昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

油絵「蘇羅比古神社」

2007年10月30日 | 妻の油絵
前回、ご案内の妻が描いた「蘇羅比古神社」の絵(F30号)です。
大きな鳥が羽を広げ、空に向かって飛びあがろうとしているような屋根の形、空を見上げる二匹の狛犬が印象的です。
神聖に輝く屋根や、森の木々を描くのに苦労したようです。

「蘇羅比古神社」の拝殿は、神社建築にはめずらしい入母屋造で、しかも建物正面が妻入り(屋根の切妻側が)となっています。
このような建物が、どのような経緯で、いつから造られているのか興味のあるところです。

神々しい「蘇羅比古神社」と、空を見つめる狛犬

2007年10月27日 | 山陽地方の旅
広島県庄原市本村にある「蘇羅比古神社」へ行きました。
平安時代に作られた「延喜式神名帳」の記載では「蘇羅比古神社」は、備後国三上郡の小社で、祭神は、天津日高日子穗穗手見命(あまつひこひこほほでみ)、神倭伊波禮毘古命(かむやまといはれびこのみこと)」とあります。
又、継体天皇の御代と記載され、創建が5世紀末から6世紀初頭の頃にさかのぼるものと思われます。

「蘇羅比古神社」の位置は、中国自動車道本村PA(庄原ICの東)から南西約1Km辺りです。
国道432号線から県道23号線を東に走ると「蘇羅比古神社」入り口の標識が2ヶ所ありますが、参道はその中間にある中本(田部)バス停から登る歩道があります。



県道から少し坂道を登ると赤いトタン屋根がついた大きな鳥居がありました。
鳥居の上中央にある額束には「蘇羅比古神社」と、「八幡宮」の名が併記されていました。
両側の柱に補助的な支柱が付いている「両部鳥居」と言う形式の鳥居です。
補助的な支柱の高さは約3mと以外に巨大な木製鳥居でした。

鳥居の柱の根元には補修の跡が見られ、鳥居の付近に丸い石柱の折れたものが散見されました。
1500年前頃の創建以来、地元の人々の信仰により神社が支えられてきたことを感じます。



長い参道の向こうに、小さく石鳥居が見え、その上に左右対称のなだらかな三角形の山が見えますが、地図には山の名は記載されていません。
向って右側の山は、地図で見ると「権現山」と思われます。
丸みのある山の上に更に小さな丸い山が乗っており、山頂付近には岩が多く見えて気を引かれる山です。
写真に見えるこの二つの山は、神社のなかった古代の信仰対象の山であった可能性があると思われます。

近くに立つ2本の石柱の向かって右には「御大典記念 大正四年十一月」とあり、向かって右には「馬場修繕 上組氏子中」と刻まれています。



石鳥居の前をアスファルト舗装の細い車道が横切っており、その横に数台分駐車できる空き地があります。
石鳥居の後ろに「随神門」があり、その両脇の格子の中には弓矢を持った随神像があります。
随神像は、格子の建物の中にありながら、その中に更に小さな屋根のある建物を造って置かれてありました。



「随神門」の後ろの両脇に杉の大木がそびえています。
とても古くからある杉のようです。

参道脇に大杉の案内板があったので転記します。
■広島県天然記念物
 蘇羅比古神社の大杉
   指定年月日 昭和28年4月3日
   所 在 地 庄原市本村
   現   状 右の杉 幹周5.9m
         左   幹周5.2m
スギ(スギ科スギ属)は青森県以南、四国、鹿児島県屋久島まで広く分布しています。オモテスギは太平洋側に主に生育し、通常スギと言われています。
ウラスギは日本海側の多雪地帯に多く分布します。見分け方の目安としてよく葉型が比較されます。オモテスギの系列は葉の着生角度が大きく、当樹し葉やその他の特徴からみてオモテスギ系です。
蘇羅比古神社の創建は「継体天皇」の頃(六世紀前半)ともいわれています。
当時、既にスギは自生しており、配植状況などを見ると参道を造成するときに付近より移植されたものと思われます。
 平成19年3月 庄原市教育委員会



大杉の間の少し薄暗い参道を進んで行くと神社拝殿の屋根が見えてきます。
左右の石柱の間に輝く屋根の景色に、ハットするような神々しさを感じました。

参道から境内に上がる石段の上下に狛犬が一対づつあります。
いずれも玉を持ち、左右が阿吽の石像です。
階段の上の狛犬には、昭和十三年と刻まれていました。
下の狛犬の台座の文字は、よく読めませんでしたが、石の表面から比較的新しいものと思われます。



