昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

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油絵「五月のバラ」

2013年06月13日 | 妻の油絵

妻の油絵「五月のバラ」(F6号)です。

バラ好きの妻が楽しんで描いた作品です。

五月中旬になると、ばらの町福山では「ばら公園」「緑町公園」を中心にたくさんのバラが咲きます。




五月中旬のバラ公園の風景です。

バラ公園では今年から夜のライトアップが始まり、夕方の散歩が楽しくなりました。

今年のバラは、とりわけ美しく咲き乱れており、手入れをする係の方々のご苦労が実ったようです。
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長崎旅行-20 天正遣欧少年使節「中浦ジュリアン記念公園」

2013年06月06日 | 九州の旅
2012年9月13日長崎旅行5日目最終日、佐世保市「展海峰」の絶景を見た後、長崎県西海市中浦南郷の「中浦ジュリアン公園」へ向かいました。



「中浦ジュリアン記念公園」の資料館の屋上に建つ天正遣欧少年使節の一人「中浦ジュリアン像」です。

公園は、西方に東シナ海を望む小さな丘にあり、「中浦ジュリアン像」が指さすのはローマの方向だそうです。

「中浦ジュリアン像」は、天正遣欧少年使節として1582年(天正10)、14歳の時に長崎を出航、22歳となった1590年(天正18)にローマから帰国しています。

あどけなさが残る少年の表情から、希望に燃えていた出航前の姿と思われます。

■観光案内パンフレットより
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「私がローマにいったジュリアン神父である」
西海市中浦、俗名で「舘[たち]」と呼ばれている地。ここは天正10年(1582年)2月20日、長崎を出帆し、ポルトガル、スペイン、イタリアなどを歴訪、ローマ法王に謁見の上、大友、有馬、大村の三大名の親書を奉呈して天正18年(1590年)に日本に帰着した天正遣欧使節団の一人中浦ジュリアンの出生地である。
わずか12、3歳の少年たち(伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノ)は、約8年半にわたる長い旅を遂げた。そのとき使節団があたえた好感は、のちにそれらの国々で発刊された幾多の著書で明らかであり、ヨーロッパ諸国に日本を知らせるのに大きな役割を果たした。さらに帰国するとき持ち帰ったヨーロッパ文化(西洋画 西洋音楽 特に金属活字印刷術)によって近世初期の日本にルネサンスの息吹を伝えた。
ジュリアンは1591年、他の三人とともに聚楽第で豊臣秀吉に謁見し、帰国報告をしたあと天草でイエズス会に入会した。後に再びマカオの神学校に学んで、神父となる。4人のうちジュリアンが最も長生きし、各地の信者の指導にあたったが、寛永9年(1632年)小倉で捕らえられ、翌年10月21日に長崎で穴吊りの刑により壮烈な殉教を遂げた。中浦ジュリアン神父、65歳の時であった。
ここ生誕の地には、彼の輝かしい功績と精神性を表わす美しい記念碑が建てられている。また、記念公園には、海の向こうのローマを指さす若き日のジュリアンの像が建てられている。
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「中浦ジュリアン記念公園」付近の地図です。

