昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

剣山「大劔神社」から頂上までの景色

2008年10月30日 | 山歩き
10月12日に登った徳島県の剣山「大劔神社」から頂上までの思い出です。



「大劔神社」の裏にある巨岩「御塔石[おとうせき]」を後に頂上を目指して急な坂道を登って行きました。
斜面の道の両側は、笹の原が広がり、見晴らしの良い道でした。



山の斜面から飛行機が、飛んできました。
飛行機の後に出来る白い雲の線が、山際から上に向かって伸びて行きます。

飛行機雲の角度は、普段見るものと違って見えました。
まるで天に向かって飛んで行くような錯覚を覚えます。



登山道の向こうに少しずつ頂上が見えてきました。

日頃の運動不足で、頻繁に休まないと息が上がってしまいます。
景色の良い場所で立ち止まっては写真を撮り、剣山での撮影枚数はついに765枚にもなりました。
デジカメにセットしているSDカードは4ギガ、スペア1ギガと、電池4個で万全です。



頂上に大きな建物が見えて来ました。
「雲海荘」のようです。



林を過ぎ、頂上近くになるとすばらしい眺めが見えてきました。
笹の原と、紅葉の林、濃い緑の山、丸笹山と、その斜面に白く走る国道、彼方に見える山波・・・。
妻は、心が洗われるようだと感激していました。



一段上の写真とほぼ同じ場所をズームで撮りました。
写真に向って左に白い建物が見えるのが登山リフトの「西島駅」、そこから尾根沿いに上がりなだらかな場所に「刀掛の松」が見えます。
天気もよく、空気もきれいで、気分は上々でしたが、足は、既にガクガクです。



上段の写真にある「丸笹山」の西の峰「塔丸」と思われる山の景色です。
雄大な山々を眺めた思い出を改めて実感する写真です。



この剣山を源流とする「穴吹川」が見えています。
「穴吹川」は、東北東方向に流れ、その後蛇行しながら北の吉野川に合流していきます。



頂上近くになり、「刀掛の松」から直進してきた道と合流します。

「剣山頂上ヒュッテ」の長い建物が見えて来ました。


鳥居の額には「劔山本宮」とあり、神社の建物はすぐそこです。
宮島の海に立つ鳥居のように両足に質素な袖柱があります。
造りから見て強風に備えての支えかも知れません。

頂上に近づき、なぜか、急に人が増えてきたようです。

剣山「大劔神社」へ参拝

2008年10月28日 | 山歩き
10月12日に登った「剣山」の記録を再開します。



「刀掛の松」から「大劔神社」を目指して進みました。
出発してすぐに林の中の道になり、しばらくの間、景色が遮られてしまいました。



「刀掛の松」から10分程度歩いた辺りに、視界が開けた場所がありました。
向こうに見える建物は、登山リフトの「西島駅」と思われます。



上段の写真と同じ場所から山の上を見上げて撮った景色です。
とても急な斜面ですが、だいぶ上まで林が続いています。



小さな橋のそばに鮮やかに紅葉した「もみじ」と思われる木がありました。
緑の山と、紅葉の間を進む道の先には遠く山並が見えます。

妻からこの景色を絵にしたいと言われ、撮る位置を変えて十数枚写真におさめました。



「大劔神社」に到着です。

神社の建物は、3棟で構成され、向かって左は倉庫と思われ、向かって右は社務所兼売店、神殿は、中央奥にあります。
神社の裏には白く巨大な「御塔石[おとうせき]」がそびえています。

「御塔石」は、古代信仰の山に見られる巨岩の磐座[いわくら]と思われます。
磐座は、祭祀の時、神をお招きし、降臨[こうりん]した神がお座りになる場所と考えられています。

古く、由緒ある神社近くには神山があり、その頂上に近い場所に巨岩の磐座があります。
奈良の大神神社の社殿は拝殿だけで、後ろの三輪山を拝むようになっています。
神山や、磐座を拝む祭祀の場所に拝殿を造り、さらに拝殿の後ろに神殿を造った神社の歴史過程がうかがえます。