だんだん「蘇羅比古神社」の拝殿の姿が見えてきました。
こんな神々しく感じる神社の建物は、初めてです。
屋根の下の建物の感じも、すがすがしさを感じます。

左右の狛犬も天の神様の降臨を待ち、見上げているようにも思えます。



神々しさを感じる拝殿屋根のてっぺん付近の写真です。
細部まで造りが繊細で、気品を感じます。



向って右側の建物が、神社の一番奥にある本殿です。

祭神「天津日高日子穗穗手見命」は、神話の「山幸彦」として知られています。
神社の名「蘇羅比古」は、山幸彦が兄の海幸彦から借りた釣り針を無くし、ワニに乗って海神宮に探しにいった時、出会った豊玉姫が「虚空彦( そらつひこ )」と呼んだ記述があることから引用されたものと思われます。
祭神「神倭伊波禮毘古命」は、神武天皇の別名で、「天津日高日子穗穗手見命」の孫にあたられます。



拝殿の前に、空を見上げる狛犬がありました。
神社の名前「蘇羅比古」のソラをもじったデザインでしょうか。
台座には明治十年寄進と刻まれており、当時の作としては実に斬新だったと思われます。
又、狛犬も台座もシルバーグレーのような色で、石州焼で作られてり、石の狛犬とは違う独特の感性を感じさせられます。

焼物の狛犬では佐賀県有田市の有田焼陶祖神「李参平」を祀った「陶山神社」にも独特の顔をした狛犬がありました。
備前焼の狛犬は、岡山県内各地にあり、一時盗難が続くニュースを覚えています。



上の狛犬より一段下にあるかっては彩色があったと思われる狛犬です。
上の狛犬同様、石州焼と思われ、「明治十年寄進」と台座に刻まれた時期も同じですが、つやがなく焼き物としては少しもろい感じです。
よく見ると前足が1本折れ、お尻付近も壊れてしまっています。
狛犬としては子供ぽい感じはしますが、きわめて型破りで面白いデザインです。



本殿に向かって左上の細道を行くと、宝篋印塔(ほうきょいんとう)が1基ありました。
神仏習合時代のなごりでしょうが、「蘇羅比古神社」との関係は分りません。
梵字にはまったくお手上げです。


「蘇羅比古神社」の拝殿を斜めから眺めた景色です。
妻は、正面から見た拝殿の風景を油絵に描き上げました。
次回に掲載させて頂きます。

長府毛利邸で見た「明治天皇御宿泊の間」

2007年10月24日 | 山陽地方の旅

下関市長府惣社町の「長府毛利邸」へ行きました。
道路から奥に見える大手門まで長い道が続いています。

さすがお殿様の屋敷と思い、入口の説明板を読むと明治に造られた屋敷で、既にお殿様を廃業された後に建てられた建物でした。
向って左に「明治天皇長府行在所」と書かれた石碑があります。

説明板を転記します。
■長府毛利邸(長府惣社町)
長府毛利邸は、長府毛利家第十四代当主の毛利元敏公が、東京から長府に帰住し、この地を選んで建てた邸宅で、明治三十一年(一八九八)に起工し、明治三十六年六月二日に完成した後、大正八年(一九一九)まで長府毛利家の本邸として使用されました。
その間、明治三十五年十一月には、明治天皇が、熊本で行われた陸軍大演習をご視察の際、当邸を行在所として使用され、一部の部屋は当時のまま残されていて、往時を偲ばせてくれます。
また、津軽家に嫁がれ、常陸宮華子妃殿下の御生母となられた久子様(元敏公のお孫さんにあたる)も、この御屋敷で幼少時代を過ごされています。
邸内にある庭園は、池泉回遊式で苔・石・池・楓・灯籠等配置の妙は、新緑や紅葉の季節に一段と映え、しっとりとした日本庭園のたたずまいを感じさせてくれます。
 開場時間 午前九時から午後五時まで
 休 業 日 年末年始(12月28日より翌年1月4日まで)



「長府毛利邸」入口の道路脇に「総社跡」の案内板がありました。
総社は、一か所で様々な神社が参拝でき、古代の国司にとって神社のデパートとでも例えられる実に便利な施設だったようです。


案内板を転記します。
■総社跡(長府惣社町)
大化改新(六四五年)により律令制度が全国に施行された時 中央から任地に赴いた国司は管内の官社を巡拝することが一つの義務であった。
しかし時代が下って平安中期以降になると祭祀やしきたりが怠りがちとなり管内の神社を便宜的に集めて一社を建てて総社とし管内官社の巡拝にかえるようになった。
今日国府のおかれた町にいずれも総社の跡をみるのはそのためである。長門国府があった長府でも国衙にほど近いこの位置に長門国の総社が建立されており昭和四十年代までその社の一部を見ることができた。
このあたりは現在も惣社町と呼ばれているがそれは総社と同意語であり国府時代に総社があった名残である。