「中浦ジュリアン記念公園」は、西彼杵半島の北西部にあり、地図上左から上右に詳細地図を表示しています。

国道202号の「七釜郵便局」近くの交差点に郵便局と、公園の案内板があり、目印となります。



駐車場にあった「中浦ジュリアン記念公園」付近の案内図です。

案内図には銅像の建つ資料館の他、「中浦ジュリアン顕彰碑」が見られ、ここが生家跡とされている場所のようです。

■隣接の消防詰所横にあった案内板です。
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県指定史跡「中浦ジュリアン出生の地」
一九六八(昭和四十三)年四月二十三日指定
中浦ジュリアンは、一五八二(天正一〇)年、長崎から出航し、マカオ、ゴア(インド)、ポルトガル、スペインなどを経てローマ教皇に謁見を果たした天正遣欧少年使節の一員である。天正遺欧少年使節は、九州のキリシタン三大名(大友宗麟、有馬晴信、大村純忠)の名代として派遺され、帰国までに八年を有した。日本で最初の遺欧使節であり、ヨーロッパ諸国において日本国を知らしめたとともに、ヨーロッパ文化を日本に伝えた功績が高く評価されている。活版印刷機をもたらしたこと、聚楽第にて豊臣秀吉に謁見した際(一五九一年)、西洋音楽を披露したことが特に知られている。
帰国の中浦ジュリアンは苦難の道を歩んだ。一六〇一(慶長六)年よりマカオで学び、一六〇九(慶長一四)年には司祭に叙階されたものの、時代はキリスト教に対して次第に苛酷さを増していった。日本全国に禁教令が布合された後も、中浦ジュリアンは潜伏しっつ九州各地を布教したが、小倉で捕らえられ、一六三三(寛永一〇)年、長崎の西坂にて殉教した。ニ〇〇八(平成二〇)年、「ベトロ岐部と一八七殉教者」の一人として、福者に列せられた。
 指定地の北東にある城山には、空掘や土塁などの遺構を残す「中浦城」がある。周辺には、「館」・「垣内」・「御園」と中世の町並みをうかがうことのできる地名が残っている。中浦ジュリアンは、ここ中浦の領主の子として生まれたといわれている。
西海市教育委員会
なお、この案内板は、財団法人親和銀行ふるさと振興基金、西海市ポルトガル友好倶楽部のご協力によって立てられています。
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階段を上ると資料館があり、その屋上に「中浦ジュリアン像」が見えてきます。

階段の登り口のタイルに焼かれた案内板には四人の天正遣欧少年使節でおなじみの「中浦ジュリアン」の似顔絵があります。

階段を上って行くと次第に幅が広がり、資料館は頂上の小さな広場に建っていました。

■「中浦ジュリアン記念公園」の案内板の一部です。
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中浦ジュリアン 記念公園
 天正遣欧少年使節といわれる日本人で初めての遣欧使節が1582年(天正10年)2月長崎を出発した。
 その4少年の一人中浦ジュリアンは、他の少年(伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ)達とともにローマ法王、スペイン国王に謁見し、ヨーロッパの各地で大歓迎を受けた。帰国後はキリスト教禁教の中、65歳で殉教するまで神父として布教に努めた。
 日本と西洋との文化の交流に大きな功績を残した中浦ジュリアンの波乱に満ちた生涯を知り、出生の地に残された歴史を偲ぶために、中浦ジュリアン居館跡周辺を史跡公園として整備したものである。
 平成13年12月
   西海市
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「中浦ジュリアン像」が建つ資料館の屋上の風景です。

屋上の小さなスペースの中央に銅像が建ち、周囲の壁に「天正遣欧少年使節」が訪れた地や、北東方向に見える「中浦城」があった「城の山」がパネル展示されていました。

■「城の山」のパネルの説明文です。
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城の山[じょうのやま](中浦城跡)
14・5世紀に形成された山城跡で、戦国時代から小佐々氏一族の城であった。海側の斜面が国道用地として削られているが、中央部の本丸、西側の二の丸、北側の土塁などが残っている。
ここからの五島灘の眺めは雄大である。
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資料館屋上に展示されていた「天正遣欧少年使節ヨーロッパ順路」のパネルを撮った写真です。

左上の地図は、日本と、ポルトガルのリスボンを往復する航路で、長崎からマカオ、マラッカを経てインドへ至り、アフリカ大陸南端喜望峰を回り、ポルトガルの首都リスボンまでの大航海だったことが分ります。

下の大きな地図にはリスボンからスペインを経てイタリアのローマに至る経路が描かれています。

■「中浦ジュリアン記念公園」の案内板の一部です。
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大航海時代・南蛮船の旅
 少年使節の航海には貿易が目的の南蛮船と呼ばれた帆船が使われた。当時の航海には常に危険が伴い、数々の困難の中、少年達が使命を果たし帰国できたことは歴史上の壮挙といえる。
 8年半に及ぶこの大旅行は日本では長い鎖国の間忘れられていたが、ヨーロッパの各地では大きな話題となり、16世紀90種類を越える書物が出版された。
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小さな展示室の中の壁に「中浦ジュリアン」の生涯を描いた絵がありました。