「大劔神社」です。
建物の間にこじんまりとした神社がありました。
両脇の柱に「天地一切の悪縁を断ち」「現世最高の良縁を結ぶ」とありました。
しかし、次々と参拝する人達には独身が見当たらず、とりあえず「悪縁を断つ」願い事が続いていたようです。

私も妻と参拝し、悪縁があれば断って下さいと祈った他、家族の健康と、2日間の旅行の無事を祈りました。



「大劔神社」の前にある広場から「西島駅」に下る道です。
下から数名の人が登って来ています。

ひと際紅葉した1本の木の向こうの岩場は、「西島神社」がある場所のようです。

大劔神社の社殿横からもう一本下る道がありました。
案内板には90m下った場所に「剣山御神水」[つるぎさんおしきみず]が湧いていると書かれてあり、名水百選でもあるようです。

案内板に「病気を治す若返りの水」と紹介され、行きたい気持ちはありましたが、足が心配で断念しました。



「大劔神社」から一段上に登った場所で、巨大な「御塔石[おとうせき]」の上部が見えています。

実に巨大な岩ですが、写真では伝わらないようです。



右の白い岩は、「御塔石」です。
向かいの山の紅葉が美しく輝き、つい神聖な「御塔石」に乗ってしまいました。

10月14日掲載の2番目の写真も、同じ場所から撮った写真です。



上段の景色をズームで撮った写真です。
山の斜面に日が当り、紅葉が輝いています。
写真ファイルには10:22撮影と記録されていました。

感動のわりに、紅葉がきれいに撮れていなかったので残念です。



「大劔神社」の「御塔石」から少し登った場所から撮った写真です。
数人のグループの人達と、下から突き出た「御塔石」の大きさを比べると、巨大さが分かります。

広島県庄原市の「比婆山」に登りました。

2008年10月26日 | 山歩き
10月25日、広島県北東部にある「比婆山」「烏帽子山」に登りました。

コースは、六ノ原公園センター→出雲峠→「烏帽子山」→「比婆山」→六ノ原公園センターです。
以前から、「古事記」の記載から比婆山を伊邪那美神[いざなぎのみこと]の御陵とする説があり、以前から興味のある山でした。



県民の森 六ノ原公園センターを10:00頃出発、出雲峠を経由して烏帽子山をめざしました。

六ノ原公園センターでも紅葉が始まっています。



「烏帽子山」の山頂から1225mすぐ隣の「比婆山」の山頂を眺めた写真です。
山頂にあった方角案内と一緒に写しました。

山頂に到着の前からガスが出始めていました。

既に早く着いた3組の人たちはお弁当を広げていました。



「比婆山」の山頂にある御陵と言われる場所です。
鎖の柵で丸く囲われた中に大きな岩があり、この場所が「伊邪那美神[いざなぎのみこと]」の御陵と言われているようです。