大手門をくぐると「邸内案内図」がありました。
屋敷の入り口や、「総社跡」の案内板は、[赤丸A]の記号の場所です。

その他、この後に記載する場所では[赤丸B]が「玄関」、[赤丸C]が「当主の間」、[赤丸D]が「明治天皇御宿泊の間」です。

中庭のある建物で、廊下は中庭を一周できるようになっていたと記憶しています。


長府毛利邸です。
向って左手に見えるのが玄関で、向って右の入り口から入場します。。



柵のある玄関から中を見た写真です。
「邸内案内図」の[赤丸B]の場所です。
障子の絵は、川端玉章作「丹頂鶴と青竹図」です。
裏には「白い鷹と松図」が描かれています。

川端玉章は、幕末の日本画家で、円山派の伝統を受け継ぎ、洋画も学んだ明治画壇の大御所の一人だそうです。


野草の生け花がありました。
なかなか風流です。



邸内案内図にある書院庭園のようです。
少しシンプル過ぎる感じもします。



廊下の一番奥に突き当たった場所で、当主の間の横の廊下になります。
手水(ちょうず)があり、その横にススキに似た「パンパスグラス」と思われる草が植えられていました。



上の写真で、突き当たりにある案内板です。




当主の間とあり、お殿様の部屋のようです。
正面に「本床」、正面右に「床脇」(違い棚、天袋のある場所)があり、「本床」の横の向って左側に付書院がある本格的な床の間です。
掛け軸もなかなか良い絵ですね。



「付書院(つけしょいん)」です。
「付書院」は、床の間の横にあり、縁側方向に張り出した棚、下の「地袋」、中心に明かり障子、上に「欄間」を組み合わせた物だそうです。



明治天皇がお泊りになった部屋です。
恐れ多くも赤いじゅうたんの上に座って記念写真を撮らせて頂きました。
確か6畳程度の部屋だったように記憶していますが、明治天皇にしては驚くほど小さな部屋に思えました。

油絵「コスモス」

2007年10月22日 | 妻の油絵
今年も妻の「コスモス」の絵ができました。
ちょっと落ち着いたローズグレーを背景に花瓶いっぱいのコスモスが、賑やかに咲いています。

先日、妻からたのまれ、はがき用紙にこの絵を印刷しました。
妻は、そのはがきで親しい方々に近況報告をさせて戴いたようです。

9/23 鳥取の大山、境港、10/6 東北の気仙沼・遠野・平泉に行ってきました。
下関旅行の記事は終りになりますが、書くことが、いっぱいたまっています。

まだ紅葉が始まっていないというのに年賀はがきの予約の話が聞こえる季節になりました。
考えてみると今年も残り2ヶ月少々ですね。

下関市長府の功山寺の高杉晋作の銅像

2007年10月21日 | 山陽地方の旅
下関市長府の「功山寺」へ行きました。
国宝の仏殿や、長州藩を討幕に転換させたといわれる高杉晋作が挙兵した場所でも知られています。



旧山陽道に面した石段を上がった所に「功山寺(こうさんじ)」の「総門」があります。

「総門」に向って右の石碑には「不許葷酒入山門」と書かれてあります。
「葷」とは「五葷(ごくん)」とも呼ばれるニンニク・ネギ・ニラ・タマネギ・ラッキョウの五種類の精力が着く野菜のことのようです。
「葷」を食べたり、「酒」を飲んだ者は門をくぐるなという意味のようですが、欲望を捨てて悟りを開く修行のじゃまにならないようにする目的のようです。
このような石碑は、禅宗の寺の門でよく見かけますが、「禁牌石(きんぱいせき)」というそうです。

最近は、お坊さんも結婚し、性欲を捨てない時代になったため「禁牌石」も有名無実になったのでしょうか。
そういえば前夜、下関駅近くの韓国の家庭料理の店で、ニンニク・ニラなどが入った料理を食べて行きました。

総門を入った左手に「功山寺」の案内板があり、転記します。
■功山寺(長府川端町)
曹洞宗、嘉暦二年(1327)の創建。当初は臨済宗で金山長福寺と称し、足利氏、厚東氏、大内氏など武門の尊敬あつく隆盛を誇ったが、弘治三年(1557)大内義長がここに自刃、この戦乱によって一時堂宇の荒廃をみた。
その後、慶長七年(1602)長府藩祖毛利秀元が修営、旧観に復し、曹洞宗に転宗した。二代藩主光広が、秀元公の霊位をこの寺に安置して以来、長府毛利家の菩提寺となり、秀元の法号、智門寺殿功山玄誉大居士にちなんで功山寺と改称した。
現在の仏殿は、元応二年(1320)の建立で典型的な鎌倉期禅宗様式として国宝に指定、十代藩主匡芳の時、当地工匠の作による山門は市指定文化財となっている。
その他境内には、県文化財の木造地蔵菩半跏像をはじめ、大内義長の墓と伝えられる宝篋印塔、五卿西下潜居の間、高杉晋作挙兵の処など数々の史跡や文化遺産が残されており、境内地(付、伝大内義長の墓)も記念物として市文化財に指定されている。