一面の壁に三つの絵が描かれ、左のステンドグラスの窓の下には海で遊ぶ子供の頃のジュリアンと、窓のすぐ右に描かれている屋敷は、ジュリアンの生家である領主小佐々氏のものと思われます。

中央の絵は、有馬(島原半島)のセミナリョでヴァリニャーノ神父に学ぶ少年時代のジュリアンたちのようです。

右の絵は、14歳のジュリアンが、天正遣欧少年使節の一人として南蛮船に乗り、遠い航海をしている風景と思われます。

■左の絵の案内文です。
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中浦ジュリアンの生い立ち
日本が西洋に向かって始めて窓を開いた1568年頃、中浦ジュリアンは肥前国中浦(今の西海町中浦)の領主小佐々甚五郎純吉の子として、舘(たち)と呼ばれたこの場所に生まれました。
幼い頃のジュリアンは中浦の海辺で仲間たちと遊ぶのが好きな元気で意志の強い少年でした。父甚五郎は葛の峠(佐世保市の旧宮村)の合戦で亡くなり、ジュリアンには母と二人の姉妹がいたと言われています。
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■中央の絵の案内文です。
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ヴァリニャーノの来日と天正遣欧使節の派遣
家族とともに中浦から大村へ移った後、ジュリアンは、島原半島の有馬にできたセミナリヨ(神学校)でキリスト教布教の責任者であるヴァリニャーノ神父と出会います。
日本人にヨーロッパ世界の偉大さを体験してもらい教皇に日本を紹介したという神父の計画で、4人の少年が選ばれ、九州の大名(大友・有馬・大村)の名代としてローマに派遣されることになりました。
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■右の絵の案内文です。
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命がけの長い航海
1582年(天正10年)2月20日、中浦ジュリアン・伊東マンショ・千々石ミゲル・原マルチノの使節たちを乗せた帆船が長崎を出港しました。嵐の時は船が大きく揺れ、つらく不安な航海が続きます。
マカオとインドのゴアに滞在しアフリカの南端・喜望峰を経て大西洋へ、命がけの長い船旅で、ポルトガルのリスボンの港についたのは2年半を過ぎた1584年8月のことでした。
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次の壁の絵です。

左の絵は、長い航海をし、ローマのバチカン宮殿の前で、大勢の見物人の中を馬に乗って行進する少年使節たちの場面と思われます。

右の絵は、ジュリアンがローマ教皇の前でひざまずき、謁見する場面のようです。

「中浦ジュリアン」の生涯で最も思い出深い場面だったものと思います。

■左の絵の案内文です。
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あこがれのローマへ
美しい教会や荘厳な宮殿など、訪れたヨーロッパの国々で見たものは少年たちにとって驚きと感動の連続でした。マドリードではスペイン国王に謁見し、イタリアの各都市では、初めて日本から来た4人の使節は熱狂的な歓迎を受けました。
 1585年3月バチカンの聖ペトロ宮殿前ではローマ教皇に謁見するための長い行列が続いていました。この時ジュリアンは不運にも重い熱病にかかっていたのです。
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■右の絵の案内文です。
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ジュリアンのローマ教皇謁見
高熱のため公式の謁見は困難と思われたジュリアンでしたが、施設としての使命感と教皇様に対する情熱がまわりの人たちの心を動かし、特別の馬車向けられ謁見が実現します。84歳の教皇グレゴリオ13世は彼を暖かく抱き寄せ祝福を与えました。ジュリアンは大きな喜びに包まれ感激の涙を流しました。それから数日後、教皇はジュリアンの健康を気遣いつつこの世を去りました。
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次の壁の絵です。