囲いの前には小さな祠があり、登山者の参拝が多いようです。

祠のそばにベンチがあり、おにぎり弁当を食べ、つかの間の休憩をとりました。


「比婆山」から下山する道はブナ林が続いていました。

紅葉が始まっていましたが、地味な紅葉でした。



特大のブナの木が立っていました。

木のそばで、上を見たら、気持よく枝や葉が広がっていました。



「比婆山」からスキー場を通り、下山する途中の景色です。

向こうの山がまだらに紅葉していました。



駐車場のある六ノ原公園センターには「六の原製鉄場跡」がありました。

鉄穴[かんな]流しという施設で、砂鉄を溝に流して鉄を選別していたようです。

剣山の登山では、ひどい筋肉痛でしたが、今回はかろうじて痛みはありませんでした。

剣山「刀掛の松」の由来と、登山道で見た景色

2008年10月23日 | 山歩き
10月12日、はじめて徳島県「剣山」に登り、今回は「西島駅」から「刀掛の松」までの景色を紹介します。



剣山観光登山リフトの「西島駅」から登山道を登り始め、西の方向を見た景色です。
「西島駅」の南側の斜面に落石をガードする柵が、幾重にも作られていました。

向こうに見える頂上のすぐ下では紅葉が始まっています。
これから下に向かって紅葉が進んでいくものと思われます。



上段の写真と、同じ場所からの景色で、北西の方角だったと思います。
鮮やかな紅葉と、その向こうの笹に覆われた山が対照的です。

濃い緑と、紅葉のコントラストには格別の美しさがあります。



笹に覆われた斜面の間を登山道が上っていきます。

死んでもなお立ち続ける枯れ木に、いつか緑の葉が出てくるような感じを受けました。



不思議で、素敵な景色でした。
北東方向の景色だったと思われます。
雲が覆うはるか向こうの峰を見ると、別世界に立っている気持ちになります。



紅葉の斜面の向こうには雄大な緑の峰が伸び、徳島市に向かう白い国道438号線が見えます。

足元の笹、その下の紅葉、急斜面の山、谷の深さ、見下ろす景色の雄大さにしばし見とれていました。



「刀掛の松」に近づくと、急な尾根の道がなだらかになります。

一方向に伸びる緑の木の枝や、立ち並ぶ枯れ木に厳しい自然を感じます。



「刀掛の松」に到着しました。
登山道は、ここから3方向にわかれています。
直進すると尾根伝いの道、右に進むと「大剣神社」を経由する道、左に進むと修験道の行場を経由する道です。
ほとんどの人は直進する道を進んでいました。

向かって左の道端に枝折神社の祠が見えます。
向かって右に進む道にも小さな祠がありました。



案内板に「刀掛の松」とあり、枯れた木が横たわっていました。

屋島の合戦に敗れた平家が、安徳天皇と東祖谷(剣山の西)に落延び、源氏滅亡を祈願し剣山の頂上付近に宝剣を納めた伝説があります。
安徳帝が剣山へ登る途中、この場所で休んでいた時、汗だくで宝剣を持ち続けている従者に気遣い、松の枝に宝剣を掛けて汗を拭くよう言葉をかけられたそうです。
それ以来、この場所を「刀掛の松」と呼ぶようになったと言われています。

しかし、「剣[つるぎ]」と「刀」の違いを考えると、この名称の由来は素直に納得できません。
なぜ「剣掛の松」としなかったのか、私にはちょっとした謎です。



この祠は、剣山の登山道案内図で「枝折[しおり]神社」と紹介されています。
向かって右隣の石碑には「昭和四十二年」「枝折神社遷宮」とあります。

別な場所にあったものが、何かの事情でこの場所に移されたようです。

一番右に石仏がありますが、赤い前掛けの下に「・・大神」の文字が見えます。
神仏習合時代のなごりとも思えます。



「剣山山系鳥獣保護区区域図」の案内板を女性登山者が見ていました。
その脇の道を進むと「大剣神社」を経由して頂上に至る登山道です。

道の両脇に小さな狛犬が座っています。
又、女性の陰には小さな祠[ほこら]がありました。

この狛犬が、小さな祠のものか、「大剣神社」の参道としてのものかよく分かりません。
この祠には神社名の案内もなく、祠も「枝折神社」より小さなものでした。



「大剣神社」への道を進んで「刀掛の松」を振り返った見た景色です。

小さな広場に3~4人掛けのベンチが、二つあり、座って語らう人たちがいます。
向かって左には「刀掛の松」が見えています。

「剣山」の登山リフトから見た絶景

2008年10月20日 | 山歩き

2階にある「剣山自然情報センター」です。
9時10分頃で、中には誰もいないようで、照明もついていません。

とりあえず「剣山」の予備知識を仕入れに上がって行きました。
階段を上がった所に「剣山」の案内図があります。



入口を入り、正面に剣山の動物の剥製がたくさん陳列されていました。

鳥類はともかく、こんなに多くの動物が生息していることに改めて感心します。



壁に掛けてあった剣山登山道案内図です。

この案内図で、出来るだけ神社をめぐる登山コースを選びました。
[登山コース]見の越駅→(リフト)→西島駅→刀掛の松→大剣神社→剣山本宮蔵石神社→頂上
[下山コース]頂上→不動の岩屋→両剣神社→三十五社→古剣神社→枝折神社→刀掛の松→西島→西島神社→剣神社→見の越