総門へ上がる石段の横に石碑がありました。
中央の石碑は、「高杉晋作回天義挙之所」と刻まれた碑です。
その向かって左には、碑の説明板が二段に書かれてあり、以下に転記します。

■碑の解説
高杉晋作回天義挙之所 明治維新の策源地 正にこの地この所である 回天とは何の意か 天皇親政の古に復えすの意であろう 義挙とは何ぞ 義は正義の義であり忠義の義である この碑は高杉が明治の昭代をつくり出した地点を示す 否少なくもその主なる一人である 由来歴史は人を造るが 人また歴史を造りもする 高杉は歴史を造る人か 高杉のこの挙は 直ちに近代国家への進展を見なかったが たしかにその一道程を進めたものと言えよう

■横山健堂
大正九年(1920)十二月建立の「高杉晋作回天義挙之所」碑と格調高い解説を施した副碑には揮毫・撰文の署名が見られないがどちらも論客「黒頭巾」こと横山健堂の筆による 明治五年(1872)萩に生まれた彼は東京帝国大学を卒業後読売・毎日両新聞記者として活躍 殊に人物評論のジャンルに新境地を開いたことで知られる ふるさとのためには国宝功山寺仏殿の天井にシャクナゲの絵を丸山晩霞に描かせたり 東行庵高杉晋作墓の史跡指定に奔走 自ら海上アルプスと命名した青海島を全国に広めるなどの功績も多い 昭和十八年(1943)十二月二十四日病没



総門をくぐって参道を進む景色です。
向かって左に「地蔵堂」がありました。
「地蔵堂」の中に「木造地蔵菩薩半跏像」という木像があるようです。



参道の向こうに「山門」が見えてきました。
このあたりの景色が見所のようです。
紅葉の季節もいいでしょうね。

「山門」の脇にあった説明板を転記します。
■下関市指定文化財(建造物)
功山寺山門
指定年月日 昭和四十五年三月四日
この壮大な二重櫓造りの功山寺山門は、安永二年(1773)長府藩主 十代 毛利匡芳の命により建立(再建)されたものです。
山門(三門)とは、本堂に入るのに通らねばならない門、三解脱門(空・無相・無作)にたとえ、その略からといわれています。禅宗の門にみられる三間三戸二重門。二階楼上に釈迦・十六羅漢を置くのが普通ですが、この櫓の中には市指定文化財(彫刻)の二十八部衆立像が、国宝の仏殿の中から移されて安置されています。
建築様式の特色として、土間に自然石の礎石(礎盤)を並べ、本柱四本と控柱八本で支えられた重厚な門、入母屋造り、本瓦で葺かれた屋根は見事な反りを見せています。
また、櫓を支えている太い十二本の柱は全て円柱で柱の上部を僅かに円く削り込み、その下部先端は急に細めた、粽型となっています。
山門の建築資材は、これまで度々修理が施されていますが、その箇所を除いて、すべて欅の素木を用いて建てられています。
木鼻等の彫刻物、および組物を含め簡素な中にも重厚さを秘めた功山寺の山門は、この時代の禅宗様式を今に伝える貴重な文化財です。
 下関市教育委員会



山門を見上げた写真です。
柱が、横に4本並び、奥に3列と、合計12本の柱の上に建っています。
上の説明文にある禅宗の門「三間三戸」とは、畳の長い面が3つ並んだ長さの3間が、4本柱の間に3つの通路がある意味のようです。




功山寺の建物配置図がありました。



功山寺の「法堂(はっとう)」です。
「法堂」は、仏教を講義する場所で、主に禅宗で使われる名称のようです。
他の宗派では、「講堂」と呼ばれるようです。



屋根のカーブが美しい「功山寺仏殿」です。
左右の釣鐘型の窓も印象的でした。

説明板を転記します。
■国宝(建造物)
功山寺仏殿
 桁行三間 梁間三間 一重裳階(もこし)入母屋造 桧皮葺
 指定年月日 昭和二十八年十一月十四日
 鎌倉時代末期の唐様(禅宗様)建築様式の典型的な建造物です。
床は四半瓦敷、礎石と柱の間に木製の礎板を入れ柱は上下部分が細く粽型になっています。
見事な曲線を見せる桧皮葺、入母屋造りの屋根を支えている化粧垂木は天井中央より放射状に配置され、扇垂木とも呼ばれています。
また、二重屋根の内部の組み上がりの高さが異なった箇所を補うために海老虹梁(梁と同意)が用いられています。
さらに前面両角には釣鐘型の特徴をもった花頭窓を有するなど、わが国最古の禅寺様式がよく残されており、鎌倉の円覚寺舎利殿同様、寺院建築史上、貴重な建造物です。
この仏殿は、内陣柱上部に「此堂元應二年卯月五日柱立」の墨書があることから、西暦1320年に建てられたものとみられています。
功山寺はもと臨済宗・長福寺と呼ばれていましたが、毛利秀元により曹洞宗・笑山寺と改称、さらに慶安三年(1650)秀元の没後、戒名(功山玄誉大居士)をもって功山寺と改称しています。
 平成五年七月
 山口県教育委員会
 下関市教育委員会