左の絵は、ジュリアンたちがヨーロッパから持ち帰った西洋楽器で演奏し、印刷機では多くの本が発行された様子が描かれているようです。

西洋の学問や、絵画は、有馬のセミナリヨ時代から学んでおり、ヨーロッパ文明を理解する下地は教育されていたものと思われます。

右の絵は、41歳で司祭となったジュリアンが幕府の禁教令下で身を隠しながら九州各地を布教する様子が描かれているようです。

65歳までの二十数年間、死と隣り合わせの布教活動に人生をかけた厳しい時代だったことがうかがわれます。

■左の絵の案内文です。
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帰国後の使節たちとジュリアンの決意
1590年7月、8年半ぶりに帰国した中浦ジュリアンは立派な大人に成長していました。使節たちがヨーロッパから持ち帰った西洋楽器は、豊臣秀吉の前でその演奏が披露され、同じく活版印刷機は、「キリシタン版」と呼ばれる数々の貴重な書物を発行しました。
中浦ジュリアンは、天草の河内浦にあった修練院とコレジョ(大学)で学び、イエズス会の司祭になることを決意しました。
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■右の絵の案内文です。
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司祭への叙階
~民衆とともに~
3年間のマカオ留学の後、1608年、ジュリアン41歳の頃、長い間の努力が実って司祭に叙階され、博多の教会に赴任しました。ねばり強い布教活動は、民衆からの信頼を集めました。
1614年、徳川幕府の禁教令で激しい弾圧が始まり、教会は焼かれ、多くの宣教師が国外に追放されました。しかし、中浦神父は身を隠して国内に残り、信者のために九州の各地を歩きつづけました。
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左の壁に中浦ジュリアンが捕えられ、長崎で穴吊りの刑で殉教を遂げる最後の場面が描かれています。

右のテーブルの上には、2008年秋、ジュリアンの叔父の子孫小佐々氏が「中浦ジュリアン」の絵を持ち、ローマ法王に謁見した場面だそうです。

四百数十年前、天正遣欧少年使節がローマ教皇「グレゴリウス13世」に謁見した歴史の再現のようです。

■最後の絵の案内文です。
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中浦ジュリアンの殉教
迫害に苦しめられていた信者たちの心のささえとして活躍していましたが、幕府のきびしい捜索の中、ついに小倉でとらえられ、1633年10月21日長崎の西坂で、残虐な穴吊りの刑により殉教を遂げました。65歳の生涯でした。
「私はローマに行った中浦神父です」「この苦しみは神のため」、少年の頃の大きな憧れと人間に対する深い愛情に輝いた中浦ジュリアン最期の言葉でした。
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資料の展示コーナーに「中浦ジュリアンの手紙」がありました。

ローマのヌノ・マスカレニヤス神父からの手紙を1621年6月に島原半島南端の口之津で受け取り、同年9月に返信した手紙が残っていたようです。

当時、多くのキリシタンが捕えられ、殉教していった歴史や、命がけで布教活動する晩年のジュリアンの様子が生々しく伝わってきます。

■翻訳された手紙の文面です。
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中浦ジュリアンの手紙
第三経由
キリストにおいて敬愛する神父
ヌノ・マスカレニヤス神父 イエズス会総長顧問 ローマ