この階段を上がると剣山観光リフトの「見の越駅」です。
上段に記載したコースの通り、上りの片道だけリフトに乗ることにしました。

前日までの準備で、剣山観光登山リフト(株)のサイトで10%割引のページを見つけ、印刷して窓口に出しました。
印刷した用紙には、郵便番号・住所・氏名・電話番号・人数の記入が必要です。

妻と合わせて片道2,000円が、200円違うだけですが、これも準備段階の楽しみです。
この200円は、コース上にある神社巡りのお賽銭の足しにしました。



9:15過ぎに乗った「剣山観光登山リフト」で、南南東方向に登って行きます。
前には妻が、載っていますが、そのすぐ前に金属製の小さなトンネルがあります。

登山道と、登山リフトの立体交差している場所で、帰りにはこのトンネルをくぐることになります。

この時間には、登山リフトで上りの座席には、ほとんど人が乗っていますが、下る人はまばらでした。


登山リフトから西方向を見た景色です。
上に登るほど、景色が雄大になっていくようです。

よく分かりませんが、向って右の山が「塔丸」、その左が「三嶺」ではないかと思います。

リフトのすぐ脇には、笹が茂っています。



上に登るほど紅葉も多くなってきます。

この登山リフトは、下の「見の越駅」から「西島駅」まで、所要時間15分、標高差約330m、斜距離830mと案内されていますが、歩くと約1時間だそうです。



彼方の山の向こうから雲が湧きだしているような景色が見えます。

こんな簡単に雲を見下ろす場所に来れたことに驚きを感じました。



上って行くほどに紅葉が多くなります。
天気も上々で、気分は最高です。



登山リフトの脇に紅葉した木が続いている場所です。
少し期待して来ましたが、こんなにきれいな紅葉で、期待以上です。



「西島駅」に近づいて来た頃の景色です。
紅葉と、彼方の稜線、山中を走る道路などが眼下に広がってきました。



「西島駅」に到着して下をのぞいた景色です。

斜距離830mとされていますが、「見の越駅」がはるか下です。
上りのリフトの後ろの席には、あまり人が乗っていなかったようです。

これから継のポイント「刀掛の松」を目指して山歩きのスタートです。

徳島の「剣山」へ出発

2008年10月17日 | 山歩き
剣山登山の記録を数回に分けて掲載します。
(沖縄旅行の思い出は中止しました)

10月12日、以前から計画していた「剣山」の山登りや、吉野川流域の見物に出発しました。



6時頃、福山東インターから山陽自動車道を東に走り始めた前方の景色です。
朝日はまだ見えていませんが、美しく輝く空の色を見て撮影しました。
隣には、並走する大型トラックがいます。



7時15分頃、香川県まんのう町辺りを走っていると、正面に高い山が見えてきました。
たぶん「剣山」だろうと思い、シャッターを切りました。
坂出北インター付近から剣山までの道は、国道438号線を約2時間余りでした。