法堂の前にあった「輪蔵」です。
この中には八角形の回転式経庫がるそうで、これを一回転させれば納められているお経の本を全て読んだと同様の功徳があるそうです。
但し、中には入れてくれません。

説明板を転記します。
■市文化財 功山寺輪蔵
功山寺境内に建つ土蔵造りのこの建物は輪蔵(経蔵)と呼ばれ、五・四五メートル(三間)四方、面積二九・七平方メートル。屋根は宝型造りで桟瓦葺きで、中央尖部互の露盤には、蓮弁様縁取枠内に一文字三つ星の毛利家紋が浮き彫りされている。
また、入口の向拝(幅一間)は軒下位置に切妻照り破風で正面向きに取り付けてある。
輪蔵内部は、中央に八角形の回転式経庫を備えており、経庫には奥書のある一切経の経本が納められ、経庫を一回転させれば一切経の全部を読誦したのと同じ功徳があるといわれている。
このような「輪蔵」は、中国に始まる禅宗寺特有の形式であるが当寺の輪蔵は、寛政十一年(一七九九)に長府藩第十一代藩主毛利元義公が藩祖秀元公百五十回忌の供養として建立、経本千六百冊を納めて寄進したもの。
本市におけるその希少性と、長府藩にかかわる郷土史的意義から貴重な遺産として市文化財に指定されている。



輪蔵の隣に高杉晋作の銅像がありました。
高い台座の上を見上げると、馬に乗った高杉晋作は、以外に若くスマートな青年でした。
銅像といえば老人のイメージが強く、これまで見た最も若い姿の銅像でした。


説明板を転記します。
■高杉晋作回天義挙銅像
解説碑
嘉永六年(1853)米艦四隻浦賀に来航して徳川三百年鎖国の夢破れ 国論は支離滅裂 我長州藩もまたその帰結を知りません 国外では欧米諸国が競って全アジアを制圧し最後の塁である我国に迫って来つつあります 時は元治元年(1864)十二月十五日夜半 高杉先生は遂に意を決して四面の楚歌を排し この地この処に義挙の一鞭を奮い 藩内の俗論派を倒して藩論を尊皇倒幕に統一し 薩・長・土の盟約を結び 第二征長幕軍を長州藩の四境に迎え討って皆これを敗退させ 遂に内は王権を復古して明朗闊達な大和民族本然の姿に返し 外は四海を圧する明治維新(1868)の基を作られました。
明治維新発祥の地 ここ功山寺境内に この度回天義挙像の建設成り 高杉先生当時の姿そのままに只今眼前にあります この誇りを我等永久に語り伝え 言い伝えて 子々孫々教育の糧に致さんと切に願うものであります
 昭和四十七年(1972)十二月十五日
 長府博物館友の会々長  続 渉



「長門尊攘堂」を歴史博物館として転用した「下関市立長府博物館」が、功山寺敷地内の仏殿の隣にありました。

「長門尊攘堂」は、昭和8年(1933)に吉田松陰・品川弥二郎の遺志を継いだ桂弥一(長府在住)が、尊王の教育などを目的に私財を投じて建設した建物のようです。
戦後に長府博物館となり、昭和55年に下関市に移管されたようです。



博物館の横に、ちょっと珍しい慰霊塔がありました。
全国から集めた有名・無名の勤王の士を祀った霊石が丸い塚に並べてあります。
長門尊攘堂とともに桂弥一によって創建されたもので、今でも十月二十日慰霊祭が行われているそうです。

正面にあった説明板を転記します。
■万骨塔
昭和八年(1933)十月、当地に「長門尊攘堂」を創設した桂弥一が、日本各地から石を取り寄せて建設した慰霊塔で、有名・無名の勤王の士を、当時の府県毎に祀っていた。
なお、名称は「一将功成って万骨枯る」に由来する。

