きにした後、真っ白な胡粉(ごふん)をかけ、彩色を施す。江戸中期の明和年間(一七六四~七一年)に作り始めたとされ、石見の根付けで名高い清水巌(富春)に学んだ永見房造が、「巌」の字をもらって「永見巌」と号し、制作を広めた。
※長浜人形の特徴
・台座が、1段である。
・赤色に朱色を用いている。
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三次市から南東へ約30Kmの上下町で造られた人形です。

上下町(府中市)は、石見銀山から三次を経由して瀬戸内海へ通じる街道の一つ「笠岡(岡山県西部)ルート」の途中にあり、天領だった町です。

まねて作ったとありますが、あまり違いは感じられません。

■説明文です。
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上下人形
上下町の安友徳吉が明治20年頃三次人形を真似て製作したのが始まりといわれている。長男が土人形制作のあとを継いだが昭和10年頃、幕を下ろした。
※上下人形の特徴
・共台のものは、下段が上段に比べて高く、その他の土人形と比べると共台が高い・人形の背中に3センチほどの判が押されているものが確認されている。
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三次市の東隣、庄原市田原町で造られていた人形です。

この顔も宮の峡人形と同様、貴族「菅原道真」ではなく、庶民の顔に見えますが、仕方のないことでしょうね。

人形作りに夢を感じ、窯元となった人たちの作品が並び、三次人形がこの地域で親しまれてきた歴史を学ぶことができました。

■説明文です。
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田原(庄原)人形
樽岡甚作(たるおかじんさく)は十日市人形窯元で土人形制作を学び、独立して庄原で制作をはじめた。独自性の強い特徴ある土人形を完成できたのは甚作の器用さゆえであろう。昭和7年頃まで庄原の地で制作を続けた。
※田原(庄原)人形の特徴
・台座の装飾が格狭間や波紋・梅花をあしらっている
・顔立ちがのっぺりとしていて、大型の男物は口ひげをたくわえている
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子供たちが喜ぶ桃太郎と、金太郎の人形がありました。

桃太郎は、三次人形の白い肌となっていますが、肌を露出した金太郎には白い肌は使えなかったようです。

この他、島太郎や、牛若丸、大黒神、恵比須神、片膝を立てて座る達磨さんなど様々な作品が並んでいます。



初めて見る人形がありました。

右は、鎧姿の「神功皇后」、左は後の「応神天皇」を抱く「武内宿禰」のように思われます。

日本神話のヒロインが人形になっていたとは意外で、時代の隔たりを感じます。

日本で最も多い八幡神社の祭神ですが、案外その神話は知られていないようです。


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