7時40分頃、徳島県美馬市美馬町猿坂からフロントガラス越しに「剣山?」を見た景色です。

剣山と思われる高い山が見え、道路脇に停車してデジカメを準備していたらカーブミラーに小鳥がやってきました。

猿坂付近は、香川県から国道438号線を南へ向かい、吉野川を見下ろす場所です。



8時50分頃、剣山のすぐ近くまで走ると「みどりの一里塚」と表示された展望駐車場があり、駐車しました。
景色の良い道が続き、車を止めて眺めたいところでした。

ベンチとテーブルがあり、中年のご夫婦が、朝日の当たるにテーブルに朝食を広げていました。



「みどりの一里塚」の駐車場から見えた「剣山?」です。
「剣山」の頂上の横から「一の森」と思われる少し低い山がのぞいています。



「みどりの一里塚」にあった案内板です。
黄色の道を下から進んで来ました。



駐車場から西の方向にある景色です。
既に、紅葉がはじまっていました。



一段上の写真の景色から少し下を見た景色です。

走ってきた道が見えていますが、眺めの良い道が続いていました。




9時過ぎに剣山の登山口がある「見の越」に到着しました。
「見の越」から国道438号線を東に向うトンネルが見えます。

「見の越」は、登山口のある場所で、国道438号線と、西から来た国道439号線が合流しています。
国道438号線は、徳島市までつながっています。



道路脇から広場のいちばん奥に「リフト乗り場」、その手前に茶色の壁の「剣山自然情報センター」が見えます。

初めての「剣山」で、とりあえず「剣山自然情報センター」の見学に行きました。
次回に掲載予定とします。



「剣山自然情報センター」の前から道路方向に振り返った広場の様子です。
車が駐車できた場所は、ここではなく、広場から少し離れた二階建て駐車場でした。

下山した午後3時頃には駐車場が満車で、1Km以上離れた道幅の広くなった道路脇にも多くの車が駐車していました。
やはり、山に登るには朝早い方がいいですね。


剣山の紅葉が始まっていました

2008年10月14日 | 山歩き
10月12日徳島県の剣山[つるぎさん]へ登りまってきました。
雄大な景色や、美しい紅葉に何度も感動した一日でした。

早朝、家を出発して9:00頃ふもとの見ノ越へ到着して登り始めました。

登りは、見ノ越からリフトに乗って西島まで行き、そこから標高で、約200m上の頂上まで登りました。
帰りは、リフトを使わず、標高差約500mを歩いて下りました。



刀掛けの松から大剣神社へ向かう途中の景色です。(10:00頃)
広葉樹が枯れ始めています。
この場所では紅葉というより枯れた色が中心のようです。



大剣神社のご神体と思われる大きな岩の近くから撮った写真です。(10:20頃)

山の景色が、様々な色に変化して、とてもきれいでした。
昼頃まで晴天が続き、紅葉の色が美しく見えていました。

向こうに見える山には、一面に笹が茂っています。
この周辺の高い山の頂上付近は、木が無く、ほとんどこのような笹の山です。



頂上から行場のある両剣神社を廻り、刀掛けの松へ下る途中の景色です。
落ち葉がたくさん積っている紅葉の山道です。

この回り道は、急な上り下りが多く、日頃運動不足の私の足にはこたえました。
紅葉の見ごろは、これからが本番で、11月上旬が最もきれいになるそうです。

油絵「コスモス」と、花畑

2008年10月11日 | 妻の油絵
妻の油絵「コスモスの花」です。
コスモスは、毎年好んで描いている花です。
今年は、花や、葉が軽いタッチで表現され、雰囲気がよく出てきました。

ところで、子供の頃にはコスモス以外にダリア、グラジオラス、ケイトウ、ムギワラソウなどの花をよく見ましたが、今ではあまり見かけません。

コスモスだけは、なぜかいまでも多くの人に愛され続けています。



9月、庄原市の「備北丘陵公園」へ行き、撮った白いコスモスの花です。
接写モードで撮ってみました。

満開にはまだまだでしたが、きれいな花がどんどん咲き始めていました。



上段の白いコスモスと同じ場所に咲いていた赤いコスモスです。
色だけでなく、花びらの形も違っています。



上の花と同じ場所に咲いていたピンクのコスモスです。
花びらの間に隙間があります。



このピンクのコスモスも「備北丘陵公園」で撮ったものです。
花の中心が赤く、上のピンクの花とは少し違うようでした。

なぜなのか、花が所々でしおれているのが見えます。



昨年10月上旬、岩手旅行で遠野市の「伝承園」に咲いていたコスモスです。
撮影したことを思い出し、ファイルを開いて見ました。
やはり、色や、形に違いがありました。

上段の写真と違い、花びらの先が丸く、花びらの間隔も離れていません。
又、ピンクの花びらは、中心に近い部分が白くなっています。



この黄色い花も「備北丘陵公園」で撮ったものです。
コスモスに黄色い花が、あると誰かがから聞いたことがあります。

この花が本物の黄色いコスモスかどうかは判りません。

普段、気にせず見ているコスモスの花にも少し関心を持って見るだけで色々な種類があることが分かりました。

沖縄の稲作発祥伝説の地「受水・走水」

2008年10月06日 | 沖縄の旅
沖縄で初めて稲作が行われた伝説の地「受水走水」に行きました。
今回の沖縄旅行では、昔からの沖縄の泉を数ヶ所訪れる計画でしたが、その中でも「受水走水」は、期待していた場所です。
アマミキヨの伝説や、稲作が始まった地ということで、歴史的には興味をそそられる場所です。