長府藩侍屋敷長屋

2007年10月15日 | 山陽地方の旅
下関市長府侍町1-1にある長府藩侍屋敷長屋へ行きました。


長府藩侍屋敷長屋は、壇具川(だんぐがわ)沿いの静かな交差点にありました。



壇ノ浦の戦いに義経に従って戦った「土肥実平」(どいさねひら)の名が「土肥山」として残っていました。
「土肥実平」は、1180年に源頼朝が最初に挙兵して以来、数々の戦いに登場する武士で、相模の土肥(湯河原)に領地を持ち、後に備後の守護にもなっています。
又、「土肥実平」は、戦国大名「小早川氏」の祖としても知られ、このブログでも2007-02-06に小早川氏一族の墓所で広島県三原市にある「米山寺」の記事でも掲載しています。

現在、土肥山には日頼寺があり、寺の名は、毛利元就の法号「日頼洞春」にちなんだものとされています。
毛利に乗っ取られた小早川氏の歴史を思い出します。

又、土肥山には日本神話で有名な日本武尊(やまとたけるのみこと)の子「仲哀天皇」が、熊襲討伐の時、筑紫の香椎で急死した後、神功皇后により遺体を仮埋葬した塚が「御殯斂地(ごひんれんち)」として残っています。



壇具川の風景です。
写真には見えませんが、鯉がいました。



長府藩侍屋敷長屋の横の川べりにあった壇具川の説明板です。
川の名も古代からの由来があるとはちょっと驚きです。



川べりにたくさんのアヒルがいました。
ホタルが住む川とのことですが、水辺に草がないのが気になります。



アヒルが、のんびりとくつろいでいます。



長府藩侍屋敷長屋の門です。
このあたりには武士の屋敷の門としての格式を感じます。


門の横の壁にあった説明板です。
読みにくいので転記します。
長屋は、庶民の住いの建物と思い込んでいましたが、家老職の分家の建物だったことは以外でした。
上級武士の家屋遺構を残しているとはいえ、いささか違和感があります。

下関市指定文化財
 長府藩武家長屋
この長屋は、長府藩家老職であった西家の分家(長府藩御馬廻役、二二〇石)の本門に付属していたものをこの地に移設し整備した。
建築年代は未詳であるが、建築規模や格子窓の形態から江戸後期の建築物と推測される。
構造は桁行八間、梁間二間、単層、屋根入母屋造り桟瓦葺きである。
特徴として屋根の形態があげられる。すなわち化粧垂木と野垂木を使い軒下勾配をゆるく、屋根面に反りをつけた社寺建築の技法がみられる。
後年、表の建具まわり内部の一部を改造しているが、柱・梁・小屋組などは当初の材料を残している。
特に共待ちとして使われた四畳。八畳の間や土間は原型を留めており、江戸後期の上級武家長屋の遺構を残している。
 下関市教育委員会



長府藩侍屋敷長屋の表側です。
引き戸が続いて住むにはちょっと落ち着かない造りに思えます。


家の中の様子です。
住いとしての建物というより、現代のお店の建物といった感じです。



門を入り、左側に「種田山頭火」の経歴が書かれた石碑と、句碑がありました。
「山あれば山を観る 雨の日は雨を聴く 春 夏 秋 冬 あしたもよろし ゆふべもよろし」 の有名な句が刻まれています。
「種田山頭火」は、山口県防府市の生まれで、各地を歩いていますが、なぜこの句碑がここにあるのかは、興味のあるところです。

長府庭園、千年前の実から咲いた孫文蓮

2007年10月15日 | 山陽地方の旅
8/13下関市長府の「長府庭園」へ行った記録です。


長府庭園の受付で頂いたパンフレットの表紙と、説明文を掲載します。
<公園の概要>
この長府庭園は長府毛利藩の家老格であった西運長(にしゆきなが)の屋敷跡で、小高い山を背にした約31,000㎡の敷地には池を中心に書院・茶室・あづまやが残され、かっての静かなただずまいが今日まで保たれています。
園内には桜・松・ツツジ・もみじ・菖蒲のほか、池の水を利用した滝と流れがあり、四季折々ゆったりと庭園美が楽しめる廻遊式日本庭園です。



長府庭園のすぐ横の駐車場に長府庭園の案内地図がありました。
向って右上が駐車場です。
向かいに「下関市立美術館」がありましたが、残念ながら休刊日でした。



長府庭園の正門です。
両側の植え込みや、白壁が江戸時代の武家屋敷らしさを出しているようです。



庭園に入ると白壁の蔵が二棟見えます。
向って左側の棟は、お土産物になっていました。



庭園に池が見えます。
向こうには蓮の花が咲いています。



とても美しい蓮の花で、感激して何枚も写真を撮りました。
長府庭園のパンフレットに蓮の花の案内文があり、転記します。

<孫文蓮>
大正7年(1918)来日した中国の政治家孫文が彼の支援者で長府に在住した田中隆氏に贈った中国古蓮の実を、ハス博士、大賀一郎氏が育成して発芽したもの。
7月中旬から8月にかけ、白地に淡いピンクの花をつける。
この蓮は夜明けと共に咲き始め、早朝に満開となり、午後再び閉じる。
2、3日繰り返し、4日目には、すべての花弁を落として花托となる。