イエズス・マリア
キリストの平安

 一六二一年六月に、神父様のローマからの手紙を口之津でいただきました。
口之津は港であり、私は、最も厳しい迫害すなわち宣教師を日本から追放しすべてのキリシタンたちに背教させようとした年から、目上の命によってここに潜伏しました。その時から今日まで、ここの信者たちの世話をしています。この年には、日本の所々にあった多数の厳粛な殉教者のことをお聞きになったのでしょう。彼らの大部分はこの高来地方の人々でした。そして、この口之津からだけでも二十一人の殉教者があり、その上苦しめられ致命的な傷を負わせられたのち、殉教の拷問から帰された人もありました。実際にその後、数人が死にました。このことは、刑の執行者がこの町の人々をみんな亡ぼすことを望まなかったらで、町に残っている信者に対しても黙認していました。
 さて神父様、ここで心からのキリスト信者であり、信仰のために起こり得るすべての迫害に一身を投げ出している人々と共に神父様が私に下さった手紙を喜び合い、信仰心を起こさせる品々を彼らにも尊敬させました。このようにみんなが神父様の慈愛にずかり、私だけでなく、神父様の手紙に見られるように、この日本の国に対して抱かれている慈愛に感謝致しました。聖なる都ローマ、数皇聖下、枢機卿、カトリックの貴族、私がヨーロッパ滞在中に彼らから受けた愛に満ちた恵みの思い出を新たにし、私の楽しみとなぐさめは少なくありませんでした。こんな遠く、ローマから日本へ、多くの慈愛のしるしをもって手紙を描き下さった神父様に心から感謝します。この思い出は永久に忘れることはありません。
 私は、神様の恵みによりいつも元気で、イエズス会がここで耕しているキリスト教界で働くためにまだ充分に力があります。毎年告解ができる四千人以上の信者の世話が私に任されていて、その上に、私たちの間で分担されているここの国々への布教の旅もあります。今年、年報で報告される便りは多く、決して終らないこの迫害についてい ろいろのことがあるでしょう。私たちには一日もいっときも休むことができないくらいです。ちょうど今も、神父様へのこの手紙を終ろうとしているとき信者が来て、もっと安全な所に逃れるようにと知らせました。この地方の領主が高来の教会で今も守られている福音の教えを滅ぼすために、新らたに迫害を始めるという知らせがありました。神様が、私たちに忍耐と勇気をお与えになるよう祈っています。神父様は、特に祈りの時に私のためにお取 次ぎ下さい。神父様のミサ聖祭に私を委ねます。

   今日は一六二一年九月二十一日
       価値なき下僕
           中浦ジュリアン
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「中浦ジュリアンのあゆみ」と書かれた年表がパネル展示されていました。

ローマ教皇や、豊臣秀吉へ謁見した若い頃の輝かしい時代から、禁教令下の長く苦しい晩年の布教活動時代まで波乱に富んだ人生だったようです。

天正遣欧使節の4人の少年たちが帰国後、それぞれに歩んだ人生に興味が湧いてきました。

■年表のパネルが読みづらいので以下に転記しています。
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中浦ジュリアンのあゆみ
中浦ジュリアンは戦国領主小佐々氏の一族で、1568年(永禄11)中浦城主小佐々甚五郎純吉の子として生まれました。有馬のセミナリヨに入学したジュリアンは、1582年(天正10)、伊藤マンショ・千々石ミゲル・原マルチノとともに少年使節団の一員としてローマに派遣されました。
約8年半を経て日本に帰国したジュリアンは、きびしい迫害のなかキリスト教の布教に努めましたが、1633年(寛永10)長崎西坂の地で穴吊りの刑を受け殉教しました。
刑場で「私が、ローマにいった中浦ジュリアンである」といったといわれています。

1568(永禄11) 肥前国中浦(西海市)の領主小佐々甚五郎純吉(中浦殿)の子として生まれる。
1569(永禄12) 父甚五郎は葛の峠(佐世保市)の合戦で討死
1580(天正 8) 有馬のセミナリヨに入学
1582(天正10)2月20日少年使節団長崎港を出航、3月9日マカオに着く
1584(天正12) 8月11日リスボンに上陸 各地で大歓迎を受ける
        11月14日スペイン国王フエリぺ2世に謁見
1585(天正13) 3月23日ローマ教皇グレゴリウス13世に謁見
        5月1日シスト5世の戴冠式に参列
        5月29日ローマ議会で市民権を賜る。
        6月28日ヴァネチア大統領に謁見
1586(天正14) 4月8日使節団リスボン港を出航
1590(天正18) 6月23日マカオ出航 7月21日長崎に帰港
1591(天正19) 3月3日緊楽第において豊臣秀吉に謁見
        7月25日天草内浦においてイエズス会に入会
1600(慶長5) 関が原合戦で八代の教会から川内に移る
1601(慶長6) 伊東マンショと一緒にマカオに留学
1607(慶長12)長崎で助祭となる
1608(慶長13)京都・博多で布教
       9月 伊東マンショ・原マルチノと一緒に司祭に叙階
1614(慶長19)原マルチノらマカオに追放される
       11月7日ジュリアン国内に潜伏
1615(元和元)この年から口之津を拠点に九州各地を布教
1632(寛永9) 小倉で捕まえられ長崎に送られる
1633(寛永10)10月21日 西坂において穴吊りの刑で殉教
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