車を路上駐車して畑の間の小道を入って行きました。
青いネットが張られていますが、畑で何か野菜の収穫期になっているのでしょうか?



小道を進むと、道は一段高くなっていきます。

■道の突当りに「受水・走水」の案内板があり、転記します。
案内板の冒頭には沖縄南東部の聖地を廻る「東御廻い[あがりうまーい]」のマークがあります。
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受水 走水[うきんじゅ はいんじゅ]
(神明・ホリスマスカキ君ガ御水御イベ)
ここは沖縄の稲作発祥の地として伝えられている。
『琉球国由来記』(1713年編)によれば昔、阿摩美久(アマミキヨ)がギライカナイ(海の彼方の理想国)から稲の種子を持ってきて玉城親田、高マシノシカマノ田に植えはじめた。又、伝説によると昔、稲穂をくわえた鶴が暴風雨にあって新原村の「カラウカハ」という所に落ちて死んだ。種子は発芽してアマミツによって受水走水の水田(御穂田)に移植されたという。
 この地は東御廻いの拝所として霊域になっていて、旧正月の初午の日には、田植えの行事「親田御願」が行われている。
  昭和52年7月21日指定
  玉城村教育委員会
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道の突当りの左側に小さな水田がありました。
案内板の説明にもあった沖縄最初の水田「御穂田[みふーだ]」と思われます。

その先に小さな岩場と、二つの石碑が見えます。
沖縄では歴史的な場所の多くには拝所があり、このような石が置かれているのを見かけます。
向って左は「御穂田[みふーだ]」に関わるお祈りをこの石に向かってするのでしょうか。



この小さな水田は、佐賀県唐津市の「菜畑遺跡」にある縄文時代晩期の水田遺構です。
「御穂田」を見てふと思い出し、掲載しました。

この復元された水田は、畳3枚程度と「御穂田」と比べても小さなものでした。
「菜畑遺跡」にある4枚の水田の横には「御穂田」と同様に水路があり、灌漑技術が未熟だった縄文時代に小川の流れを利用して造られたものと推察されます。

この沖縄では地質が琉球石灰岩のため水田を造るには大変な苦労だったものと思われます。



道の突当りの右側の一段低い場所にも小さな水田があります。
旧正月の初午の日には、田植えの行事が行われる「親田御願[うえーだぬうがん]」と思われます。

田んぼの畦にクワズイモか、里芋のような葉が見えます。
沖縄では田で育てる「田芋」と呼ぶ里芋があると聞いたことがあり、「田芋」かも知れませんが、私にはクワズイモと見分けがつきません。



T字路を右に進むと行き止まりになっています。
向って左に拝所のような石が置かれています。

石の後ろには、きれいな水が湧き出る泉があります。
こちらが二つある泉の一つ「走水[はいんじゅ]」と思われます。

湧水の水量が多い上、細い溝を流れるため、流れが速く「走水」の名はこの早さに由来するのではないかと思いながら見ました。



T字路を左に進むと岩の間から水が湧き出る場所があります。
向って右の石碑のある岩の裏から水が湧き出ていたようです。

こちらの泉が、案内板にある「受水[うきんじゅ]」と思われます。


岩の隙間の穴の奥から水が湧いていました。
水田に湧き水が流れ込み、水田が水を受ける様子から「受水[うきんじゅ]」と呼ばれるようになったのかもしれないなどと勝手な想像をしながら見ていました。

見物前の期待が大きすぎたせいか、いま一つ感動の少ない史跡でしたが、水田の歴史を少し実感できたようです。