1918年に亡命してきた孫文が田中隆氏に贈った古蓮の実は、中国大連普蘭店市で千年以上前の泥炭地層から発掘されたものと言われています。
その後、普蘭店市では1952年に大量の古蓮の実が発掘されたようです。
当人達は、まさか発芽するとは考えていなかったものと思われます。

田中隆氏は、長府を拠点に海運業で財をなした大物財界人だったようです。




子供が橋の上で集まった鯉を見つめています。
錦鯉は、池のそばに立つとたくさん集まって来ます。



池と蔵がとても美しく見える場所でした。



池の向こうにとても大きな石灯篭がありました。



池の向こうを更に進むととても変わった組合せの石仏がありました。
細長い石柱の上にかわいい狛犬があり、その奥に石仏が並んでいます。
向って左には羅漢さんのような石像が上を向いて座っています。

狛犬と、石仏の組合せは、明治初期までの神仏習合時代のなごりのようです。


池を眺める場所のようです。
ベンガラ色の壁に開いた丸い穴の窓、竹で組んだ引き戸などがとても風流です。



庭園の奥に大きなススキのような草がありました。
八月中旬の暑い季節にススキの穂もないだろうと思い帰って調べてみました。

この植物の名は、「パンパスグラス」のようです。
イネ科 コルタデリア属の多年草で、原産地は南米だそうです。
2m以上の高さになるようで、8~10月にはススキより大きな穂が付くそうで、写真にもふんわりと大きな穂が付いています。

この他、四季の草花がたくさん植えられ、とても季節感のある庭でした。

赤間神宮と、安徳天皇御陵

2007年10月14日 | 山陽地方の旅
下関市阿弥陀寺町の赤間神宮に行きました。


竜宮城のような「水天門」が見えます。
「水天門」は、「竜宮門形式」の楼門で、水の下にも壇ノ浦に入水した安徳天皇を偲ぶ形式のように思えます。
又、「水天門」の名称も安徳天皇・平家一門を祀った「水天宮」(福岡県久留米市に総本社がある)にちなんだものと思われます。



石段を上がった所に大きな絵馬が掛けられています。
干支の白いイノシシに乗る祭神安徳天皇が描かれていました。



「赤間神宮」の案内図です。

隣に「安徳天皇御陵」がありますが、すぐにこの場所に埋葬されたわけではなかったようです。
壇ノ浦の合戦で入水された安徳天皇の御尊骸は、小門(おど)海峡で中嶋組のいわし網に引き上げられ、現在「先帝祭」のお旅所となっている下関市伊崎町に仮埋葬されていたようです。

約20年前、下関から長門市に向かう山中の道路脇に「安徳天皇御陵」と書かれた案内板と、塚を見たことがあります。(木屋川上流の豊田湖の北)
なぜこんな山中に御陵があるのかと不思議に思った記憶があります。
「西市陵墓参考地」として宮内庁でも認識されているようで、陵墓参考地は九州を中心に合わせて5ヶ所もあるようです。
安徳天皇が生き延びてそれぞれの場所に行かれた伝承が多く残っているようです。
しかし、真実は一つで、昔から我が国にはウソつきが多かったということでしょうか。

その他、境内には平家一門の墓、耳なし芳一堂などもありました。


「水天門」のアーチ型の入り口です。
菊のご紋と、紅い門が印象的です。



正面の石段の上に拝殿が見えます。
拝殿は外拝殿、内拝殿と二重にあり、見えているのは外拝殿です。



外拝殿で参拝し、奥を見たようすです。
内拝殿の両側に緑の池があり、格式の高さと、竜宮城のイメージを感じます。



「赤間神宮」、「水天門」の案内板です。



外拝殿を斜めから見た景色です。
韓国から修学旅行で来た子供たちがたくさんいました。
関釜フェリーもあり、下関から韓国は身近に感じる国のようです。



境内に八幡神社がありました。



八幡神社の案内板です。
約1200年前に宇佐から勧進された歴史のある神社のようです。


外拝殿から水天門の裏側を見た景色です。
門の向こうには壇ノ浦や、対岸の門司が見えています。

みもすそ川公園の紙芝居「壇ノ浦合戦絵巻」

2007年10月11日 | 山陽地方の旅
下関市「みもすそ川公園」へ「源平壇ノ浦の合戦」の史跡や、「馬関戦争」で使用された長州藩の大砲などがあり、見に行きました。


関門海峡を望む整備された海岸に紙芝居の自転車がありました。
下関の観光キャンペーンでボランティアの女性が紙芝居を演じるようです。
紙芝居の女性は、通りがかった観光客に声をかけ、長椅子に座らせていましたので一緒に座り紙芝居を見物させて頂きました。



写真は、御裳川(みもすそがわ)碑です。
御裳川の河口は、今ではコンクリートの下にあるようで、この碑や、公園の名称になごりを留めています。



「みもすそ川公園」から関門大橋がすぐ近くに見上げることができます。
向こうに見える陸地は、門司の海岸です。



見物客が揃い、紙芝居が始まりました。源平最後の戦い「壇ノ浦合戦絵巻」です。
演じる女性は、江戸時代の大道芸人のような服装ですが、ドラえもんのおかあさんの面影もありました。
なかなか達者な語り口です。



「みもすそ川公園」に紙芝居「壇ノ浦合戦絵巻」の物語の内容が、石碑にありました。
関門海峡の早い潮の流れが戦況を大きく左右させたようです。


紙芝居「壇ノ浦合戦絵巻」は、平清盛の妻「二位の尼」が、八歳の安徳天皇を抱いて入水する場面です。
紙芝居の女性は、感情をこめて熱演しています。



「みもすそ川公園」にある石碑で、二位尼が詠んだ辞世の句です。

「安徳帝御入水之処」
「今ぞ知る みもすそ川の 御ながれ 波の下にも みやこありとは」



紙芝居が終わり、観光キャンペーンの絵葉書を頂きました。
ちょうどこの「みもすそ川公園」から見上げた関門大橋の絵葉書です。




「みもすそ川公園」にあった義経の「八艘跳び」の銅像です。
壇ノ浦の合戦で、猛将平教経の攻撃を逃れる義経が、八艘の舟を次々と飛び移って行った場面です。


「みもすそ川公園」にあった平知盛の銅像で、義経の銅像の西側に対峙しています。
戦いに敗れた平家軍を見とどけ、碇の綱を体に巻きつけて海に飛び込む華々しい最後の場面です。
平知盛は、平清盛の四男で、平清盛のあと棟梁となった愚鈍な兄の宗盛に代わり平家軍の指揮を行っていたとも言われています。
戦いの後、捕虜となり、最後には処刑されてしまった兄宗盛と比較され、平家方の英雄のイメージがあります。

「日清講和記念館」を見学

2007年10月02日 | 山陽地方の旅

下関市山口県下関市阿弥陀寺町の「日清講和記念館」を見学しました。
国道9号線から坂道を上がった正面が割烹旅館「春帆楼」、右手の建物が「日清講和記念館」です。
その東隣は、源平合戦の最後、「壇之浦の戦い」で破れ、8歳で入水された「安徳天皇」を祀る「赤間神宮」があります。
阿弥陀寺町の名は、「赤間神宮」が「阿弥陀寺」と呼ばれていた頃の地名のようです。



「日清講和記念館」の中に展示されていた「春帆楼」の全景と思われる絵です。
小高い場所に建つ「春帆楼」の周辺に桜が咲き、壇ノ浦には帆かけ舟が行きかっています。文字通り「春帆楼」の絵です。


割烹旅館「春帆楼」の玄関です。
瀬戸内の海が見渡せる大きな建物で、かって天皇・皇后両陛下も宿泊されたようです。



「春帆楼」の玄関に向かって右側の庭に二人の銅像がありました。
日清戦争の講和会議の交渉に立った、時の内閣総理大臣「伊藤博文」(向って左)と、外務大臣「陸奥宗光」(向って右)です。
千円札の「伊藤博文」の顔といささかイメージが違うようで、清国との交渉で疲労こんぱいの表情にも見えました。



「日清講和記念館」の玄関前にあった案内板です。



日清戦争講和会議の様子を描いた絵です。
講和会議は1895年(明治28)3月下旬から月中旬に渡り、絵の左下に火鉢、その右手前にストーブが見えます。
ストーブの右が清国側の全権「李鴻章」、その向かいに日本国の全権「伊藤博文」が座っています。



上の絵の横にあった案内文です。



再現された会議場の写真です。
椅子にひじ掛がなく、長時間の交渉は少しつらそうです。
手前にストーブがありますが、フランスから輸入されたそうです。



日本側の席に座った人の名が書かれてあります。



こちらの席、清国側です。



館内に清国の全権「李鴻章」の写真がありました。
ラストエンペラーでおなじみの「西太后」の厚い信任を得て、清国の最高為政者として活躍した人です。



李鴻章は、「春帆楼」の正面に向かって左にある「引接寺」を宿舎としていました。現在、「李鴻章道」と名付けられています。
1895年(明治28年)3月24日、李鴻章は、暴漢に狙撃され、顔面を負傷する事件が起こったそうですが、講和条約は無事締結にこぎ着けたそうです。